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十八年前の赤子の取り違え——婚約破棄された「養女」が、公爵家のただ一人の正統な令嬢だと判明した日  作者: 歩人


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6/20

第6話: 義姉の激昂

 夜明けの指が手の甲の上で止まっていた。


 止まったのは指ではなく、指が拾った温もりの跡のほうだった。昨夕、桔梗ききょうの段の和紙の角の上に降りてきた長身の右の手のひら。その跡は夜半に消えるはずだった。


 消えるための作法をメリルは十八年、ライラ様から教わってきたはずだった。いま、その作法が思い出せない。


 手の甲の上で温もりはひと粒、まだ薄く灯っている。寝台の中で手の甲を裏返した。裏返した手のひらは昨朝より重い。重さの分だけ、起きるまでにひと呼吸、余分にかかった。




 治療院の土間。


 朝の煎じ薬の支度はもう半分済んでいた。


 残りの半分を見習いの娘が代わってってくれている。


 土間の奥の長椅子では、咳の老爺がひと匙の煎じを口に含んでいた。隣で、湿布を巻き直してもらっている少年が、足の甲の包帯のあたりをそっと撫でている。


「メリルさま、お薬、苦うてかなわん」


「お苦うございますね。お苦いほうが、よう効きまする」


「効きますか」


「ええ。お効きになります」


「ほんに?」


「ほんに」


 老爺は薄く笑った。少年も、笑った老爺のほうを見て、ひと粒つられて笑った。


「メリルさま」


「ええ」


「お屋敷に上がられるお仕度を」


「……ええ」


「お刻限は」


「午前の三つの鐘」


「お早ようございますね」


「ええ」


「いつもより、お半時はんとき、早うございます」


「お茶のお相伴しょうばんね、と」


「お茶の」


「ライラ様から、昨夜遅くに」


「ご言伝ことづて、でございましたか」


「ええ」


「お茶の」


 娘は擂り粉木を持つ手を止めなかった。手のひらの下で薬研皿やげんざらの縁がほんの低く鳴った。その低さの中に娘の小さな躊躇ちゅうちょがあった。


「メリルさま」


「なあに」


「お茶のお相伴は、いつもと」


「いつもと」


「いつもと、お運びがちがうように、お聞きしてしまいました」


「……」


「申し訳ございませぬ」


 娘の声尻が薄く下がった。下がった声尻の中に、娘が昨夕、戸口の柱で見たもの——少年の額の上で重なった二つの手のひら——の影がうっすら残っていた。


 メリルは答えなかった。代わりに手の甲の温もりの跡を、もう片方の手のひらでそっと覆った。覆った手の中で温もりは消えなかった。


「お屋敷から、お迎えの方が」


「来られたのね」


「もう、表の門に」


「……ええ。参ります」


「お外套を」


「お願い」


「お持ちいたします」


 娘は外套を運んできた。手のひらが、ふとメリルの手の甲の上で止まりかけ、止まらずに、外套を肩にかけた。襟元を娘の指が一度だけ整えた。整え方がいつもよりひと指ぶん、丁寧だった。


「行ってまいります」


「お気をつけて」


「ええ」


「メリルさま」


「なあに」


「お早く、お帰りくださいませ」


 娘の声はささやきよりも、もうひと粒、低かった。低くしているのは娘の咄嗟とっささばき。「治療院でお待ちしております」というひと言が音にならずに置かれていた。


 拾った指で、薬棚の桔梗の段の和紙の角を、出がけにもう一度撫でた。桔梗の薄い甘い匂いがひと筋立った。襟元に薄く忍ばせて、メリルは戸口を出た。




 屋敷までの裏路うらじ。半里。徒歩でちょうど三十分。


 半里の道。


 いつもより半歩だけ運びが遅い。


 遅くしているのは手の甲だった。温もりを揺らさぬよう肘の角度を保つ。


 北辺の風が頬を低く撫でた。昨夕よりひと筋、冷たい。


 冷えの底に晩秋の枯れ葉の匂いが薄く混じる。


 こずえのあいだから屋敷の裏門の灰色の石柱が見えてきた。


 灰色の石柱の前で門番が一礼した。


 いつもの一礼だった。


 いつもの一礼のはずだった。


 ただ、頭を下げきった門番の目の高さが、いつもより半指、低く落ちた。


 落ちた目の高さで門番はメリルの肩のあたりを見ていた。


 肩のあたり——治療院から襟元に忍ばせてきた桔梗の匂いがちょうど立つあたりを。


「お早うございます」


「お早うございます、メリルお嬢さま」


 お嬢さまの音は、いつもどおりだった。


 いつもどおりのはずだった。


 ただ、いつもならその音の中にひと粒、軽い空気が混じる。


 今朝のその空気は混じっていなかった。


 空気の代わりにひと粒別の重さが落ちていた。


 重さの種類をメリルの指の腹が裏門の鉄の取手の冷たさで測った。


 取手は昨日と同じ冷たさだった。


 冷たさは変わらないのに、取手の手応えが昨日と違って固い。


 固さを返してくるのは取手のほうではなかった。


 取手を握っている自分の指のほうだった。




 屋敷の中廊。蝋燭ろうそくの灯がいつもより低く揺れていた。


 角を曲がる前に、向こうから二人の侍女の足音がふっと止まった。立ち話を畳んだ音だ。


「お早うございます、メリルお嬢さま」


「お早うございます、メリルお嬢さま」


「お早う」


「お通りくださいませ」


「ありがとうございます」


 二人の頭の上がりが、いつもより半指、早かった。早く上げた目線がメリルの手の甲のほうに落ちて、すぐに退く。退いた目線の戻りの先で、侍女たちは廊下の脇に半歩、寄って道を譲った。


