第5話: 触れた手のこと
朝の指が手のひらの上で止まっていた。
目を覚ましたばかりの指だ。
昨夜、卓の上の半月形の封蝋を開けずに引き戻した指でもある。
その指の腹に薄い冷えが残っている。
冷えの底にほんの少しの熱もある。
冷えと熱が指の腹で並んでいた。
メリルは寝台の中で手のひらを裏返した。
裏返した手のひらは自分のものではないように軽い。
「……名前」
声に出してみる。
声に出した名前はもう自分のものだった。
「メリル、と」
昨夕「明日もここに来てよいだろうか」と問われた音がまだ耳の奥にある。
返事はしなかった。
しなかったことがいまも指の腹に残っている。
残っているうちにもう一度起きなければならない。
寝台を降りる足はいつもより半歩、軽かった。
治療院の土間。
朝の煎じ薬の支度。
擂り粉木を握る手のひらが薬研皿の縁を律儀に測る。
いつもの動作だ。
いつもの動作の上に今朝はもう一段、軽い重みが薄く乗っていた。
「メリルさま」
見習いの娘が薬戸棚の脇から呼ぶ。
「お加減は」
「いつもどおりよ」
「お声がいつもより」
「いつもよりも」
「お明るうございます」
「……そう」
「擂り粉木の音も軽く聞こえます」
「聞こえる」
「はい。たんぽぽの綿毛みたいに」
娘の声は朝にしては快活だった。
頬の色も昨朝より戻っている。
昨夕、戸口の柱の影で湯気の椀を抱えて立っていた娘だ。
いまは椀ではなく布巾を抱えている。
「あら、たんぽぽ」
メリルはふっと笑った。
笑ったのは屋敷で笑った笑いではない。
「擂り粉木はたんぽぽよりは重うございますよ」
「お軽そうにお握りで」
「軽く握れているなら、いい徴ね」
「徴、でございますか」
「擂り粉木は握りが固いと薬草が苦くなるの」
「まあ」
「だからできれば、たんぽぽくらいで擂りたい」
「うふふ」
娘の口の端で笑いが薄くほどけた。
ほどけた笑いの中でメリルは頬の熱を指に降ろさせなかった。
降ろさせなかったというよりは降ろさなくてもよくなった。
昨夜のうちに頬と指の境目を自分でひと筋引いておいた。
引いた境目は朝になっても消えていなかった。
屋敷の客間に殿下は滞在しておられる。
昨夜遅くライラ様から短い言伝てが届いた。
明朝は応接の間に上がらずともよろしい、治療院の務めを優先なさい、と。
午後、殿下が再び治療院を訪う予定だから、と。
書きつけの末尾にはライラ様らしい慇懃な一行があった。
——殿下のお目を必要以上にお引きにならぬよう。
メリルはその一行を油皿の灯の下で二度、読んだ。
二度目に読んだあと、書きつけを薬棚の小引き出しの隅にゆっくり折って入れた。
甘草の段だ。
乾燥甘草のかすかな青い匂いが書きつけの紙の上に薄く乗った。
その匂いの上から引き出しを静かに閉じた。
閉じた引き出しの音はいつもよりも低く落ちた。
午過。
病室の油皿の油を継ぎ足した。
包帯を巻き直した。
少年の額にもう一度、手のひらを当てた。
手のひらが熱を量る。
昨朝より低い。
昨夕より、もっと低い。
今朝より、さらに低い。
量るたびに半度ずつ引いている気がする。
気がするというよりは引いている。指がそう判じる。
判じきってからメリルは首を傾げた。
半度。
昨日までの少年の引き方はこれほど律儀ではなかった。
律儀すぎる。
もう一度、指の腹がそうつぶやいた。
「姉ちゃん」
少年が薄目を開けた。
「ええ」
「今日、頭がね」
「頭が」
「いつもよりも軽い」
「軽い」
「うん。風船みたいだ」
「あら、風船」
「ふわふわ」
「いい徴ね」
「うん」
メリルは少年の額から手のひらを離した。
離した手のひらの中に少年の熱の薄い残りがあった。
薄い残りは薄いまま、指の腹にとどまっている。
いつもならすぐに散る残りだ。
今日のそれは散らずに残っていた。
残ったままメリルは手のひらをゆっくり閉じてみた。
閉じた手のひらの中で残りが温かい。
「……どれどれ」
声に出してもう一度開いてみる。
開いた手のひらの上にもう残りはなかった。
散った。
散ったのはいつもよりひと呼吸、遅かった。
ひと呼吸の遅さを指の腹がはっきり拾った。
「メリルさま」
見習いの娘が戸口で立っている。
「殿下が」
「来られたのね」
