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十八年前の赤子の取り違え——婚約破棄された「養女」が、公爵家のただ一人の正統な令嬢だと判明した日  作者: 歩人


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7/20

第7話: 婚約破棄

 夜明けの指は手のひらの上で凍えていた。


 寝台の中で指の腹を裏返す。冷えている。昨日の朝に残っていた温もりの跡はもうない。代わりに指の節のあたりにひと粒だけの硬い冷えがあった。


 冷えは指の腹ではなかった。


 指の腹が拾った窓の外の空気のほうだった。


 北辺の風が領内の風に混じり始めてもう三日になる。三日のあいだに混ざる比が変わった。今朝の風はもう領内の風ではない。北辺の風だった。


 メリルは寝台を降りた。降りる足の運びがいつもよりひと指ぶん軽い。


 軽いのは身が軽いからではなかった。


 肩のあたりにもう何も乗っていないからだった。




 治療院の土間。


 朝の煎じ薬の支度は、半分も済まないうちに、戸口の外から馬のひづめの音が近づいてきた。


 いつもの馬車の蹄ではなかった。


 屋敷の裏路うらじの半里の道を、ふだん馬車は使わない。徒歩で三十分の道だった。


 今朝、その道を馬車が来ている。


「メリルさま」


 見習いの娘が土間の戸口の柱で振り返った。


「お屋敷から、お迎えで」


「……馬車で」


「ええ。馬車で」


「お刻限は」


「まだ、午前の二つの鐘の前で」


「早うございますね」


「お早うございます」


「お茶のお相伴しょうばんではのうて」


「……お茶のでは、ないご様子で」


「上段の間のと」


「上段の間で、お聞きいたしました」


 娘の声はもうささやきに近かった。囁きの中に昨日の朝の慇懃いんぎんな書きつけの余韻がふっと混じった。


 上段の間。


 屋敷の中で、いちばん奥のいちばん古い間。


 応接の間が日常の客のための間だとしたら、上段の間は家のいちばん奥の判じごとのための間だった。


 メリルは十八年このかた、上段の間にひとりで呼ばれたことが一度もなかった。


 一度もなかった間に、今朝、ひとりで呼ばれている。


「お外套を」


「お願い」


「お持ちいたします」


 娘の指がメリルの肩の襟元でひと拍止まった。止まった指の腹に昨日の朝までは桔梗ききょうの薄い甘い匂いが立っていたあたりを、今朝は、何の匂いもしなかった。


 しないままで、外套の襟が肩にかかった。


「……行ってまいります」


「メリルさま」


「なあに」


「お早く、お戻りを」


「……」


「お待ちしております。治療院で」


 娘の声はもう湿ってはいなかった。乾いていた。


 乾いた声の中で、メリルは戸口のさんに指の腹をひと度だけ当てた。


 桟の桔梗の薄い甘い匂いはまだ残っていた。残っているのは戸口の桟のほうではなかった。メリルの指の腹のいちばん奥のほうのひと粒だった。


 ひと粒の桔梗を襟元に薄く忍ばせて、メリルは戸口を出た。




 馬車。


 ほろの中。


 いつもの裏路を、馬車は徒歩より速い拍子で進んだ。


 速いのに揺れがなかった。揺れがないように御者が引いている。御者の引き方がライラ様の指図の引き方そのものだと、メリルの指の腹が膝の上で薄く読んだ。


 半里。


 半里は半里だった。


 徒歩で三十分の道が、馬車で十二分にまで縮んだ。


 縮んだ分の十八分を、メリルは膝の上の重ねた手のひらの中で、ゆっくり吐く息に分けて落とした。


 吐いた息は幌の中で白くは見えなかった。


 白く見えないほど幌の中は屋敷の毛皮で温められていた。毛皮の匂いはライラ様の上等な茶の湯気にひと指ぶん似ていた。


 似ているのを指の腹は床の冷えの上でひと度拾った。拾った冷えは裏門に着くまで散らなかった。




 屋敷の裏門。


 灰色の石柱の前で門番が一礼した。


 いつもの一礼ではなかった。


 頭の下げ方が、昨日の朝の半指よりさらに半指、低い。


 低くなった分だけ、門番の目線はメリルの足の先のあたりで止まった。


 肩のあたりではなかった。


 肩はもう見られなかった。


「お早うございます、メリルお嬢さま」


 お嬢さまの音はまだ、いつもどおり乗っていた。


 ただ、その音の上に、今朝はもうひと粒、別の重さが乗りかけていた。


 乗りかけて、乗りきらなかった。


 乗りきらなかったのは、門番がいまその重さを口の上に乗せる前に、屋敷の裏路の奥のほうから、屋敷の侍女頭が走ってきたからだった。


「メリルお嬢さま」


「お早うございます」


「上段の間にお通しいたします」


「お先に」


「お渡り廊下を、お進みくださいませ」


「ええ」


「お足元に、お気をつけて」


「お願い」


 侍女頭の声はもう、湿っていなかった。


 昨日の朝の前の間で湿っていた語尾は、今朝には乾ききっていた。


 乾ききった声の中で、侍女頭はメリルの半歩前をいつもより半歩、広く取って歩いた。


 半歩。


 半歩のあいだに、侍女頭の背中の肩のあたりに、もう、メリルの手の届かない高さがあった。


 高さは身長ではない。


 立場の高さでもない。


 もうこの屋敷で、半歩前の人の肩に触れる作法を誰も期待しなくなった——その高さだった。




 お渡り廊下。屋敷の中央棟と、奥棟をつなぐ廊下。


 頭の上のはりはふだんの中廊より、ひと指ぶん高い。


 高い梁の下を歩く侍女頭の足の音がいつもよりひと音、響いた。


 響いた音の余韻の中で、メリルの指の腹は廊下の右の手すりの木目を、片手で軽くなぞった。


 手すりの木目は乾いていた。


 乾いた木目の上に、十八年このかた、メリルが触れた指の跡はひとつも残っていない。


 残らないのが奥棟の作法だった。


 奥棟は、養女が触れる棟ではなかった。


 養女が今朝、初めてこの手すりを、ひと撫でする。


 撫でた指のあとに桔梗の薄い甘い匂いがふっと立ちかけて、立たずに消えた。


 消えた匂いの代わりに、お渡り廊下のいちばん奥のほうから、ふいに、別の匂いがひと筋流れてきた。


 古い書付かきつけの墨の匂いだった。


 昨日の朝の応接の間で、走り書きの墨の薄い湿りの上に乗っていた匂いと、同じ墨だった。


 同じ墨の匂いが、もうひと指ぶん濃く、奥のほうから流れてきた。


 流れてきた濃さの先に、上段の間の扉があった。




 上段の間。


 扉の前で侍女頭はふたつぶん身を引いた。


 引いた身の中で、侍女頭は扉に手をかける前に、ひと呼吸、を置いた。


 間を置いた音の中で、扉の中から、ライラ様のおだやかな声が、もうひと言、置かれていた。


「お入りなさい」


「お先に」


「お通しいたします」


「お願い」


 扉が開いた。蝶番ちょうつがいきしみはふだんの応接の間の蝶番より、ひと音、低かった。低い軋みの中で上段の間の空気が、もう完成された形で、メリルを待っていた。


 完成された形——


 卓は無かった。


 覚書の束も無かった。


 代わりに、間の中央に、長く伸びた絹の敷物しきもの。敷物の上座の奥に、ひと脚の高背の椅子。椅子にはライラ様。背筋を伸ばし、膝の上で扇を畳んでいる。畳まれた扇は、灰色がかった青の絹だった。


 その斜め後ろ、絹の壁紙の前に、ソフィアお義姉さま。ふだんの長椅子ではなく、立っていた。立っているのは令嬢の作法ではなかった。立っている令嬢は判じの場の証人の作法だった。


 手にはふだんの白い絹の扇。


 扇はいま、半開きだった。半開きの扇の角が、ソフィアお義姉さまの口元のあたりに薄くかざされていた。


 翳された扇の陰で、口の端が、ひと粒、上がっていた。


 上がった口の端の上の薄い笑みを、メリルの指の腹は敷居をまたぐ前に、もう、扇の角の薄い影の中で読んだ。


 読んだ笑みは、昨日の朝の応接の間でソフィアお義姉さまが見せた怒りの種類ではなかった。


 怒りの代わりに、薄い満ち足りがあった。


 満ち足りの底にあるものを、メリルの指の腹はいま見ない。


 見ないと、決めた。


「お入りなさい、養女」


 ライラ様の声はいつもどおりおだやかだった。


「失礼いたします」


 メリルは敷居をまたいだ。


 敷居の段の高さは、奥棟のほうがふだんの応接の間より、ひと指ぶん高かった。高い段の上に足を運ぶときに、いつもどおりの所作で運ぶには、膝をひと指ぶん深く折らねばならなかった。


