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十八年前の赤子の取り違え——婚約破棄された「養女」が、公爵家のただ一人の正統な令嬢だと判明した日  作者: 歩人


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第4話: 名前で呼ぶ

 ——翌朝。


 白い湯気が薬研皿やげんざらの上にひとすじ立つ。


 メリルはり粉木を握り直した。


「メリルさま」


 見習いの娘が薬戸棚の脇から声をかけた。


「お湯、温め直しましょうか」


「いいえ。このままで」


「もう一杯、お粥を」


「半椀」


「はい」


「水気は、絞って」


「絞っております」


「お爺さんの湿布は」


「お取り替え済みでございます」


「貼り口の角は」


「整えてございます」


「ありがとう」


「メリルさま」


「なあに」


「擂り粉木の握り、いつもと違っておられます」


「……そう」


「深くまで、当たっておりません」


「そうかもしれない」


「ご無理をなさっていらっしゃいますか」


「いいえ」


「では」


「ええ、いつもどおりに、しているつもりよ」


「承りました」


「あの」


「なあに」


「お屋敷に上がられるお仕度を」


 メリルは手の中の擂り粉木を、ゆっくりと皿の縁に置いた。


「お任せして。午前ね」


「午前、と伺いました」


「はい。午前」


 メリルは擂り粉木を皿の縁に置いた。


 置いた拍子に粉が薄く立ち上がる。


 昨夜の埃と同じ細かさだった。




 屋敷の玄関広間。


 磨かれた石床が朝の光を弾く。


 ライラはすでに位置についていた。


「メリル」


「ライラ様」


「裾のさばきが乱れていますよ」


「失礼いたしました」


「襟の合わせも、浅い」


「直しまする」


「指の置き場も、見られています」


「心得ております」


「もう一度、整えなさい」


 メリルは裾を指で押さえ直した。膝の裏まで布が冷たく落ちる。


「ソフィアの一歩、後ろ」


 言われる前に、もう半歩、引いた。


「半歩ではありません」


「一歩、で」


「そう」


 メリルはソフィアの一歩後ろに立った。


 借りた装いだ。指先がそう数える。


 義父アルヴィンは柱の影で背を丸めていた。


「お父さま、もう少し前へ」


「……ああ」


 ライラの声に押されて、義父は半歩、前へ出た。


 半歩のあとで、また、もう半歩、退いた。


「来られたわ」


 ソフィアが扇の縁で口元を隠した。


 扇の銀の刺繍が朝の光を細かく弾く。


 扉の向こうで足音が止まった。


 扉が両側から開かれた。


 リオネル殿下が広間の敷居をまたいだ。


 灰青の外套は昨夕のそれではない。


 深い藍色の上着に、白絹の襟。


 王族の儀礼にふさわしい装いだ。


 ただし飾りは少ない。


 胸元に小さな白百合の徽章きしょうひとつ。


 昨夕の頭巾は無かった。


 頭巾を被らない人の顔は、昨夕の戸口の人と同じだった。


 目もとの形が同じだ。指の腹が確かめる。


 メリルは伏せた目礼の角度を、いつもどおりに測った。


「ご当主、後見人殿、ソフィア殿、——」


 殿下の視線がそこで一度、メリルの方へ降りた。


 降りて、止まった。


 止まったあと、語尾がほんの一瞬、空気の中で滑った。


「——メリル殿」


 四つ目の名は最後に呼ばれた。


 順は変わっていない。


 ただ、四つ目だけ、ひと呼吸の余白が前についていた。


 ライラのまぶたがほんの一刻だけ動いた。


 ソフィアの扇が止まった。


 止まったことを、メリルだけが薄く感じ取った。


 メリルは膝を折って礼の角度を返す。


 返した角度の中で、自分の鼓動が借りた絹の襟元に細かく当たった。


「お運びの遠路、ご造作をおかけいたしました」


 義父アルヴィンが薄い声で挨拶を述べた。


 声は紙のような薄さだった。


 いつもの薄さだ。指がそう判じる。


「いや。私が早く参った」


 殿下の声は昨夕より少し低い。


