32.獣導師のはじまり
ブレーベル王国の王都サードスには、珍しい職業である『獣導師』を生業とする男がいた。
彼は一人の女性騎士と出会い、やがて夫婦となった。
二人の間には、一人の女の子が生まれた。
名前は――『キャリメラ』。
幼い頃から獣と心を通わせ、やがて『獣導師の逸材』と呼ばれるようになった少女。
その始まりは、彼女がまだ十歳にも満たない頃のことだった。
────
私はキャリメラ。獣導師のお父さんと、騎士のお母さんと三人で暮らしていた。
私は昔から、お父さんが吹く笛の音を聴いていた。そして、私も笛を吹いてみたいと言うと、お父さんは遊びのつもりで、優しく吹き方を教えてくれた。
お母さんは騎士として、みんなを守るために働いていた。
お母さんの優しいところも、騎士としてかっこいいところも、私はみんな大好きだった。
でも、お父さんもお母さんも仕事で家を空けることが多く、しばらく帰ってこないこともあった。
そんな時は、少し寂しかった。
そんなある日のこと。
その日も両親は仕事に出ていて、私は昼頃にこっそり家を出た。
王都を出て、東の森へ向かう。
といっても、森の入り口からそれほど離れてはいない。少し後ろへ戻れば、すぐに森から出られるくらいの場所だった。
私は、お父さんが買ってくれた私用の笛を取り出した。
そして、森の中で笛を吹く。
ヒュールル――。
その音色は、お父さんほど上手ではなかった。
それでも、お父さんに教えてもらった旋律で、『獣鎮めの曲』を吹いた。
近くに獣がいるわけではない。
それでもこの曲を吹いたのは、お父さんに教えてもらった曲の中で――私が一番好きだったから。
自然の中で吹いたら、何か特別なものを感じられる。
そんな曖昧な考えだった。
ただ、私は楽しくて笛を吹いていた。
すると――森の中から、茂みが揺れる音が聞こえてきた。それでも、私は笛を吹くのを止めなかった。
お父さんから教えてもらったのだ。獣を鎮めている最中に突然音を止めると、驚いた獣が逃げてしまったり、逆に襲ってきたりすることがある。
だから、最後まで吹き続ける。
笛を吹き続ける私の耳に、獣の足音が届いた。
一歩。
また一歩。
少しずつ、こちらへ近付いてくる。
そして――茂みの中から、一頭の獣が姿を現した。
それは、一メートルを少し超えるくらいの大きさをした、白銀色の獣だった。
犬のような姿をしている。
私は曲を吹き終えると、笛を口から離した。
その子は、しばらく私を見つめていた。
私は、それまで王都にいる馬くらいしか獣を間近で見たことがなかった。森の中にいる獣を初めて目の前にして――その美しさに見惚れてしまった。
「どうしたの?」
「クゥンッ」
その子は、小さく可愛らしい声で鳴いた。
そして、少しだけ頭を下げる。
何をしているのかは分からなかった。
でも、私を襲ってくる様子はない。
私はその子に向かって微笑み、もう一度、同じ曲を吹こうとした。
すると――その子が、私の方へ近付いてきた。
私は少し身をすくめ、身体が震えた。
でも、その子は私の横まで来ると、その場で丸くなって座り込んだ。
驚いた。
でも、怖くはなかった。
「吹いてもいいかな?」
「……」
その子は鳴かなかった。ただ、尻尾をゆっくりと振っていた。私は、それを答えだと思った。
そして、もう一度『獣鎮めの曲』を吹いた。
それからも、私は何度も同じ曲を吹いた。
それでも、その子は私のそばから離れなかった。
やがて夕暮れが始まる前になり、私は王都へ戻ることにした。
森の中で、その子とは別れた。
私は一人で王都へ戻った――つもりだった。
東門まで来たところで、門番の人に呼び止められた。
「待って、お嬢ちゃん」
「うん? どうしたの?」
「お嬢ちゃん、後ろの獣は何だ?」
「後ろ?」
私は振り返った。
「あっ……」
そこには、さっき森の中で出会った白銀色の獣がいた。
「ついてきちゃったの?」
「お嬢ちゃん、悪いけど、その子を王都に入れるわけにはいかないんだよ」
「ごめんなさい。勝手についてきちゃったみたいで……」
私は獣の方を向いた。
「どうしたの? 森にお帰り」
「ワォンッ」
その子は鳴いた。
でも、私から離れようとはしなかった。
どうしようかと困っていると――後ろから聞き慣れた声がした。
「ここにいたのですね、キャリメラ」
「お母さん!」
振り返ると、そこにはお母さんがいた。
「これはノエラ隊長。お疲れ様です」
「ええ。ご苦労様」
お母さんは門番の人に軽く頭を下げ、それから私を見る。
「ところで、キャリメラ。勝手に王都の外へ出てはいけないでしょう?」
「ごめんなさい」