 深く折った膝の角度を、ライラ様の灰色がかった青い目が、見抜いていた。


 見抜いたうえで、ライラ様はひと言、もうお加えになった。


「お顔をお上げなさいな」


「……はい」


 言ってからメリルはその「はい」を、唇の上で、もうひと拍、置いた。


 置いた「はい」の重さがいつもの「はい」とちがった。


 いつもの「はい」は、応接の間で、半歩、退く者の作法だった。


 今朝の「はい」は、退く者の作法ですらなかった。


 もう、退く先のない者の空の音だった。


 空の音をメリルの指の腹は襟元のあたりで、ひと粒だけ拾った。


 拾った音を、襟元の桔梗の薄い甘い匂いの中に薄く落とした。


 落とした音は絹の敷物の縁の上で、もう、揺れなかった。




 ライラ様は扇を膝の上でひと指ぶんだけ立てた。


 立てた扇の柄の先が、絹の敷物の縁のちょうどメリルの足の先の半歩先のあたりを指した。


 指された半歩先の絹の縁の上に、ライラ様の手のひらの薄い影が、ひと粒だけ落ちていた。


 影は扇のものではなかった。


 扇を持つ手のひらのほうの影だった。


 ライラ様の手のひらは細く、節は浮いていなかった。


 浮いていない節の影が絹の縁の上で、メリルの足の先よりひと指ぶん、低かった。


「メリル」


「……お聞きしております」


「次の月の半ばに」


「……うけたまわります」


「王家への上奏の手筈は、昨夕のうちに、整いました」


「……」


「もうお聞き及びでしょうけれども」


「……」


「お聞き及びは」


「……治療院の戸口で、書きつけをひと枚」


「ええ。お読みになりましたね」


「……お読み、いたしました」


「ご返事を、なさいな」


「……お聞き及び、いたしてございます」


「ええ。それでよろしい」


「ライラ様」


「なあに」


「おねしてよろしいでしょうか」


「お訊ねは、お聞きいたします」


「……上奏の刻限は」


「次の月の、いちばん古い鐘の刻で」


「……ご一行は」


「ソフィアと、わたくしと、アルヴィン様の三名」


「……承りました」


「お訊ねは、それで、よろしいですね」


「……仰せのままに」


「ええ。それでよろしい」


 ライラ様は扇の柄の先をひと指ぶんだけ引いた。


 引いた扇の先が、ふと、絹の敷物の縁のメリルの右の足の小指のあたりに薄く触れた。


 触れたのは扇の先ではなかった。


 扇の先よりも、ひと指、手前の——絹の縁の毛羽けばの上で扇の先が立てた風だった。


 風はかすかだった。


 かすかなのに、その風は、メリルの右の足の小指の爪のあたりまで薄く届いた。


 届いた風の薄さの中に、ライラ様の次の言葉がもう乗っていた。


「あなたは、参りませぬ」


「……」


「上奏には、参りませぬ」


「……承りました」


「正式な婚約者には、ソフィアが、つきます」


「……はい」


「ソフィアが、正式に」


「……承りました」


「あなたは、仮の婚約者を、かれます」


「……」


「お聞きの通りで、よろしゅうございますね」


「……お聞きの通りで」


「ええ。それでよろしい」


「お母さま」


「なあに、ソフィア」


「いまの『はい』のお半分は」


「ソフィア」


「お半分しか、お返事になっておりませぬわ」


「お控えなさいな」


「お半分の『はい』は『はい』には、入りませぬのでしょう」


「お控えなさい、と申しました」


「……お控えいたします」


「メリル」


「……」


「もう一度、ご返事を」


「……はい」


「ええ。それでよろしい」


 メリルは目を伏せた。十八年「はい」と返してきた音の積み上がりが、いま、ひと束、ライラ様の扇のひと撫での下に置かれた。


 置かれた束を見上げないまま、メリルは膝の上で両の手を重ねた。上の手——昨日の温もりの跡が薄く残っていたほうの手——にはもう何も残っていなかった。


 残っていない手の甲を、メリルはもう下の手のひらに隠さなかった。隠す必要が無くなったからだった。




「お母さま」


 ソフィアお義姉さまの声が絹の壁紙の前で、ひと粒、上がった。


「なあに、ソフィア」


「養女の身の振り方はもうお話に」


「ええ、ソフィア。これからですよ」


「お早く、お聞かせくださいませな」


「お待ちなさいな、ソフィア」


「……お待ちいたします」


「お母さま」


「なあに」


「あの子は『はい』を返しませぬわ」


「ソフィア」


「もう『はい』のひとつも、返さぬのですわ」


「ソフィア、お声を」


「お声は、低うしておりますわ。ですけれど、お母さま——」


「お控えなさい」


「あの子の『はい』をいただかぬまま、お話を、お進めになる、と」


「ソフィア、お控えなさい、と申しました」


「……お控えいたします」


 ソフィアお義姉さまの扇の角はもう口元から下りていなかった。


 下りていない扇の陰の中で、ソフィアお義姉さまの口の端の薄い笑みが、いま、半指ぶん上がった。


 上がった笑みは、昨日の朝の扇の角の二度の鳴りより、もうひと層、軽かった。


 軽くなった分だけ、ソフィアお義姉さまの目の奥のひと粒の恐れはもう奥のほうへ、ひと指、退いていた。


 退いた恐れの上にいまソフィアお義姉さまの安堵あんどのひと粒が、薄く乗っていた。


 乗った安堵を、メリルの指の腹は絹の敷物の縁の毛羽の上で、ひと度だけ、拾った。


 拾ったうえでいま、何も返さないと決めた。


 何も返さないのは、退く者の作法ではなかった。


 退かない者の作法でもなかった。


 ただ、ソフィアお義姉さまの安堵を、ここで、もうひと粒、濃くしてさしあげるための作法だった。


 その作法を、メリルは知らずに初めて、使った。




「メリル」


 ライラ様の声がふいに、また、絹の敷物の縁の上に置かれた。


「……お聞きしております」


「治療院の務めは」


「……」


「お解きいたします」


 メリルは指の腹を、膝の上でひと拍だけ、固くした。


 固くした指の腹の中で、桔梗の薄い甘い匂いがふっと、もう一度、立ちかけた。


 立ちかけて、立たなかった。


 立たなかったのは、立てる先が、もう、無くなったからだった。


「……治療院の」


「ええ」


「お務めを」


「お解きいたします」


「……どちらに」


「ハーロウに、お移しいたします」


「……ハーロウ」


「辺境ハーロウの廃施療院に」


「……廃施療院」


「ええ。所領目録第十七節の」


 メリルは目を伏せた。昨日の覚書の束のいちばん下にあった古い茶色みがかった墨の一行が、いま薄く立ちのぼった。


 ——『辺境ハーロウ。廃施療院。所領目録、第十七節。』


「……まだ、後の話、と」


「ええ。後の話、と申しました」


「……」


