第一話
『丹波君、今日は直帰でいいよ。お疲れ様』
社用携帯を耳に当てたまま、往来のど真ん中で立ち止まった営業マンを、飲みの席に繰り出そうとする学生と思しき集団が迷惑そうに左右に分かれて通り過ぎていった。上司に礼を告げて社用携帯をポケットに収めた彼——丹波勤の顔は、先程までの半分死んだような土気色からバラを散らしたように晴れやかに——とまではいかないものの、多少の明るさを取り戻したようであった。丹波は道の端に避けると、私用のスマートフォンで手近な地下鉄の駅を探す。それから面を上げて辺りを見渡した。
「……一駅歩いたほうが早いなあ」
そう呟いた彼は、やれやれと言わんばかりの顔で革靴の底で道を擦るように歩き出した。東京都内の込み入った地下鉄事情は時に人を駅から駅まで歩かせるが、丹波は例え数分を無駄にしようとも、近道する気力すらなかった。丹波は素直に都営地下鉄を幾つか乗り継いで、目的地の繁華街へ向かう。体にまとわりつく泥のような疲労感とは裏腹に、確かな高揚感を覚えながら、彼は目をつけた雑居ビルの隙間にある、地下へ続く狭い階段を降りていった。
「オイ、てめえ! 覚えてろよ! クソが……」
階段の下方から負け犬のような捨て台詞とともに、顔に青タンをこしらえた若い男がもんどり打って飛び出してきた。丹波には気付いていないのか、悪態をつきながら階段を上がってくる。男は脇腹を押さえながら、痛みに脂汗を流しているようであった。心配半分、好奇心半分で男の背を見送りながら、踊り場まで降りてきた丹波は、階段を降りた先にある、トルコランプの壁掛け灯に明かりがともっているの見た途端、頭のてっぺんから足の底までずっしりと重い疲労感に貫かれた。バー「ポールスター」が、やっと金曜日の夜を迎える丹波のことを待っていた。
扉に手をかけ、恐る恐るといった具合に中を覗いた丹波の目に、カウンターの奥に立っている壮齢のバーテンダーが映る。縁無し眼鏡の奥にある、タンブラーグラスに真剣なまなざしを注ぐ切れ長の目が、扉にかかる鈴の音と共に丹波を見留めた。
「今晩は。丹波くん」
彼の目が柔和な弧を描いたのを見て、丹波は「あ——ッ!」と溜め息なのか呻き声なのか、はたまた咆哮なのか、何とも形容し難い声を吐いた。カウンターへドタドタと近づく丹波の無作法ぶりに、奥のテーブル席を囲む年嵩の紳士が眉をしかめるが、そんな顔など丹波の目には映っていなかった。
「中野さん、俺ァもう疲れましたよお……」
「うん。静かにしてくださいね。はい、ジュース」
バーテンダー——中野昴は慣れた様子で、カウンターに項垂れた丹波に先程のタンブラーを差し出した。サザンカンフォート・スクリュー。丹波が初めてこのバーに来た日に、中野が「これなら飲みやすいかもしれないね」と作ってくれたそのカクテルを、丹波は愛飲している。下戸な彼が味わえる数少ないカクテルの一つである。
「お酒じゃないですか……」
「ほぼジュースですよ」
「そりゃ、飲める中野さんだからそうってだけでさァ……」
カウンターに項垂れていた丹波は重い頭をぐいと上げた。形のいい薄い唇にうっすらと弧を描きながらグラスを拭いている、この中野昴は、「ポールスター」で長年働いているというベテランである。歳の頃は五十を越えた頃で、後ろへ撫でつけられた黒髪が乱れたところを、丹波は見たことがない。白いワイシャツの上からシングルピースのベストを痩身にまとう姿に隙はなく、縁無し眼鏡の奥に潜む目が、曇り一つないグラスに注がれている。丹波が初めて「ポールスター」の扉を叩いた時、彼はその切れ長の目からは想像のつかない柔らかな雰囲気をまとって、丹波にカウンターへ座るように手招きしたのである。物静かだが気さくな彼が働く「ポールスター」で、金曜日の夜を過ごすことが丹波の楽しみであった。
