第8話: 廃院の扉
馬車の幌の中の毛皮の匂いは、屋敷の毛皮の匂いではなくなっていた。
初日の朝、ジレスが幌の床に毛皮を厚く敷き直した。毛の流れの向きを北辺路の風に合わせて。合わせた向きの上に、干し草の匂いがひと指ぶん混じった。
メリルは膝の上の重ねた手をひと度、握り直した。
襟元のひだの中の桔梗のひと匙がまだ薄く残っていた。
残っていたのは桔梗の匂いではなかった。
昨夕、油皿の灯の下で、薬棚の桔梗の段の和紙の角に指の腹で戻した——その戻し方の重さのほうだった。
「メリルさま」
御者台の上でジレスが咳払いをした。
「お発ち、よろしゅうございますね」
「お願いします」
「初日は領内の境までで」
「ええ」
「明日からは、北辺路に」
「承りました」
「お毛布は、お肩のほうからお先に」
「ありがとう」
ジレスの声は屋敷のときより半指ぶん低くなっていた。
低くなった分、声の縁にひと冬北辺路をしのいだ者の肩の据わりが薄く乗っていた。
メリルは膝の脇に、見習いの娘の薬の戸棚の角をひと指ぶん寄せた。
寄せた戸棚の中で、桔梗の段と甘草の段の和紙の縁が軽く触れ合った。
音は乾いていた。
乾いた音の中で馬車は屋敷の裏路の半里を抜けた。
領内の本道。
晩秋の枯れ野は朝のうちに薄く白んでいた。
白んでいたのは霜だった。
麦の刈り跡の畝の影がひと筋ずつ黒く残っていた。
半里ほど進むうちに、畝の影はふっと見えなくなった。
畝が無くなったのではない。
白いものが上から降り始めていた。
「メリルさま」
膝の脇で見習いの娘がふっと顔を上げた。
「降ってきましたね」
「ええ」
「初日のうちは、要らんかと思っておりましたのに」
「北辺の風は、もう本格でしたから」
「桔梗の段、お濡れにならぬよう、戸棚のお口を、こちらに」
「お願い」
「お薬の戸棚を、お足元のほうに半歩」
「ええ」
娘の手が薬の戸棚の角を半歩、メリルの足元のほうへ動かした。
動かした角の下で幌の床の毛皮がひと指ぶん押し下げられた。
押し下げられた毛皮の下で、ジレスの整えた毛の向きはまだ崩れていなかった。
雪は午前のうちに本格になった。
御者台のジレスの肩の上に、雪はひと指ぶんずつ薄く積もり始めた。
積もる速さは屋敷の中庭の石畳の上より、ふた指ぶん速かった。
北辺の風が雪を斜めから運ぶ。
斜めの雪を、ジレスは片方の肩で受けて、もう片方で逃がしていた。
屋敷の御者台では見たことのない肩の作法だった。
「メリルさま」
膝の脇で娘が声を落とした。
「なあに」
「あれは、御者さまの作法でございましょうか」
「ええ」
「ひと冬しのいだ、ということ」
「そうね」
「もう、わたしどもは、ひと冬しのいでも、あの肩の作法は覚えませぬね」
「……」
「あれは、ひと冬では覚えませぬ」
「ふた冬しのげば、覚えるかしら」
「ふた冬で、覚えとうございますね」
「ふふ」
ふふ、の音は、屋敷の上段の間では出てこなかった音だった。
いま、辺境への雪道の途上で、ひと粒だけ戻ってきた。
メリルは襟元の桔梗のひと匙の上で、その薄さを受け直した。
受け直した上で、御者台のジレスの肩の逃がし方を目で追った。
追った先のジレスの肩の上に、雪はもうひと指ぶんも積もっていなかった。
北辺路。
二日目の朝、馬車は領内を抜けた。
北辺路は道幅が半町ほど狭い。
両側に雪を肩に乗せた松林がふた筋連なっていた。
松林の中の松脂の匂いは、領内の松より、ふた指ぶん濃かった。
雪を含むからだ。
雪を含んだ松脂は、ふた指ぶん甘い。
甘い匂いの中で、ジレスの手綱の引き方がひと指ぶんゆるくなった。
道がゆるいからではない。
ゆるい引き方のほうが、雪道では馬の脚の運びを馬の拍子に任せられる。
任せられた拍子の上で、馬の蹄の音が雪に半分吸われた。
半分吸われた音の中に、ひと粒だけ、メリルが屋敷でも治療院でも拾ったことのない種類の音が混じっていた。