 譲った歩幅がいつもより半歩、広い。半歩ぶん、メリルの通る道が余分に空けてあった。


 退かれている。退かれているのは肩のあたりではない。手の甲の温もりの跡のあたりだった。


 メリルは廊下の角をもう一つ曲がった。肩越しに侍女たちの足音をうかがう。足音は動き始めていた。動き始めているのに、囁きはもう動かない。止めた囁きが廊下の天井のはりの影のあたりに薄く溜まっていた。


 止まりかけていた囁きの欠片が、ふいに、角を曲がりきったあとで、薄く戻ってきた。


「……治療院の」


「ねえ」


「殿下が、お運びになったとか」


「お静かに」


「でも」


「お静かに、と」


「……」


「お聞きになられますわ」


 二粒の囁きは、それきり、また止んだ。


 昨日までの屋敷の空気には、こんな重さは無かった。




 応接の間の手前——前の間。屋敷の侍女頭が燭台の脇に立っていた。


「メリルお嬢さま」


「お早うございます」


「ライラ奥さまがお待ちでございます」


「お茶の」


「お茶の、と承っております」


「あの、側板サイドボードのあれは」


「……お聞き及びには」


「ええ」


「お入りになれば、お分かりに」


「……そう」


「お入りくださいませ」


「お先に」


 承っております、の音尻が、ひと粒湿った。礼を解いた侍女頭の目線が、いつもならメリルの顔の高さに戻るところを今朝は戻らない。戻る代わりに、扉の脇——いつもなら何も置かれていない側板のあたりに逃げた。


 逃げた目線の先で、側板の上には覚書おぼえがきの束。手写しの紙が三、四枚。いちばん上の紙の右下には公爵家の印が、まだ朱の乾ききらないかたちで押されていた。


 朱の乾きの薄さを五歩離れたところからメリルの指の腹が見抜いた。


 扉を侍女頭が開けた。閉じる音が、いつもならひと拍のを置く音だった。今朝のそれは間を置かずに落ちる。落ちた音の余韻の中に、応接の間の空気が、もう完成された形でメリルを待っていた。




