第二話
バー「ポールスター」は繁華街の中心部、雑居ビルがひしめく裏通りの地下にある。来訪者はところどころ剥げた塗装の隙間から覗く、劣化したコンクリートの壁で覆われた、大人がやっと二人並んで通り抜けられるくらいの幅しかない階段を降りる。底まで降りると、少し開けた——とはいえ階段の狭さに比べれば、といった程度である——空間の正面部に、すりガラスがはめ込まれたオーク調の扉がある。中から橙色の光がこぼれる窓を囲う、ザラリとした触り心地の鉄格子と同じ錆色のドアノブで扉を開けると、左右にひらけたフロアが姿を現す。右手の壁際を三つのボックス席が占めており、そこから左手に向かってテーブルが三台連なっている。そこから店の奥へ向かって小さなテーブル席が二つ、吊り下げ灯のやわらかな光に照らされている。フロアテーブルの中央を突っ切った先、扉から目線を少し右に向ければ、カウンター席の奥でボトルを開けるバーテンダーの姿を見ることができる。
フロア中央のテーブル席が埋まるのは大抵ディナータイムの時くらいで、丹波のような常連客が多く訪れる深夜帯は閑散としている。時々、カウンター席を好まない一見客がやって来る程度である。裏通りの地下という立地、それから見た目が古臭く怪しいという点で、一見敷居が高いように見える「ポールスター」は、来訪者の誰をも歓迎した。粗暴で態度の悪い神様を除いて。次の金曜日の夜、丹波がいつもの時間に訪れた時も、見たことのない年若い青年がカウンター席に座っており、ポケットから使い古しの財布を取り出していた。
「いいよ」
バーテンダーが——中野が青年を制しているのを横目で見ながら、丹波はいつも座っている席へ腰掛ける。
「でも、昴さん」
「稼いでから出直しておいで」
青年は財布をポケットに仕舞いながらも、不服そうである。彼はAラインのブルーグレーのシャツを羽織にして、内側に柄がひび割れたプリントシャツを着ている。ゆったりとしたシルエットの柔らかそうなジーンズの、財布で少し厚ぼったくなっている尻ポケットに手を伸ばす姿からは、善意にあやかりたいという思いの中に、世話になった分は返したいという義理堅い一面が見え隠れしている。良いやつなんだろうな、きっと——。丹波はふとそう思う。
「さ、帰んなさい」
中野に見送られ、青年は頭を下げて階段を上がっていった。青年の背が見えなくなったところで、中野はやっとフロアへ戻ってきた。カウンター席から振り返って様子を窺っていたかの常連客をやっと見留めたバーテンダーは、それでも変わらない足取りで持ち場へ戻ってきた。それまでカウンターを仕切っていた別のスタッフが、戻って来た中野に注文を書き取ったメモを手渡し、テーブル席に座る二人組の女性客の方を示した。小さく頷いた中野は、スタッフをフロアへ送り出した。
「すみません。お待たせして」
「いえ、いいですよ。お構いなく」
丹波の人の良い顔に、中野は「ありがとうございます」と言った。いつものサザンカンフォート・スクリューを作り始めた中野を見ながら、ふと丹波は言葉の頭が口を突いているのに気がついた。それは内側から、彼の唇の隙間が少しでも開くのを、例の青年が頭を下げた時から狙いすましていたようであった。
「見ない顔ですね」
丹波は利口であった。ただ、それが誰かを指し示すことを忘れていたが。
「……」
中野がちらりと目線を向ける。
「あの、さっきの男の子」
中野はようやく合点がいったようであった。丹波の前に、オレンジ色のサザンカンフォート・スクリューが置かれる。
「少し口を利いてあげたことがあったんですよ」
「口を?」
男は弛んだ頬を、紙ナプキンで拭うことでなかったことにしようとする。
「ええ。知り合いの店の主人に」
中野は懐のメモをさっと確認してから、後ろのバックバーを見分した。丹波は黙ってバーテンダーの手技を見守ることにした。失敗できない職務を邪魔するわけにはいかない。マドラーとグラスの氷が擦れ合う音がようやく止まり、中野はフロアスタッフに先程のメモと一緒に注文のカクテルを、チェイサーをつけて渡した。