「後の話はいま、前の話になりました」


 ライラ様の声はおだやかだった。扇の柄の先が絹の敷物の縁の毛羽の上をひと撫でした。鳴りではなかった。絹の毛羽の上を扇の先が半歩滑った音だった。


 半歩——


 昨日の朝の応接の間の卓の木目の上で、ライラ様の扇が滑った半歩と、同じ歩幅だった。


 同じ歩幅を、ライラ様の指は、ふた朝のあいだに、もう、二度、置いていた。


「おちは」


「……」


「明日の午前の二つの鐘で」


「……明日」


「ええ。明日の朝に」


「……」


「お一人ではございませぬよ」


「……」


「治療院の見習いの娘、ひとり。お薬の戸棚のお運びと一緒に」


「……」


「お馬車は屋敷から一台お出しします」


「……うけたまわりました」


「北辺路は、雪が落ちはじめておりますから」


「……」


「ご無理を、なさいませぬよう」


 お無理を、の音はもうライラ様の十八年このかたの常套の慇懃いんぎんではなかった。


 常套の代わりに、その音の中にひと匙だけの——


 いま、ライラ様のお声の中に、ひと匙だけ、ご自分では気づかれていないような硬さが混じっていた。


 無理をなさらせている匙の縁の上に、十八年このかた、ライラ様がメリルに対してついぞ漏らさなかった種類の温度が、ひと粒だけ、薄く乗っていた。


 温度の名を、メリルの指の腹はまだ呼ばない。


 昨日の朝、応接の間で初めて拾ったひと粒の——


 恐れ。


 恐れの温度が、いま、ライラ様の声の縁の上で、もうふた朝目になっていた。


 ふた朝目の恐れを、ライラ様はご自分でも、まだ、ご自分のもののようには、お持ちになれていない。


 お持ちになれない温度をメリルはいま、絹の敷物の縁の毛羽の上で、ひと度だけ、見た。


 見たことを、見たことに、しなかった。


 しなかったのは、見たことにしてしまうと、明日の朝の馬車の蹄の音が、聞こえなくなるからだった。




「お母さま」


 ソフィアお義姉さまの声がまた、ひと粒上がった。


「なあに、ソフィア」


「おはなむけの」


「ええ、ソフィア」


「お餞のお品は、もう」


「ええ、ソフィア。ご用意してございます」


「お見せに」


「あとで、お見せいたしましょうね」


「いま、よろしいでしょう」


「ソフィア」


「いま、お見せくださいませ。あの子に」


「ソフィア、お控えなさいな」


「お控えいたします。ですけれど、お母さま——」


「ソフィア」


「あの子のその『お返事』の中身を、もう、聞いてさしあげなくとも、よろしいですわ」


「ソフィア」


「あの子はもう『お聞きの通りで』しか、お返しいたしませぬ」


「お控えなさいな」


「お控えいたします。お母さま、けれども——」


「ソフィア」


「お餞のお品は、ひと枚で、よろしゅうございましょう」


「ソフィア」


「白い絹のお手巾、ひと枚で」


「ソフィア、扇を、お休めなさい」


「……はい、お母さま」


 ソフィアお義姉さまの扇がふいにぱちりとひと音、閉じた。閉じた音は絹の壁紙に半分だけ吸われ、残りの半分が絹の敷物の縁の毛羽の上まで届いた。届いた音の余韻は、メリルの足の先のあたりでひと拍、とどまった。


 留まった音の余韻の中で、ソフィアお義姉さまはふと、扇の柄の先で、絹の敷物の縁の毛羽の上を、軽くひと撫でした。


 撫で方は、ライラ様の撫で方と、ちょうど、同じ半歩の歩幅だった。


 歩幅だけは、十八年のあいだに、母から娘へ、もうひと撫でぶん、伝わっていた。


 伝わった歩幅の上で、ソフィアお義姉さまはもうひと言、お加えになった。


「お餞は、白い絹の手巾しゅきん、ひと枚で」


「……」


「あなたに、こそ、似合うておりますもの」


 お似合いの音はもうライラ様の昨日の朝のものではなかった。


 ライラ様の口の端から離れて、ソフィアお義姉さまの口の端に、ひと撫でぶん、移っていた。


 移った音の中に、ソフィアお義姉さまの安堵が、もうひと粒、薄く乗っていた。


 乗った安堵をメリルはいま、見なかったことにしなかった。


 見たうえで、見たことにした。


 見たことにして、ひと礼を薄く返した。


「……お言葉、心に留めまする」


「ええ。お留めなさいな」


「……ありがとう、ございます」


 ありがとう、の音はもう退く者の作法ではなかった。


 ただ、礼の音のいちばん薄い層を、唇の上に、置いただけの音だった。


 置いた音の薄さの上で、ソフィアお義姉さまの扇の柄の先はもう絹の敷物の縁の毛羽を撫でなかった。


 撫でなかったのはもうメリルから引き出すべきものが、ソフィアお義姉さまの側に、無くなったからだった。




 扉の外で、別の足音が、ひと粒、近づいてきた。


 いつもより、ひと指ぶん、頼りない足音だった。


 昨日の朝の応接の間の扉の前で、立ち止まった足音と、同じ頼りなさだった。


 ただし、今朝のそれは、止まる前に、もうひと指ぶん、遅かった。


 遅い足音は、扉の前で、ふた呼吸、立ち止まった。


 立ち止まった音のあとで扉がふっと軽く叩かれた。


「お父さま」


 ソフィアお義姉さまの声が扉のほうへ向いた。


「……入ってよろしいか」


「お入りくださいませ、お父さま」


 扉がゆっくり開いた。


 お義父さま——アルヴィン様がいつものとおり、なで肩の角度で、敷居をまたいでお入りになった。


 お入りになる足の運びは昨日の朝より、もうひと指ぶん、迷っていた。


 迷っているのは敷居の段の高さではなかった。


 敷居をまたいだ先の絹の敷物の上の自分の立つ場所——お義父さまの足の運び方が、敷物の前でひと拍、迷いをみせた。


 定まらないままお義父さまは敷物の縁の手前で、ふと、足を止めなさった。


 止めた足のあとで、お義父さまはライラ様のほうへ、ひと礼お向きになった。


 ひと礼の角度はいつもどおりだった。


 いつもどおりの角度のはずだった。


 ただ、その角度のいちばん下のところで、お義父さまの目線が、ふと、メリルの足の先のほうへ、薄く落ちかけて、落ちきらなかった。


 落ちきらなかった目線はライラ様の足の先まで戻った。


「……ライラ」


「はい、アルヴィン様」


「話は、もう」


「お通しいたしました」


「……そうか」


「お聞き入れくださいましたわ」


「……そうか」


 お義父さまの『そうか』は、二度とも、昨日の朝のものより、ひと粒、低かった。


 低い『そうか』の余韻の中で、お義父さまはふと、メリルの顔のほうへ、初めて、お目線をお向けになった。


 お向けになった目線は、メリルの顔の高さでひと拍、止まった。


 止まった目線の奥で若草色の——お義父さまの目の若草色は、メリルの目と、まったく同じ色だった——その色のいちばん下のところにいま、ひと粒、迷いの種類のちがう色が、薄く立った。