「もうじき、と申されまして」
「ええ。お通しして」
「かしこまりました」
娘の足音が廊下に消えていった。
メリルは手のひらをもう一度閉じた。
閉じた手のひらの中の温かさはもう戻ってこなかった。
戸の軋みは昨夕と同じ低さだった。
二度目、三度目と数えるのはもうやめた。
数えるよりも戸口の桟に手のひらを当てて外の風の冷えを測るほうが先だった。
今日の風は昨夕よりひと筋、冷たい。
北辺の風が領内の風に混じり始めている。
晩秋がもう少しだけ深くなった。
灰青の外套が戸口の半歩前に現れた。
「メリル」
名のあとの間は昨夕より短かった。
短くなったのは慣れたからではない。
間を置く必要がもうなくなったからだ。
「お運びをお待ちしておりました」
「待たせたか」
「いいえ」
「供は」
「お一人と承っております」
「うむ」
答える声にいつもの「うむ」とは別の、ひと粒だけの軽さがあった。
軽さの分だけ殿下の歩幅が敷居をまたぐときに早かった。
早かったのは半歩ぶん。
半歩ぶんを指が数えた。
数えてからその数え方がまた変だと思った。
「お入りください」
「では」
「敷居の段に」
「ああ」
戸が閉じる。
閉じた戸の内側で外套の裾の音がふっと止まった。
止まった裾の音のあとで殿下の視線がまっすぐメリルの手のほうに降りた。
「メリル」
答えなかった。指先が冷えた。
「手の冷えは」
「……いえ」
「指がいつもより白い」
メリルは指を施療衣の襟元に隠しかけて止めた。
隠す動作が見抜かれている。
見抜かれている動作を隠すのはもっといけないことだ。
「擂り粉木を握っておりました」
「擂り粉木は握ると指が冷えるか」
「冷えませぬ」
「では」
「……」
「冷えたのは別の理由か」
メリルは答えなかった。
答えなかったのは別の理由がひとつではなかったからだ。
昨夜の卓の半月形の封蝋。
今朝のライラ様の書きつけ。
甘草の段に折って入れた紙の青い匂い。
そしていま、戸口の桟に当てた指の腹で読んだ北辺の風のひと筋。
どれを言っても嘘ではない。
どれを言っても本当ではない。
「お粥を温めましょう」
メリルは別の言葉に流した。
流した言葉のあとで、自分の声の運びが見習いの娘に教えたC型の答え方と同じだったことに気づいた。
業務的な確認に流す。
ライラ様のお屋敷で十八年、メリルが身に染ませてきた捌きだった。
その捌きをいま、殿下の前で使った。
使ったことを殿下が見抜いた気がした。
見抜いたうえで殿下は何も言わなかった。
言わずに薄く頷いた。
「いただこう」
頷いたあとに声がそれだけ短く乗った。
短さの中に「いまは聞かない」という間があった。
その間をメリルの指の腹がありがたく受け取った。
少年の床。
今日の少年は昨日よりも上体を起こしていた。
枕に寄りかかる角度がひと指ぶん深い。
「兄ちゃん」
殿下が小さく顎を引いた。
「また来てくれた」
「来た」
「ありがと」
視線が少年の額のあたりに動いた。礼の音を受け取った、というだけの間だった。
「兄ちゃんね」
「それで」
「今日は、お粥、運んでもらった?」
殿下は黙って次を待った。
「じゃあ、運んできたの?」
「今日も運ぶ側でも運ばれる側でもない」
「ふうん」
少年は薄く笑った。
笑ったあと少年は枕の上でふと首を傾けた。
「姉ちゃん」
「ええ」
「兄ちゃんも姉ちゃんの手、見にきたんだよね」
「……ええ」
「じゃあ、手、ふたつになるね」
「手、ふたつ」
「うん。姉ちゃんの手と兄ちゃんの手」
少年の声は無邪気だった。
無邪気なのに指の腹の奥のほうを軽く撫でられた気がした。
メリルは少年の額に手のひらを当てた。
いつもの動作だ。
その動作の傍でふっと殿下の長身が片膝の角度で低くなった。
昨夕と同じ位置どり。
ただし昨夕より半歩、近かった。
「メリル」
「……はい、リオネル殿下」
指の腹が一瞬、少年の額の薄い熱を律儀に拾い直した。
「私も量ってよいだろうか」
メリルは止まった。
手のひらを少年の額に当てたまま止まった。
止まった指の腹が少年の額の熱をもう一度律儀に量り直した。
昨朝より半度。
昨夕より半度。
今朝より半度。
律儀すぎる引き方がもう一度、指の腹で告げる。
「……お手を」