「……仕事の紹介ですか?」
カウンターを片付けていた中野は、客のひと言にやっと顔を上げた。彼は何の話であったか見当がついていない様子である。少し視線を宙に浮かせてから、ああ——と丹波の顔を見た。
「定職を探していたそうですよ」
「へえ」
口を閉じた中野は、丹波の視線を感じて制するように微笑した。
「彼の許可なく話せませんよ。例え相手が丹波くんでも」
丹波は肩を竦める。
「すみませんでした」
素直な彼へ、中野は例の柔和な笑みを返す。そこへ、背後から聞き覚えのある声がやってきた。
「丹波さん? こんばんわ」
それは佳奈であった。思い切ったのであろう、マロングレージュに染め直したストレートヘアを肩へなびかせている。レース地の黒いブラウスの上から同じように黒い丈の短いキャミソールを着ており、薄いブルーのジーンズ生地のボトムスが彼女の細い上身を強調している。丹波の隣からひょっこりと顔を出した彼女は、手元のハンドバッグから三つ折りの茶封筒を取り出し、中野へすいと差し出した。
「おや、ありがとう」
佳奈は「お願いしまーす」と中野へにこりと笑いかけ、
「またね、丹波さん」
——丹波に手をひらりと振って、そのまま踵を返すとフロアを出て行った。カラリという鈴の音が彼女の背を追いかけるようにして鳴り、扉が閉まる。
「彼女、ここで働くんですか?」
「面接次第では」
中野は軽食を作る手を止めずに答えると、小皿に盛ったそれを丹波の前へ差し出した。
「……」
少し落ち着いたら? ——そう言われているような気がして、丹波は何だかバツの悪い気分になった。自分ではそんなつもりではなかったが、余裕を見せる彼から見れば、どうやら「らしくない」ようであったらしい。
「俺、そんなに変でしたか?」
「まあ……そんなところです」
丹波は口を動かしながら数度頷き、サザンカンフォート・スクリューの傍にあった水で喉を潤した。
「その……単純に気になって。若い子に優しくないですか、中野さん?」
中野はとぼけたような、きょとんとした表情をわざと浮かべた。抜けた顔も似合う——ふと丹波の頭の片隅にそんな思いがよぎる。
「嫉妬ですか?」
「違いますよ」
吹き出しそうになった口元を素手で拭う丹波を見た彼は、喉奥で笑いながらグラスに水を注ぐ。
「この前の佳奈さんもそうですけど、サービスしたり仕事先を斡旋したり、結構目をかけてるな、と思って」
丹波は少し黙ってから、自分を指差す。
「その……俺が初めて来たときもそうですし」
「あれはお見苦しいさまを見せてしまったので……その謝罪もこめて」
どうやら丹波が受けたサービスと、他の二人のそれは意味が違うらしい。詳しく聞こうか悩んだ丹波よりも先に、「ポールスター」のバーテンダーが口を開いた。
「二人とも、前途ある若者ですから」
ジンのボトルを取り出して、奥のボックス席で談笑する紳士客のための一杯を作る中野の伏し目には、何が映っているのだろうか。
「僕に出来ることがあれば、やってあげたいんですよ」
フロアスタッフの一人にカウンターを任せ、中野は自ら紳士客に酒を振る舞うために、ボックス席へ足を運ぶ。入れ替わりにやって来たスタッフは丹波とも顔なじみで、彼の前にあった小皿を回収しながら「どうも」とでも言うように笑ってみせた。
「中野さんは、前からあんな感じですよ」
聞こえてましたけど——と前置きをしてから、そのスタッフはそう言った。
「若い子には優しいってことですか」
「——というよりも、困ってる若い子に優しいって感じですよ。他の方には普通に払ってもらってますから」
ここは昔から来るもの拒まずってスタンスっぽいですからね——、スタッフは含み笑いをしている。
「……ちょいちょい、変な客来るんですよ。この前のヤンキー崩れみたいなのとか」
バーの立地の関係もあるでしょうけど——彼はそう付け加えた。
「その……佳奈さんの連れだったヤツ?」
「そうそう。あれは笑えた。中野さんってああいうとこあるから。最初は優しいんですよ、そのまま追い返して……二度目は容赦しませんよ、あの人」
「何、洋輔くん。僕の悪口?」