 応接の間。


 卓の上には茶器は無かった。


 茶葉の匂いも無かった。


 代わりに卓の中央に、覚書の束が一山。


 側板の上の朱印と同じ印が、いちばん上の紙の右下にもう一度押されている。


 二度目の朱は、ひと指ぶん濃く乾いていた。


 乾いた朱の隣に、墨の走り書きが一行。


 走り書きの墨は、まだ完全には乾ききっていない。


 乾ききっていない墨の上から、上座の長椅子で扇を膝に置いたソフィアお義姉さまの視線が、メリルの足の先に落ちてきた。


「お入りなさい、養女」


 ソフィアお義姉さまの声は、いつもより低かった。


 低くしているのは音ではなかった。


 扇の関節の固さだった。


 関節を固くしたまま扇は膝の上で静止している。


 静止した扇の角の向きが、いつもならメリルの顔のほうに開く向きだった。


 今朝のそれは、卓の中央の覚書の束の角を、まっすぐに指していた。


「……失礼いたします」


「お黙りなさい」


 ソフィアお義姉さまの声はひと粒上ずった。


 上ずったあとで、扇の関節の固さがふっと音を立てた。


 音はぱちりではなかった。


 扇の骨と骨が、まだ開かないまま擦れ合うかすかな鳴り——


 あの鳴りの中で、上座の奥の長椅子に座っているライラ様が、ゆっくりとお茶碗を持ち上げる仕草をなさった。


 お茶碗——ではない。


 卓には茶器が無いと、もうメリルの指の腹は気づいている。


 ライラ様の指が持ち上げているのは、空気だった。


 空気を持ち上げる仕草のままライラ様の口の端が。いつもの薄い笑みのかたちに整えられた。


「メリル」


 ライラ様の声はいつもどおり穏やかだった。


 穏やかなのに、その穏やかさの中に、今朝はひと粒、別の温度が混じっていた。


 温度はぬるかった。


 ぬるさの底に冷えがあった。


「お座りなさいな」


 メリルは下座の小椅子の前に立った。


 立ったまま。いつもの作法どおりにひと礼した。


 ひと礼の角度はいつもどおりだった。


 いつもどおりのつもりの角度が、上座から見たときに、いつもよりひと指ぶん浅かったらしい。


 ライラ様の薄い笑みの口の端がひと粒、軽くまった。


「角度が、足りませぬよ」


「……」


「もう一度、お下げなさいな」


 メリルはふた呼吸礼を保ち直した。


 保ち直したあとで膝を折って小椅子に腰を下ろした。


 下ろした膝の上で、両の手をいつものように重ねた。


 重ねた手の上の手は——昨夕の温もりの跡が残っているほうの手だった。


 メリルは、咄嗟とっさに、その手をもう片方の下に隠した。


 隠す動作はひと拍、遅かった。


 遅さをライラ様の灰色がかった青い目が、見抜かないはずがなかった。


「メリル」


「……お聞きしております」


「お聞きしておりますの前に、お顔をお上げなさいな」


「……」


「ええ。そう」


 ライラ様は。いつものとおり、ゆっくりうなずいた。


 頷きのあとで、卓の上の覚書の束のいちばん上の紙を、扇の柄の先で、ふっと一寸いっすんほどメリルのほうへ押し出した。


 扇は——ソフィアお義姉さまの扇ではない。


 ライラ様の扇だった。


 ライラ様の扇は、ふだん帯の脇に挿してあって、卓の上に出されることはほとんどなかった。


 出された扇の柄の先で押し出された紙の上の墨の走り書きがいまちょうどメリルの目の高さに来た。


 走り書きの墨はまだ薄く湿っている。


 湿った墨の文字をメリルの指の腹が読んだ。


 ——『第二王子リオネル殿下、領地治療院、午後、滞在。』


 ——『同所にて、養女メリル、対座。日数。』


「読みましたか」


「……」


「お返事を、なさいな」


「……読みまして、ございます」


「では、もう一枚」


 ライラ様は、二枚目の紙を扇の先でめくった。


 二枚目はいちばん上の紙より、もうひと指ぶん古い。


 古い紙のほうの墨は、もう完全に乾いていた。


 乾いた墨の上の文字は、ひと目で読める走り書きだった。


 ——『治療院 報告。少年の患者・湿布、お爺の咳、引きの早さ、記録の半分の日数。』


「これは」


「……治療院の」


「治療院の、お記録、ね」


「……ええ」


「写しを、誰がお寄こしになったのでしょうね」


「……お言葉に、ございます」


「写したのは、メリル、あなた、でしょうね」


「……仰せのとおりで、ございます」


「写しは、わたくしの手元に上げる手筈てはずだったはずですよ」


「……上げては」


「上げていない」


「……上げて、ございませぬ」


「ええ。上げていない。あなたが、ね」


「……お言葉、心に留めまする」


「お返事は」


「……申し訳ございませぬ」


「申し訳、ね」


「……」


「お屋敷の手筈をお飛ばしになるのは、いつ以来かしら」


「……」


「お答えなさいな」


「……はじめてで、ございます」


「ええ。はじめて」


「……」


「はじめての、お理由はおありで?」


「……お答えに、迷うてございます」


「お答え、できぬ?」


「……できませぬ」


「お答えできぬ、お理由は、おありで?」


「……お答え、いたしかねまする」


「ええ。それでよろしいですわ」


 ライラ様の声は穏やかだった。穏やかなのに、語尾の最後のひと音だけが低く落ちた。落ちた音の底に、扇の柄の先がそっと卓の木目を撫でる音が重なる。


 撫でる音は鳴りではなかった。木目の一本の上を、扇の柄の先が半歩ぶん滑った音だった。


 半歩——


 昨夕、薬棚の桔梗の段の前で、長身の右の手のひらが降りてくる速さの幅と、ぴたりと同じだった。


 同じことを、ライラ様の指が、メリルの指の腹よりひと呼吸ぶん早く、もう知っていた。


「お母さま」


「なあに、ソフィア」


「もうよろしいでしょう」


「ソフィア」


「お母さま」


「お控えなさいな」


「もう、よろしいでしょう。あの子に、もう、お紙をお見せいただかなくとも」


「ソフィア」


「お見せいただかなくとも、あの子はもう——わたくしのお部屋の前を通るときのこうべの下げ方を、忘れて参りましたわ」


「ソフィア、お声を」


「お母さま、もうよろしいでしょう」


「お控えなさい」


「だって、お母さま——あの子は、わたくしの婚約者のお名前を、お屋敷の作法の外で、お呼び申し上げているのですわよ」


「ソフィア」


「治療院で、『リオネル殿下』、と」


「ソフィア」


「『メリル殿』と、お呼ばれになって、ご返事を、なすって」


「お控えなさいな」


「お控えなさい、と仰せられるたびに、あの子の手の甲の上の、あの跡が、もうひと粒、濃くなりますわ」


「ソフィア」


「お母さま、ご覧くださいませ。あの上の手を」


 ソフィアお義姉さまの膝の上の扇の関節がほどけた。ほどけた扇が、ひと拍のを置いて、ぱちりと開いた。開いた音の角は、いつもなら絹の壁紙にすぐ吸われる音だった。今朝のそれは吸われずに、メリルの頬のあたりまでまっすぐ飛んできた。


 扇の角がもう一度ぱちりと鳴った。二度目の音は最初よりひと粒強い。強さの分だけソフィアお義姉さまの頬の色が、ひと指ぶん赤くなった。


 赤さの底にあるのは怒りだった。怒りの奥にもうひと層あるものを、メリルの指の腹はまだ拾わない。拾ってしまうと、ソフィアお義姉さまの怒りに哀しみをひと粒足してしまうからだった。