カウンターを出た中野が、紳士達がくつろぐボックス席の方へ向かっていく。丹波がカクテルを舐めながらその背を眺めていると、入口の遠く上の方から複数人の足音のようなものが、勢い良く近づいてきていることに気がついた。中野は馴染みの紳士達と話しながら、次の注文を手元の紙に書きつけている。丹波が彼の背へ声をかけようとした時、「ポールスター」の扉を乱暴に開けた狼藉者が「おい、バーテン!」と野卑な声を上げて靴音を鳴らしながらやって来た。それは先程の青タン男であり、どうやら援軍を連れて戻ってきたようであった。
「テメエよ、調子乗ってんじゃねえぞ。ええ?」
中野はさりげなくボックス席を離れ、ホールの入口付近へ移動する。メモをポケットに入れて「ポールスター」を背に回した彼は、自分よりも体格の良い、若い青タン男を見上げた。
「おかえりください。他のお客様の迷惑ですから……」
「それがさっき客の俺をぶん殴ったテメエの台詞かよ。おい、白けた面してんじゃねえよ、コラ」
青タン男が凄んでいる間、後ろの取り巻きの一人が仲間に耳打ちする。取り巻きが目をやった先には、ボックス席の陰に隠れるようにして座っている、おおよそ二十代くらいの女性が、両頬に髪を垂らして俯いていた。よく見ると、彼女の肩が震えており、垂らした髪の隙間から諍いの顛末を盗み見ている様子が、丹波が座っているカウンターからも伺えた。
「おい、佳奈! 行くぞ」
取り巻きが、佳奈と呼ばれたその女性に近づくと、無理矢理腕を掴んで立たせようとする。佳奈は腕を振り上げてそれを拒否し、
「もう嫌、関係ないでしょ。どっか行ってよ」
——半分泣きながら声を上げる。丹波は思わず立ち上がると、取り巻きと佳奈の間に体を滑り込ませた。
「ちょっと、無礼じゃないか。みっともないぞ」
「どけよ。お前には関係ねえだろうが」
取り巻きに力任せに胸倉を掴まれた丹波は、振り払われそうになるのをぐっと堪え、取り巻きを睨みつける。そこで漸く、取り巻きは丹波が意外と上背があり、体格勝負では些か不利かもしれないことに気がついたようであった。たじろぐ様子を見せた取り巻きの手を振り落とし、丹波は佳奈をカウンターの奥の方へ避難させる。
「ごめんなさい、私……」
佳奈はそう言って顔を上げる。丹波は、彼女がただ化粧が少し濃いというだけで、実際は二十歳に満たないかもしれないことに気がついた。
「君、何してるんだ。こんな時間に、こんな場所で」
「だって着いてくるんだもん。私フッたのにしつこくて……でもあのバーテンダーさんが追い払ってくれて、もう少し休んでいっていいよ、って言ってくれたから……」
ホールに響いていた青タン男の怒鳴り声と、佳奈を探す取り巻きの声が、鈍い音と共に一瞬にして静まり返る。カウンターからそっと顔を出した丹波は、中野が青タン男の土手っ腹に蹴りを叩き込んでいるのを目撃した。
(うわっ、ヤクザキック……)
艷やかに光る彼の革靴の先で、青タン男が後方へ後ずさるように引っ繰り返りそうになるのを取り巻きが支えようとする。しかしそれも遅く、派手な音を立てて尻もちをついた青タン男は目を白黒させながら、脚をゆっくりと降ろす中野を呆けた顔で見上げていた。
「懲りねえな、クソガキ」
中野の表情は、丹波と佳奈のいる場所からは窺えない。佳奈が青タン男と同じような顔をして、カウンターの影から中野の背を覗き見ている。あの中野昴からそんな言葉が飛び出してくるとは、夢にも思わなかったのだろう。
(聞き間違い……じゃないんだろうなあ……)
丹波は不届き者らが「ポールスター」の外へ追いやられていくのを見守りながら、初めてこのバーにやって来た日のことを思い出していた。その日、事の発端は今日と違って客の恋愛沙汰ではなかったはずだが、バーの扉を叩いた輩が丹波などいないと言わんばかりに、そのすぐ近くでカウンター越しに中野を詰めていた。たまにはそんなことをしてみてもいいだろうと、仕事明けの自分を労ってやろうと思って気まぐれに訪れたレトロなバーで、まさかそんな一触即発な場面に遭遇するとは夢にも思わなかった丹波は、ただ息を殺しながら体を縮こませて嵐が過ぎ去るのを待っていた。
(俺、まだつまみしか頼んでないんだが?)