いつの間にかカウンターへ戻ってきていた中野が、後ろからスタッフの肩を軽く叩いた。振り返った彼は眉尻を少しだけ下げて、いたずらそうに笑った。
「ごめんって、中野さん。中野さんが誰にでも優しいってわけじゃないって話をしてたんですよ」
「おや。彼に変なことを教えてないで、フロアに戻りなさい」
「中野さんの代わりに立ってたのに」
不貞腐れたような口振りでそう言った洋輔というスタッフは、仕事の顔に戻るとギャルソンを翻して去っていった。
「彼もその……前途ある若者ですか?」
丹波は空のグラスをいじりながら尋ねる。バーテンダーは一瞥を寄越しただけで、何も答えなかった。彼から伝票を受け取り、会計を済ませる時間も丹波にとっては悪くないものであったが、この夜は妙に居心地の悪い思いが頭を巡り、いつもの調子で手続きを済ませた彼に何のひと言も投げかけられないまま、会釈だけを残して「ポールスター」の扉が閉まる重い音を聞いた。
数週間、丹波は「ポールスター」へ赴かなかった。——というのも、この前の気不味さが胸の中にくすぶっているのも確かであったが、それ以上に仕事に追われていたからである。喫緊の案件が飛び込んで来たため、丹波と所属チームは自分達の都合と並行しながら、その契約を取りつけるために他部署を走り回っていたのである。結果、丹波の 営業課はその案件を何とか形に持っていくことができたものの、多少の犠牲が払われた。つまり、丹波の金曜日の夜はあっさり消え去ってしまったというわけである。
やっと確保できた金曜日の夜、今夜こそ「ポールスター」へ行くのだと、気合十分に扉を叩いた丹波を出迎えたのはあのバーテンダーではなく、明るいピンクブラウンの髪をした小さな女性客であった。フロアの客がちらちらと、カウンター席の一角を陣取っている彼女を盗み見ているのが、入口に立つ丹波にはよく見えた。扉の鈴が鳴った音に振り返った彼女は、丹波の顔を見るなりそのかわいらしいアーチ型の眉をぎゅっとしかめた。彼女のことを遠巻きに見ていた男性客が、思わず肩を震わせる。フリルつきの白いドットブラウスがよく似合う彼女から飛び出たオーラは、顔をそらしたくなるほど刺々しいものであった。
「丹波」
きっと機嫌が良いときは、鈴の音のような可愛らしい声音なのであろう。それが、地を這うかのようにドスの効いた響きを帯びている。
「丹波ァ」
「……また来ます」
「おい、丹波! 来なさいよ、早く!」
外へ出ようと扉を閉めかけた丹波へ、彼女は周囲のイメージ通りの声で怒鳴りつけた。再び扉を後手で閉めた疲れている営業マンは、黙ってうなだれることにした。彼はどうしても、彼女に抗うだけの気力がなかったのである。
「茉莉子さん。そんな大きな声で怒鳴らないでくださいよ」
「うるさい。早く来て」
ぴしゃりと言った茉莉子は、丹波が隣の席に座るやいなや「サザンカンフォート・スクリューをこの人にお願い」とよどみない調子でバーテンダーに伝えた。今夜のバーカウンターに、中野はいないようであった。
「今日は遅く来るのよ。もう少ししたら来るわ」
丹波の思いを見抜いた茉莉子はそう言って、手元のロックグラスに口をつけた。フランジェリコ・ミルクを味わってから、彼女は自分と目を合わせようとしない丹波の方を向いた。無理矢理でもこちらを向かせようという彼女の視線が、丹波の横顔に刺さっている。とても、痛い。
「丹波。あなた、昴を心配させないでくれるかしら」
「どういうことです」
「だから、急に来なくなったって、彼が心配してたって言ってるの」
「中野さんが?」
そう言っているじゃない——と目で示した茉莉子は、バーテンダーに二人分の軽食を頼む。振り向いた男の顔を見て、茉莉子はにんまりと微笑んだ。彼が見せた反応は、彼女をまずまず満足させたらしい。
「……あの人が僕の心配をしてたって?」
「だからそう言ってるでしょ、しつこいわね」
「いや……中野さんが人の心配をするんだ、って」
「失礼ね、丹波。私の店のバーテンダーが、常連客の心配をしない人間だとでも?」