「ソフィアお義姉さま」


「お黙りなさい」


「……」


「養女」


「……」


「お答えなさいな」


「……」


「あなた、お屋敷の作法を、お忘れになって?」


「……いいえ」


「いいえ?」


「……お忘れではございませぬ」


「では、お聞きしますわ」


「……」


「あなたが、いつから、わたくしの婚約の殿下を、『リオネル殿下』とお呼びになっていらっしゃるの」


「……」


「お屋敷では、『第二王子殿下』と、お呼びするのが、決まりですわよ」


「……失礼を」


「失礼、では済まないことですわ」


「……」


「治療院では、なんと、お呼び申し上げているの」


「……」


「お答えなさいな」


「……」


「『リオネル殿下』と、お呼びしているのでしょう」


「……お呼び、しております」


「『リオネル殿下』と」


「……仰せのとおりで」


「殿下の側からは、なんと、お呼ばれになっていらして?」


「……」


「『メリル殿』、でしょうね」


「……お呼ばれ、いたしまする」


「『メリル殿』なら、よろしいの」


「……お返事に、迷うてございます」


「『メリル殿』、と」


「……」


「お黙りは、よくない癖でしてよ」


「……仰せのとおりで」


「では、もう一度。お答えなさい、養女」


 メリルは、膝の上で重ねた手を、ひと指ぶん固くした。


 固くした手のひらの下で、手の甲の温もりがふっと薄く立ちのぼった。


 立ちのぼった温もりを、絶対に、ソフィアお義姉さまの扇の角に拾わせてはならない。


 拾わせない方法を、メリルの指は十八年、この屋敷で覚えてきたはずだった。


 覚えてきたはずの方法をいま思い出さなければならない。


 思い出す前に、ライラ様の指が、扇の柄の先で、ふといちばん上の紙の墨の走り書きの『養女メリル』という記名の上を、ふっとなぞった。


 なぞる動作は早くなかった。


 早くないのに、なぞる指の角度に、十八年このかた、ライラ様がメリルに対して見せたことのなかった種類の、ひと匙だけの硬さが乗っていた。


 硬さの底にあるのは怒りではなかった。


 怒りではなかった。


 もっと別の、もう少し低いところから来る何か——


 メリルの指の腹は、その低いところをいままだ覗き込まない。


 覗き込んではいけない。


 覗き込むのは、まだ、早い。


「ソフィア」


 ライラ様の声が、ふいに、ソフィアお義姉さまの扇の前に置かれた。


「お控えなさいな」


「お母さま」


「お控えなさいな、と、申しました」


 ライラ様の声は穏やかだった。


 穏やかなのに、その穏やかさがいまソフィアお義姉さまの扇の角の音をぴたりと止めた。


 止めた音の余韻の中で、ライラ様は、卓の上の覚書の束を、扇の柄の先で、ゆっくりとひと束に揃え直した。


 揃え直した束の角を卓の木目に対して、きっちり、平行にお置きになった。


 平行の精度はいつもどおりだった。


 いつもどおりの精度のはずだった。


 ただ、その平行の角の置き方の——いつもならひと拍で済む置き方が、今朝はふた拍、長かった。


「メリル」


「……」


「お聞きなさいな」


「……お聞きしております」


「次の月の半ばに」


「……」


「王家へ、正式な、ご挨拶に上がります」


 メリルは目を伏せた。


 伏せたまま、唇の上で、ライラ様の言葉の末尾の『正式』を、もう一度薄く撫でた。


 正式。


 その言葉がいま誰の名のものか——


 答えは、ライラ様のお口からは出てこない。


 出てこないのが、答えだった。


 卓の上の覚書の束のいちばん上の紙の右下の朱印。


 朱印のすぐ左に走り書きされた、リオネル殿下の御名と、領地治療院の名と、対座の日数。


 その朱印は、ソフィアお義姉さまの正式な婚約の儀の、上奏じょうそうの手筈の朱印だった。


 上奏の手筈には、当然、仮の婚約者の名は、もう書かれていない。


 書かれていないのが、上奏の手筈の、当然の作法だった。


「ご挨拶は」


「……お聞きしております」


「お返事を、なさいな」


「……お聞き入れ、いたしまする」


「ご挨拶は、誰が、参るのか、お分かり?」


「……お義姉さま、と」


「ええ」


「……ご一行に」


「お義姉さまと、お母さまと、お父さまと」


「……うけたまわりました」


「あなたは?」


「……」


「お答えなさいな」


「……参りませぬ、と」


「あなたは、参りませぬね」


「……仰せのとおりに」


「お返事は、はっきりと」


「……」


「もう一度」


「……仰せのままに、ライラ様」


「ええ。それでよろしい」


「……」


「お聞き入れの早さは、いつもどおりですわね」


「……承知、いたしました」


「お返事は、それだけで、よろしゅうございますよ」


「……」


「お顔をお上げなさいな」


「……」


「ええ、そう」


「……」


「おこうべの角度は、ようよう、いつもどおりに、戻りましたね」


 ライラ様の口の端の薄い笑みがひと粒満ち足りた。


 満ち足りた笑みの下で、扇の柄の先が、卓の上の覚書の束のいちばん上の紙の『養女メリル』という記名を、もう一度軽く撫でた。


 軽く撫でた指のあとで、墨の薄い湿りがふっとひと筋、立った。


 立った湿りの匂いの中で、ライラ様は、ふともうひと言、お加えになった。


「メリル」


「……お聞きしております」


「治療院の務めは」


「……お務め、いたしてございます」


「あなたに、こそ、似合うておりますよ」


「……お言葉、心に留めまする」


「身の程というのは、それを申すのですよ」


「……お言葉に、従いまする」


「ええ」


「……」


「治療院の務めには、これからも、お励みなさいな」


「……お励み、いたしまする」


「ええ。お励みなさいな」


 二度目のお励みなさいな、の音はひと粒低かった。


 低い音の中に、ライラ様はひと拍間を置いた。


 間を置いたあとで、扇の柄の先で、卓の上の覚書の束のいちばん下のほうから、もう一枚の紙を、扇の角でずらし出した。


 いちばん下の紙は、束の中でいちばん古い紙だった。


 古い紙の墨は、もう茶色みがかっている。


 茶色みがかった墨で書かれた一行を、メリルの指の腹が、卓の縁の冷えの上で、無意識にもう先に読んでいた。


 ——『辺境ハーロウ。廃施療院。所領目録、第十七節。』


「……」


「これは、まだ、後の話ですよ」


 ライラ様の声は穏やかだった。


 穏やかなのに、ふいに、扇の柄の先がその古い紙を束の中にもう一度、隠した。