雪が松の枝からふた粒だけ続けて落ちる音だった。
ふた粒目が落ちる前に、ひと粒目はもう松の根元に薄く埋まっていた。
埋まった音を、メリルは屋敷のどの間でも聞いたことがなかった。
三日目。
松林の途切れた峠で、ジレスは馬車を半刻止めた。
止めた間にジレスは馬の蹄に巻いた藁の縄を、ひと巻きずつ巻き直した。
巻き直す指の動きを、メリルは幌の外からひと度だけ見た。
ジレスの指は屋敷の御者台の手綱を扱う指より、ひと指ぶん太かった。
太い指の根元の奥のほうに、薄い切り傷の痕がひと筋走っていた。
切り傷の縁は、いま雪の冷えの下で、ひと粒、薄く赤くなりかけていた。
「ジレスさん」
「メリルさま」
「お指の根元の、その傷は」
「あれは、十年前で」
「十年前」
「ハーロウへの北辺路で、藁の縄をご自身でお巻きになる御者は、ひと冬目には必ずお切りになります」
「ひと冬目で」
「ええ。ふた冬目には、もうお切りになりません」
「あなたは、ひと冬目で」
「ふた冬目では、もうお切りいたしませんでした」
「ふた冬目で」
「ええ」
「……三冬目は」
「三冬目には、傷の根元の縁が、薄く赤くなる癖がつきましてございます」
「赤くなる」
「ええ。ハーロウの雪が、十年このかた、ひと粒ずつ、ここにお置きになっていかれました」
「……」
「あの十年の積もりの分が、いまも、ここに」
「……ええ」
「メリルさま」
「なあに」
「ハーロウのお冬は、お肩のほうから先にお冷えになります」
「……」
「お肩のお毛布の合わせ目を、お襟元のほうへ半指、深く折ってお入りになると、お肩のお冷えがふた指ぶんゆるみまする」
「ありがとう、ジレスさん」
「お礼は、お肩のお毛布のほうへ」
ジレスはひと礼をして御者台に戻った。
戻った背中の上の雪は、屋敷の毛皮のときの匂いとは似ても似つかなかった。
メリルは肩の毛布の合わせ目を、襟元のほうへ半指深く折って入れ直した。
折って入れ直した合わせ目の縁の上で、桔梗のひと匙がもう一度ひと粒立ちのぼった。
立ちのぼった匂いは、もう屋敷の侍女頭のお預かりになった匂いではなくなっていた。
ジレスの十年の指の根元の赤さの匂いと、薄くひと粒重なっていた。
四日目の暮れ。
北辺路の右手の坂の上に、最初の屋根がひとつ見えた。
屋根の上には雪が肩ぶんも積もっていた。
屋根の煙は出ていなかった。
次の半里の左手の坂の下に、屋根がもうふたつ見えた。
ふたつの屋根の片方には薄く煙が出ていた。
煙の出ているほうの軒の下に、人影がひとつ、薪を背に立ってこちらを見ていた。
人影は手をひと度だけ、半分の高さで上げた。
会釈には届かない上げ方だった。
ただ、こちらに気づいたと知らせる上げ方だった。
知らせ方の薄さの中で、ジレスは手綱をひと度上げて応えた。
「あれは」
膝の脇で娘がふっと小さく訊いた。
「お辞儀では、ありませぬのね」
「ええ」
「お辞儀の半分で」
「半分」
「半分が、北辺の作法だ、と」
「そうらしい」
「ふた屋根目は、煙が出ておりました」
「ええ」
「ひと屋根目は」
「煙は出ていなかったわ」
「煙の出ていないお屋根の下にも、お方は、おられるのでしょうか」
「……いまは、お薪を、お運びの途中かもしれぬ」
「お運びの途中」
「ええ。お聞きしないであげましょう」
「お聞きしないで」
「ええ。お聞きしないでよろしいことが、北辺には、ふだんよりひと指ぶん多いそうよ」
「……かしこまりました」
娘は膝の上の薬の戸棚の角を、ひと拍だけ静かに握り直した。
握り直した指の節は、屋敷の戸棚の桟を握るときよりひと指ぶん柔らかかった。
柔らかさの上に、もうひと粒、薄い干し草の匂いが乗った。
乗った匂いの中で、ふた屋根は馬車の後ろの雪の中に消えていった。
五日目。
午後の四つの鐘の刻に、馬車は辺境ハーロウの町外れに入った。
町は半町ほどの幅の本通りの両側に、ふた連の家並みが続いているだけだった。