昴のことを何だと思っているのかしら——茉莉子はつんとすました顔を見せる。枇々木茉莉子は「ポールスター」の若きオーナーであり、中野昴をはじめとするスタッフの雇用主である。オーナーとはいうものの、時折「ポールスター」に顔を出して店の様子を伺うくらいで、現場には一切口を出さずにその場所を熟知しているスタッフに全て任せている。ピンクブラウンの髪を背に垂らし、耳の後の数房を三つ編みでまとめて肩へ下ろしている。切り揃えられた前髪はふんわりと眉下に下りている。まるい目を囲う長い睫毛は綺麗な束をつくって弓なりに生え揃っていて、形のいい鼻の下にきゅっと口角が上がっているみずみずしい唇がある。その目鼻立ち・小さなからだは、両の腕で囲っていくらでも着飾ってあげたくなるような、つい構いたくなる姿形である。そして恐ろしく気が強く、侮辱されたら必ず言い返し、間違っていると思えば絶対に折れない頑固者な、恋多き女性であった。
丹波が「ポールスター」に通っているのを茉莉子は知っている。もう顔見知りの仲であり、互いに臆するところも何もない関係であった。
「何かあったの?」
やや間があって、茉莉子がそう口にする。
「急な仕事が入りまして……ここに来る余裕もなかったというか」
丹波は素直に答えた。嘘をついたところで、この聡明なオーナーはそれを一発で見抜く。
「そう。片がついたのね」
「ええ、何とか」
「よかったわね」
奥の従業員口から細身の男性スタッフが姿を現した。茉莉子がひらひらと手を振る。彼女のジェルネイルが施された爪の先が、明かりを反射してキラリと光った。
「昴」
中野は茉莉子へ微笑み、軽く頭を下げた。それから、彼女の隣に座っている久しく顔を見せなかった常連客を見留めると、おや——と言いたげに眉を上げた。
「ご無沙汰してます、中野さん」
丹波はふと浮かんだこの前の気不味さが喉元まで上ってきたのを飲み込んで、いつものような挨拶を心がけた結果、下から覗き込むような目線でもって彼を見て、声が喉元に突っかかったような変な心地になった。中野は丹波へ笑いかける。まるで、あの時のことなどなかったかのように。
「今晩は、丹波くん。お元気でしたか?」
中野から二杯目のカクテルを受け取った茉莉子が、言い淀んでいる丹波を横目で見ている。それは、何の展開もない退屈な映画を観ているような表情であった。
「え……と、元気……じゃないです」
茉莉子が丹波の方へ顔をぐいと向けた拍子に、肩にかかっていた髪が揺れる。
「元気じゃないです」
中野と茉莉子は、ぐずぐずと頭ごとうなだれていく丹波をじっと見つめた。
「疲れました……」
大きな吐息と共に、上背のある男が少しずつ小さくなっていく。
「な……何よ、丹波。てっきり虚勢を張るとばっかり」
「もうそんな気力はありません。茉莉子さんの相手もしたから」
「ぶん殴ってあげようかしら、丹波?」
塩をかけられた青菜のようにしおれている丹波の前に、黒い陶器がそっと差し出される。面を上げ、湯気の立つ陶器を両手で覆った彼の顔が、ふっと綻んだ。
「お疲れ様でした」
「……」
「ゆっくりおくつろぎくださいね」
「……いいんですか?」
勿論——バーテンダーは微笑する。
「ポールスターはそのためにありますから」
陶器に入ったハーブティーに口をつける丹波を見ていた茉莉子は、中野の方へ向き直る。
「昴、丹波に優しいわね」
「そうですか?」
「ええ。私にはそう見える」
茉莉子は眉根を寄せる。何か思いついたことがあったらしい。
「まさか?」
「いいえ」
中野は、船を漕ぎ始めた丹波をそっと見る。彼に話しかけられた瞬間、丹波の緊張の糸はぶっつりと切れてしまったらしい。茉莉子がフロアスタッフを呼び、客へブランケットを持ってくるように言いつけた。
「——……て、丹波。起きなさい」
肩を揺さぶられてようやく、丹波は寝ぼけ眼を擦りながら、上体を起こした。肩から落ちるブランケットに気づいた彼は、床に落ちる前にそれをキャッチする。辺りを見回すと、丹波以外の客は一人もおらず、カウンター席に灯りがともっているのみであった。中野は他のスタッフと翌日の仕込みをしているらしく、既に翌夜のために整理整頓されたカウンターにはいなかった。