 立ったのは迷いではなかった。


 迷いの底にあるものだった。


 その底のものを、お義父さまはいま、ご自分でも、初めて、ご自分の中に薄く拾われた。


 拾ったうえでお義父さまは口を、お開きになった。


「ライラ、その……」


「はい、アルヴィン様」


「メリルのその……ハーロウは」


「お任せくださいませ、アルヴィン様」


「いや、しかし、北辺路はもう雪が」


「お馬車を、しっかりと」


「いや……御者はだれを」


「いつもの、ジレスを」


「ジレスか」


「ええ。北辺路のお迎えはひと冬、しのいでおります」


「……そうか」


「お毛布をふた枚、お足元とお肩に」


「……ふた枚、で」


「ええ、アルヴィン様」


「いや、わたしは……」


「お任せ、と申しました」


「……」


「ええ、アルヴィン様」


「……治療院は」


「治療院の務めも、お解きいたしました」


「解いたか」


「ええ。お解きいたしました」


「……」


「上奏の手筈はもう整いましたもの」


「……整ったか」


「ええ。整いましたわ」


「……明日は、わしも、見送りに」


「アルヴィン様」


「いや、見送りくらいは」


「お見送りは、屋敷の表のほうで、ようございますよ」


「……表のほうで」


「ええ。表のほうで」


「裏門ではないのか」


「お裏門のお馬車はもう静かに、お出ししたく」


「……そうか」


「もうお決まりのことですもの」


「……そうか」


 お義父さまはいま、もうひと言、何かを、お言いになろうとなさった。


 何かを口の端の上で、お持ち上げになりかけて、もうひと指ぶん、持ち上がりかけて——


 持ち上がりきらずにふっと、また、口の中に、お呑みになった。


 呑まれた言葉の音をメリルの指の腹は敷物の縁の毛羽の上で薄く拾った。


 拾った音は二音だった。


 ひと音目は、「メ」だった。


 ふた音目は、「リ」だった。


 ふた音目で、お義父さまの唇は、止まった。


 止まった唇の中に、三音目の「ル」はもう降りてこなかった。


 降りてこなかった「ル」の音をメリルはもう、いま、お義父さまから引き出さないと決めた。


 引き出さない決めの作法をメリルはいま、絹の敷物の縁の毛羽の上で初めて、ひと粒だけ、覚えた。


 覚えた作法は退かない者の作法ではなかった。


 退く者の作法でもなかった。


 ただ、お義父さまの『ル』の音を、明日の朝の馬車のほろの中の毛皮の冷えの上でご自分のもののままに、お返ししないであげるための作法だった。


「お義父さま」


 メリルは目を伏せたまま、ひと言を薄く、絹の敷物の縁の毛羽の上に、置いた。


「……ええ」


 お義父さまの『ええ』はもう声に出ていなかった。


 唇の形だけがふっと、ひと粒、動いた。


 動いた唇の音を、メリルはもうお義父さまの背中のほうに、お返ししなかった。


 お返ししなかった代わりにひと礼を、お義父さまのなで肩のほうへ、薄く落とした。


 落とした礼の角度はライラ様の前のものより、ひと指ぶん、深かった。


 深さの分だけお義父さまのなで肩の角度が、もう一段、ゆっくり、下がった。


 下がったなで肩の上でお義父さまはもうひと言、お加えにならなかった。


 お加えにならない代わりにご自身で、ふっとひと礼をお返しになって、上段の間の扉の脇のいちばん奥の絹の壁紙の前まで、お進みになった。


 お進みになった先でお義父さまはもうお振り返りにならなかった。


 お振り返りにならない背中の上に、十八年の重さがひと束、薄く乗っていた。乗った形を、メリルは見なかった。




「メリル」


 ライラ様の声が、ふと、また、絹の敷物の縁の上に置かれた。


「……お聞きしております」


「リオネル殿下には」


「……」


「お知らせの書きつけを、昨夕のうちに、王都にお送りしました」


「……」


「書きつけには、こうございます」


「……」


「『養女メリル、分を超えて第二王子殿下のお心をお引き留め申し上げたとがにより、仮の婚約者の任を解き、治療院の務めも解き、辺境ハーロウへお移しいたします』」


 メリルは膝の上の指の腹をひと拍だけ固くした。


 固くした指のあとでメリルはひと呼吸、間を置いた。


 間の中でメリルは唇の上で、ひと音だけ、ライラ様の書きつけの中の一語を薄く拾った。


 拾った一語は『分』だった。


 分。


 分を超えた。


 分を超えたのは、誰のどの動作のことを、ライラ様の書きつけは、お指しになっておられるのか——


 メリルはもうおきしなかった。


 お訊きしないのはお訊きしてしまうと、ライラ様のお声の中にひと匙ぶん、ご自分でもまだお持ちになれていない、ふた朝目の恐れの温度が、もうひと粒、濃く乗ってしまうことが、指の腹に、もう分かっていたからだった。