「ああ」
「重ねてよろしゅうございますか」
「あなたの手の上に私の手を」
「……お願い、いたします」
声は自分のものとは思えないくらい軽く出た。
軽く出たのは頬の熱がまだ頬に留まっていてくれたからだ。
頬に留まっている熱は指の運びの邪魔をしない。
メリルは額に当てた手のひらをそのままに置いた。
その上に長身の右の手のひらがゆっくり降りてきた。
降りる速さは急がなかった。
降りきった手のひらはメリルの手の甲の冷えをまず一段、温めた。
「……」
息がメリルの胸の上で止まった。
止まった息の出口を指は探さなかった。
探さなくても息の出口は手のひらと手のひらのあいだにすでにあった。
「少年の額は」
殿下の声は低かった。
長身の顎の下で声がまっすぐ下に落ちる。
「あたたかい」
「ええ」
「あなたの手のひらと同じ温さ、ではない」
「……」
「私の手のひらよりいくらか高い。あなたの手のひらよりいくらか低い」
「左様で」
「ふた呼吸ぶん引いた気がする」
メリルは目を伏せた。
伏せた目の奥で、自分の指の腹の判じが殿下の手のひらの判じと同じことを語っていた。
ふた呼吸。
半度の二倍。
昨夕からの引き幅がちょうどそれくらいだった。
「お引きが早うございますね」
殿下が顎をひと度、引いた。
「いつもより半日ぶん早うございます」
「半日」
「ええ。昨日と同じ手当てで半日、早く」
「……」
殿下は手のひらをまだ離さなかった。
離さなかったのは手のひらの下の熱をまだ量っている途中だったからだ。
量っている途中で殿下の指の腹はふいに止まった。
「メリル」
返事を呑み込んで、メリルは殿下の目を見返した。
「あなたの手のひらの下から薄く、ぬくいものが出ていないか」
止めた息がようやく戻ってきた。
戻ってきた息が頬の上でひと粒、揺れた。
「……ぬくいもの」
「言い方がよくない」
「いえ」
「薄い湯気のような、と言うべきだろうか」
「湯気はございませぬ」
「目に見えるものではない」
「……」
「ただ私の手のひらの腹があなたの手の甲を通して薄くそれを拾っている」
メリルは答え方を知らなかった。
知らなかったのはその問いに答えたことが十八年、一度もなかったからだ。
「……たぶんお湿布の薄い熱を、お拾いになったのでは」
「湿布の熱はもうお引きでは」
「お引きでございます」
「では」
殿下の手のひらはまだメリルの手の甲の上にあった。
その手のひらがほんの少し力を抜いた。
力を抜いたあとでもう一度、置き直された。
「あなたの手から出ている」
「……養女ですから」
言葉が口の中でいつもの位置に戻ってきた。
「養女ですから、なにも、できませぬ」
「養女、というのと、いまの話と、関わりがあるか」
「……」
「あなたの手のひらの下でいま熱が引いた。ひと呼吸ぶん早く」
「……」
「それは養女である無いに、関わらぬことだ」
メリルは目を上げなかった。
上げなかったのは上げると頬の熱がいま指の腹まで降りてきそうだったからだ。
「お手をお退けくださいませ」
「ああ」
殿下の手のひらがゆっくり離れた。
離れた手のひらのあとに、メリルの手の甲の上で薄い温もりだけが残った。
残った温もりはしばらく散らなかった。
散らないことがまたいつもの自分の手とちがった。
いつもとちがう手は自分の手ではないようで、けれど自分の手だった。
「もう、お眠りに」
メリルは少年の枕辺に声を置いた。
少年は寝息を立てていた。
いつ眠ったかメリルにも分からないほど、自然な寝息だった。
ふた呼吸ぶん引いた熱は寝息の上でもうほとんど薄かった。
次の床。
漁師あがりの老人。
メリルは胸元の湿布をいつもの順でめくった。
今日の湿布は昨夕よりもっと薄く湿っていた。
夜半の咳の名残がほとんど無い。
「お爺さん」
「……お」
「夜の咳は」
「……一度」
「短く?」
「短くだ」
「お眠りは」
「眠れた」
「よろしい」
「……あんたの湿布が」
「湿布のおかげです」
「あんたの手の」
「手ではございませぬ」
「お爺の勘が」
老人は薄く目を開けてメリルの肩のうしろを見た。
「兄さんはまだ来ておられるな」
「ええ」
「今日は姉さんの隣に立っておられる」
「……」
「昨日は後ろだった」