 隠された紙の上に、いちばん上の朱印の紙が、いつもどおりの平行で、ふっと戻った。


「お茶を、お運びしてもらいましょうか」


「……」


「ソフィア。お呼びくださいませな」


「……はい、お母さま」


 ソフィアお義姉さまは扇を、ぱちりとひと音で閉じた。


 閉じた扇の音は、もう、応接の間の絹の壁紙にすぐ吸われた。


 吸われた音の余韻の中で、ソフィアお義姉さまは銀の小鈴こすずをひと振りした。


 小鈴の音は、いつもより半音、高かった。


 高い半音の中で、扉の外の侍女頭の足音が、ふっと近づいてきた。




 お茶が運ばれてきた。


 茶器は卓の上にいつもどおりの位置に置かれた。


 ライラ様の前。


 ソフィアお義姉さまの前。


 そして、メリルの前——


 メリルの前にだけ、湯飲みではなく、小皿が置かれていた。


 小皿の上には、ひと粒の干菓子ひがし


 ひと粒だけ。


 ライラ様の前にも、ソフィアお義姉さまの前にも、干菓子は無かった。


 二人の前には湯飲みだけがあった。


 メリルの前にだけ、湯飲みは無く、干菓子のひと粒だけがあった。


「メリル」


「……」


「お茶は、よろしいわね」


「……」


「治療院の白湯と、お屋敷のお茶では、お舌が、慣れぬでしょう」


「……」


「お干菓子だけ、お召し上がりなさいな」


「……ありがとう、ございます」


「お召し上がりは」


「……ただいま」


「お早く」


「……お早く」


「お早く、と」


「……仰せのままに」


 ライラ様の声は穏やかだった。穏やかさの中に、もう隠れる温度はひとつも無かった。


「お母さま」


 ソフィアお義姉さまの扇の角がふいにぱちりと一度叩いた。叩いた音は絹の壁紙にすぐ吸われる。


「なあに、ソフィア」


「……あの子の手」


「ええ」


「ご覧になって」


「ええ。見ております」


「上の手が」


「ええ」


「手の甲の、跡が」


「ええ、見ております」


「跡が、消えませぬわ」


「ええ」


「お母さま、消えませぬのですわ」


「ソフィア」


「……お母さま」


「ソフィア、ご無用」


「でも、消えませぬのを、お母さまも、もうご覧になって」


「ご無用、と申しました」


 ソフィアお義姉さまは湯飲みをひと口、お召し上がりになった。所作は令嬢らしく整っていた。整った角度の中で、目線だけがメリルの膝の上の手のほうに、ふっと落ちた。


 落ちた目線がメリルの上の手——昨夕の温もりの跡が残っているほうの手——のあたりでひと拍止まる。


 止まった目線の奥に、いま、はっきりと、もうひと層の温度があった。怒りでも侮蔑ぶべつでもなく、その奥の——


 メリルの指の腹は、その奥のもうひと層を初めて薄く拾った。拾ったのは恐れの温度だった。ソフィアお義姉さまの目の奥にひと粒だけ、それがあった。


 あったことを、メリルは見なかったことにした。


 見なかったことにしたのは、見てしまうと、ソフィアお義姉さまの今朝の扇の角の二度の鳴りがひと粒別の意味になってしまうからだった。


 別の意味にしてはならない。


 まだ、ならない。


 今朝いまこの応接の間で、別の意味にしてしまうと——


 メリルは、その先まで考えなかった。


 考えない代わりに、小皿の上の干菓子のひと粒をようやく指の腹で、薄く挟んだ。


 挟んだ指のあとで、砂糖の粒のかすかな乾きが指に残った。


 残った乾きを、メリルは、襟元で、軽く払った。


 払った指のあとに、桔梗の薄い甘い匂いがひと筋、薄く立った。


 立った匂いの中で、メリルは、干菓子を、口に運んだ。


 口の中で、干菓子は、すぐに溶けた。


 溶けた甘さの底に、桔梗の薄い甘さがひと粒薄く混じった。


 混じった味を、ライラ様の薄い笑みの口の端がいまもご覧になっていた。




 応接の間の窓の外で、午前の三つの鐘が、低く、長く、鳴った。


 鐘の音は屋敷の中庭の石畳の上で、いつもどおりの厚みで響いた。


 いつもどおりの厚みの中で、廊下の向こうから、別のお足音がひと粒、近づいてきた。


 お足音は。いつものお足音よりひと指ぶん頼りなかった。


 お足音の主は、扉の前で、ふた呼吸ほど、立ち止まった。


 立ち止まった音のあとで、扉が、ふっと軽く叩かれた。


「お父さま」


 ソフィアお義姉さまの声が、扉のほうへ向いた。


「……入ってよろしいか」


「お入りくださいませ、お父さま」


 扉が、ゆっくり開いた。


 お義父さま——アルヴィン様が。いつものとおり、なで肩の角度で、敷居をまたいでお入りになった。


 お入りになったあとで。いつものとおり、卓の上の覚書の束を、ひと目、ご覧になった。


 ご覧になった目の伏せ方は、いつもどおりだった。


 いつもどおりの伏せ方のはずだった。


 ただ、お義父さまの目の伏せ方の中に、今朝はひと粒、いつもとは別の色が、薄く混じっていた。


 混じった色は、躊躇いの色だった。


 躊躇いの色がメリルの足の先のあたりで、ふっと止まった。


 止まったあとで、お義父さまは、メリルの顔をご覧にならなかった。


 ご覧にならない代わりに、ライラ様のほうへ、ひと礼お向きになった。


「……ライラ。話は」


「ええ、アルヴィン様」


「もう、お通しに」


「お通ししました」


「……そうか」


「お聞き入れくださいましたわ」


「……そうか」


 お義父さまの『そうか』は、二度ともいつもよりひと粒低かった。続けようとした声が、卓の朱印にお目線が落ちたところでふっと引いた。


「あの……ライラ」


「はい」


「メリルの、その……治療院の」


「お任せくださいませ、アルヴィン様」


「いや、しかし、あの子は」


「アルヴィン様」


「いや、わたしは」


「もうお決まりのことですもの」


「……そうか」


「上奏の朱印も、もう」


「……そうか」


「明日、王家へ、お送りいたします」


「……明日か」


「ええ、アルヴィン様」


「メリル」


「……お聞きしております、お義父さま」


「……」


「……お義父さま」


「いや。よい」


「……」


「……済まぬ」


 その「済まぬ」は、声に出していらっしゃらなかった。


 お義父さまの唇は形だけ動いて、音は卓の朱印の上で薄く止まった。止まった音を、メリルの指の腹は、いま、見なかったことにした。


 見てしまうと、明日の朝、治療院の戸口で、桔梗の段の和紙の角を、ふだんどおりの指の運びで撫でられない。撫でられない指で、明日の午後、殿下の長身がお運びになる戸口を開けられない。