家並みは三十ほど。
屋根のほとんどに、煙が薄く出ていた。
雪は午後のうちにひと指ぶんゆるんでいた。
ゆるんだ雪の上を、馬車の蹄はふだんより半指ぶん深く沈めた。
沈めた蹄の音が、家並みの軒の下まで届いた。
届いた音に応じて、いくつかの軒の下から人影がひとつずつこちらを見た。
見た人影はもう、坂の人影と同じ作法を持っていた。
手をひと度、半分の高さで上げる。
会釈には届かない。
知らせ合うだけで、止まらない。
止まらないままで、馬車は町の本通りを抜けた。
抜けた先のいちばん奥のあたりで、年嵩の女の人影がふと薪を背に立ち止まった。
立ち止まったうえで、その人影はひと礼を薄く落とした。
ひと礼の角度は、屋敷の侍女頭のものより半指ぶん浅かった。
浅い角度のいちばん下のところに、北辺の作法でない種類の温度がひと粒乗っていた。
「ジレスさん」
「メリルさま」
「いまのお方は」
「ハーロウの世話役の、お方かと」
「お名は」
「お名は、まだ」
「お迎えのお手筈は」
「お聞きしておりませぬ」
「……お聞きしておりませぬ、と」
「お手筈は、屋敷からはお送りにならなかった、と」
「……承りました」
「メリルさま」
「なあに、ジレスさん」
「お迎えがおらぬのも、北辺の作法のひとつ、と思しめせ」
「……作法」
「ええ。誰のお屋敷の覚書にも、ふだん、お載りにならぬ作法でございます」
「……ええ」
「お迎えが無いのは、お迎えを、お任せいたしませぬという意味で」
「お任せにならぬ」
「お一人で、お入りになるおつもりの方には、お一人でお入りいただく」
「……」
「ハーロウは、十八年このかた、ご自分のお屋敷の手筈を、お持ちにならぬ町でございます」
「……承りました、ジレスさん」
「ええ。ご自分のお手筈は、これから、お置きになって、ようございます」
「ええ」
ジレスのお声の中の『お送りにならなかった』の音は、屋敷の裏路の御者台で馬の毛並みの向きを整えるときの低さと、同じ低さだった。
メリルは襟元のひと匙の桔梗の上でその低さを薄く受けた。
受けたあとで、町の奥に薄くひと礼を落とした人影のほうへ、目線をひと度返した。
返した目線は、人影の薪の上のあたりまで届いて、薪の影の中に薄く混じった。
町外れの坂。
ジレスは馬車を本通りの突き当たりで止めた。
止めた先の右手に、半町ほどの坂が上のほうへゆるく続いていた。
坂の途中から松林がもう一度、ふた筋立ち始めていた。
松林の縁のいちばん上のあたりに、屋根がひとつ薄く見えた。
屋根の上には肩ぶんも雪が積もっていた。
軒の下に煙は出ていなかった。
煙の出ていない軒のいちばん下のあたりに、扉がひとつ、ぽつりと見えた。
「メリルさま」
「ええ」
「あれが、お所領目録の」
「……第十七節の」
「廃施療院かと」
「ええ」
「ジレス、お馬車を、軒の下まで」
「半町、お進みいたします」
「お願い」
「お雪が、坂の途中で、ふた指ぶん深うございますが」
「ええ」
「お馬の蹄は、もうひと巻き、藁の縄をお巻き直しましょう」
「お願いします」
「ふた巻きで、お進みいたします」
「ええ」
ジレスは御者台から降りた。
馬の蹄に藁の縄をもうひと巻き巻いた。
巻き終えた縄の結び目を、ジレスはひと度雪の上で踏んで馴染ませた。
馴染ませた結び目の上に、雪の薄い粉がふた指ぶん乗った。
乗った粉の上で、馬車はゆっくり坂を上り始めた。
半町。
半町は半町だった。
ふだんの半町は徒歩で半刻。
雪の坂の半町は、馬車でひと刻半かかった。
かかった分の刻のあいだ、メリルは膝の上の重ねた手の中に、ジレスの十年の指の根元のひと粒の赤さを薄く置いた。
置いた上で、襟元のひと匙の桔梗のいちばん奥のひと粒を、ふっと坂の上の扉のほうへ薄く向けた。
向けたひと粒は、ふだん、屋敷の薬棚の桔梗の段の和紙の角の匂いだった。