「すみません、茉莉子さん。俺……」
「気にしないで。疲れていたんでしょ」
「いや、本当に申し訳ないです。邪魔ですよね」
「丹波」
茉莉子は丹波の謝罪を遮る。声音は静かだったが、有無を言わせないものであった。
「私がいいと言っているの。……支払いは済ませておいたわ、ツケよ」
茉莉子は従業員口へ向かい、中へひと言告げてから「ポールスター」を出た。
「すみません、本当に」
「もう謝らないで。出禁にするわよ」
彼女は既にタクシーを呼んでおり、表通りに待たせているらしい。日を跨いで時間が立っている今、繁華街を歩いているのは妙に不釣り合いなカップルが数組、死んだように伸びている酔っ払いの懐を弄っている何もかもが不詳の住民、顔を伏せながら足早にホテルを出ていく男や、それを呼びとめるポン引きと、等間隔に立ち並ぶ見目のいい女達である。数時間前なら、もう少し健全な雰囲気が繁華街を賑やかにさせていたはずである。丹波は茉莉子を自分に引き寄せ、道の端を歩くように言った。ポン引きが見廻りの警官に捕まっている。その横を通り過ぎようとした時、別の警官が丹波を呼び止めた。
「待って。——こういう者です」
警官の職質を受ける丹波も、それに待ったをかけて名刺と運転免許証を出す茉莉子も慣れた素振りであった。たまに、今夜のように店に顔を出したオーナーを家まで送ることがある丹波は、自分の肩より下程しかない小柄な茉莉子を連れているが故に、不本意な勘違いをされることに慣れてしまっていたのである。最初は憤っていた——自分が子供に見られていることに対して——茉莉子も、最早待ってましたと言わんばかりに懐からカードケースを取り出す準備は万端であった。
「——すぐそこにありますから。お待ちしてます」
にこりとお手本のような微笑みを浮かべた茉莉子は、二人組の警官に店を宣伝するのも忘れなかった。抜け目のないオーナーの姿勢に、丹波はいつもこっそり感心していた。秋波を送る女達——時に嫉妬のようなじっとりとした目線を向ける男——を無視して、表通りに待っていたタクシーに乗り込み、茉莉子が行き先を告げた。
「茉莉子さん、ありがとうございます」
彼女が視線を上げる。
「何かしら?」
「その……ここまでしてくださって。ただの客なのに」
「気まぐれよ。次会った時、また同じように面倒見てもらえると思わないで」
通り過ぎる街灯が、茉莉子のツンと尖った鼻先と、丸いまぶたを照らしては過ぎ去っていく。
「茉莉子さん」
「なに?」
「中野さんって、茉莉子さんが小さい頃からあそこで働いてたんですよね」
オーナーは頷く。
「ポールスターは私の祖父母が開いた店よ。昴は二人に雇われて、あの店でずっと働いてる。両親が忙しかった分、私はよく祖父母に預けられていたわ。時間ができた時、昴が宿題とか見てくれたのよ。そのまま私が店の経営を任せられるようになってからも、昴は着いてきてくれた」
「中野さんは古参のバーテンダーなのに、店は継がなかったんですね」
「そういう話もあったらしいけど、昴は全て断ったのよ。カウンターに立つほうが性に合う、学がないし、店を切り盛りするような堪え性もないから向いていないって」
(変な客来るんですよ、ヤンキー崩れみたいな。……最初は優しいんですよ、そのまま追い返して……二度目は容赦しませんよ、あの人)
丹波はスタッフの言葉を思い出す。
(懲りねえな、クソガキ)
既に青タンをこしらえていた佳奈の連れが、目を白黒させていたのも。
「中野さんは、あの店を守りたいんですかね」
そうね——そう呟いたきり、茉莉子は黙りこくってしまった。彼女は遠い昔のとある冬、「ポールスター」の扉を開けた時、驚いたような顔をしている痩躯の男と目が合ったことを思い出した。彼は知らない男と遭遇して固まっている茉莉子と同じくらい困惑しており、
(ちょっと……待っててくれる? 好きなところ、座っていいから)
そう言って、カウンターの奥へ引っ込んでいった。
(枇々木さん、女の子……来てますけど。……え、孫?)