 膝の上の重ねた手の上の手——昨夕の温もりの跡が残っているほうの手——を、メリルはひと指ぶん、下の手のひらの中に深く隠した。隠した手の中で、温もりはもう立ちのぼらなかった。




「メリル」


 お義父さまの声がようやくメリルの顔のほうへ、薄く落ちた。


「……お聞きしております、お義父さま」


「……治療院の務めは」


「……」


「これからも、よろしく頼む」


「……うけたまわりました、お義父さま」


 お義父さまの『よろしく頼む』のあとで、ライラ様の薄い笑みの口の端が、ふっともうひと粒、満ち足りた。


 お義父さまは、その満ち足りた口の端を、ご覧にならなかった。


 ご覧にならない代わりに、お義父さまは、卓の上の覚書の束のいちばん上の紙の右下の朱印を、ふっともう一度、ご覧になった。


 ご覧になったあとで、お義父さまは、ご自身でひと礼なさって、応接の間をもうお出になった。


 お出になる扉の蝶番の軋みは、敷居を越えるときにひと拍長かった。


 長くなった一拍を、メリルの指の腹はいま初めて、見たことのある一拍として、覚えた。


 覚えた一拍は、お義父さまが昨夜、ご寝所の前で、ライラ様のお話をお聞きになったあとに、ご自分のお部屋の扉を、お閉めになるときの、お足音と——


 ひと指ぶん、同じだった。


 同じことを、メリルの指の腹はいま見抜いた。


 見抜いたうえで、メリルは、もう、それを、お義父さまの背中のほうに向けて、お返しすることはなかった。


 お返ししなかったのは、お義父さまの背中の弱さをいまメリルの指の腹で、お責めしてはいけないと、知っていたからだった。


 お責めしてはいけない弱さの背中が、扉の向こうにゆっくり、消えていった。


 消えていった背中のあとで、扉は、ふっと低く閉じた。




 応接の間。


 扉が閉じる。


 戸の軋みは。いつもの軋みより、ひと音、低かった。


 いつもの軋みの中で、卓の上の覚書の束は、いつもどおりの平行を、まだ、保っていた。


 保っている平行の角の上で、ライラ様は、ゆっくりと湯飲みをお取り上げになった。


 湯飲みを。いつものとおり、ふた口、お口にお運びになった。


 お運びの所作は、いつもどおり、整っていた。


 整っていた所作の中で、ライラ様は、ふとメリルのほうへ、お目線を、軽く落とされた。


「メリル」


「……お聞きしております」


「干菓子の甘さは、いかが」


「……ようございました」


「ようございましたか」


「……仰せのとおりで」


「お屋敷の干菓子は、治療院のお粥よりは、お甘うございましょう」


「……ええ」


「お甘うございますね」


「……お甘うございました」


「お甘さは、覚えておおきなさいな」


 メリルは目を伏せたままひと呼吸答えを呑んだ。


「お甘さは、すぐ忘れますわ。覚えておおきなさいな、というのは、そういう意味ですよ」


 ライラ様の薄い笑みは、もう、口の端を動かさなかった。


 動かさない笑みの底にいま初めて、メリルの指の腹は、ライラ様の本当の温度を、薄く拾った。


 拾った温度は、ぬるくはなかった。


 冷えてもいなかった。


 ただ、十八年このかた、メリルがいつもライラ様に対して感じてきたのとは別の、ひと粒だけの——


 恐れだった。


 ライラ様の目の奥のいちばん下のほうにいまひと粒だけ、それがあった。


 ソフィアお義姉さまの目の奥のひと粒と、ちょうど、同じ層に、ある。


 二粒は、同じ層に並んでいた。


 並んでいたのを、メリルの指の腹は初めて見た。


 見たうえで、メリルは、その二粒をいまここで、見たことにしなかった。


 しなかったのは、見たことにしてしまうと、いまから治療院に戻る半里の道を。いつもの足の運びで、歩けないと知ったからだった。


「お下がりなさいな、メリル」


「……仰せのままに」


「お早く、お戻りなさい」


「……治療院に」


「ええ。治療院に」


「……」


「治療院は、あなたに、こそ、似合うておりますよ」


 三度目の『あなたに、こそ』の音は、もう、低くはなかった。


 ただ、薄かった。


 薄い音の中で、メリルは、立ち上がった。


 立ち上がった膝の角度を。いつものとおりひと拍保ち直した。


 保ち直したあと、ひと礼をして、応接の間の扉のほうへ、向き直った。


 向き直る瞬間に、ソフィアお義姉さまの膝の上で、扇が、もう一度ふっとぱちりと閉じた。


 閉じた扇の音は、もう、メリルの頬には飛んで来なかった。


