第三話
夜も更ける頃、半ば駆け足で「ポールスター」へ続く階段を下りていた丹波は、踊り場で腕時計をちらりと一瞥する。向かいから上がってくる、ボックス席によく座っている顔見知りの紳士と挨拶を交わし、彼はドアに手をかけた。カラリと鳴った鈴の音に振り向いたのは、あの佳奈であった。マロングレージュの髪を後ろで一つに括っている彼女に、バーの制服がよく似合っていた。
「丹波さん、こんばんわ」
佳奈は囁き声でそう言い、
「いつもの席でしょ?」
カウンター席を見遣る。そこでは、中野と茉莉子が顔を突き合わせて、何やら話し込んでいる様子である。中野は相変わらず自分の仕事をしているが、そこへ茉莉子が真剣な眼差しで何かを訴えているように見える。
「俺、行っても大丈夫そう?」
「いい……んじゃないかな。駄目とは言われてないし、ここではお客様の丹波さんが優先」
佳奈は肩を竦める。
「二人、結構長話してる?」
「いや、そうでも。茉莉子さんが一方的に話してる感じ」
丹波はいつもの席から少し離れた場所を選び、佳奈からメニュー表と水を受け取った。
「言いにくいでしょ。私、頼んでくるね」
そう言った佳奈がカウンターの右手奥側へ向かっていくと、例の二人は揃って彼女の方を見、それから素知らぬ顔をしてメニュー表を眺めている丹波にようやく気づいたようであった。茉莉子が苦虫を噛み潰したような顔をして艶のある髪をぐしゃりとかき回す。
「茉莉子さん、その話はまた後で」
中野は佳奈から注文を聞くと、茉莉子へ何かを告げてその場を離れた。彼はバーカウンターからボトルを取り出し、サザンカンフォート・スクリューを手早く仕上げると、やっと丹波のもとへやって来た。
「申し訳ありません」
「いいえ……それはむしろ佳奈さんに言ってやってください。俺は別に構わないので。邪魔したくないし」
丹波はカウンターの端で表情なくグラスを傾けている茉莉子の方を一瞥する。二人はカウンターで顔を合わせても時折世間話をするくらいで、店の中で込み入った話をするようなことはなかった。特に、茉莉子はスタッフの仕事の邪魔をするような真似はしないであろう。既に客は片手で数えられる程度で、ラストオーダーの時間寸前に客が飛び込んでくるとは思っていなかったに違いない。自分が悪いとは丹波も思わないが、互いのタイミングが合わなかっただけだ——彼はそう考えることにする。
「話し中じゃなかったんですか、中野さん?」
中野は首を振る。佳奈が最後の客を見送るために外へ出て行ったのが、丹波の目端に映った。
「いいえ。もうその話は……」
中野が言いかけたその時、グラスを盛った茉莉子がやって来て、丹波の隣に腰かけた。
「茉莉子さん?」
「ごめんなさい、丹波。あなたとの仲だから、この際聞いてちょうだい」
——店内の片付けと仕込みを始めてもいいとオーナーから指示を受けた佳奈は、自分と同じように掃除用具を取りに来た先輩スタッフの洋輔と顔を見合わせる。バックヤードでは既に明日の仕込みが始まっており、二人はフロア清掃を任されていたのだが、従業員口からフロアの三人の様子をちらちらと伺っていた。
「何してる?」
厨房のスタッフが通りすがりに二人の背に声をかける。
「こっちはフロア手伝わんぞ」
「だって……なんかめっちゃ真剣な話してるみたいなんですよ。行きづらいですって」
佳奈の言葉に、洋輔もこくこくと頷く。
「枇々木オーナーがいいって言ってんだろ? ンならいいだろ」
「中野さんが詰められてるんですよ?」
「そりゃ見物だ。後で内容教えてくれよ、洋輔」
「何言ってんすか黒木さん」
「そら行った、二人とも。お前らの帰る時間が遅くなるだけだからな」
うえぇ……——と佳奈は妙な鳴き声をあげて、洋輔は肩をわざと落としてようようやっと従業員口から出て行った。
カウンターでは、茉莉子がバッグから取り出した携帯を中野に差し出して、それを横から馴染みの客——丹波が覗き込んでいる。当の中野は携帯にあまり意識を向けていない様子で、グラスを磨いていた。