「ええ」
「今日は隣だ」
「……隣で」
「お爺は目だけは、まだ効くんだ」
老人の口の端がゆっくりひと粒だけ持ち上がった。
持ち上がったあとでまた寝息の中に落ちた。
「殿下」
メリルは湿布の縁を指で押さえながら声だけを肩のうしろに送った。
「ええ」
「お爺の咳が、夜半に一度に減りました」
「ふた晩で」
「ふた晩でひと度に」
「早いか」
「……早うございます」
「どれくらい」
「……三日ぶんは」
言ってからメリルは指の動きを止めた。
止めた指の腹に薄い熱がまた立った。
病者の熱ではない。
頬の熱でもない。
もう少し奥のほうから来る熱だった。
「メリル」
「……お聞きしております」
「あなたの手当ては、いつもこうか」
「いえ」
「いえ、というのは」
「いつもはもっとゆっくりでございます」
「では、なぜ、今回は」
「……」
「お爺がよく眠るからか」
「……眠ってくださるおかげで、湿布が効きます」
「湿布だけで三日ぶん早まるか」
「……」
「私の問いにつかえてよろしい」
殿下の声は押さなかった。
押さない問いほど答えにつかえる。
つかえた指を湿布の縁の上でもう一度、押さえ直した。
「……分かりませぬ」
「分からぬ、と」
「分からぬのです」
「正直に申されてよい」
「お爺の眠りも少年の引きも、いつもより早うございます」
「いつもの、いつ頃と」
「……前公爵夫人さまがお遺しになった頃の」
「ふむ」
「治療院の古い記録にお爺の咳に効いた湿布の引きが書いてございます」
「あなたが写したのだな」
「……ええ」
「写した記録に引きの早さが書いてあるのか」
「ええ」
「いまのお爺の引きと比べて」
「……古い記録のほぼ半分の日数で引いております」
「半分」
殿下の声はまた低かった。
低い声の中に押さない驚きがひと粒、混じった。
混じった驚きを押さずに、そのまま指のほうへ降ろさせた。
「あなたの手は、半分の日数でお爺を引かせている」
「いえ、湿布が」
「湿布も、ええ。ただし湿布の手順は記録のままだろう」
「……ええ。記録のままで」
「では、半分は別の理由だ」
メリルは首をゆっくり振った。
振った首の角度がいつもの否定の角度よりひと指ぶん浅かった。
「……分かりませぬ」
「分からぬ、というのは」
「養女ですから」
また、その言葉が口の中でいつもの位置に戻ってきた。
「養女ですから、わたしには、なにも」
言いさしてメリルは唇を止めた。
止めたのはいま自分が言いかけた言葉がいつものそれと少しだけ別の音をしていたからだ。
いつもの「養女ですから」は退く者の作法だった。
いま口から出かけた「養女ですから」は退く者の作法ではなかった。
ただ、答えを持たない者の苦し紛れだった。
苦し紛れをいまの自分は退く者の作法とひと括りにしてしまっている。
ひと括りにしている自分を指の腹が薄く咎めた。
「……分かりませぬ。けれど」
「けれど」
「……お爺はよく眠ってくださいます」
「ええ」
「眠ってくださるあいだに湿布が効くのだと思います」
「あなたの手のひらがお爺をよく眠らせる」
「……分かりませぬ」
「分からぬまま八年、棚に通って」
メリルは目を伏せたまま、薄く頷いた。
「分からぬまま引かせてきた」
「……ええ」
「あなたが知らずに」
「……知らずに」
「知らずに、というのは」
殿下の声の上にふいに薄い気配が降りた。
昨夕、薬棚の前で亡き夫人の指の通り跡と自分の指の通り跡が重なったあの気配と同じ重さ。
重なる気配だ。指がそう告げた。
ただし何が何の上に重なっているのかメリルにもいまの殿下にもまだ見えない。
見えないものを二人とも見ようとはしなかった。
ただ湿布の縁の上に薄くその気配だけを置いた。
置いたあとでメリルは湿布の縁の貼りをゆっくり整え直した。
「お爺、お休みください」
「ええ」
老人は薄く笑った。
笑いのあとで咳が一度、低く落ちた。
落ちた咳がいつもよりほんの少しだけ短かった。
薬棚の前。
メリルはいつもの位置に立った。
いつもの位置からいつものように小引き出しの段に指を置いた。
甘草の段ではない。
今日は桔梗の段だ。
咳止めの後を引く滋養の段。
「メリル」
薬棚の格子を背に殿下の長身が立っていた。
