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十八年前の赤子の取り違え——婚約破棄された「養女」が、公爵家のただ一人の正統な令嬢だと判明した日  作者: 歩人


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第9話: 廃院を継ぐ

 朝の最初の冷えは、いつも指の節から来た。


 メリルは藁の上で目を覚まし、まず右の手のひらを裏返した。指の節のあたりにひと粒だけ硬い冷えがある。


 冷えは藁の下の床のものではなかった。


 奥の竈の跡から、昨夜の薪の最後のひと粒がもう温度を返さなくなっている――その引き際の冷えだった。


 メリルは身を起こした。


 起こした肩の上に、毛布がひと枚、襟元まで深く折り込まれている。


 自分で折った折り方ではなかった。


「メリルさま」


 奥の竈のほうで、ニーナの声がした。


「お目覚めで」


「……起きたわ」


「お肩の合わせ目、ジレスさんのおっしゃった折り方で、夜のうちに直しておきました」


「ありがとう。道理で、ゆうべより冷えがゆるんでいたわ」


「お冷えは、ふた指ぶんはゆるみましたでしょうか」


「ええ、ちょうどそれくらい」


「ようございました」


 ニーナの声はもう湿っていなかった。乾いていた。乾いた声の中に、初めての辺境の朝の、少しだけ早起きの誇らしさがひと粒混じっている。




 竈の前。


 ニーナは灰の中から、昨夜の薪の燃え残りの炭をひと粒ずつ拾い起こしていた。


「メリルさま、お竈の灰起こしは、お屋敷のときの倍お時間がかかります」


「倍も」


 メリルは灰の山に目を落とした。


「十八年お眠りになった灰は、いちばん下のほうがお湿りになっておりますから。お湿りの灰は、火をお返しになりませぬ」


「乾いた灰を上に、ね」


「ええ。乾いたのを上に、お湿りのを下に。そう、お師さま――いえ、メリルさまにお教わったとおりに」


 ニーナの指は灰の中で淀みなく動いた。


 あかぎれの目立つ手だった。


 その手が、湿った灰と乾いた灰を迷わず別の山に分けていく。


「お上手」


「メリルさまのほうが、ずっとお上手です」


「いいえ。あなたの灰起こしは、いつのまにか、わたしより速くなったわ」


「……そんな」


「ほんとうよ」


 ニーナは鼻先を赤くしたまま、ふっと俯いた。


 俯いた首筋のあたりに、褒められ慣れない子の薄い熱がひと粒立った。




 日の差し始めた院の中は、夜よりも廃れているのがよく見えた。


 壁の漆喰はあちこちが剥げて、下の灰色の木舞が覗いていた。


 梁の隅には十八年ぶんの蜘蛛の巣が、もう蜘蛛の去ったあとの形だけで薄く垂れていた。


 床の藁は、入口の付近で藁の形を失い、灰色の塊になっている。


 その塊の上に、朝の光がひと筋、斜めに落ちていた。


 光の中で、塊の縁の灰色の埃がふた指ぶんゆっくり舞った。


「メリルさま」


 ニーナが箒を片手に、入口のほうを見ていた。


「どこから、お掃きいたしましょう」


「いちばん奥から。奥から戸口のほうへ、埃を外へ追い出すように」


「お外へ」


「ええ。戸口の雪のほうへ、ひと掃きずつ」


「かしこまりました」


「藁の灰色の塊は踏まずに、箒の先で寄せてね。いちどに掃かないで、ひと撫でずつ」


「ひと撫でずつ、で」


 ニーナは箒を奥の壁の下に運んだ。


 運んだ箒の柄を、ふた指ぶん短く持ち直した。


 短く持つほうが、ひと撫での加減が利く。


 それも、屋敷の治療院でメリルが教えたことだった。




 メリルは薬棚の前に立った。


 昨夜は灯火の薄さの中で輪郭しか見えなかった棚が、朝の光の中で十八年ぶんの埃を全部見せていた。


 上段。


 中段。


 下段。