「向こうは、あなたがその気なら段取りをつけてくれると言ってるわ」
茉莉子が見せたのは、中野と同じか、それよりも少し年若い女性が微笑んでいる写真であった。清潔感のある格好をしており、肩口で内巻きに整っているやわらかそうな髪が印象的である。女性は日当たりの良い場所で、恐らく撮影者と何かを話している一瞬を撮られたようであった。そういった場面に遭遇したことのない丹波でも、何となく察せられるところがあった。
中野は独り身で、この「ポールスター」が入っているビルの一角に居を構えている。浮いた話の一つもなく、仕事に実直な男というのがこのバーテンダーであり、時には言い寄る女性の一人や二人いた筈であり、実際に丹波もそういった状況に出くわしたことがある。常連客の紳士達も当人に直接言うことはないが、仲間内で「勿体ない」と呟くことがあった。茉莉子が口を出す筋合いのないことであるというのは、彼女自身が一番判っていることではあるものの、オーナーとしてではなく家族に近い存在として、中野の行く末を心配しているのであろう。それは、この縁談の話が出る前、丹波が初めて茉莉子と中野が話をしているところを見た時から、一介の客である彼でさえ感じ取れるものであった。茉莉子は「ポールスター」のオーナーとして、そして親しい間柄として彼を信頼しており、だからこそ単身独居の彼の行く末を案じている。彼も茉莉子の善意を感じているからこそ、無下には断れずにいるのであろう。
「あなたにそういった相手がいるのなら、私だって安心できるわ。でもそうじゃない」
茉莉子は携帯をカウンターに置いた。
「昴、身を固めなさい。このままではたった一人で人生を終えることになるわ。あなたを支えてくれる人が必要なのよ」
彼女が丹波へ意味ありげな視線を送る。援護しろ、とその大きな目がしかめられた。
「中野さん。茉莉子さんの言うことも一理あると思います」
丹波は慎重に言葉を選ぶ。
「このまま独身でいるのも……それは中野さんの選択だから、俺や茉莉子さんが何かできるわけじゃないですけど、この先一人でいるのは大変ですよ。色々……」
言葉を濁した丹波へ、中野は「ありがとうございます」と困ったように微笑した。
「いいんですよ。僕は」
中野は磨いたグラスを並べながらそう言った。
「もうこれ以上、何かをもらえるような身分じゃない」
「昴、変なことを言わないで」
茉莉子が身を乗り出した。
「あなたのためよ」
彼が目を伏せた。丹波は思わず息を呑む。この彼の仕草を丹波は確かに見たことがあった——そう、それは(前途ある若者ですから)と稼ぎ口を探す青年を思った時のものに違いなかった。
「僕にはもう、誰かの一生を背負うだけの余地はありません。僕がそれほど器用じゃないことを、茉莉子さんは知っているでしょう? そんなところへやって来る彼女がかわいそうだ」
「相手を不幸にすると、あなたは恐れているわけ?」
グラス同士が擦れ合う音が止んだ。
「言ったでしょう、余地がないって。僕はもう……一生分の想いというものを、もうもらったんです」
茉莉子が密かに唇を噛んだのを、丹波は盗み見る。中野が言ったことが、茉莉子が彼と出会う前のことであることは明らかであった。彼女は次の言葉を探して逡巡している。今が彼のことを知る絶好のチャンスなのではないか——丹波はそう思った。彼がそれとなく言わないようにしていた過去は、明らかに現在の彼の「心の余地」に関わることに違いなかった。そしてそれは、「ポールスター」に対する態度にも、「前途ある若者」への優しさにも関係しているはずであると、丹波は半ば確信して、未だに二の句がつけずに中野を見つめたままの茉莉子の隣から、彼の名を呼んだ。中野は視線を上げて、親しい常連客の方を向いた。
「その人は、今はどうしているんですか?」