いま、その匂いは、見たことのない屋根の下の見たことのない扉のほうへ、ひと指ぶん薄く傾きかけていた。
傾きかけた匂いを、メリルはもう襟元には戻さなかった。
戻さない代わりに、坂の上の扉にひと匙を置く先を、初めて自分の指の腹で決めた。
決めた上で、メリルは坂の半町の途中で目を閉じた。
閉じた目の奥で、十八年このかた、屋敷の薬棚の桔梗の段で、ふだんは届かなかった上の段の和紙のいちばん端の薄い湿りの匂いが、もう一度立ちのぼった。
立ちのぼった匂いの中に、亡き前公爵夫人の長く眠ってきた指の通り跡が、ひと粒薄く混じった。
混じった指の通り跡を、メリルはまだ自分の指の通り跡のものとは思っていない。
思わないまま、メリルは目を開いた。
開いた目の先で、ジレスの背中の上の雪は、ふだんの北辺路よりふた指ぶん薄く積もっていた。
薄くなった分だけ、坂の上の扉はもうひと指ぶん近くなっていた。
軒の下。
馬車は軒の下のひと歩手前で止まった。
止まった先の軒は、十八年このかた、雪を肩ぶんも、ひと冬ずつ受けてきた。
受けてきた雪の重さの分だけ、軒のいちばん端の梁の角が、ふだんの軒の梁よりふた指ぶん低く垂れ下がっていた。
垂れ下がった梁の下に、扉はぽつりと立っていた。
扉の板はもとは樫だった。
いまは樫の木目が、十八年の濡れと乾きの上で、半指ぶん灰色がかっていた。
灰色がかった木目の真ん中に、閂がひと本横に渡っていた。
閂は鉄だった。
鉄の閂の縁は、ふだんの鉄の縁の倍の太さに、錆がふた指ぶん薄く乗っていた。
「メリルさま」
「ええ」
「お雪をお払いいたします」
「お願い」
「お肩のお毛布をふた指、深く」
「ええ」
ジレスは扉の前で雪をひと払い、ふた払いした。
払った雪の下から、閂の鉄の縁の錆の色が、ひと指ぶん薄く顔を出した。
顔の薄さの中で、ジレスは指の根元のひと粒の赤さで、閂の縁をふっと撫でた。
撫でた指の下で、閂はひと指ぶん自分の重さを持ち始めた。
「メリルさま」
「ええ」
「お入りに」
「……ええ」
「閂は、ご自分のお肩で、ようございますか」
「お願いします、ジレスさんとふたりで」
「ふたりで」
「ええ」
「ジレス、お先に肩を、ひと寄せいたします」
「お願い」
「お入りになるときに、お足元の床の藁を、お踏みになりませぬよう」
「藁を」
「ええ。十八年もたちますと、藁は藁の形を、お持ちになっておりませぬ」
「……承りました」
「足の運びは、ふた歩、お軽く」
「ふた歩、軽く」
「ええ」
「ありがとう」
「お足元、ようございましたら」
「ええ」
メリルは見習いの娘のほうへ目を向けた。
向けた目の先で、娘は薬の戸棚の角を膝の上でひと拍固く持っていた。
固く持っていた角を、娘はメリルの目の高さでふた指ぶん持ち下げた。
「メリルさま」
「ええ」
「お薬の戸棚は」
「……扉のすぐ内側、まずは」
「ふた歩の中で、お置きいたします」
「ええ」
「桔梗の段から」
「……桔梗の段から、で」
「お置きいたします」
「ええ。お先に、桔梗を」
「お一緒に、入ってよろしゅうございますか」
「ええ。お一緒に」
「ジレスさんも、お一緒に」
「ええ。三人で」
「……三人で」
「ふた歩、軽く」
「ふた歩で」
「ええ」
メリルは扉のほうへひと歩向いた。
ひと歩の先で、ジレスの肩が半歩先に入った。
半歩のあとで、メリルの肩がひと歩入った。
入った肩のふた重ねが、扉の右の閂の縁の鉄の重さの下で、ひと拍、ふた拍、ふた呼吸置かれた。
置かれた呼吸の三呼吸目で、閂はふっと十八年の重さをひと指ぶん緩めた。
緩んだ閂の縁の上で、ジレスはひと度肩を引いた。
引いた肩のあとで、メリルは肩をもうふた指ぶん扉のほうへ寄せた。
寄せた肩の下で、扉の蝶番がふっと十八年の軋みをふた音低く返した。
ふた音の低さは、昨日の上段の間の扉の蝶番のひと音の低さより、もうひと音低かった。