 いちばん下の引き出しは、半分だけ開いたまま、十八年、止まっていた。


 止まった引き出しの口の縁に、メリルは指の腹をひと度当てた。


 当てた指の下で、木の縁は乾いていた。


 乾いた縁の上に、ふだんの治療院の薬棚にはないひと粒の冷えがあった。


 冷えの名を、メリルはまだ呼ばない。


 呼ばないままで、メリルは引き出しをふっと奥まで開けた。


 開いた引き出しの中は、空だった。


 空の底の木目に、ひと筋だけ、何かを擂った痕のような薄い擦れがあった。


 擂り粉木の底の、円い擦れだった。


 その円い擦れの幅は、メリルが屋敷の治療院で十八年、擂り粉木を回してきた手の回し幅とちょうど同じ幅だった。


 同じ幅を、メリルの指の腹は空の引き出しの底でひと度なぞった。


 なぞった指の下で、引き出しの底の擦れはメリルの回し幅のまま薄く納まった。


 納まった幅の上に、メリルはまだ自分の手の癖を重ねない。


 重ねないまま、引き出しをふっとひと指ぶん閉じた。




「メリルさま」


 奥のほうから、ニーナが箒を止めて振り返った。


「お薬の棚は、お拭きいたしましょうか」


「お先に空拭きで。お水はまだ。乾いた布で、上の段から」


「上の段は、爪先で」


「ええ。あなたの爪先で、お一段ずつ」


「お一人で、ようございますのに」


「ふたりがよいの」


「……はい、メリルさま」


 ニーナは布を手に、薬棚の前に来た。


 来てから、爪先をひと指立てた。


 立てた爪先の上で、上段の和紙の角にニーナの布がふっと薄く触れた。


 触れた布の下で、十八年ぶんの埃がひと指ぶん、はらりと舞い落ちた。


 舞い落ちた埃の下に、和紙の角の凹みがひと粒、薄く顔を出した。


「メリルさま、この和紙の角に、お凹みが」


「……ええ」


「指で、お押しになったような。ふだんの薬棚の和紙に、こういうお凹みはございませんでしたね」


「……そうね」


「どなたが、お押しになったのでしょう」


 メリルは、ニーナの隣で、ひと拍、唇を保った。


「……わからないの」


「お師さまでも」


「わたしにも、わからない」


「……不思議でございますね」


「ええ、ほんとうに」


 メリルは爪先を立てた。


 立てた指の腹を、ニーナの布のすぐ隣の和紙の角の凹みの上にふっと薄く重ねた。


 重ねた指の下で、凹みの幅はメリルの指の腹の細い節の幅と、昨夜と同じくちょうど同じだった。


 同じだったことを、メリルはもう一度確かめた。


 確かめるたびに、腑に落ちなかった。


 腑に落ちないことの薄さの中で、メリルは指の腹を凹みの上でひと度だけゆっくり止めた。




 戸口の外で、雪を踏む音がした。


 馬の蹄を、藁の縄ごと雪に沈める音だった。


「メリルさま、ジレスさんが」


 ニーナが布を持ったまま、戸口のほうを見た。


「お発ちの、お支度で」


「……そうね」


 メリルは指の腹を、和紙の角の凹みの上からひと指ぶん離した。


 離した指の腹の冷えの上に、戸口から流れ込んだ朝の雪の冷えがひと粒重なった。


 重なった冷えの中で、メリルは戸口のほうへふた歩歩いた。




 軒の下。


 ジレスは馬車の幌の毛皮を、もう北辺路の風の向きとは逆に巻き直していた。


 帰りの風の向きに、合わせている。


「メリルさま」


「ジレスさん」


「お発ち、いたします」


「……ええ」


「お屋敷まで、五日。雪が深ければ、六日で」


「六日も」


「帰りは荷が軽うございますから、ひと日縮むかもしれませぬ」


「お気をつけて」


「お礼は、お受けいたしませぬ」


「……ジレスさん。お礼を、お受けにならないの」


「お礼は、軒の下にお置きになって、ようございます」


「軒の下に」


「ええ。ハーロウの軒の下の、十年このかたの作法でございます」