「とはいえ……」
お母さんは少し寂しそうに笑った。
「寂しい思いをさせてしまった私たちもごめんなさい。次からは、どこかへ行くときはちゃんと私たちに言うようにね」
「はい」
お母さんは門番の人に労いの言葉をかけながら、私を叱った。
でも、怖くはなかった。
悪いのは私だから、次から気を付ければいい。それに、叱っている時のお母さんも優しかった。
お母さんは私を叱り終えると、私の後ろへ視線を向けた。
「で……後ろの子は何?」
「ついてきちゃったの。森の中で笛を吹いていたら、ついてきちゃった」
「そうなのね。怪我がなくて良かったけど……」
お母さんは白銀色の獣をじっと見つめる。
「この子……もしかして、月狼じゃないかしら?」
「月狼?」
「希少種の一種よ」
「希少種って、お父さんが言っていた珍しい種類の?」
「そうよ」
お母さんは驚いたように月狼を見る。
「しかも、滅多に会えない子を連れてきたのね」
そして、私へ向き直った。
「キャリメラ。この子の頭を撫でてあげて」
「いいの?」
「ええ。何かあったら、お母さんが守るから」
私はお母さんの言葉を信じて、月狼の頭へそっと手を伸ばした。
そして、その頭を優しく撫でる。
すると――月狼は嬉しそうに私の手へ頭を擦り寄せてきた。
私は思わず笑顔になる。
それを見たお母さんもクスッと笑った。
「うん。分かったわ」
お母さんは門番の人へ向き直る。
「この子、私の娘が預かります。手続きをお願いします」
「ちょっと待ってください」
門番の人が慌てて止める。
「そちらは希少種でしょう? そんなことをすれば違法となり、私はあなた方を捕まえなくてはいけません」
「そうですね」
お母さんは冷静に答えた。
「ですが、このままではこの子は娘についてくると思います」
「それは……」
「一時的に保護する、という形ではどうでしょう?」
お母さんは月狼を見る。
「私の夫は獣導師です。獣を傷つけるようなことはありません」
「しかし……」
「騎士団長を通じて、国王陛下にもこのことをお伝えします」
お母さんは門番の人へ優しく微笑む。
「これで通しても、私たちが無理に行ったことで、あなたに非はありません」
「……分かりました」
門番の人は少し考えたあと、頷いた。
「では、希少種の保護ということで、私からも事情をお伝えしておきます」
「ありがとうございます」
こうして、お母さんの説得もあり、月狼は私たちと一緒に家へ帰ることになった。
王都を歩いている間、周囲の人たちは月狼へ視線を向けていた。
遠目から見れば、美しい大きな犬にも見える。珍しい姿をしているから、つい目に入ってしまうのだろう。
その日の夜、私たちは家で一夜を過ごした。
そして翌日。
私と月狼、お母さんの三人で王城へ向かった。
門番の人から事情を聞いていたこともあり、私たちはすぐに中へ通され、そのまま謁見の間へ呼ばれた。
────
「国王陛下。お騒がせしてしまったこと、誠に申し訳ございません。慚愧に堪えない限りです」
お母さんは膝をつき、頭を下げている。
私も、お母さんと同じようにしゃがみ込んだ。
そして、国王陛下が口を開いた。
「よい。話は聞かせてもらっている」
国王陛下は、私の隣にいる月狼へ視線を向ける。
「そこにいる月狼を、その子と共に暮らしたいのだったな?」
「……はい。おっしゃるとおりでございます」
お母さんが答える。
その答えを聞き、国王陛下は少し考え込んだ。
「貴女の夫は獣導師とはいえ、希少種を一個人の家庭で保護するのは少々難しい問題だな。どうしたものか……」
国としても、一個人だけを特別扱いするわけにはいかない。
希少種の保護という大義があるとはいえ、国民の間に不公平を生む可能性もある。
そんな中――国王陛下に仕えていた側近の一人が口を開いた。
「陛下。一つ、案を申し上げてもよろしいでしょうか?」
「……聞こうか、宰相」
「彼女――キャリメラ殿が、獣導師になられればよろしいのではないでしょうか」
その言葉に、謁見の間が静まり返った。
お母さんも、国王陛下も、驚いた顔をしている。
だが、宰相――パートルは話を続けた。
「キャリメラ殿の父君を特別扱いするわけにはいかないのであれば、キャリメラ殿自身が獣導師となり、正式に活動すればよいのです」
パートル宰相は月狼を見る。
「そうすれば、この子についても、希少種の保護および管理という形で扱うことができます」
そして、私へ視線を向ける。
「もっとも、これはキャリメラ殿に獣導師になることを求める話でもあります。ですから、最終的には本人の意思を尊重すべきかと思います」