昨夕と同じ位置。
ただし昨夕より半歩、近い。
その半歩をメリルの指の腹が桔梗の段の和紙の角の上で測った。
「お訊ねがあれば」
「ある」
「お聞きいたします」
「あなたの手のあとは」
殿下の声にためらいはなかった。
ためらいを見せないと決めた声の運びだった。
「病者によく効く」
「……」
「先ほどの少年。先ほどのお爺。昨夕の少年の額。昨夕のお爺の咳」
「左様で」
「私の見たかぎりで引きが早い」
「……」
「これは養女である無いに、関わりがあるか」
「……」
「もう一度、訊く」
殿下は押さなかった。
押さないまま、もう一度、同じ問いを置いた。
「あなたの手のあとがよく効くのは、あなたが養女である無いに、関わりがあるか」
メリルは桔梗の段の角をゆっくり、指の腹で撫でた。
撫でた指のあとに薬草の薄い甘い匂いが立った。
その匂いの中でメリルの声が自分でも意外なほど静かに出た。
「……養女ですから、なにも、できませぬ」
「ふむ」
「お屋敷ではそう、教わって参りました」
「教わって、来た」
「ええ。ライラ様から繰り返し」
「繰り返し」
「身の程をわきまえなさい、と」
「身の程」
「ええ。手のひらが届く先は薬研皿までで、よろしい、と」
「薬研皿、までか」
「……仰せのとおりで」
「では、お爺の咳には」
「……」
「お爺の咳には、薬研皿の薬草が届いている」
「……ええ」
「届いて、効いている」
「ええ」
「届くのは、誰の手か」
メリルは唇の上で答えをふた呼吸、探した。
探したあとで、答えは出てこなかった。
出てこない答えをライラ様の言葉でまた、ひと括りにしようとした。
しようとして止めた。
止めたのは止めるべきだと指が告げたからだ。
「……わたしの手、です」
「そうか」
「わたしの手で擂り、わたしの手で湿布の縁を押さえております」
「では、効いているのは」
「……湿布、ですけれど」
「湿布だけか」
「……」
「先ほどの引きの早さは」
「……養女にしては、少し」
言いさしてメリルは止まった。
言いさした言葉が口の中で軽く転んだ。
「養女にしては」
「ええ」
「少し」
「……ええ」
「少し、何だろうか」
「……不思議なほど効きがよろしいのかもしれませぬ」
言ってしまってからメリルは唇を軽く噛んだ。
言いすぎたと指の腹が告げた。
言いすぎたのに引っ込められないことをもう指は知っていた。
「不思議なほど」
「……」
「あなた自身も不思議に思っておられたか」
「……はい」
「いつから」
「……小さな頃から」
「いつから誰にも申されなかったか」
「……」
「ライラ殿には」
「……申せませぬでした」
「申すと、どうなる」
「……身の程を、と」
殿下は目を伏せた。
伏せた目の奥でひと呼吸、何かを聞いていた。
聞き終わって殿下はまた目を上げた。
上げた目に押しつけがましさはなかった。
ただ確かめる目だった。
「メリル」
桔梗の段の和紙の角の上で、メリルの指がひと拍だけ止まった。
「あなたの手は養女のものでも令嬢のものでもない」
「……」
「病者の前で効いているか効いていないか」
「……」
「それだけだ」
「……」
「効いている、と私はいま見た」
メリルは桔梗の段の和紙の角の上から指を離さなかった。
離してしまうといま殿下に置かれた言葉が和紙の角と一緒に剥がれて落ちてしまう気がした。
落ちてしまえばいつもの位置に戻れない。
戻れない自分は明日の朝、屋敷の応接の間でいつものように半歩、引けない。
引けない自分はソフィアお義姉さまの一歩後ろに立てない。
立てない自分はライラ様のいつもの問いにいつものように「はい」と返せない。
返せない自分は——。
メリルはそこで考えを止めた。
止めたのはその先まで考えると頬の熱が今度こそ指の腹まで降りてくる気がしたからだ。
降りてきた熱はもう引かない。
引かない熱を明日、屋敷に持って上がるわけにはいかない。
「殿下」
殿下の視線がメリルの指の高さで止まった。
「お言葉はもったいなく頂戴いたします」
「もったいなくはない」
「……はい」
「事実を申しただけだ」
「……はい」
二度目の「はい」はひと粒、軽かった。