 ジレスは幌の縁をひと度雪の上で叩いて、毛皮の粉を落とした。


 落とした粉の上に、朝の光がひと筋落ちた。


「メリルさま。お薪は、奥の右の壁のあたりに、ひと冬ぶんお運びいたしておきました」


「……ひと冬ぶん」


「お一人とお一人でお焚きになるなら、ひと冬はもちまする」


「……ジレスさん、それは」


「お屋敷から、お積みになった分ではございませぬ」


「……」


「町の本通りのいちばん奥で、薪を背に立っておられたあのお方から」


「あの、お方」


「お名はまだぞんじませぬ。ただ、軒の下にひと冬ぶんを、お置きになりました」


「……どうして」


「お聞きいたしませんでした」


「お聞きしないで」


「ええ。お聞きしないでよろしいことが、北辺にはふだんよりひと指ぶん多いそうでございますから」


 ジレスはひと礼を薄く落とした。


 落とした礼の角度のいちばん下のところに、屋敷の御者台では見たことのない種類の温度がひと粒乗っていた。




 ジレスは御者台に、片足をかけた。


 かけてから、ふと、もう片方の足をひと拍、止めた。


「メリルさま。ひとつだけ、お訊ねしても」


「お訊ねは、お聞きします」


「お屋敷へ、お言伝ことづては」


 メリルは、ひと拍、唇を保った。


 保った唇の奥で、屋敷の侍女頭の、襟元の桔梗を深く隠してくださった指の折り方がふっと立ちのぼった。


 立ちのぼった折り方の上に、お義父さまの降りてこなかった「ル」の音が薄く重なった。


「……いいえ」


「お言伝は、ございませぬ、と」


「ええ、そう伝えてください」


「……承りました」


「ジレスさん。ただ」


「ただ」


「……お屋敷の戸口の桟に、桔梗が、まだ薄く立っているはずなの」


「桔梗が」


「ええ。誰のためでもなく。もし、お通りになることがありましたら」


「お通りに」


「その桟の桔梗を、ひと度お払いにならないで、いてくださると」


「……お払いにならず」


「立っているままに」


「……承りました、メリルさま」


「言伝では、ないの」


「言伝では、ございませぬ」


「ええ。ただの、桔梗のことなの」


「……ただの、桔梗のこと」


 ジレスはもう、お訊きにならなかった。


 お訊きにならない代わりに、御者台に座り直して、手綱をひと度半分の高さで上げた。


 会釈には届かない上げ方だった。


 ただ、こちらに気づいたと知らせるだけの上げ方だった。


 北辺の、別れの作法だった。


 メリルも、手を半分の高さでひと度上げた。


 屋敷では十八年、誰にもこうして手を上げたことがなかった。


 半分の高さ。


 会釈には届かない。


 ただ、こちらも気づいていると返すだけの高さ。


 返した手のひらの冷えの上に、朝の雪のひと粒が薄く落ちて、すぐに溶けた。


「メリルさま」


 ニーナが、戸口の内側からふっと顔を出した。


「ジレスさんに、わたしも」


「ええ、お上げなさい」


 ニーナは、布を持ったままの手を半分の高さでひと度上げた。


 上げた手のひらの先で、ジレスの手綱がもうひと度半分の高さで返った。


 返ったあとで、馬車は坂の半町をゆっくり下り始めた。


 馬の蹄が藁の縄ごと雪を踏みしだく音が、坂の下のほうへひと足ずつ薄くなっていった。


 下り始めた幌の背が、松林の縁の影の中にひと指ぶんずつ薄くなっていった。


 薄くなった分だけ、公爵領への――屋敷への最後のひと筋の糸が坂の下のほうへ薄く引かれていった。


 引かれた糸の先を、メリルは坂の途中の松の影の中まで目で追った。


 追った先で、幌の背はもう見えなくなっていた。


「メリルさま」


「……ええ」


「お見えに、ならなくなりました」


「ええ、見えなくなったわね」


「お寂しゅう、ございますか」


 メリルは、ひと拍、唇を保った。


