第八話
「これはどうするかなぁ」
イチジクの木を見て考える。
父の家の庭に植わっていたものを、家を引き払った際にこちらへ植え直したものだ。
しかし今回は近所に引っ越すというわけではない。いくら何でも京まで持って行くには無理がある。
少し考えて、挿し木にするための枝を何本か切り取って持って行くことにした。
これなら大した荷物にもならないだろう。
ついでに、父の遺作となった刀を腰に差す。
何とか旅装を整えると、馬を引きながら東を目指した。
西へ行くのになぜ東へ向かわねばならないのか、あまり納得はしていないが、天王屋の主人が言っていたのだからそうなのだろう。
なにせ、鍛冶仕事ばかりでまともに旅などしたこともなければ世事にも疎い自分の判断で動こうものなら、きっと酷い目にあうに違いない。
それなら旅慣れて博識な者の助言に従うほうが、よほど信用できるというものだ。
それでなくとも、具足姿の一団がひっきりなしに西へ向かっていくのだ。何か物騒なことが起きているなら避けるに越したことはない。
「確か、もうじき大きな神社が見えるのだったか……」
少し高くなった土地に、神域の森が広がっているのを見つけた。
その縁に沿って歩いて行く。
やがてあまり馴染みのない、雨上がりの田のような、生臭さを含んだ独特の風が鼻をくすぐった。
視界いっぱいに光が広がる。
まぶしさに目を細めてしばらく。
慣れてきたところで目に入ったのは、大きな藍色のゆらめきだった。
「これが海か……」
どこまでも続く水面が、朝の光を受けて白く輝いている。
川ならば見慣れている。だが、対岸が見えない。
思わず足を止めて見入っていると、目的地を同じくする人が次々に追い越していく。
「何をしておられる。船が出ますぞ」
船頭に急かされ、慌てて船へと乗り込んだ。
数日前まで船が出せなかったらしく、かなり混んでいた。
船縁に手を置く。
思っていたよりも厚い。継ぎ目も思った以上にしっかりしている。
海では川よりも強度が求められるのだろうか。
木を組み合わせて、これだけ大きなものを水に浮かべているのは大したものだ。
「……これで京まで行くのか」
「京までは行きませんよ。桑名までです」
「桑名?」
桑名……そういえば今日の宿はそこだったか。
「……ところで、桑名とはどのあたりなのだ?」
「伊勢の入口ですよ」
「伊勢?」
「……旦那、本当に京まで行くんですかい?」
そんなことを話しながら海を眺めていたが、さして時間もかからずにそんな余裕はなくなった。
船に乗る前は、既に秋とはいえ遮るものが何もない船上では、日が高くなると暑いのではないか。
そんなのん気なことを考えていたのだが、まったくそれどころではない。
視界が揺れて、臓腑がねじれる。
いまにも胃の中のものが逆流しそうになるのを必死に堪える。
「大丈夫ですかい?」
「大丈夫だ」
「顔が真っ青ですが」
「……大丈夫だ」
船頭に声をかけられたが、それしか言えない。
やがて小腹が空いたのか、他の乗客が思い思いに握り飯や団子を食べ始めた。
俺も確かに腹は空いたが、何かを飲み込む前に逆流しそうだ、とても食べられたものではない。
隣では顔色ひとつ変えていない馬が秣を食みながら、ぶるるるっと鼻息荒くこちらを見ていた。
「お前は……偉いもんだな」
いまの俺は馬以下だった。
徹夜で砥ぎ仕事をしたときよりも疲弊して、日がだいぶ西に差し掛かったころ、やっと岸が見えてきた。
いや岸自体はずっと見えていたのだが、桟橋が見えるほどの距離に近づいた。
船縁にへばりついていた俺は、着岸してもなかなか動けず、馬に襟を咥えられてようやく立ち上がった。
もはやどちらが主人かわからない。
馬に寄りかかるようにして歩きながら、泊まる予定の宿を探す。
確か、伊勢屋と言ったか。
通りを行くと、困ったことに何軒もあった、伊勢屋が。
「元祖伊勢屋……本家伊勢屋……伊勢本舗……新伊勢屋……伊勢ばかりではないか」
途方に暮れていると、馬が勝手に歩き出す。
慌てて手綱を取るが、止まろうとしない。
そのまま引きずられて行くと、一軒の商屋の前で立ち止まった馬が、得意げに嘶く。
「伊勢屋……?」
無印の伊勢屋があった。
馬の声を聞いてか、中から手代と思しき男が顔を出す。
「どちら様で?」
「天王屋から紹介された者だが……」
紹介状を男に見せる。
「お名前は?」
「加藤清秀と言う」
「ああ、話は伺っております」
案内されながら中へと入ると、
「お食事はいかがなさいます――」
と言いかけたところで、俺の顔を見て
「生姜の湯漬けでも用意致しましょう」
船酔いに効くらしい。
勧められるままに口にする。
生姜の辛味が喉を通ると、冷え切っていた腹の底が少しずつ温まっていくのを感じた。
「……これは効くな」
「明日は朝から出立ですか?」
湯漬けをゆっくり流し込んでいると、手代に予定を訊ねられた。
「……いや、明日は休む」
「それがよろしいかと」
そう言って、伊勢屋の手代は笑った。
ひと心地つくと、いつの間にか勝手に厩へ向かっていた馬から必要な荷を取り返し、早々に横になった。