軽くなったのは昨夕、薬棚の前で口にした別のかたちの「はい」と同じ層に、もう一段深く沈んだからだ。
沈んだ「はい」は和紙の角の上に薄く留まった。
夕の光が薬棚の上のほうからゆっくり降りてきた。
降りてきた光は桔梗の段の和紙の白さをいっそう薄く立たせた。
立った白さの中に二人の沈黙がしばらく置かれていた。
戸口の柱の影では見習いの娘が湯気の椀を抱えていた。
今日も息を殺している。
殺し方は昨夕より慣れている。
「殿下」
「うむ」
「お湯を、一杯」
「いただこう」
娘が椀を運んでくる。
殿下は両手で受け取った。
受け取り方が昨夕よりひと指ぶん、自然だった。
湯気の柱が長身の顎の下でまっすぐ立った。
「白湯か」
「白湯にございます」
「ひと口、いただこう」
ひと口だけ含んで椀を戻す。
戻された椀の中の湯気がふとメリルの指の腹のあたりまで伸びてきた。
伸びてきた湯気はメリルの指の冷えを薄く温めた。
温めた湯気がいったん引いてまた伸びてきた。
「メリル」
「……はい」
指の腹が湯気の薄い温もりを一度だけ拾った。
「先ほどのお爺の話の続きを伺いたい」
「お爺の」
「あなたが写された古い記録のことだ」
メリルは小さく頷いた。
「写された記録は、いまどこに」
「薬棚の、上の段に」
「上の段、というのは」
「……手の届くいちばん上の段に」
「いちばん上、というのは」
殿下は薬棚の上の段を目で測った。
長身の目線が薬棚のいちばん上の段の高さにちょうど合った。
「あなたの背丈には、爪先で立たねば届くまい」
「……ええ」
「爪先で立って、上げ降ろしをなさってきたのか」
メリルは小さく顎を引いた。
「八年」
「……ええ」
「ふむ」
殿下はちらりと上の段をもう一度見上げた。
見上げた目のあとで視線がメリルの指の高さまで戻ってきた。
「次に上の段を取るときは私に声をかけられるとよい」
「……」
「いつでもいる」
メリルは答え方を知らなかった。
知らなかったのは知らなかったからではない。
答えをひとつに選べなかったからだ。
選べなかった答えのうち、いちばん遠い答えを口の上に乗せた。
「ご無理をなさいませんよう」
「無理ではない」
「……」
「私が上の段に手を伸ばしたくて伸ばす」
「……はい」
返事はそれだけだった。
その「はい」はライラ様の前のものでも応接の間のものでもなかった。
昨夕、薬棚の前で「メリル」とだけ呼ばれたときに、薬棚の小引き出しの角に落ちたあの「はい」と、同じ場所に落ちた。
ただし今夕のそれは和紙の角ではなく上の段のいちばん高いところに、薄く引っかかった。
引っかかったままで、しばらく落ちてこなかった。
日が軒の高さまで落ちる頃。
殿下は椀を娘の手に返した。
「ご造作をかけた」
「い、いえ、とんでもないことで」
「メリル」
名のあとに敬称はなかった。
もう、つかなかった。
「明日もここに来てよいだろうか」
昨夕と同じ問いだった。
ただし昨夕のそれは答えを待たない問いだった。
今日のそれは答えを待つ問いだった。
待っているということが視線の角度で分かった。
メリルは唇の上で答えをひと呼吸、探した。
探した答えは二つあった。
退く身の答え方と、退かない者の答え方と。
昨夕は退く身の答え方のほうにわざと寄せた。
寄せたことを殿下は見抜いた。
見抜かれたまま一夜、置いた。
一夜置いたあと、自分の中でふたつの答えの重みが少しだけちがっていた。
「……お運びを、お待ち申し上げております」
「待っていてくださる、と」
「……ええ」
「ありがたい」
「いえ」
「明日は、もう少し長く伺いたい」
メリルは目を伏せたまま、息を呑んだ。
「治療院にではない」
「……」
「あなたに、だ」
メリルは目を伏せた。
伏せた目の奥で頬の熱がようやく指の腹まで降りてきた。
降りてきた熱は戻らなかった。
戻らないことを知っていてメリルは目を伏せた。
「……お待ちしております」
今度の「お待ちしております」は昨夕よりひと粒、近かった。
近くなった分だけ退く身の答え方からはひと指、離れた。
離れた指を殿下は見ていた。
見ていたうえで何も言わなかった。
言わずに外套を頭から羽織り直した。
頭巾を被る前に戸口の柱でまた一度、振り返った。
振り返って何かを言いかけた。