「……どうかしら。肩のあたりが、ね」


「お肩が」


「ええ。何も乗っていないの」


「……お毛布は、お乗りになっておりますのに」


「ふふ。毛布のことではないの」


 ふふ、の音は、屋敷の上段の間では出てこなかった音だった。


 いま、辺境の軒の下で、ひと粒戻ってきた。


 戻ってきた音の上で、メリルは軒の下から院の中へひと歩戻った。




 院の中。


 奥の壁の右のあたりに、薪がひと冬ぶん積まれていた。


 昨夜は灯火の薄さの中で、ジレスが運んだひと束しか見えていなかった。


 朝の光の中で、いまその奥に、ひと冬ぶんの薪が肩の高さまできちんと積まれているのが見えた。


 積み方は、屋敷の薪小屋の積み方ではなかった。


 いちばん下のひと段が、地から半指ぶん浮かせて組まれている。


 雪の湿りが、下から薪に上ってこないように。


 北辺の、薪の積み方だった。


「メリルさま」


 ニーナが薪の前に立って、目をひと粒見開いた。


「これ、なんでしょう」


「……薪よ」


「ひと束では、ございませんね」


「ずいぶんと、ね」


「ひと冬、ぶん」


「そうみたい」


「……あの、薪を背に立っておられたお方が」


「ジレスさんは、そうおっしゃったわ」


「お顔も、お名もぞんじませんのに、どうして、こんなに」


「……それは」


「お聞きしないで、よろしいこと、でしょうか」


 メリルは、薪の積み方のいちばん下のひと段の半指ぶんの浮きを指の腹でひと度撫でた。


 撫でた指の腹に、薪の樹皮の粗さと、雪に近い下段の冷えが返ってきた。


「……いまは、お聞きしないでおきましょう。いつか、お礼をお返しできるときに、お聞きしましょう」


「お返しできるとき」


「ええ。わたしたちの手が、この院で、何かひとつでもお返しできるようになったときに」


「……はい、メリルさま」


 ニーナは、薪のいちばん下の段の浮きを、メリルの真似をして指の腹でひと度撫でた。


 撫でたあかぎれの指の先が、薪の樹皮の冷えの上でひと粒薄く赤くなった。




 昼に近づくころ。


 院の床は、入口の付近を残して半ばまで掃き清められていた。


 灰色の埃は、戸口の雪のほうへひと撫でずつ追い出されていった。


 追い出された埃の上に雪が薄く積もって、灰色を白に戻していった。


 掃き清められた床の上に、いま樫の床板の木目が十八年ぶりに顔を出していた。


 木目は灰色がかっていた。


 灰色の木目の上を、メリルは布を片手に四つん這いでひと撫でずつ拭いていった。


 拭いた木目の下から、もとの樫の薄い飴色がふた指ぶんずつ戻ってきた。


「メリルさま」


 ニーナが、向かいから同じように四つん這いで布を動かしていた。


「お屋敷の治療院の床より」


「なあに」


「お板が、ひと指ぶん、お厚うございます」


「厚い」


「北辺はお床が厚くないと、下からお冷えが上ってまいりますから」


「あなた、いつのまに、そんなことを」


「……ジレスさんに、道々お教わりました。五日も、御者台のお隣でしたから」


「ふふ。あなた、ずいぶんお訊きしたのね」


「……お聞きしてよろしいことは、お聞きしました。お聞きしないでよろしいことは、お聞きしませんでした」


「ふふ」


 メリルは、布を動かす手をひと拍止めた。


 止めた手のひらの下で、樫の床板の飴色がひと撫でぶん戻っていた。


 戻った飴色の上に、昼の光がひと筋薄く落ちた。


 落ちた光の中で、メリルはふと思った。


 この床を、十八年、誰も拭かなかった。


 拭かなかった十八年の埃の下に、樫の飴色はずっと待っていた。


 待っていた飴色を、いま、自分の手がひと撫でずつ起こしている。


 起こしている――その手応えを、メリルはいちばん深いところで初めて自分の手のひらで量った。


 量った手応えは、軽くも重くもなかった。