中野は適当なグラスを二つ取って、それからバックバーへ手を伸ばす。丁寧に切り揃えられている爪を乗せた、彼の節くれ立った指がゴールドラムのボトルに触れる。それからしばらくして、やわらかな光をたたえる天井灯のごくわずかな電子の擦れるような音が聞こえるほどの沈黙の中、シナモンがふわりと香った。
やがて従業員口の隙間から漏れていた光が消え去る。ビロードのような深更の闇がひたひたと近づいてきたのだ。
※※※
昨日の今頃はまだ、あの大衆居酒屋で走り回っていたはずだ。暑さと厨房の人いきれ、ろくに休みもせず、寝てもいられなかったこの数週間の末、昴に降りかかったのは酔った学生がぶちまけたジョッキのビール、足を滑らせてすっ転びそうになったところへ投げつけられた雑巾と、のぼせそうな顔に飛んできた水飛沫であった。思わず顔を上げた昴を、自分より幾つも若いであろう学生が濡れた右手に空のガラスコップを持ってヘラヘラ笑っていた。こいつは酔っている。酒に飲まれた馬鹿だ。そう自分に言い聞かせて掃除を済ませ、立ち上がった時に、昴は無意識にちらりとその馬鹿を見下ろした。先程までニヤついていたその学生が、
「あっ?」
――と、突然顔を引きつらせ、テーブルの物をあたり構わず滅茶苦茶にしながら立ち上がった。
(そういや、俺、目つき悪ィから目ェ合わせんなって言われてたな)
疲労と空腹で意識が朦朧としていた昴は、胸倉を掴みにかかる学生に任せて床に倒れ込んだのであった。気づいた時には控室に転がされていた昴は、ちょうど入ってきた学生バイトと目が合った。生ゴミにたかる羽虫を見るような目を隠そうともせずに、その店員は給料袋を昴へ投げつけた。
「お前クビ。荷物まとめて出てけ」
相手を見もせず一番に給料袋を手に取った昴の体を足蹴にしようとした彼は、立ち上がった男から思わず体をそらそうとした。昴の目の奥に、胸元にぐつぐつと煮える怒りが凝っているさまが見えたのであろう。わなわなと震え、口角泡を飛ばす勢いで、彼は昴を罵倒した。
売り物のビールをこぼし、挙句に客に喧嘩をふっかけて呆気なくぶっ倒れた、情けないクソ野郎。自分が間を取り持たなければ警察沙汰になるところだった。お前が来てから悪いこと続きだ、俺が若いからってナメやがって。
昴はロッカーを空にして、数少ない荷物を手に下げた。控室を出ようとした時、天と地がひっくり返ったような気がした。体を起こし、後ろを振り返ると、頭上の彼が足を突き出してにやにや笑っていた。
腹を押さえる店員が店内に転がり込んで来て尻を摺って後ずさるのを見たシラフの客が、続いて出てきた不穏な空気をまとう痩せた男がそのそばを通り過ぎざま手を踏みつけるのを、呆気に取られた顔をして見送っていった。昴は先程自分に水をかけて床へ押し倒した学生のところまでやって来ると、その学生の後ろから頭をボールのようにテーブルめがけて叩きつけ、髪を鷲掴みにして頚椎を捻じ曲げるように頭を上へ向けさせた。
「二度と来るな」
学生の頭を放ると、昴は静まり返った店を出て行った。足下を見られて馬車馬のようにこき使われ、適当な理由で天引きされるせいで賃金も真っ当に払われもしなかったが、一番長く働いた昼職であった。それが、学生バイトの自己評価の材料に使われたいざこざのせいで、一瞬で奪い去られたのであった。住んでいたアパートに帰ってきた昴は給料袋を確認し、しばらくその場から動けずにいた。泥のように眠りたい体と、失望に冴えた意識が分離していくような心地が彼を蝕んでいた。このまま腐乱してかび臭い畳の染みになれた方が余程マシなのではないかと。
昴にとって幸いがあるとすれば、居候先があることと、勤め先がまだ残っているということであった。少なくとも路頭に迷うことはない。昴はのろのろと体を起こし、押し入れの隅から黒いボストンバッグを引っ張り出した。ナイロン製の、しわだらけで持ち手が擦れて毛羽立っているそれに、彼は家中のものを詰め込んだ。それを片手で持ち上げると、彼の持ち物達が中でぶつかりあう音がした。昴のもう片方の手には、あの給料袋が握られていた。回収した時よりも、少しばかり厚みがあった。