「お聞きの通りで」


「……」


「お返事を、なさいな」


「……」


「お聞きの通りで、よろしゅうございますね」


「……」


 メリルは目を伏せたまま、唇をひと拍、保った。


 保った唇の上にいつもの「はい」はもう降りてこなかった。


 降りてこない代わりにふと、別の音が、唇のいちばん薄い層の上に薄く乗りかけた。


 乗りかけたのは十八年このかた、メリルが病室の床の端で病者に置いてきた言葉だった。


「……」


「お返事を、メリル」


「……」


「お返事を」


「……痛いのは」


 ライラ様の扇の柄の先が、ひと指ぶん、止まった。


「ええ」


「……ちゃんと」


「ええ」


「……治っていく、証です」


 言ってからメリルは唇をふっと、閉じた。


 閉じた唇の中で十八年このかた、その言葉は、病者の床の端で、いつも、誰かのために置かれてきた言葉だった。


 今朝、その言葉は初めて、自分の唇の上に、自分のために薄く乗った。


 乗った言葉の重さをメリルの指の腹は絹の敷物の縁の毛羽の上で、ひと粒だけ、量った。


 量った重さは軽くも重くもなかった。ただ、自分の重さをしていた。


 その重さの上でライラ様の青い目がひと拍止まった。


 止まった目の奥でライラ様はいま、ご自分でも、ご予想にならなかった種類のひと粒の何かをご自分の中に薄く拾われた。


「……いまの言葉は」


「……」


「いまの言葉は、誰のものでしたか」


「……病者のお床の端の言葉でございます」


「病者の」


「……痛いのは、ちゃんと、治っていく証です、と」


「お前のお口癖、と」


「ええ」


「いまは病者の床ではございませぬよ」


「……承りました」


「では、いまの言葉は誰のためのものでしたか」


「……」


「お返事を、なさいな」


「……ご返事に、迷うてございます」


「お迷いは、よくない癖ですよ」


「……仰せのとおりで」


 ライラ様の口の端の薄い笑みは、いつもの精度の場所には戻らなかった。お納めきらないままライラ様はふた呼吸、間を置かれた。


 間のあとでライラ様の口から出てきたお言葉はもういつもの『ええ』ではなかった。


「……お下がりなさい、メリル」


「……仰せのままに」


「お早く」


「……仰せのままに」


「治療院に、お戻りなさい」


「……」


「明日の朝までに、お薬の戸棚の中身を、お整えなさい」


「……お整え、いたしまする」


「お馬車の方には、こちらから、お渡しいたします」


「……承りました」


「お聞きの通りで、よろしいですね」


「……」


 メリルはもう一度、ライラ様のお言葉に、「はい」を返さなかった。


 返さない代わりにひと礼をして、立ち上がった。


 立ち上がった膝の角度をひと拍保ち直して、上段の間の扉のほうへ、向き直った。


 向き直る瞬間に、ソフィアお義姉さまの扇が絹の壁紙の前で、もう一度、ぱちりと、軽く閉じた。


 閉じた音はもう、メリルの頬には飛んで来なかった。


 飛んで来なかったのはソフィアお義姉さまの安堵が、もうひと粒、上のほうへ、お持ち上がりになっていたからだった。


 持ち上がった安堵の上にいま、ソフィアお義姉さまの目の奥のひと粒の恐れが、薄く、覆われていた。


 覆われた恐れを、メリルはもう見なかった。




 扉のほうへ、ふた歩、進んだ。


 扉の前で、もう一度ひと礼した。


 ひと礼の角度を、今朝は、ライラ様にお見抜きいただかないように、いつもよりひと指ぶん、浅くした。


 浅くした角度の上でメリルはふと、上段の間の窓のほうへ、ひと度だけ、お目線を、お運びになった。


 上段の間の窓は、奥棟のいちばん奥の北向きの窓だった。


 北向きの窓はふだん、油紙が貼られている。今朝はその油紙の上のほうのひと指ぶんが、わずかにめくれていた。


 めくれた指の幅の下から北の空が、ひと指ぶん、薄く見えた。


 空の色はいつもの晩秋の灰色ではなかった。


 ひと指ぶん、白かった。


 白さの中にひと粒、ふっと、白いものが、上から下へ、流れた。


 ひと粒だけ。


 すぐに油紙の縁の影の中に消えた。


 消えた白いひと粒のあとにもうひと粒は、続かなかった。