 飛んで来なかったのは、ソフィアお義姉さまがいまようやく、扇の角を、絹の壁紙のほうへ、お向き直しになったからだった。


 お向き直しの角度の中に、ソフィアお義姉さまの目の奥のひと粒の恐れが、もう、薄く隠れていた。


 隠れた恐れの上で、ソフィアお義姉さまは。いつもの令嬢のお顔に、お戻りになった。


 お戻りになったお顔のほうを、メリルは、ご覧にならなかった。


 ご覧にならない代わりに、扉のほうへ、ふた歩、進んだ。


 扉の前で、もう一度ひと礼した。


 ひと礼の角度を、今度は、ライラ様にお見抜きいただかぬようひと指ぶん深くした。


 深くした角度を、ライラ様は、ご覧になっていた。


 ご覧になったうえで、ライラ様は、もうひと言、お加えにならなかった。


 お加えにならない代わりに、扇の柄の先で、卓の上の覚書の束のいちばん上の紙の右下の朱印を、もう一度ひと撫でなさった。


 ひと撫での音は、もう、卓の木目を滑らなかった。


 滑らずに、朱印の上で、ふっと止まった。


 止まった扇の柄の先の——いまから次の月の半ばに上奏される正式の婚約の儀の朱印——を、メリルは、ご覧になった。


 ご覧になったあとで、メリルは、扉のほうへ、もうひと歩、進んだ。


 扉が、ゆっくり開いた。


 扉の蝶番の軋みは、入ってきたときの軋みと、同じ低さだった。




 応接の間を出る。


 前の間。


 侍女頭が、燭台の脇で。いつもの折り目正しい角度で待っていた。


 いつもの折り目の中で、侍女頭はメリルの肩のあたりへ、ふっとお目線を、お当てになった。


 当てたお目線が、もう、肩から半歩、退かなかった。


 退かなかったのはいまメリルの肩のあたりから、もう、桔梗の薄い甘い匂いが、立たなくなっていたからだった。


 立たなくなった匂いの代わりに、メリルの肩のあたりには、ライラ様の薄い茶の、ぬるい湯気の名残がひと粒薄く乗っていた。


 乗っていた湯気の名残は、屋敷の中庭に出る前に、ふっと消えた。


 消えたあとに、メリルの肩には、もう何の匂いも残らなかった。


 何も残らない肩のあたりを、侍女頭の目線は、ふだんどおりの高さで、お見送りになった。


「メリルお嬢さま」


「お世話になりました」


「お外套を」


「お願い」


「お早うのお戻りで、ようございました」


「ええ」


「お屋敷のお茶は、お口に合いませなんだか」


「お干菓子だけ、頂戴いたしまして」


「左様で、ございましたか」


「ええ」


「またのお運びを、お待ち申し上げております」


 またのお運びを、の音は、もう、湿っていなかった。


 乾いていた。


 乾いた音の中で、メリルは、屋敷の裏門のほうへ、足を運んだ。


 裏門の手前の中庭の石畳の上で、午前の三つの鐘の余韻が、もう、薄く消えかけていた。


 消えかけていた鐘の余韻の中に、もう一度別の鐘が、ふっと低く鳴った。


 別の鐘——


 いつもの三つの鐘の音ではなかった。


 その鐘は、屋敷の中庭の北の角の、いちばん古い小さな鐘だった。


 小さな鐘は、ふだんは、年に幾度かしか、鳴らされない鐘だった。


 婚約の儀の上奏の手筈が、王家に向けて、整ったときに鳴らされる鐘だった。


 その鐘がいまいちど、低く、鳴った。


 いちどだけ。


 いちどだけが、慣例だった。


 いちどだけの鐘の音を、メリルの指の腹は、裏門の鉄の取手の冷たさの上で、聞いた。


 聞いた指の腹のいちばん奥のほうで、昨夕の温もりの跡がいまようやく、ふっと薄くなった。


 薄くなった温もりは、もう、立ちのぼらなかった。


 立ちのぼらないことを、メリルは初めて自分の指の腹で知った。


 知ったうえで、メリルは、裏門の鉄の取手を、ゆっくり押した。


 押した取手の冷たさが、指の腹に、固く、返ってきた。


 固さの底に、もう、温度はなかった。


 無い温度の上を、メリルは、ふた歩、踏み出した。




 裏門の外。北辺の風がひと筋強くなっていた。風の中で晩秋の枯れ葉の匂いは薄れ、初冬の冷えが勝つ。


 半里の裏路うらじ


 遅くしているのは、もう手の甲ではなかった。襟元のあたりだった。桔梗の薄い甘い匂いがもう立たない。代わりにライラ様の薄い茶のぬるい湯気の名残がひと粒薄く乗ったままだ。


 いちど、襟元を軽く払った。何の匂いもなくなった。


 北辺の風がまたひと筋、撫でていく。覚えのある薄い甘さがふっと戻ってきた。桔梗だった。襟元の桔梗ではない。指の腹のいちばん奥のほうにひと粒だけ薄く残っていた桔梗の匂いが、ようやく外に出てきたのだ。