(訴えられちゃたまらねえ)
もう、大家は滞納処分を待ってはくれないであろう。昴は部屋にあった有り金を給料袋に突っ込んで、大家が住んでいる部屋のポストに差し入れた。その足で、昴は馴染みの女の家に転がり込んだのであった。女は——紗衣は目を丸くしながらも、彼を部屋へ入れたのである。
(馬鹿な女)
昴は荷物を置いて、キッチンに置きっ放しの汚れた皿を慌てて片付けている、自分よりいくらか歳上の部屋の主を見つめた。
(お人好しだから、平気で俺みたいなヤツを部屋に上げるんだ。バレりゃぶっ殺されるに違いねえのに)
自分が働く店でボーイをしている男と関係を持ってしまえば最後、たとえ彼女が店の稼ぎ頭であったとしても首を切られるに決まっていたし、その界隈では二度と働けなくなるであろう。ただのボーイにさえそう察せられるのだから、紗衣はそんなことなど百も承知であろう。それでもあの日、店の軒下で雨をしのいでいた昴に声を掛けたのは彼女であった。それは、昴がこの店で年齢を偽って働き始めてから初めてのことであった。
(寒いでしょう、あなた)
彼女は懐から傘を取り出して昴に渡し、自分は店の中へ入っていった。昴は、傘と女の背とを交互に見てから、傘の留め具に、端が濡れている紙切れが挟んであるのに気がついたのである。その日の更夜、昴が電話ボックスから書かれていた固定電話の番号にかけたところ、ちょうど仕事を終えて帰ってきたのであろう彼女が電話口に出た。住所と部屋番号を知らせた紗衣の躊躇いのなさは、昴を身構えさせた。そうでなくとも、常に人の半歩後ろで相手の動向を盗み見ながら、ポケットの中で握り拳を作っているような彼は、紗衣が見せた奇妙な態度を最後まで疑った。そしてその疑いは、彼女の狭いベッドのスプリングが軋む音、昴の背に回った女の汗ばんだ白い腕によって、ある意味最悪な形で晴らされた。
寝入る紗衣に布団をかけ、ベッドへ放置したままベランダへ出た昴は、遠くに見える摩天楼の光に目をやった。あれほど遠くにあり、立ち並ぶビルの隙間からしか見えないのにも関わらず、眠れない昴の目を焼いた。
あの輝くような街に憧れたのではない。それでも行くならば東京しかないと、十八になる年の三月に、警察に見つからないように路地裏に隠れて夜を明かした昴は決心したのである。隣で、唯一手放せなかったのであろう一張羅を布団代わりにしてうずくまっている、歳の頃も判らない男の懐から薄っぺらい財布をくすねた彼は、思いが揺れ動かないうちに家へ戻り、荷物をまとめてそのまま行方をくらませた。自分を探しもしなかった父親の顔はとうに忘れた。そうでなくとも自分の息子と顔を合わせようともしなかった男である。
「……あれ? 昴くん……こんなとこにいたのね。風邪、引くわ」
昴は緩慢な動きで振り向き、裸にシャツを被っただけの紗衣の方を見ようとして、止めた。目を擦る彼女がシャワーを浴びてくると言って、部屋の中に戻ったのに、昴は安堵さえ感じて、そのまま夜風に身を晒した。
母親を連想させる全てが顔を覗かせるたびに、昴はそれを排除しようと何度も試みた。そう思えば思うほど連想に支配されると判ってはいるものの、この時の彼に出来たことは去来する忌々しい女の影が通り過ぎていくのをじっと耐えていることだけであった。ベランダの窓を開ける音と、紗衣のひと言が、ひとりでに湧き上がる母親の亡霊から、幾分か昴を助けたことを、彼は認めざるを得なかった。ただ一人の時、その苦痛が過ぎ去るのを待つことは、永遠を錯覚するほどであった。最早誰でも構わない、紗衣というストッパーと関係を持つことに躊躇は出来なかった。
嗅ぎ慣れた香水の匂いがする。紗衣はいつも枕元に座って、店へ出る身支度をする。毒々しい色をした口紅を引く姿に、昴はいつも何かを――それも二度と思い出したくない類の何かを――呼び起こされるような気がしてならず、その時だけは彼女に背を向けて、その不健康な痩身をシーツに投げ出して寝たふりをした。