 ただ、これは自分の手が起こしているのだという、ひと匙ぶんの手応えだった。


 屋敷の治療院では、いつも誰かからお預かりした床だった。


 いつお返ししなければならないか、わからない床だった。


 この床は、ちがった。


 お返しする先が、もうどこにもなかった。


 お返しする先のない床を、自分の手でひと撫でずつ起こしていく。


 その手応えのことを、メリルはまだなんと呼べばよいのかわからなかった。


 わからないまま、メリルは布をもうひと撫で前へ運んだ。




「メリルさま」


 ニーナが布を止めて、メリルの手元を見ていた。


「お手が」


「なあに」


「お手が、いつもよりゆっくりになっておられます」


「……そう」


「お疲れに、なられましたか」


「いいえ」


「お湯を、温め直しましょうか」


「いいえ。疲れたのではないの」


「では」


 メリルは、布の上の手のひらをひと度裏返した。


 裏返した手のひらの上に、樫の床の飴色の温度がひと粒薄く残っていた。


「……このお床がね」


「お床が」


「わたしの手で、起きてくるのが」


「お起きに」


「少し、不思議で」


「不思議」


「自分の手で何かを起こしていることが、十八年なかったから」


「……十八年」


「ええ。誰かのお預かりではなく、ね」


 ニーナはひと拍、布を持ったまま黙った。


 黙ったあとで、ニーナは自分の手のひらをひと度裏返した。


「メリルさま。わたしの手も」


「あなたの手が、どうかして」


「お床を、起こしておりますでしょうか」


「ええ、起こしているわ」


「……わたしの手で」


「あなたの手で。ふたりの手で、起こしているの」


 ニーナはもう、何も訊かなかった。


 訊かない代わりに、自分の布をもうひと撫で前へ運んだ。


 運んだ布の下から、樫の飴色がふた指ぶん戻ってきた。


 戻ってきた飴色は、メリルの拭いた飴色と同じ飴色だった。




 昼を過ぎて、院の床は入口の付近の藁の灰色の塊を残して、ほとんど掃き清められた。


 掃き清められた床の上に、薬棚と竈の跡と奥の薪の山が、いまそれぞれの輪郭で立っていた。


 立った輪郭の上に、午後の光が戸口からひと筋斜めに差し込んでいた。


 差し込んだ光の中で、まだ拭ききっていない梁の隅の蜘蛛の巣の名残がひと指ぶん薄く揺れた。


「メリルさま」


「なあに」


「お竈に、火を。お入れいたしましょうか」


「ええ、ひと束お入れしましょう。お湯をひと汲み温めるだけの、ひと束で」


「ひと束で」


「それで、足りるわ」


 ニーナは、奥の薪の山から薪をひと束抱えてきた。


 抱えてきた薪の樹皮の冷えの上に、ニーナのあかぎれの指の先の赤さがひと粒薄く乗った。


 ニーナは、竈の跡の前に薪をひと束組んだ。


 組み方は、屋敷の竈の組み方ではなかった。


 いちばん下に、細い薪を井桁いげたに。


 その上に、太い薪をひと組。


 北辺の、湿った冬の、火の組み方だった。


「あなた、それも」


「……ジレスさんに、道々」


「道々ね」


「井桁に組むと、お湿りの薪でも下から風が抜けますから。お風が抜けると、お湿りでも火がお回りになります」


「……お上手」


「メリルさまのほうが」


「いいえ。この火の組み方は、わたし、知らなかったわ」


「……ほんとうに」


「ほんとうよ。あなたが、わたしに教えてくれたの」


「……わたしが、メリルさまに」


「ええ。今日が、はじめて」


「……うれしゅう、ございます」


 ニーナは、鼻先をもうひと粒、赤くした。


 赤くした鼻先の下で、ニーナは火打ちの石をひと度、打った。


 打った火花が、井桁の下の、いちばん細い薪の端にひと粒、落ちた。


 落ちた火花はひと拍消えかけて、ふた拍目でふっと薄いだいだいに立ち上がった。