 続かなかったのはまだ、本格の雪ではないからだった。


 ただ、北辺の風が、もう、本格の雪のひと粒を、北辺路の方角から、領内のいちばん奥のこの窓の上まで、運んできていた。


 運んできていた風の中で、メリルの指の腹は明日の朝の馬車の幌の毛皮の冷えを薄く先取りした。


 先取りの底にもうひと粒、桔梗の最後のひと匙が揺れていた。


 揺れていた桔梗を、メリルは襟元に薄く納めた。


 扉の蝶番の軋みがふっと低く重なった。昨日の応接の間の蝶番よりひと音低い軋みの中で、メリルは上段の間を出た。




 お渡り廊下。


 帰りの侍女頭の足音はもう、半歩、広く取られなかった。


 いつもどおりの半歩の歩幅で侍女頭はメリルの半歩前を歩いた。


 半歩のあいだに、もう、メリルの手の届かない高さは、無かった。


 無くなったのはもう何も期待されない高さだったからだ。


 何も期待されない肩の上をお渡り廊下の高い梁の影がふっと、ひと撫でしていった。


 ひと撫でのあとで侍女頭はふと、お渡り廊下のいちばん中ほどで、足を止めた。


「メリルお嬢さま」


「……」


「お外套を」


「お願い」


「お襟元を、お整えいたします」


「……ええ」


 侍女頭の指がメリルの襟元でひと拍、止まった。


 止まった指のあとで襟元の絹のひだが、ひと指ぶん、内側に折り直された。


 折り直し方はいつもの侍女頭の所作ではなかった。


 いつもよりひと指ぶん、深く、ひだの中に、桔梗の薄い甘い匂いを、お隠しになる折り方だった。


 隠してくださった匂いの上に侍女頭はもうひと言、お言葉を、お加えになった。


「メリルお嬢さま」


「なあに」


「お明日あすのお発ちは、ようよう、お早うございますね」


「ええ」


「お薬の戸棚のお運びの分の毛布を、お馬車に、ふた枚、お入れいたしましょう」


「……ふた枚で」


「ふた枚で。お足元のお冷えのほうへ、お一枚」


「もうお一枚は」


「お肩のほうへ、お一枚」


「……」


「北辺路は、お肩から先に、お冷えになりますから」


 侍女頭の声はもう、乾いていなかった。


 乾いていない湿りは、昨日の朝の応接の間の前の間で湿った種類の湿りでもなかった。


 ただ、十八年このかた、屋敷の中で、メリルが、誰からも、ご自分の肩の冷えを案じられたことが、もしかしたら、なかったのかもしれない——


 その「もしかしたら」の薄い湿りだった。


 湿りをメリルは襟元のひだの中の桔梗の薄い甘い匂いの上で、ひと度だけ、受けた。


 受けた湿りは襟元の絹のひだの中で、もう一度、ふっと、薄く混じり合った。


 混じり合った匂いを侍女頭はもうひと撫でだけ、お整え直しになった。


「ありがとう」


「いえ。お早く、お戻りくださいませ」


「……治療院に」


「ええ。治療院に」


「……ええ」


「お明日の朝までに、お薬の戸棚の中身を、お整えになりませ」


「……」


「お明日のお発ちの刻限には、お見送りに、まいります」


「お願いします」


「ええ」


 侍女頭はひと礼して、もう何もお加えにならなかった。


 お加えにならない代わりにふと、メリルの肩の絹のひだの中の桔梗の匂いをもう一度、ご自分の指の腹のいちばん奥のほうで薄く、お預かりになった。


 お預かりになった匂いを侍女頭はもうお渡し直しにならなかった。


 預かったままふと、お渡り廊下の奥のほうへ、ひと礼を、ゆっくりとお運びになった。




 屋敷の裏門。


 馬車はまだ、待っていた。


 御者はもう、馬の蹄を整えていた。


 整えた蹄の音は来たときよりも、ひと指ぶん、急いていた。


 急いている分だけ北辺の風が、もうひと筋、強くなっていた。


 風の中で晩秋の枯れ葉の匂いは、もう薄れていた。


 代わりに、初冬の冷えが、ひと粒、濃く立っていた。


 立った冷えの底にいまひと粒だけ、薄い白さが薄く混じった。


 空からのひと粒ではなく、地から立ちのぼったしものひと粒だった。


 霜を、メリルの指の腹は裏門の鉄の取手の冷たさの上で拾った。拾った冷たさの上に、いつもの薄い甘さはもう立ちのぼらなかった。立ちのぼらないことを、メリルは初めて自分の指の腹で確かめた。