水を啜りながら味のしないナッツを噛み締めていた丹波は、輩と目を合わせないように俯かせていた顔をこっそり上げて見たバーテンダーの顔に思わず息を呑んだ。彼は、カウンターから「今晩は」と声をかけた時の優しげな雰囲気など嘘のように、平静を装っている影に確かな剣呑さを忍ばせて輩の顔を真っ向から睨みつけていた。
「帰ってくれ。もう関係ないことだ」
穏やかに、しかし冷たく言葉を突きつけた彼へ、輩はただならぬ凄みを見せて顔を寄せた。
「ここじゃあなんだ、表出ようや。中野」
大人しく輩とバーの外へ出た中野が、その直前に手近なテーブルから灰皿を手に取ったのを、丹波は横目で何とはなしに見送った。扉が閉まってしばらくして、どちらともつかない男の狼狽する声音、それから腹の底から突き上がるような呻き声が聞こえてきたのに、丹波は思わず振り返り、数秒の逡巡の後に席を立った。危ないぞ——という他の客の声を置いて扉を開けた丹波が見たのは、股間を押さえて悶絶する輩と、左手にモップを携えて携帯を操作している中野の姿であった。輩とモップの柄、警察への通報を終えた中野を行き来する丹波の視線に気づいた彼は振り返って顔を上げ、少し気不味そうに微笑んでみせた。
「お騒がせしました。今、警察へは通報しましたから……」
「あっ? ああ……はい。よかったです」
上に見える階段の踊り場の先から複数人の足音が聞こえる中で、足元の方から中野を呼ぶ絞り出すような声がした。脂汗を流しながら中野を睨みつける輩のものであった。
「中野……、これで終わったと思うなよ」
すると中野が輩のもとにしゃがみ込み、男の顎を鷲掴みにして無理矢理顔を上げさせた。輩の首元から妙な音がした。
「もう終わったんだよ」
中野の背で、丹波にはその表情を窺い知ることはできなかったが、輩の顔が青ざめたことだけは判り、丹波の背に寒気にも似た何かが足元から這い上がってきた。
「二度とツラ見せんな。失せろ」
階段を降りてきた警察が輩を連れて行くのを見送った中野は、
「申し訳ありませんね。お詫びに一杯サービスしますよ」
——と、その場に突っ立っていた丹波へ声をかけたのであった。
あの時の雰囲気と似通ったものを漂わせている中野が青タン男とその取り巻きを一通り追い出した後、カウンターの裏に隠れていた丹波と佳奈へ向かって静かな声をかけた。
「どうも、お騒がせしましたね」
丹波を不安そうに見る佳奈へ、丹波は「大丈夫だ」と頷く。
「佳奈さん、行って」
恐る恐るといった風にカウンターから出てきた佳奈は、自分が休んでいた奥のボックス席から、放り出していたハンドバッグを持って来ると、既に席に戻っていた丹波の定位置の隣に腰掛けた。
「あの……、二度も助けていただいて、ありがとうございました」
上目遣いに頭を下げる佳奈へ、中野はあの柔和な笑みで「いいんですよ」と、メニュー表と水を差し出した。
「災難でしたね。まあ……もう来ることもないと思いますし、あなたに近づくこともないかと」
瞬きをする彼女へ、中野はいたずらっぽい流し目をよこす。
「釘を差しておきましたから」
丹波は中野の言葉を深く考えないことにした。それは隣の佳奈もそうであったようで、愛想笑いを返した彼女はノンアルコールカクテルを注文した。
「それはそうと君、早く帰らないと親御さんに叱られるぞ」
タンブラーグラスに口をつけた佳奈は丹波の忠告に対し、
「私一人暮らしだから、いいんです」
何も意に介していない様子であった。むしろ、その言葉を気にしたのは中野の方であった。
「おや。未成年でしたか」
——そう言ったものの、彼は対して驚いていないようである。彼女があの輩とやって来た時から気づいていたのであろう。彼女に自分の身分を自覚させるために、あえてそのことを口にしたのである。佳奈は平静そうであったが、些かバツの悪そうな表情を浮かべた。