 火が、井桁の下からゆっくり回り始めた。


 回った火の上に、ニーナは太い薪のひと組を、もうひと度組み直した。


 組み直した薪の隙間から、火の橙がひと指ぶんずつ、上のほうへ上っていった。


 上った火の橙の光が、院の奥の壁の灰色の漆喰の上にふっと薄く、揺れて映った。


 映った橙の中で、十八年の冷えがふと、奥のほうからひと指ぶん後ろへ退いた。


「メリルさま」


「……ええ」


「あったかく、なってまいりました」


「ほんとうね」


「お竈が、十八年ぶりに。お眠りから、お覚ましになりました」


「お覚まし」


「ええ。ジレスさんの、お言葉で」


「ジレスさんの、お言葉ね」


「ええ。あのお言葉が、ほんとうになりました」


 メリルは、竈の前にひと膝ついた。


 ついた膝の上で、両の手のひらを火の橙のほうへ薄く向けた。


 向けた手のひらの上に、十八年ぶりの竈の火の温度が、ひと粒ずつ薄く戻ってきた。


 戻ってきた温度を、メリルの指の腹は、いちばん奥のほうでひと度量った。


 量った温度は、屋敷の治療院の竈の温度より、ふた指ぶん薄かった。


 薄かったのは、薪が湿っているからだった。


 けれど、その薄い温度の中に、屋敷の竈の温度にはなかった、ひと粒の別の手応えが混じっていた。


 誰かのお預かりの竈ではなく。


 自分たちの手で起こした竈だった。


「……あたたかいわね」


「ええ、メリルさま」


「薄いけれど」


「お薄うございますか」


「ええ。でも、自分たちで起こした薄さなの」


「……自分たちで」


「だから、薄くても、あたたかいの」


「……はい、メリルさま」


 ニーナは、メリルの隣にひと膝ついた。


 ついた膝の上で、ニーナも両の手のひらを火のほうへ向けた。


 向けたあかぎれの手のひらの上に、薄い橙の温度がひと粒ずつ薄く戻ってきた。


 戻ってきた温度を、ニーナはひと度、自分の頬のほうへ運んだ。


 運んだ温度の上で、ニーナの鼻先の赤さがふた指ぶん、ゆるんだ。




 火をひと束ぶん焚いたあとで。


 メリルは、薬棚の前にもう一度立った。


 午後の光と竈の火の橙が、薬棚の上段の和紙の角の凹みの上に、薄く重なって落ちていた。


 メリルは、爪先をひと指立てた。


 立てた指の腹を、上段の和紙の角の凹みの上にふっと薄く重ねた。


 重ねた指の下で、凹みの幅はメリルの指の腹の細い節の幅と、また同じだった。


 同じであることに、メリルはもう驚かなかった。


 驚かないまま、ただ不思議だった。


 誰の指が、十八年前、この和紙の角を押したのだろう。


 その指は、どうして、わたしの指の細い節の幅と同じ幅だったのだろう。


 わたしは、この院に、十八年前いなかったのに。


 いなかったのに、この凹みは、わたしの指の腹を待っていたように納まる。


 腑に落ちなかった。


 腑に落ちないことの薄さの中で、メリルは指の腹を凹みの上でひと度、ゆっくり止めた。


 止めた指の腹の下で、薬棚の十八年の眠りがふっとひと指ぶん解かれかけた。


 解かれかけた眠りの上に、メリルはふと唇を薄く開いた。


「……痛いのは」


「メリルさま」


 ニーナが、竈の前からふっと顔を上げた。


「……ちゃんと」


「……」


「……治っていく、証です」


 言ってから、メリルは爪先をひと指ゆっくり降ろした。


 降ろした爪先の下に、いま掃き清めたばかりの樫の床板の飴色があった。


 その飴色の上に、十八年このかた病者の床の端で置いてきた言葉が、まだ誰も病者のいない廃院の床の上で薄く乗っていた。


「メリルさま」


「ええ」


「いまのお言葉、いつものお病者のお床のお言葉ですね」


「……そうね」


「ここにはお病者がまだおられませぬのに。どなたにお置きになられましたか」