言いかけて、薬棚の桔梗の段の前のメリルの指の止まった跡を見て、止めた。
昨夕と同じ動作だった。
ただし今夕はもう一拍、長かった。
もう一拍ぶんメリルの胸の鼓動がゆっくり刻まれた。
外套の裾が翻る。
蹄の音が夕の闇の中へ抑えた拍子で遠ざかっていった。
昨夕の蹄の音よりもう少しだけゆっくりだった。
戸を閉める。
戸の軋みは昨夕よりひと音、低かった。
病室の油皿の灯がふだんの揺れに戻っていく。
卓の上に湯気の椀の名残が薄く残っていた。
今日もひと粒の湯滴が卓の隅にとどまっていた。
メリルは卓の隅に手のひらを置いた。
手のひらの下で湯滴はもう伸びなかった。
卓の木目が湯滴をすぐに吸ったからだ。
「メリルさま」
見習いの娘が戸口の柱で小さく呼んだ。
メリルは振り返りざま、小さく頷いた。
「殿下はメリルさまのお手を今日もずっとご覧でございました」
「……ええ」
「土間の入り口から薬棚の前まで」
「ええ」
「それから今日は」
「今日は」
「お重ねになられました」
「……ええ」
「少年さまの額の上で」
「ええ」
「あれは、わたくし、初めて見ました」
「……」
「お屋敷でお見かけする王族のお方のお手では、ございませんでした」
娘の声は囁きに近かった。
囁きの中に驚きも好奇もなかった。
ただ見たものを正直に口にしただけの声だった。
「ありがとう」
「いえ」
「明日のお粥は」
「いつもよりひと匙、多めに」
娘が小さく頷いた。
「お粥のお椀の縁を温めておいて」
「かしこまりました」
「殿下のお湯は白湯をふたつ」
「ふたつで」
「ふたつで」
「は、はい」
娘はふっと笑った。
笑った笑いの中に昨日まで無かったひと匙のぬくみがあった。
そのぬくみはメリルの指の腹にも薄く届いた。
届いたぬくみをメリルは襟元で軽く受けた。
「もうお休みなさい」
「メリルさまもお早めに」
「ええ」
「夜の見回りはわたくしが」
「お願いします」
「お休みなさいませ」
「お休みなさい」
娘の足音が病室の奥へ消えていった。
メリルはひとりで卓の前に残った。
卓の上にはもう半月形の封蝋の小箱は無かった。
昨夜、メリルが手を引いたあとで見習いの娘が奥の戸棚にしまっておいてくれたらしい。
代わりに卓の隅には湯滴の薄い跡がひとつ。
その跡をメリルは指の腹でゆっくり撫でた。
撫でた指のあとに卓の木目が湿りをひと筋だけ覚えた。
覚えた木目が誰のためのものかメリルにも分からなかった。
分からないままメリルは薬棚の前まで戻った。
桔梗の段の和紙の角に夕の終わりの光が薄く落ちている。
落ちた光の中に自分の指の止まった跡がまだ見えた。
今日、殿下が見ていたのはその跡のほうだったと指が告げた。
その跡の上にいま、もうひとつ別の跡が重なっていた。
長身の右の手のひらの跡だ。
メリルは手の甲をゆっくりもう片方の手のひらで押さえた。
押さえた手の甲の上にまだ薄い温もりが残っていた。
「……養女にしては、不思議なほど」
声に出してみた。
声に出した言葉は軽くもなく重くもなかった。
ただ唇の上でしばらく揺れていた。
揺れたままメリルはもう一度口にした。
「養女にしては、不思議なほど、効きがよろしい」
言ってからその「よろしい」が誰の言葉でもないことに気づいた。
ライラ様の言葉ではない。
ソフィアお義姉さまの言葉でもない。
殿下の言葉でも亡き夫人の言葉でもない。
自分の言葉だった。
自分の言葉を自分が初めて口にした。
唇の上でそれは軽すぎず重すぎず、ただ自分の重さをしていた。
メリルは薬棚の桔梗の段にもう一度指を当てた。
当てた指の腹に桔梗の薄い甘い匂いが立った。
その匂いの中でメリルは長く吐けない息をひとつゆっくり吐いた。
吐いた息は油皿の灯の上で白くは見えなかった。
白く見えないほど夕はまだあたたかかった。
夜半。
病室の見回りを終えメリルは戸口の柱に背を預けた。
北辺の風が戸の隙間からひと筋。
冷えた風の中にもう昼の薬草の匂いは残っていなかった。
代わりに夜の冷えの底にほんの少しだけ桔梗の薄い甘さが残っていた。
残しているのは自分の指の腹だと気づいた。
気づいたあとでメリルは手のひらをゆっくり目の高さまで上げた。
油皿の灯の下で手のひらはいつもどおりの手のひらだった。