ひと音低い軋みのあとで、扉はふっと自分の重さで、内側のほうへひと指ぶん開いた。
中。
中の空気は、外の雪の冷えとは別の冷えだった。
別の冷えの中に、十八年のあいだ、誰の身体も通っていなかった種類の、湿った、ふだんの埃の倍の重さの、薄い、墨と藁と漆喰の入り混じった匂いが、ぽつりと立っていた。
メリルは扉の内側のひと歩手前で足を止めた。
止めた足の下で、扉の内側の床の藁がひと撫で薄く動いた。
動いた藁はもう、藁の形を持っていなかった。
藁の形ではなく、藁が藁であった頃の繊維のいちばん細い名残の、薄い灰色の塊だった。
塊を、メリルの右の足の先のあたりは踏まずに避けた。
避けたうえでメリルはふた歩、扉の中へ入った。
「ジレスさん」
「メリルさま」
「お足元、ご無事に」
「ご無事に」
「お薪は、どちらに」
「お薪の置き場は、奥の右の壁のあたりで」
「ええ」
「いまは、お置きにならず、まず、お扉のすぐ内側を、お見せください」
「お見せいたします」
「ふた歩の中で、お薬の戸棚を」
「お置きいたします」
「ありがとう、ジレスさん」
「お礼は、お薬の戸棚のほうへ」
ジレスと娘は扉のすぐ内側のふた歩の中の端のあたりに、薬の戸棚を薄く置いた。
置かれた戸棚の上にいま、桔梗の段の和紙の角が、廃院の墨と藁と漆喰の匂いの中でひと粒薄く立ちのぼった。
立ちのぼった匂いの中で、廃院の奥の薬棚の十八年ぶんの埃のいちばん上の段が、ふっとひと撫び揺らいだ。
揺らいだ上の段の埃の中から、ひと筋だけ、湿った墨の匂いが立ちのぼった。
湿った墨の匂いを、メリルの指の腹は床の灰色の埃の上でひと度薄く受けた。
受けた湿りは、屋敷の治療院の薬棚の上の段の和紙のいちばん端の湿りと、同じ湿りだった。
同じ湿りの中に、屋敷の治療院では拾えなかったひと粒の、別の指の通り跡が薄く眠っていた。
別の指の通り跡を、メリルはまだ自分のものとは思わなかった。
思わないままで、メリルは爪先をひと指立てた。
「メリルさま」
娘がふと声を落とした。
「なあに」
「上の段の埃の下に、和紙の角が」
「ええ」
「お見えに、なられますか」
「……いま、見ているわ」
「お届きに、なられますか」
「届くわ」
「……ようございました」
「あなたも、爪先で、上の段にお触りなさい」
「わたしも、で」
「ええ、ふたりで」
「お一人で、ようございますのに」
「ふたりがよいの」
「……はい、メリルさま」
メリルは爪先を立てた指の腹を、上の段の和紙のいちばん端の角に、ふっと薄く重ねた。
重ねた指の下で、和紙のいちばん端の角の十八年ぶんの埃が、ひと指ぶんはらりと舞い落ちた。
舞い落ちた埃の下に、亡き前公爵夫人の長く眠ってきた指の通り跡が、ふだんの屋敷の薬棚のひと粒より、ひと指ぶん深く眠っていた。
深く眠っていた指の通り跡を、メリルの指の腹は、自分の指の腹の細い節の形のまま、ひと度薄くなぞった。
なぞった指の腹の下で、廃院の上の段の和紙のいちばん端の角の木目は、ちょうど、メリルの指の腹の細い節の幅と、同じ幅の凹みを、十八年このかた持って待っていた。
待っていた凹みの幅の上に、メリルの指の腹は、自分の身体の癖の幅のまま、薄く納まった。
納まった指の幅の下で、廃院の奥の薬棚の十八年ぶんの眠りが、ふっとふた指ぶん解かれかけた。
解かれかけた眠りの薄さの中で、メリルは唇をふっと開いた。
「……痛いのは」
「メリルさま」
娘が爪先のまま、ふっと薄く息を呑んだ。
「……ちゃんと」
「……」
「……治っていく、証です」
言ってからメリルは爪先をひと指、ゆっくり降ろした。
降ろした爪先の下の床の藁の灰色の塊の上に、ふだん、屋敷の治療院の薬棚の桔梗の段の和紙の角に置いてきた言葉が、いま、廃院のまだ誰もいない床の端の上で、ご自分のために薄く乗っていた。
「メリルさま」
「ええ」
「いまの、お言葉は」
「……」
「いつもの、お病者のお床のお言葉で」