 メリルは、ひと拍、唇を保った。


 保った唇の奥で、昨夜、まだ「どなたに」を決めかねていた、あのひと粒がふっと薄く動いた。


「……この院に」


「この院に」


「ええ。十八年、お眠りになった、この院に」


「……お院は、お痛みに、なりますでしょうか」


「ええ。きっと、痛むの」


「お院が」


「十八年、誰にも起こされなかったのですもの」


「……痛む」


「だから、こうお置きするの」


 メリルは、薬棚の上段の和紙の角の凹みの上を、もう一度指の腹でひと度撫でた。


「……痛いのは、ちゃんと、治っていく証です、と」


「……お院に、お置きに」


「ええ。お院と、それから」


「それから」


「あなたと、わたしに」


「……わたしと、メリルさまに」


「三つに、お置きするの。お院と、あなたと、わたしと」


 ニーナはもう、何も訊かなかった。


 訊かない代わりに、ニーナは竈の火のほうへひと度向き直った。


 向き直った首筋のあたりに、いま薄い熱がひと粒立っていた。


 褒められ慣れない子の熱ではなかった。


 誰かと、同じ言葉を分け合った子の、薄い熱だった。




 夕。


 戸口の外の雪は、午後のうちにひと指ぶんゆるんでいた。


 ゆるんだ雪の上に、夕の薄いあいの光がひと度落ちた。


 院の中は、竈のひと束ぶんの火の橙で、奥の壁のあたりまで薄くあたたまっていた。


 あたたまった院の中に、薬棚と竈と薪の山と掃き清められた樫の床、それから入口の付近に残った藁の灰色の塊が、いまそれぞれの輪郭で、夕の藍と橙のあいだに立っていた。


「メリルさま」


「なあに」


「今夜の、お床は」


「奥の壁の下に。新しい藁をひと束お敷きに」


「お敷きいたします」


「火の、いちばん近いところにね」


「お火の、近くに」


「ええ。あなたは、寒がりですもの」


「……わたし、そんなに」


「鼻先が、いつも赤いわ」


「……それは」


「ふふ。火の近くで、お休みなさい」


「……メリルさまは」


「わたしは、その隣で」


「お隣で」


「ええ。ふたりで」


「……ふたりで」


「ふたりがよいの」


 ニーナは、奥の薪の山の脇から新しい藁をひと束運んできた。


 運んできた藁を、火のいちばん近い奥の壁の下にふた重ね、薄く敷いた。


 敷いた藁の上に、火の橙の光がひと筋薄く落ちた。


 落ちた光の中で、藁の繊維の、まだ藁の形を持った新しい黄色がふた指ぶん立った。


 入口の付近の藁の形を失った灰色の塊と、奥の壁の下の藁の形を持った黄色の藁が、いまひとつの院の中で向かい合って立っていた。


 十八年の灰色と、今夜の黄色が。


 その向かい合いの真ん中に、掃き清められた樫の床板の飴色が、夕の藍と火の橙のあいだで薄く横たわっていた。




 夜。


 火をひと束ぶん焚き終えたあとで、メリルとニーナは奥の壁の下の藁の上に、毛布を分けて横になった。


 火の橙は、もういちばん下のひと粒のおきのほうへ退いていた。


 退いた火の上に、夜の冷えが奥の壁のほうからひと指ぶんずつ戻ってこようとしていた。


「メリルさま」


「なあに」


「わたし」


「うん」


「ここまで、付いてきて」


「ええ」


「よかったです」


「……」


「……寒いですけど」


「ふふ」


「メリルさま、お笑いに、なられました」


「ええ、笑ったわ」


「お屋敷では、あまり」


「……ええ。屋敷では、あまり笑わなかったわね」


「ここでは」


「ここでは、ね」


「お笑いに、なられます」


「……そうみたい。ここの空気は、肩が軽くなるみたい」


「ようございました」


 ニーナの声は、もう湿っていなかった。


 乾いていた。


 乾いた声の中に、火のいちばん近いところの、薄いあたたかさがひと粒混じっていた。