宰相の意見は、とても分かりやすかった。
たしかに、私が獣導師になれば、この子と一緒に暮らせる。
でも――
獣導師になるかどうかなんて、もう決まっていた。
昨日の森で笛を吹いた時から。
「なるほど。宰相の意見は分かった」
国王陛下は私を見る。
「では、キャリメラよ。一つ聞こう」
「あっ、はい……」
「そなたは、獣導師になるか?」
「なります」
私は即答した。
「良いのか?」
「はい」
私は月狼を見る。
「私は昨日、森で笛を吹きました」
そして、昨日のことを思い出す。
「この子と一緒にいる時間が、とても楽しかったんです」
私の口から、言葉が次々と出てくる。
「獣たちと触れ合うことも楽しい。そんな彼らと一緒にいる時間が、私は欲しいんです」
その言葉に、嘘はなかった。ただ自分が思ったことを、真っ直ぐに伝えただけだった。
国王陛下は少し驚いた顔をしていた。
だが――
「ハッハッハッハッ!」
やがて、大きな笑い声を上げた。
「そうか、そうか。そなたの気持ちは分かった」
そして、国王陛下はお母さんへ視線を向ける。
「ノエラ殿。いかがかな?」
「はっ」
お母さんは頭を下げた。
「娘が自分で決めたことです。私は口出しするつもりはありません」
「よし」
国王陛下は頷いた。
「では、キャリメラよ。そなたを獣導師と認め、月狼を保護し、共に暮らすことを認める」
「ありがとうございます、国王陛下!」
それから、宰相が用意した書類に私の名前を書いた。
こうして私は、正式に獣導師となり――月狼を家族として迎え入れることになった。
私たちは謁見の間を出て、家へ帰っていく。
その道中、お母さんが私へ声をかけた。
「キャリメラ、本当に獣導師になるんだね」
「うん」
「そう」
お母さんは優しく笑った。
「大変でしょうけど、頑張ってね」
「うん。ありがとう、お母さん」
そんな会話をしていると、月狼が私の身体へ頭を擦り寄せてきた。
まるで、これからも一緒にいられることが嬉しいと言っているようだった。
「私も嬉しいよ」
私は月狼を見つめる。
「――ルナ」
「ワォン」
「その子の名前? いつ、つけたの?」
「今」
私は笑顔で答える。
「一緒に暮らせるって決まったから。これからずっと一緒なんだもん」
「そう。いい名前ね」
お母さんは月狼の頭を優しく撫でる。
「これからもよろしくね、ルナ」
「ワォン」
私たち三人は、仲良く家へ帰っていった。
家に着くと、お父さんにも今回のことを話した。
お父さんはとても驚いていた。
でも、それ以上に――私が獣導師になることを、とても喜んでくれた。
それから私は、お父さんから獣導師になるための特訓をひたすら教えてもらった。
森へ出れば、ノクスをはじめ、いろいろな獣たちが私に懐いてくれた。
そして、少しずつ仲間も増えていった。
あの日、森で出会った一頭の月狼。
その出会いが、私の人生を大きく変えていった。
────
「そして、今に至るの。どうだった?」
「ハハハッ。キャリメラも、ついこの間の俺みたいなことをしたんだね」
俺は隣にいるルナを見る。
「ルナも良かったな」
「ワォォン」
ルナが嬉しそうに鳴いた。
ルナとの出会いをきっかけに獣導師となったキャリメラ。
その話を聞いて、俺はかっこいいと思った。
それと同時に――どこか親近感も湧いた。
俺も、ついこの間まで自分の人生とはまったく違う道へ進むなんて、考えもしなかったのだから。
そんな俺に、ノエラさんが笑いながら声をかける。
「フフッ。だからこそ、あなたと仲間になったと聞いた時は、ルナのことを思い出しちゃったわ」
「俺は珍獣じゃないですよ」
「あら、そうね」
ノエラさんはクスクスと笑う。
「でも、あなたも凄い子よ」
そして、少し興味深そうに俺を見る。
「ねぇ。私もあなたのことを聞きたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ええ、話したいのは山々ですが……」
俺は空を見上げる。
もう夜もかなり深くなっている。
「もう夜も遅くなっていますので、自分は眠ろうかと思います」
そして、ノエラさんへ向き直った。
「ですので、朝になりましたら、俺が料理を作ります。その時にお話ししましょう」
「あら。料理を作ってくれるの? それは嬉しいわ」
ノエラさんは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、その時に話を聞かせてね」
「はい。ぜひ」
そうして、俺はルナの背中に寝そべった。
夜の森を進むルナの背中から伝わってくる温もりが――なぜか、とても心地よかった。