いつもどおりの手のひらはいつもどおり、薬草の染みと細かな働き傷を持っていた。
ただ手の甲の上に薄く別の温もりの跡がまだ残っていた。
その跡の形を目ではっきり辿ることはできなかった。
辿れない跡を指の腹だけが知っていた。
「お母さま、と」
メリルはふと唇の上でその言葉を置いてみた。
亡き前公爵夫人を自分はこれまでお母さまと呼んだことがなかった。
呼ぶ立場ではないと教わってきた。
今夜も呼んでよい立場ではない。
ないと知っていてなぜ、いま唇の上にその音が乗ったのか。
メリルにも分からなかった。
分からないままその音を唇の上でもう一度薄く撫でた。
撫でた唇の上でその音はすぐに薄れていった。
薄れていったあとに別の音がひと粒残った。
「メリル」
殿下が今日、何度自分をそう呼んだか。
数えなかった。
数えなかったのは数えるよりもその音が、自分の手の甲の上の薄い温もりの跡に重なっていく速さのほうが早かったからだ。
メリルは目を閉じた。
閉じた目の奥に、薬棚の桔梗の段の和紙の角と長身の右の手のひらの跡と少年の薄い額の熱とお爺の咳の短さと自分の指の腹の冷えとが、ひとつずつ薄く並んでいた。
並んでいるものをいま自分の側からどこかに片づけることはできなかった。
片づけられないということをもう知っていた。
知っているのに明日、屋敷の応接の間に上がらなければならない。
上がる前に手の甲の上の温もりを消しておかなければならない。
消すための作法をメリルは十八年、ライラ様から教わってきたはずだった。
いま、その作法が思い出せなかった。
思い出せない作法をいまひとつだけ、自分の指で新しく覚えた。
覚えた作法は消すための作法ではなかった。
残しておくための作法だった。
残しておくというのは退く者の作法ではない。
退かない者の作法だ。
ただし退かないと決めたわけでもない。
決められないままに指だけが勝手にその作法を覚えてしまった。
指はいつも自分より少しだけ先を行く。
今日もそうだった。
明日もたぶんそうなる。
メリルは戸口の柱から背をゆっくり起こした。
起こした背中の肩のあたりに夜の北辺の風がひと筋当たった。
冷たかった。
冷たさの底にほんの少しだけ桔梗の薄い甘さがまだ残っていた。
卓の隅で油皿の灯がゆらりと揺れた。
揺れた灯の影が卓の上に薄くひとつの形を落とした。
その形は半月でも満月でもなかった。
ただ手のひらの形だった。
ひとつぶん。
その傍にいまはまだ、もうひとつぶんは無かった。
無いままで夜が深くなった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第五話「触れた手のこと」をお届けしました。前話で名前を呼ばれた翌日。殿下が再び治療院を訪う一日を、メリルの「手のひら」の側から書きました。少年の額に当てた手の上に、殿下の手のひらがゆっくりと重なってくる——その一動作のためだけに、午過からの病室の流れを組みました。
「半度ずつ、いつもより早く熱が引いている」「お爺の咳が、古い記録の半分の日数で短くなっている」——メリル自身が漠然と感じてきた違和感を、殿下の手のひらが、外側から初めて言葉にします。「養女ですから、なにも、できませぬ」と捌こうとした言葉が、いつものようには捌けなくなる。その代わりに、「養女にしては、不思議なほど、効きがよろしい」という、自分でも初めての言い方が、唇の上に薄く乗ります。聖癒が血統の力であること、メリルの力が並はずれて強いこと——その種は、いまの彼女には、まだ見えていません。見えないまま、指の腹だけがいつもよりひと呼吸ぶん、先を知っています。
戸口で「明日も来てよいだろうか」と問われたメリルの答えは、昨夕の答えとはひと粒、近づきました。「退く身の答え方」と「退かない者の答え方」のあいだで、彼女の指は知らずに、後者の作法をひとつだけ覚えてしまいます。覚えてしまった作法を、明日、屋敷の応接の間にどう持って上がるか——次話「義姉の激昂」では、その温もりの跡を見抜く目が、屋敷の中で動き出します。
毎日19時更新予定です。☆評価・ブクマ・感想をいただけると、何より次話の励みになります。