「ええ」
「ここには、お病者は、おられませぬのに」
「……ええ」
「どなたに、お置きに、なられましたか」
「……」
「メリルさま」
「いまはまだ、その『どなたに』を、わたしの指の腹のいちばん奥のほうで、決めかねているの」
「……決めかね」
「ええ」
「お決まりに、なられたら」
「あなたに、お知らせします」
「……はい、メリルさま」
「ようございました、お聞きしないで」
「お聞きしないで」
「ええ」
「お聞きしないでよろしいことが、北辺には、ふだんよりひと指ぶん多いそうですから」
「……ジレスさんの、お言葉で」
「ええ。ジレスさんの、お言葉」
「ふふ」
娘の『ふふ』は、屋敷の治療院でふだん、メリルと子供たちのあいだで交わされていた『ふふ』と同じ薄さだった。
同じ薄さが、廃院のまだ誰のものでもない床の端の上に、ひと粒乗った。
乗った薄さの下で、廃院の十八年のいちばん奥のひと粒の冷えが、ふと、ひと指ぶん緩んだ。
「ジレスさん」
軒の下のジレスのほうへ、メリルは声を返した。
「メリルさま」
「お入りに」
「お入りいたします」
「お足元、藁を、お踏みになりませぬよう」
「ふた歩、軽く」
「ええ」
「お入りいたします」
ジレスは肩を半歩内側に入れた。
入れた肩の下で、軒の下の雪の冷えが、ひと指ぶん廃院の中に流れ込んだ。
流れ込んだ冷えの上に、桔梗の段の和紙の角の匂いが、もう一度ひと粒立ちのぼった。
「ようございました」
ジレスはひと度、薬棚の上の段の和紙のいちばん端の角の方向にひと礼を薄く落とした。
「ジレスさん」
「メリルさま」
「ご存じで」
「いえ、お名は、ぞんじませぬ」
「お名は」
「お名は、ご存じになりませぬが」
「……」
「上の段の和紙の角に、お礼を、お返しする作法だけは」
「お返しに」
「ええ。ハーロウの軒の下の、十年このかたの、わたくしの作法でございます」
「お返しの作法」
「ええ。お名は、お主の指の腹のいちばん奥のほうへ、お預けいたします」
「……ジレスさん」
「メリルさま」
「ありがとう」
「お礼は、上の段の和紙の角のほうへ」
ジレスはひと礼してまた軒の下に戻った。
戻った背中の上に、軒の雪はもう、ふだんの北辺路の雪より、ひと指ぶん薄く積もっていた。
薄くなった分だけ、廃院の奥の薬棚の上の段の和紙のいちばん端の角の凹みの幅の上には、メリルの指の腹のひと節のしるしが、ひと粒薄く残っていた。
「メリルさま」
「ええ」
「お薬の戸棚の中身を、お先に、お整えいたしましょうか」
「お先に、桔梗から」
「桔梗から」
「ええ。上の段の和紙の角の、お湿りの上に、薄く戻して」
「お戻しに」
「ええ」
「いちばん下の段は、甘草を」
「甘草を、お先に」
「ええ。乾物の段は、ふた束、お置きで」
「ふた束で」
「ええ」
「上の段の古い記録は、お持ちになりましたものを、いちばん上の段にもうひと撫で、お重ねに」
「お重ねに」
「ええ。屋敷のお記録の角を、薬棚のお記録の角の上に、ふっと薄く」
「薄く重ねまする」
「ええ」
「メリルさま」
「なあに」
「今夜は、ここで」
「……ここで」
「夜のお床は」
「……奥の壁の下に、藁をひと束、新しいものを、お敷きに」
「お敷きいたします」
「ジレスさんに、お雪のあと、薪を、ひと束お持ちいただきましょう」
「ええ」
「お竈は」
「奥の右に、お竈の跡があります」
「お跡」
「ええ。十八年のお眠りののち」
「お眠り」
「ええ。今夜は、ふっとお眠りから、お覚ましいたしましょう」
「お覚まし」
「ええ。お薪を、ひと束だけ」
「ひと束で」
「ええ」
「ようございました」
「明日のお朝に、お湯を、ひと汲み」
「ひと汲みで」
「ええ。上の段の和紙の角を、お湯の湯気で、ふっと、ひと撫でいたしましょう」
「お撫でに」
「ええ。ふだんの薬棚の上の段の和紙の角の、ふだんのお湿りの戻し方で」
