90 エスカレートしていくお願い
午後も半ばを回った時間、花菜は調理部の部活を終えて響宅に到着していた。
片手には、お土産に作ったお菓子がある。
合鍵があるので、エントランスをスルーして入場した。
流石に玄関まで開けるのは躊躇われたので、インターホンを鳴らす。
(響ちゃん喜んでくれるといいなぁ)
待っている間にも、花菜は響の喜ぶ顔を想像する。
それだけで、幸せな気持ちが溢れて胸が満たされた。
暫くすると玄関が開く。
「花菜、いらっしゃい。合鍵あるんだから、開けてもらってもよかったんだけど」
「響ちゃん、お邪魔します。勝手に上がるのもどうかなっていうのと、ドアチェーンとか下ろしてるかなって」
花菜は響に屋内に招き入れられながら、理由を話した。
実際花菜にとっては、家主が居ない部屋に入るのさえ少し心理的ハードルがあったのだ。
メッセージでやり取りしており、ある程度の時間は分かっているとはいえ勝手に上がるのは躊躇われるのだった。
「ああ、なるほど。花菜が来るとき……。いや、毎日か。まぁ、その時間帯はしないようにするから。これからは、勝手に上がっちゃっていいよ」
「大丈夫? 響ちゃん、取り込み中とかない?」
「大丈夫だよ。メッセージ貰ってるし。それに別にトイレに入ってようがお風呂に入ってようがなにしてようが、花菜に見られて恥ずかしいことなんて無いよ。なんなら、私がいない間に勝手に入ってもらっても構わないぐらいだよ。自分の家って思って」
「そこまで気が大きくなれないよぉ……」
「花菜なら、変なことしないでしょ」
「ひ、響ちゃんが居ない間に勝手にお掃除とかお布団干しちゃうかもしれないよ! 食材が勝手に増えて、お料理作り置きとかするかもしれないよ!」
「えっ、いや……全部メリットじゃん……」
相原花菜は勝手に響の匂いを嗅ぐという狂気の沙汰を行うことはあっても、悪党にはなれないようだった。
「でも、洗濯だけはまださせないでください……」
「えっ……」
「まだ、自分の行いを止められる気がしません……」
悪党にはなれないが、もちろん狂気の沙汰を止められるわけではなかった。
「善人の前科者って、こういう場合素直に白状するんだ。花菜って、私の体育の後の体操着とか欲しいタイプ?」
響が具体的な例でもって、花菜を詰めてきた。
「響ちゃん、このお話はヤメない?」
「正直に言って? お願い」
話を切り上げようとする花菜だったが、響がそれを許さない。
響は花菜の身長に合わせて屈むと、上目遣いで小首を傾げてお願いしてきた。
「わぁ、おねだりだぁ。かわいい。正直に言っちゃう。うん、欲しい」
花菜は思考が複雑なのか単純なのか分からないが、簡単に自白した。
「大丈夫だよ、私も欲しいから。お揃いだね」
「体育があった日。もし私が体操着持ってても、あげないよ?」
「なんで?」
「自分の汗臭いのは恥ずかしいよぉ! 響ちゃんのはいい香りなの!」
「花菜だっていい香りだよ!」
「そんなことないもん!」
花菜は真剣に響の体臭を好んでいる。
特に今は夏場で、花菜の理性はよく頑張っていると言える。
だが自分の立場を逆に置き換えると、途端に恥ずかしい。
花菜とて人並にそういったものに気を遣うし、恋人の前では清潔でありたかった。
「まぁ、その点はいいか。直に花菜吸いすれば」
「吸い……⁉ そんな、猫吸いみたいに⁉」
花菜は思わず響の言葉を聞き返してしまった。
「そうだよ、花菜吸い」
二言目だが、どうやら聞き間違えではなかったようだった。
その言葉を響はなにごとも無かったかのように言い切ってくる。
「そっ、そんな名前付けなくても……」
「自分では的確な名称だと思ってるよ」
確かに響と抱きしめ合うと、若干花菜が響の中に収まるようになってしまう。
その際、頭長などに顔を埋めて吸われているのかもしれなかった。
その他にも、響は顔を埋める際は匂いを嗅ぐことへ遠慮がないのに思い至る。
花菜はそこに関しては恥ずかしかったのだが、恋人の好きにさせてしまっていた。
それがこの名称を生んでしまったのだろう。
「大体、花菜も私の香りを間接的じゃなくて直接嗅げばいいのに……」
響が直接体臭をを嗅ぐよう提案してくるが、純粋に花菜に密着されるのを期待してのことかもしれない。
「はっ、恥ずかしいよぉ……」
花菜としては、唯々恥ずかしいのだ。
実際響の全身を隈なく犬のように嗅ぎたいという少々常軌を逸した衝動はあるのだが、羞恥心が勝って行動には移れていない。
花菜の社会性は、羞恥心によって守られている。
花菜とて響と密着すれば、その香りを遠慮なく堪能するタイプではあるのだが。
「大体花菜も密着したら私の匂い吸ってるでしょ?」
「ううっ……」
そして、響からの指摘は図星なので言い返せない。
「香りが好きって言い出したのは、花菜の方なんだから」
響が言っているのは初めてお泊りした際、響のベッドに押し込まれるときに響の香りが好き過ぎるから耐えられないと花菜が救助を懇願したことに対してである。
あのとき、響は助けてくれなかった。
響も花菜の香りが好きだと細かに言っていたのだが、好きだと気付く前なので自覚が無いのだろう。
「このウィンウィンの関係を利用しない手はないよ! 抱きしめ合えば、お互い幸せ!」
「ええっ……ああっ……」
響の魅力的な提案に、花菜も段々とそうなのだという気持ちが強くなってくる。
花菜とて響に抱きしめられるのは、嫌いなわけではないのだから。
むしろ、自分のキャパシティが許すなら永遠にしていて欲しい。
それにこれは恋人からのおねだりでもあるので、こういったものを花菜は許してしまう傾向にある。
「これも花菜が慣れていく一環だと思って、毎日一定以上ハグしようね」
「なんだか、口車に乗せられているような……?」
「気のせいだよ、花菜」
花菜のキャパシティ向上訓練の一環として、毎日のハグが取り入れられてしまった。
今ですら響は付き合う前よりスキンシップが多い。
もちろんのようにハグもしてくる。
その時間が、どうやら増えることになるようだった。
それに、響は帰る際は必ず頬に口付けを落としてくるようになったのだ。
順調に恋人の階段を登っていると言えるのだろうか。
(なんだか、いつか気付いたらとんでもないお願いをされてる気がする……)
花菜は、響からのお願いが徐々にエスカレートしていくのを危惧していた。
気付いたら、花菜は響からのお願いをなんでも叶えているのではないかという懸念。
その点に関して、花菜の意思は若干薄弱であるのを自覚している。
(響ちゃんのお願いが大胆になったら……)
花菜は響が大胆なことをねだってきたときのことを夢想してしまった。
そして、それに応えてしまっている自分。
途端、花菜は一人頬を紅潮させた。
(ダメダメ! 私ったらなにを考えてるの!)
それはいつか訪れるかもしれない未来かもしれない。
だが、今の花菜には少し早いようだった。
花菜は自身の考えを振り払う。
花菜はこのとき一人百面相をしていたのだが、自分では気付いていない。
響は恋人のそれがおかしくて、眺めてはニヤニヤと笑っていた。
花菜がどんなお願いを考えていたかは、皆さんの想像にお任せ致します。