 混じったあたたかさの上で、ニーナの息はふた呼吸のうちにゆっくり深くなった。


 深くなった息の隣で、メリルは藁の上で右の手のひらをひと度裏返した。


 裏返した手のひらの上に、いまはもう屋敷の毛皮の冷えも、上段の間の絹の敷物の縁の毛羽の冷えもなかった。


 代わりに、掃き清めた樫の床の飴色の温度と、十八年ぶりの竈の火の薄い橙の温度、それからニーナの隣の薄い子供の寝息の温度が、ひと粒ずつ薄く残っていた。


 残った温度を、メリルの指の腹はいちばん奥のほうでひと度量った。


 量った温度は薄かった。


 けれど、その薄さは、自分たちの手で起こした薄さだった。


 起こした薄さの上で、メリルはふと目を薄く開いた。




 戸口の外で、雪を踏む音がひと粒した。


 馬の蹄ではなかった。


 藁の縄を巻いた蹄の、重い音でもなかった。


 人の、足の、雪を踏む音だった。


 ひと足。


 ふた足。


 その足音は、坂の半町を上のほうへひと足ずつ上ってきていた。


 上ってきて、軒の下のひと歩手前で、ふと止まった。


 止まった足音の上に、夜の雪の冷えがひと粒薄く落ちた。


 メリルは、藁の上で身をひと指ぶん起こした。


 起こした肩の隣で、ニーナの寝息はまだ深かった。


 深い寝息を起こさないよう、メリルは右の手のひらをひと度藁の上に薄く置いた。


 置いた手のひらの下で、樫の床板の飴色の温度がまだひと粒薄く残っていた。


 残った温度の上で、メリルは戸口のほうへ目をひと度向けた。


 戸口の、樫の板の向こうで、雪を踏んだ足音はもう動かなかった。


 動かないまま、軒の下のひと歩手前で、ただ立っていた。


 立っている足音の上に、夜の藍の光が戸口の板の隙間からひと筋薄く射し込んでいた。


 射し込んだ藍の光の中で、メリルの指の腹は、まだ、その足音の主が誰であるかを知らなかった。


 知らないまま、メリルは藁の上でゆっくり立ち上がった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第九話「廃院を継ぐ」をお届けしました。ここから第二アーク「辺境の癒し手」が始まります。第一アークの八話が「奪われていく」物語だったとすれば、第二アークは、メリルが自分の手でひとつずつ「起こしていく」物語です。


御者ジレスは今話で公爵領へ帰っていきました。屋敷との――公爵領との最後のひと筋の糸が、坂の下のほうへ薄く引かれていきます。湿っぽいお別れにはせず、北辺の、手を半分の高さで上げるだけの作法で静かにお見送りしました。ただ、メリルが「戸口の桟の桔梗を、お払いにならないで」と頼んだひと言だけは、屋敷へのいちばん薄い未練として残しました。


それから、見習いの娘にここでようやく「ニーナ」という名が降りました。声は第一アークの「見習いの娘」のまま、細やかな先回りの気遣いと心配性のやわらかさを継いでいます。けれど辺境の薪の山やひと冬ぶんの灰起こしの前では、「これ、なんでしょう」と素の子供の声がふっと出ます。そんなニーナの隣で、屋敷では蓋をされていたメリルの「ふふ」が、ひと粒ずつ戻ってきます。


掃き清めた樫の床の飴色を、自分の手で起こしていく手応え。誰かのお預かりではなく、お返しする先のない床を自分の手で起こす、ひと匙ぶんの手応えです。それが、奪われたと思っていたものの最初のひと匙でした。流儀の言葉「痛いのは、ちゃんと、治っていく証です」は、今度は十八年眠った院とニーナと自分自身に、三つに分けて置きました。


最後、戸口の外の雪をひと足踏む足音が近づいて止まりました。次話「最初の患者」では、その足音の主が軒の下のひと歩手前で誰であるかをお見せします。


毎日19時更新予定です。☆評価・ブクマ・感想をいただけると、何より次話の励みになります。

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