「メリルお嬢さま」


 御者のジレスが幌の脇でひと礼した。


「お早うございます」


「お乗りくださいませ」


「ええ」


「治療院までで、よろしゅうございますね」


「ええ。治療院まで」


「明日のお朝のお発ちは、二つの鐘で」


「承りました」


「お毛布は、ふた枚、お肩とお足元に」


「……ふた枚で」


「ふた枚で、ジレス、お預かりしてございます」


「ありがとう」


「お乗り、ようございましたら」


「ええ」


 メリルは幌の中に、ひと足、運んだ。


 幌の中の毛皮の匂いは、もうライラ様の上等な茶の湯気の匂いには似ていなかった。


 似ていない匂いの中で馬車は屋敷の裏路をいつもどおりの半里、戻り始めた。


 戻り始めた幌の中でメリルは膝の上の重ねた手のひらの中に、桔梗の薄い甘い匂いの最後のひと匙を薄く、お握りになった。


 お握りになった指の腹のいちばん奥のほうでもう一度、唇の上で、ひと音だけ、置き直した。


「……痛いのは、ちゃんと、治っていく証です」


 言ってからメリルは目をふっと、お閉じになった。


 閉じた目の奥で十八年このかた、病者の床の端で、いつも、誰かのために置いてきた言葉が、今朝、二度目にご自分のために薄く乗っていた。


 乗った言葉の重さはもう、軽くも、重くもなかった。


 ただ、明日の朝の北辺路の馬車の幌の毛皮の冷えの底まで、ふっと、薄く、お運びになる、ひと匙ぶんの重さだった。




 治療院の戸口。


 戸の軋みは、朝の軋みより、ひと音、低かった。


 戸口の桟の桔梗の薄い甘い匂いはもう、立っていなかった。


 立っていない桟の前で見習いの娘が、戸の内側から、ふと、お顔をお出しになった。


「メリルさま」


「……」


「お早うのお戻りで」


「ええ」


「お顔の色が」


「……」


「お屋敷の前よりも、お薄うございます」


「そう」


「お屋敷のお話は」


「……」


「メリルさま」


「明日の朝に」


「明日の朝に」


「……ハーロウへ、参ります」


「ハーロウ」


「ええ」


「いつの、ハーロウで」


「辺境の、北辺路の先の」


「……」


 娘の指が戸の桟の上でひと拍、止まった。


「……ハーロウ」


「ええ。辺境ハーロウ」


「……廃施療院」


「ええ」


「メリルさま」


「あなたも、お薬の戸棚のお運びと一緒に、お一人」


「……お一人で」


「ええ、お一人で」


「……かしこまりました」


「明日の朝、午前の二つの鐘」


「ええ」


「お薬の戸棚の中身を、今夜のうちに、整えましょう」


「……ええ、メリルさま」


「乾物の段は桔梗を、ひと束、多めに」


「ええ」


「甘草は、ふた束、多めに」


「ええ」


「上の段の古い記録は」


「……古い記録は」


「全部、お持ちします」


「全部で」


「ええ。全部」


「……かしこまりました」


「写しではなく、原本も」


「原本も、で」


「ええ、原本も」


「……」


「上の段は、爪先で立たねば届かないから」


「ええ」


「今夜は、わたしの爪先で、降ろします」


「……ええ」


「明日の朝までに、桔梗の段の和紙の角をもう一度、ご自分の指の腹で、撫でておきたい」


「メリルさま」


「ええ」


「……かしこまりました」


「明日の朝までに、上の段の中身を、全部、卓に降ろしておく」


「……お一人で」


「あなたと、ふたりで」


「……はい、メリルさま」


「あなたも明日、ご一緒に」


「ええ、メリルさま」


「お屋敷の戸籍のほうは」


「お屋敷のお記録に、わたくしの名は、もう、ありませぬ」


「もう」


「ええ、メリルさま。今朝のうちに」


「……早いこと」


「ええ。早うございました」


「ハーロウは、雪の中で」


「ええ。雪の中で、お一緒に」


「お薬は、八年ぶんの記録ぜんぶ」


「八年ぶんで」


「足りなければ、また、新しく」


「ええ、メリルさま」


「お毛布は、お屋敷から、ふた枚」


「ふた枚」


「お肩と、お足元」


「ええ」


「ジレスさんが、御者で」


「お屋敷のお馬車で」


「ええ。北辺路はひと冬しのいだ御者だそうです」


「……ようございました」


「お薬の戸棚は、いま、降ろしましょう」


「いま、で」


「いま、ふたりで」


「はい、メリルさま」


「桔梗の段から」


「桔梗の段から、で」


「ええ。いちばん上の和紙、いちばん下の和紙」


「いちばん上は、爪先で」


「ええ、わたしの爪先で」


「お手伝いいたします」


「ありがとう」


 娘の『はい』は湿っていなかった。


 乾いていた。