「お戻しに」
「ええ」
「……明日のお朝から」
「ええ、明日のお朝から」
娘の『はい』は湿っていなかった。
乾いていた。
乾いた『はい』の中に、明日の朝の薬棚の上の段の和紙の角の湯気の湿りの先取りが、薄く混じった。
混じった先取りの中で、廃院の十八年のいちばん奥のひと粒の冷えは、もう、メリルの指の腹のひと節の幅のほうへ、ひと指ぶん傾きかけていた。
傾きかけた冷えの上で、メリルはふと、唇をもう一度、薄く開いた。
「——白い、鳩の」
唇のひと動きはそこまでだった。
そこまでで、メリルは唇の動きをふっと止めた。
止めたのは、まだ、その名を廃院の十八年のお預け先のほうへ返す前に、もうひと冬、自分の指の腹の細い節の幅で、ふだんの薬棚の上の段の和紙の角の凹みの幅の上を通う——その通い方を、先に持つ必要があったからだった。
通い方を、メリルはまだ自分の持ちものとは思っていない。
思わないままで、メリルは扉のほうへひと歩戻った。
戻った先で、ジレスと娘が軒の下の雪の上で、ひと礼をふた粒薄く返した。
返したふた粒のひと礼の上で、軒の下の雪はふと、ひと指ぶん薄く止まった。
止まった雪の上で、廃院の十八年のいちばん奥のひと粒の名のお預け先は、まだ、誰の唇の上にも降りなかった。
降りないままで、軒の下の雪の上の夕の薄い藍の光がひと度、ふっと自分の薄さの底で揺らいだ。
揺らいだ光の下で、扉の蝶番の十八年の軋みは、もう返らなかった。
返らない軋みの代わりに、扉のいちばん内側のひと歩手前の床の藁の灰色の塊の中に、メリルの指の腹のひと節のしるしの薄い重さが、ひと粒薄く残っていた。
——同じ夕。王都リンドル。聖光教会のお膝元の治療院。
ふだんの夕より、ひと指ぶん灯火の数が多かった。
多くなった分の灯火の下に、寝台がふだんよりふた台足されていた。
「お師さま」
若い見習いの娘が、足された寝台のひと台目の上で、お困りの息を薄く吐いた。
「なあに」
「この熱は」
「……ふだんの熱では、ないな」
「お薬は、もうふた服お通しいたしました」
「ふた服で」
「ええ、ふた服で。お下がりに、なりませぬ」
「……お下がりにならぬ熱は、近頃、ひと冬にふた人、おりましたが」
「お師さま」
「なあに」
「これは、何という病でございましょう」
老医師は白い髭の下で、ひと拍、言葉を持ち上げかけて、ふっと呑んだ。
呑んだ言葉の代わりに、患者の手のひらの上に指の腹をひと度薄く置いた。
置いた指の下で、患者の手のひらの熱は、ふだんの熱病の手のひらの熱よりふた指ぶん深かった。
深い熱の底に、ふと、量れない数の手のひらの重なりが、ひと粒薄く乗りかけていた。
「お師さま」
「……」
「この熱は、何という——」
「……まだ、お名前の、無い熱だ」
「お名前の、無い」
「……お名前の、無い熱は、ふだんなら、お名前を持つまでに、ひと月かかる」
「ひと月で」
「ひと月で、ふだんは、お名前を持つ」
「……今度のお名前は」
「……」
「お師さま」
「……今度のは、ふだんのひと月では、お持ちになるまい」
「ひと月では」
「……ふた月、ふた月かかるか、もしくは」
「もしくは」
「……お名前を持つ前に、もうひと台、寝台を、足さねばならぬか、どちらかだ」
「……」
「お前は、もうひと台、寝台の支度を」
「ひと台、で」
「ええ。ひと台、ふだんの位置よりひと指ぶん、奥に」
「ひと指、奥に」
「ええ」
「お師さま」
「なあに」
「ふだんのお治療院では、ひと冬に、ふた人」
「ええ」
「今夕、ふた台、お足されました」
「……」
「ふだんの、ふた人のうちのおふた方が、今夕、お一日のうちに」
「……ええ」
「これは、ふだんのお冬では、ございませぬのね」
「……ふだんの冬では、ない」
「お師さま」
「……」
「お聖癒のお手は」
老医師の白い髭の下の唇が、ふと、ひと拍止まった。
「……お聖癒の」
