84 普段は大人しい人で、そんなことをするような人には見えませんでした
花菜はこの日、響が住んでいるマンションの廊下を一人歩いていた。
手には通学鞄の他に買い物用のエコバッグが肩にかけられている。
響との夕飯の食材である。
買い物に寄ったとしても、夏場に徒歩圏の高校生の帰宅時間ということもあり、まだ陽は高い位置にあった。
このフロアにはの周りには似たような学生が居ないのか、今は住人の気配は感じられはしなかった。
響の部屋の前に到着すると花菜はポケットからキーケースを取り出した。
そして、玄関の鍵を開錠する。
そう、響から合鍵を預かっているのである。
響は夏休みも前ということもあり、クラス委員の仕事で忙しくしていた。
そういうこともあり、花菜に合鍵を渡すことになったのであった。
「お邪魔しま~す……」
花菜は初めて家主の居ない恋人の家に入る上で、思わず返事のない挨拶の声を発してしまっていた。
これには理由があり、こうでもしないと緊張でどうにかなってしまいそうだったのである。
いつもであれば明かりが確保されている室内であるが、今は家主が不在であることもあって暗い。
花菜は慣れ親しんだなんとやらで、照明を付けると洗面台で手を洗った。
その後キッチンルームで冷蔵庫に買ってきた食材を仕舞う。
そして、キッチンルームを通り過ぎて部屋への扉を開く。
静まり返った響の部屋が花菜の目の前に飛び込んでくる。
暗いが、花菜にとって今となっては慣れ親しんだ風景。
「ふっ、ふっ……ふーっ……ふーっ……」
花菜の呼吸が若干荒い。
目は爛々として、見開かれていた。
「響ちゃんの香り……響ちゃんの香りぃ……」
花菜は呟きながら、陶酔した顔で息を深く吸い込んでいた。
そして、荷物を置くと一目散にベッドに駆け寄っていく。
枕に顔を付着させないように近付けて、スンスンと鼻を鳴らす。
すると、人には見せられないような顔で花菜は恍惚な笑みを浮かべる。
見るからに幸福物質が溢れ、花菜を満たしているのが分かった。
花菜が響の匂いが好きなのは、自他ともに認めるところである。
実際花菜は、日頃から響の部屋の匂いに関して耐え忍んでいる。
「はぁっ……いい匂いだよぉ……」
花菜はそう言うと、掛け布団をおもむろに捲った。
「ふあぁぁっ……」
新たに広がる香りにブルブルと全身を震わせた。
思わずへたり込みそうになる。
花菜はシーツとマットレスに染み付いているであろう響の匂いも堪能しようと、身を屈めて鼻を近付ける。
「スーッ……ハーッ……スーッ……ハーッ……」
実際はベッドに入って、響の香りに身を包まれていたい。
だが、そんなことをしてしまうとベッドに花菜の匂いが付着してしまう。
花菜と同じくそういったことには敏感な響である。
きっと気付かれてしまうだろう。
そんなことになっては大変だと花菜は思い、ここはグッと我慢する。
そもそもこの状況、我慢できているのか甚だ疑問ではあるのだが。
それに花菜はキャパシティの関係で、ベッドに入るのを拒否していたはずである。
「ああっ、倒れちゃいそう……ハァハァ……」
花菜は息も荒くだらしない顔になりながらも、自身の意識を保つのに必死になっていた。
やはりキャパシティは限界があり、気を抜くと意識が刈り取られてしまうのだろう。
「ハァハァ……響ちゃん……響ちゃん……」
自身の体を抱きしめるようにしながら、花菜は愛しい人の名前を呼んだ。
そして、制服のタイを緩めて襟元の拘束を解放してシャツのボタンを外し始めた。
だが、そこで花菜はハタと気付いたように動きを止める。
「ハッ、私はなにをしようと……?」
先程までとは打って変わって冷静な顔で、自己分析を始める。
だが、響のベッドから顔を離そうとはしない。
「と、取りあえず冷房を入れよう!」
そこで初めて、響のベッドから顔を離した。
先程から部屋の気温は外気と変わらないとは言わないが、かなり暑かった。
花菜は響のベッド脇にあるサイドテーブルに、照明と空調のリモコンが両方ともあるのを暗闇の中でも確認できた。
それらを取って操作する。
部屋が明るくなり、涼しい風が入り込んできた。
相原花菜は少し冷静になった。
暑さが花菜を狂わせていた、という訳では決してないだろう。
この奇行に近い行動に関して、そんなことで言い訳などできない。
「響ちゃん……響ちゃん……」
花菜はなにかに耐えるように恋人の名前を呟きながら片方の手は頭を押さえて、もう片方の手はスカートをギュッと握りしめていた。
日頃響の暴走を止めている常識人ぶった人物の姿は、そこには無かった。
忘れてはならない、相原花菜の理性のボーダーは低いと自身でも見積もられていることに。
前回あっさりって言ったら、もっとあっさりが出てきたってどういうことでしょう。
内容は、濃いからバランスは取れている……?