「じゃあ昴、私行ってくるから」
ハンドバッグを指先に引っ掛けて、紗衣は赤いピンヒールを慌ただしく履くとアパートの扉が勝手に閉まるに任せていなくなってしまった。内鍵を閉めるのが、昴の役目であった。アパートの階段を、ピンヒールが鳴らす音が小さくなって、やがて消えていくのを見計らってから、昴はようやく体を起こす。脱ぎ散らかした服を掻き集め、トランクスと袖無しの肌着だけ身につけると、彼はぺたぺたと玄関口へ向かい、内鍵を閉めてチェーンまで掛けた。彼女は明日の朝まで帰ってこないし、その頃には昴はこの部屋を出ている。
(……)
全身が汗じみている。裸足の裏に埃なのか何かのカスなのか、ざりざりとした何かがはりついている。昴は寝ていた部屋に戻りながら、洗濯したはずの自分の着替えをどこへ放り投げたか思い出そうと、昨日のことを考えていた。
疲れている紗衣の目尻が緩んでいて、アルコールのそれとはまた違う、可憐ささえ思わせる色を微かにのぼらせているのが見えた昴は、自分が何かを決定的に間違えてしまったのではないかと、胸のしこりに喉を突かれているような気持ちにさせられた。
(馬鹿な女)
昴は衣服を身に着け、シンクに転がっていたコップを軽くゆすいで、水道の水を一口含む。鼻に抜ける砂のような香りと、鼻腔に溜まるかすかな生臭さ。
不在の紗衣を罵倒することで、暴れだしそうな自分を宥めすかしていることに、昴は気づいていない。決定的な間違いをなかったことにできたことなど、今の今までありはしなかったのにも関わらず、彼はその事実を無視し意識の外に追いやったことで、騙し騙しやってきたのである。向き合って傷つくことが、昴にとって何よりも恐ろしいことであった。そうして女の優しさにつけ込んでいる。最初に声をかけたのは向こうだ——そう言い聞かせて、何かあればその事実を相手にぶつけてやろうと決めていた。
いつか必ず、この部屋を出て行かなければならない。しかしただでさえ、若さという武器を振りかざして昼夜問わず働いても、時々家賃が払えなくなる身分である。ボーイの仕事だけでは食っていけない。十分な稼ぎを得られずにいるのは、店に貸しを作ってしまったからである。理由は至極簡単で、店の嬢に狼藉を働いた客を制した時に、誤って——殆ど故意ではあったが——相手を殴ってしまったのである。そして運の悪いことに、その横暴な客がカタギではなかった。昴が東京湾に沈められる代わりに、店がことを穏便に済ませるために費やした金が、分割されて昴の賃金から抜かれていくというわけである。
「くだらねえトラブル起こしやがって」
店主は昴を一発殴った後にそう言って、仕事へ戻るように言いつけた。助けた嬢は昴と目を合わせようとせず、客の袖を引いて奥の部屋へ引っ込んでいった。
(辞めさせられないだけマシだ)
濡れたシーツを換え、重い掃除機を部屋の入口に置き、部屋を片づけ、アメニティを揃えて客と嬢を待つ。時折その間に入りながら、円滑にサービスが行き届くように骨を折る。昴はそれを繰り返しながら、その日一日が過ぎていくのをじっと待つのだった。
(置いてくれるってんなら、拳の一発なんて安いもんだろ)
よくあることだ。何かを間違えたせいで、上手くやり過ごせずに仕事を辞める。定職はなく、転々としながら日銭を稼ぎ、労働の隙間で泥のように眠る。それが自分の態度のせいなのか、見た目のせいなのか、まともに勉強をしてこなかったせいなのか、昴には判らなかった。
——着替えを済ませ、出勤した昴の隣を、嬢と腕を組んで出て行く若い客が通り過ぎていった。就職のためにあつらえたシングルピースのスーツと、サテン調のネクタイを合わせ、足元の革靴だけは使い古しのようである。昴より若く、話で嬢を楽しませながらタクシーを拾う後ろ姿を見ることなく、彼は従業員用の扉を閉めた。