「……痛いのは、ちゃんと、治っていく証です」


 病者にいつも置く言葉だった。


 言葉は唇の上で軽くも重くもなかった。ただ、ひと呼吸、揺れていた。


 屋敷の中庭の北の角の小さな鐘の余韻は、もう聞こえない。代わりに、半里の道のいちばん奥のほうから、治療院の戸口の油皿の灯のほのかな温度が、ふっと薄く近づいてきた。


 近づいてきた温度を、メリルの指の腹はまだ拾わなかった。


 拾ってしまうと、明日の午後、長身の右の手のひらが、薬棚の桔梗の段の和紙の角に降りてこられないと知ったからだった。


 お待ちしてはいけない手のひらが、明日もし、戸口にお運びになったとしたら——


 メリルはそこで考えを止めた。古い枯れ葉の山の上をふた歩、踏み越える。葉の音はいつもよりひと指ぶん低かった。


 立たないままで、晩秋の裏路はゆっくり夕の方向へ傾いていった。




 治療院の戸口。戸の軋みは朝の軋みと同じ低さだった。


 敷居の段でひと拍、足を止める。戸口のさんのあたりに、まだ桔梗の薄い甘い匂いがひと筋、残っていた。


 戸口の内側から、見習いの娘が出てきた。手のひらの上に湯気の椀がふた粒、乗っている。


「メリルさま」


「……ええ」


「お早うお戻りで、ようございました」


「ええ」


「お粥は、いつもよりひと匙、多めに」


「ありがとう」


「お椀の縁も、温めてございます」


「ええ」


「殿下のお湯は——」


 娘は湯気の椀をふた粒、メリルのほうへひと指ぶん差し出した。


「ふた粒で、ご用意してございます」


「……」


「メリルさま」


「ふた粒は」


「……」


「ひと粒に」


「……ひと粒に、なさいますか」


「ええ」


「白湯のひと粒は」


「今夕は、ようございます」


「……かしこまりました」


「もうひと粒は」


「……」


「戸口の柱の脇に、立てておいて」


「お立てしておきます。明日の朝まで」


「ええ」


「お湯気は、たぶん、明日の朝にはもう」


「ええ、立たないでしょう」


「……ええ」


「それでもよいの」


「はい、メリルさま」


 娘は湯気の椀のひと粒を薬棚の脇の卓に置いた。もうひと粒は戸口の柱の脇にふっと立てた。立てた湯気の柱は戸口の桟の桔梗の薄い甘さの上に薄く重なった。


「ありがとう」


「メリルさま」


「なあに」


「お外套を、お預かりいたします」


「お願い」


「お顔の色が、お屋敷の前よりも、お戻りで」


「戻った?」


「お戻りに、なっておられます」


「……そう」


「ええ。少しずつ」


「お粥の支度は、もう」


「すぐ、お出しいたします」


「お椀は、ひとつで」


「ひとつで、メリルさま」


「ええ」


老爺ろうやのお咳は」


「ようやく、引きはじめました」


「少年の足は」


「湿布の跡が、もう、薄うなって」


「……ようございました」


「お薬の効きが、よろしいので」


「効いた、というよりは、御身が、ご自分で、よう治っておられるのです」


「ええ」


「いつものことです」


「いつものことね」


「はい、メリルさま」


 メリルは目を伏せた。伏せた目の奥で、昨夕、長身の右の手のひらが薬棚の桔梗の段の和紙の角に降りてきたときの、ひと拍の遅さの音が、もう一度薄く鳴った。


 ようやくひと呼吸、長く吐いた。吐いた息は油皿の灯の下でもう白くは見えなかった。


 戸を閉める。軋みは朝の軋みよりひと音、低かった。その低さの中に、屋敷の中庭の北の角の小さな鐘の余韻が、ふっと戻ってきた。


 追いついた鐘の余韻を、戸口の油皿の灯がひと粒、低く揺らした。揺らした灯の影が卓の上にひとつの形を落とした。


 扇の角の、ぱちりという音の——閉じた扇の影だった。


 ひとつぶん。


 そのそばに、長身の右の手のひらの影は、もう無かった。


 無いままで、夕の灯がゆっくり低くなった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第六話「義姉の激昂」をお届けしました。前話の余韻——少年の額の上で重なった二つの手のひら、桔梗の段の和紙の角に残った長身の右の手のひらの跡——を、屋敷の側がどう察知するか、というのが今話の主題でした。


ライラ様は声を荒げません。穏やかなままに、覚書の束をひと束、卓の上に置きます。墨の走り書きの「養女メリル、対座、日数」と、すぐ脇の朱印——「次の月の半ばに、王家へ正式な、ご挨拶に上がる」。その「正式」が誰の名のものか、ライラ様のお口からは出てきません。出てこないのが、答えでした。一方、扇の音を二度立てるのはソフィアお義姉さまのほうです。彼女の怒りの奥に、メリルの指の腹は、いま初めて、ひと粒の「恐れ」を拾います。同じ「恐れ」が、ライラ様の目の奥のいちばん下の層にも、薄く並んでいる——その並びを見たことを、メリルは、いまここでは、まだ見たことにしないと決めます。


お義父さま——アルヴィン様の登場は、扉のほうへ向いた「お父さま」ではなく、メリルの口の「お義父さま」のままに置きました。お義父さまの「治療院の務めは、これからも、よろしく頼む」は、お声に出してくださった精一杯のひと言だったように思います。ただ、お声の前に、お目線が、卓の朱印に落ちて、声がふっと引いてしまう——その「引いた一拍」を、メリルの指の腹は、お責めしませんでした。お責めしてはいけない弱さを、いまここでお責めしてしまうと、明日の戸口の油皿の灯が、ふだんどおりに揺れなくなるからです。


帰り路の襟元から、桔梗の匂いが、ひと粒だけ、薄く戻ってきます。戻ってきた匂いの上で、メリルは、いつも病者に置く「痛いのは、ちゃんと、治っていく証です」を初めて自分の指の腹のいちばん奥のほうに、薄く置きました。湯気のお椀「ふた粒」は、見習いの娘の心遣いのままに用意されていましたが、メリルは「ひと粒に」と、自分の指で、戸口の桟の上で、その境目を引きました。次話「婚約破棄」では、その「ひと粒」と「ふた粒」のあいだに引かれた境目の上で、屋敷の側が、決定打を、メリルの肩のあたりに、置きにきます。


毎日19時更新予定です。☆評価・ブクマ・感想をいただけると、何より次話の励みになります。

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