 乾いた『はい』の中にただ、ひと粒だけ、明日の朝の馬車の幌の中の毛皮の冷えの先取りが、薄く混じった。


 混じった先取りをメリルは戸口の桟の上で薄く、お受けになった。


 お受けになった上でメリルは戸口の内側へ、ひと足、お入りになった。


 入った戸の内側の油皿の灯のほのかな温度の中に、桔梗の薄い甘い匂いがふっと、もう一度、立ちのぼった。


 戸口の桟の桔梗ではなかった。


 メリルの襟元のひだの中の侍女頭が、奥棟のお渡り廊下のいちばん中ほどでひと指ぶん深く、お隠しになってくださった桔梗だった。


 お隠しになってくださった桔梗が、油皿の灯の温度の中でいま、もう一度、立ちのぼった。


 立ちのぼった匂いをメリルは襟元のひだの中から、ひと指で、ふっと、取り出した。


 取り出した匂いを薬棚の桔梗の段の和紙の角に、もう一度、薄く戻した。


 戻した匂いの上で桔梗の段の和紙の角のふだんの匂いと、いまの匂いが、ひと粒、重なった。


 重なったあとメリルはその上に、もう一度、ご自分の指の腹を薄く当てた。


 当てた指の腹の下で桔梗はもういつもの桔梗の匂いだった。


 いつもの匂いの中でメリルは薬棚の上の段に、ふと、ご自分の目を、お向けになった。


 上の段は、爪先で立たねば、届かない。


 届かない高さの中で昨日の夕、長身の右の手のひらが「次に上の段を取るときは私に声をかけられるとよい」と、ふと、お置きになった。


 お置きになった声は今夕、もう、ここには、お届きにならない。


 お届きにならない声の代わりにメリルは爪先をひと指、立てた。


 立てた爪先の上で上の段の古い記録のいちばん端の和紙が、薄く湿った匂いを、ひと筋、立てた。


 湿った匂いの中に亡き前公爵夫人の長く眠ってきた指の通り跡が、ひと粒、薄く混じった。


 混じった指の通り跡の上にメリルはご自分の指の腹をひと度だけ、重ねた。


 重ねた指のあとで上の段の和紙のいちばん端を、爪先のままで、ふっと、薄く、引き降ろした。


 引き降ろした和紙の重さは十八年このかた、爪先で量ってきた、ふだんどおりの重さだった。


 ふだんどおりの重さの中に今夕、もうひと匙だけ、別の重さが乗っていた。


 別の重さの名をメリルの指の腹はまだ、呼ばなかった。


 呼ばないままで和紙の束を、卓の上に薄く置いた。


 置いた束の上で夕の油皿の灯が、ひと粒、低く、揺れた。


 揺れた灯の影が卓の上に薄く、ひとつの形を落とした。


 形はいつもの手のひらの形ではなかった。


 ただ、和紙の束の角の形だった。


 ひとつぶん。


 そのそばに、もうひとつの和紙の束の角はまだ、無かった。


 無いままで夕の灯が、ゆっくり、低くなった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第七話「婚約破棄」をお届けしました。前話の応接の間が「日常の作法のままで圧をかけてくる場」だったのに対し、今話の上段の間は、屋敷の奥棟のふだんは判じごとしか持ち込まれない場として置きました。卓も覚書の束も無く、絹の敷物が一枚。ライラ様の扇の柄の先が縁の毛羽を半歩ぶん撫でる——昨日の朝、応接の間の卓の木目を撫でた歩幅と、ぴたりと同じ歩幅。母から娘へ、扇の歩幅だけは、十八年のあいだに、もうひと撫でぶん、伝わっていました。


リオネル殿下は、今話、不在のままです。お知らせの書きつけは、昨夕のうちに、王都へ。書きつけの中の「分を超えて」という一語の重さを、メリルはもうライラ様にお訊きしません。お訊きしてしまうと、ライラ様のお声の中のふた朝目の恐れの温度が、もうひと粒、濃く乗ってしまうことが、指の腹に、もう分かっていたからです。


お義父さま——アルヴィン様の「ル」の音が、降りてきませんでした。「メ」「リ」までは、唇の上でひと指ぶん、お持ち上がりかけて——けれど、三音目の「ル」はもうお義父さまの口の中に、お呑みになりました。呑まれた「ル」の音を、メリルはお義父さまの背中に、お返ししませんでした。お返ししないことが、いま、お義父さまのなで肩の十八年の重さにひと匙だけ、お余白を残してさしあげる、最後の作法だったように思います。


最後に、メリルは「はい」を返しません。代わりに、十八年このかた、病者の床の端で、いつも誰かのために置いてきた流儀の言葉——「痛いのは、ちゃんと、治っていく証です」——を初めて、ご自分の唇の上にご自分のために薄く乗せました。その言葉は、明日の朝の北辺路の馬車の幌の中で、もう一度、薄く運ばれていきます。次話「廃院の扉」では、その「ひと匙ぶんの重さ」が、辺境ハーロウの初雪の軒の下で、どう、ふた匙目を持つことになるかを書きます。


毎日19時更新予定です。☆評価・ブクマ・感想をいただけると、何より次話の励みになります。

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