「それを飲んだら、早く帰りなさい」
「でも……さっきのあいつらがまた来たら……」
佳奈の言葉からは恐怖よりも、不満に似たものが滲み出ていた。子供扱いされているのが気に入らないのであろう。
「丹波くん、送ってあげたら?」
中野が冗談ともつかない提案をする。
「俺を犯罪者にする気ですか、中野さん」
「君、強いでしょ? 用心棒にはぴったりだ」
カウンターから出た中野は、ボックス席を離れた紳士達から伝票を受け取った。会計を済ませた後、常連であろう紳士達と親しげに話をする彼を見ながら、佳奈が丹波の腕をつつく。
「なに?」
「丹波さんって、よく来るの?」
「ああ……『ポールスター』に?」
「ここポールスターっていうの?」
「君、知らずに来たのかい」
「私、弘樹に無理やり連れてこられたんだもん。ここなら誰も来ねえって」
タンブラーグラスのブルーカクテルを半分まで空けた彼女は、改めて物珍しそうに店内をぐるりと見渡しながら言った。
「ひろき……さっきの男ね。よく知ってたな、あいつ」
「ねー。こんなオシャレなバーがあるなんて知らなかった。あいつ、別の女から教えてもらったんだろうね。あんなヤツが知ってるわけないもん」
ああ違う違う、と佳奈は丹波へ居直る。
「さっきはありがとう、丹波さん」
「いやあ、俺は何もしてないよ。ほぼ中野さんがやったことだ」
「そう、中野さんなんだけど」
佳奈が後ろをちらりと見る。中野は紳士達と話が弾んでいるらしい。
「絶対普通じゃないよね」
「どういうこと?」
「どうって……カタギじゃないよね。なんか……そんな気、しない?」
丹波は首を傾げる。しかし、彼の脳裏には初めて「ポールスター」で過ごした夜更けのことが浮かんでいた。
「でもここ繁華街の真ん中にあるし、そうすると変な奴も必然的に多くなるから、場馴れしてるだけだと思うがね」
関係のないことだ——もう終わったんだよ——、あの夜、輩と睨み合っていた彼は確かにそう言っていた。あの輩は明らかに堅気の人間ではなかったし、先程の青タン男のような半端者でもなさそうであった。
「じゃあこういうのってよくある感じなの?」
「うん……多分。俺はあまり遭遇したことはないけど。意外とそうなんじゃないかな」
中野がカウンターに戻ってきた。グラスをすっかり空けた佳奈が財布を取り出したのを見て、彼は首を横に振った。佳奈が驚いたように声を上げて意地でも札を手渡そうと身構える。
「そんな、助けてもらって奢りだなんて」
「見苦しいところをお見せしてしまいました。これは僕からのお詫びです」
それから、中野はニヤッと笑った。
「また今度いらっしゃい」
結局中野の提案通り、丹波が佳奈を家の近くまで送り届けることになった。扉まで見送りに来てくれた彼は最後まで彼女を気にかけ、次はそう遅くない頃合いに来てくれと念押しをして、丹波へは「丹波くん、よろしく」と佳奈の面倒を見るようにさらりと言いつけた。
「中野さん」
後ろを振り返った丹波へ、佳奈は「話あるなら、私さき上行ってるから」と軽やかに階段を上がっていった。ヒールのステップが遠く上へ小さくなっていく。丹波の視線より下から目を合わせる彼が、例の笑みで丹波の言葉を促す。
「また……来ます。金曜日の夜に」
階段を上がった先で、佳奈が携帯をいじりながら丹波を待っていた。やっと顔を見せた用心棒を一瞥した佳奈は、小首を傾げて男を見上げた。
「どうかしたの、丹波さん?」
「いいや。何でもない」
ヘンなの——佳奈はそう言いながら、ハンドバッグを後ろ手に下げて丹波の後を追った。