再び姿を現した男はブランケットと古い電気ストーブを抱えて、足元に電源コードを引きずっていた。コートを着たままソファ席にちょこんと座る小さな茉莉子へブランケットを渡し、電気ストーブの電源を入れた。
(ごめんよ、寒かっただろ)
茉莉子が首を振ると、男はほっとしたような顔をした。
(昴といいます。よろしく、茉莉子ちゃん)
中野昴にとっても、茉莉子との出会いは予期せぬものであったに違いない。恐らく彼女の祖父母は茉莉子のことを知らせていなかったであろうし、まさか繁華街のど真ん中に年端もいかない少女が現れることなど想像もしていなかったであろう。それと同じくらい、茉莉子にとって中野昴は「異物」であった。彼は茉莉子に良くしてくれたが、自分のことを話そうとはしなかったし、知りたがりの思春期を迎えた彼女へ、やっと(つまらないモンだよ)と言った程度である。
(茉莉子ちゃん、頭いいんだな。うらやましい)
英語の単語集を開いていた茉莉子へ、中野昴はそう言った。
(そう? 普通よ、これくらい。皆やってる)
単語集から顔を上げずに、茉莉子はほとんど上の空のように応えた。
(本当だよ)
当時、茉莉子はからかわれているのかと思っていた。或いは、勉強している姿を見られたせいで、ガリ勉だと思われるのが嫌だったのかもしれない。
(昴はいいよね。働いてて、お金稼いで好きなことできるんだもん)
(そうかい?)
(そうよ。昴の方がうらやましいわ)
茉莉子にとって、中野昴を構成するものは「ポールスター」以外何もなかった。祖父母が運営する店に急に現れた異物。しかも「ポールスターのバーテンダー」という属性以外、中野昴を説明するための情報がない。祖父母も雇う経緯を説明してくれたことはない。
「……知らないのよ。私も」
——茉莉子と同じように車窓を眺めていた丹波が、物思いにふける彼女の方を見つめる。
「昴はポールスターを大切に思ってる。それだけは判る」
茉莉子はどことなく悔しそうであった。
「でも、それだけしか知らないのよ」
マンション前で、茉莉子は一万円札を丹波に託した。
「来週も顔を見せてよ、丹波」
颯爽と去る彼女を見送ってから、丹波は自宅に程近いコンビニの場所を運転手へ伝えた。疲労感が体に充満しているのに、目は不思議と冴えていた。
「余計なおせっかいだったらすみませんけどね、お客さん」
運転手が言う。
「人って、誰にも知られたくない過去の一つや二つ、あるもんですよ」
彼と親しくなればなるほど、まるでその姿がぼやけて遠ざかっていくような気分であった。悔しがっていた茉莉子は、自分が彼に信頼されていないと思っていたのであろうか。パンドラの箱をこじ開ける勇気は、丹波にはなかった。たとえそうしたとしても、中野の態度はきっと変わらない。ただ、あの夜のひとときを、二度と過ごすことはできなくなる。
(それだけは……嫌だ)
支払いを済ませ、タクシーを降りた丹波はコンビニに入り、軽食を買って家路を急いだ。今は体に栄養を詰めて、体力回復に勤しむべきであると、ようやく体が認識してくれたらしい。気を抜けば眠気に負けて卒倒しそうであった。