「ええ。お聖癒のお手は、今夕、お一人でも」
「……」
「お師さま」
「……今夕は、お聖癒の手は、お一人も、ここには、おられぬ」
「お一人も」
「……お一人も」
「ふだんは、ふた手、お通いに」
「ええ」
「ふた手のおふた方は、いま、どちらに」
「……ご公務で、王城のほうに」
「お戻りは」
「……明朝の、お早く」
「明朝で」
「ええ。明朝の、お早くだ」
「明朝までの、いちばん深いお熱の患者《お方》は」
「……」
「お師さま」
「……明朝までの、いちばん深い熱は、わたくしの指の腹で、お受けいたす」
「……」
「お前は、もうひと台、寝台の支度を」
「……かしこまりました」
若い見習いの娘はもうひと言加えなかった。
加えない代わりに、もうひと台目の寝台の脇の小卓の上の、ふだんの薬の壺のひとつを、ふっと指の腹でひと度薄く確かめた。
確かめた指の腹の下で、薬の壺の口の覆いの和紙のいちばん端は、もうふた服分しか残っていなかった。
ふた服分の和紙の薄さの上で、ふだんの王都の治療院の夕は、もうひと指ぶん薄く、いつもの夕には戻らなくなっていた。
戻らなくなった夕の薄い藍の光の底で、量れない数のひと粒の手のひらの重なりは、まだ、誰の指の腹の上にも、お名前を持っていなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第八話「廃院の扉」をお届けしました。第一アーク「治療院の日陰」の結であり、廃院の扉の蝶番の軋みは、屋敷の上段の間の扉の軋みより、もうひと音、低く返りました。屋敷の十八年は扉の軋みの形で、辺境ハーロウの十八年は薬棚の上の段の和紙の角の凹みの幅の形で、いま、メリルの指の腹のひと節のしるしのほうへ、それぞれの十八年を、ふた指ぶん、薄く、お預けになりました。
御者ジレスの指の根元のひと粒の赤さは、ハーロウの十年の雪が、ひと冬ずつ置いていった重さでした。屋敷では拾われなかった種類のひと粒が、いま、メリルの襟元のひと匙の桔梗の薄い甘い匂いの中に、ふっとひと粒混じりました。混じったあとで、桔梗のひと匙は、もう屋敷の薬棚の桔梗の段のものではなく、廃院の奥の薬棚の上の段の和紙のいちばん端の角の凹みの幅の上の、メリル自身のひと節のしるしのほうへ、場所を替え始めました。
流儀の言葉「痛いのは、ちゃんと、治っていく証です」は、第七話で初めてメリル自身の唇に乗り、第八話で、もう一度、廃院のまだ誰もいない床の端の薬棚の和紙の角の凹みの幅の上で、自分のために置かれました。明日のハーロウの朝、その凹みの幅の上を、メリルの指の腹のひと節の通い方が、ふだんの薬棚の通い方として始まります——その通い方の積もりが、第九話「廃院を継ぐ」の入口です。
最後の場面、同じ夕の王都リンドルの聖光教会のお膝元の治療院では、お名前のまだ無い熱が、寝台の上に、ふた台足されました。お師さまの経験のひと月の中では、お名前を持つまでに、もうふた月かかるかもしれず——あるいは、お名前を持つ前に、寝台のほうが、もうひと台、足されてしまうかもしれません。お聖癒の手は、今夕、お一人もここにはおられず——その「お一人も」が、第三アーク「疫病と空白」までの長い助走の、最初のひと粒です。
ここまで第一アーク「治療院の日陰」、お読みいただきまして、本当にありがとうございました。義姉ソフィアお義姉さまの婚約の装いを、ご自身の手で整えた朝から、八話。屋敷の十八年の重さが、廃院の薬棚の上の段の和紙の角の凹みの幅の上で、いま、ひと節のしるしの重さに、お替えになりました。第二アーク「辺境の癒し手」では、廃院に「白鳩の家」の名が降り、辺境のお方々との、ふた指ぶん薄いひと礼の交わしから、ゆっくりと、メリルの日陰の手が、軒の下の灯りを置いていきます。
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