 広間の天井の高さに合わせて深くしている。


 深くしすぎていない。指がそうも判じた。


 ライラがしずかに前へ進み出た。


「殿下、ご旅程のお疲れを案じておりました。応接の間にお茶のご用意を整えてございます」


「ありがたい」


「メリル」


 ライラの声がメリルの名を呼んだ。


 いつもの慇懃いんぎんな柔らかさだ。


「治療院のご案内のお仕度を、午後までに整えてちょうだいね」


「……はい、ライラ様」


「殿下、午前は応接の間で、領内のお話を」


「うむ」


 返事はそれだけだった。


 ただ、その短い音の後に、殿下の視線がもう一度、メリルの方へ降りた。


 降りた視線の中に、昨夕の戸口で言いかけて止めた音の余りが残っていた。


 メリルは目を伏せた。


 伏せた目の奥で、自分の指先が薬棚の埃の細かさをふいに思い出していた。




 応接の間の扉が閉まる。


 メリルは廊下に出た。


 扉が閉まる音はいつもの音より低く落ちた。


 ソフィアが廊下の真ん中で待ちかまえていた。


 扇は閉じている。


「あなた」


「お義姉さま」


「治療院のご案内、ね」


 メリルは視線を床に置いたまま、すこし顎を引いた。


「殿下のお召しの白絹は、汚さぬように」


「気をつけます」


「裾も、土間に引かぬよう」


「引かぬよう」


「あなたはお召し物の扱いが、いつも荒い」


「……承知しております」


「それから——」


 ソフィアの扇が一度、開いて閉じた。


「殿下のお目に、立たぬよう」


「……」


「あなたの仕事は治療院をお見せすること。あなた自身をお見せすることではないのよ」


「はい、ソフィアお義姉さま」


 ソフィアは廊下の角を曲がっていった。


 絹の裾が朝の光を引きずる音が、しばらく石床の上に残った。


 メリルは廊下の端で深く息を吐いた。


 吐いた息が冷えた石の上で白く解けた。


「立たぬよう、ね」


 唇の上でもう一度なぞる。


「立たぬよう、というのは」


 言いさして、口を閉じた。


「……退く者の、作法ですね」


 声に出してから、その声が誰に向いていないか、指が告げた。


 誰に向いていない言葉は、いちばん遠くまで響く。


 告げた指を、胸元に当てた。


 借りた絹の襟の下で、鼓動はまだ細かく揺れていた。




 ——午後の光が傾く頃。


 メリルは治療院の戸口に立っていた。


 屋敷の絹のドレスは脱いだ。


 いつもの簡素な施療衣に戻している。


 胸元のひもを結び直した手が、ようやく自分の手の重さに戻る。


 馬の蹄の音がまた、抑えた拍子で近づいてきた。


 今日は四頭ではない。


 二頭。


 供を一人だけ伴っている。


 戸口のさんに手をかけたまま、メリルは戸を細く開けた。


 灰青の外套がもう一度、夕方の半歩前の光の中に現れた。


「メリル殿」


 名のあとにまた、ひと呼吸の間が置かれた。


「お待ち申し上げておりました」


「今朝、玄関広間で、最初に並ぶ姿のあなたを見た」


「……はい」


「やはり順は変わらなかった」


 昨夕の戸口の言葉と同じ運びだった。


 ただ、昨夕の声よりも、ほんの少し近かった。


 近づいたわけではない。


 近づくことを許してくれている、と指がそう読む。


「お入りください」


「では、失礼する」


「敷居の段に」


「心得た」


 戸の軋みがまた、昨夕と同じ低さで鳴る。


「殿下」


「ああ」


「お屋敷の応接で、お疲れではございませんか」


「いや」


「お茶のお代わりを、いくつか」


「いただいた」


「ライラ様の」


「そうだな」


「お話は、長うございましたでしょう」


「長くはなかった」


「左様ですか」


「ただ、深かった」


「……」


「あなたを、どう退かせるか——その話だった」


 メリルは戸口の桟に手をかけたまま、止まった。


「メリル殿」


 メリルは桟を握ったまま、手の内で木の冷えを測った。


「驚かなくてよい」


「……いえ」


「私は、聞いていただけだ」


「……」


 指の力が、ほんのわずか、緩んだ。


「聞いていた、ということを、あなたには知っておいてほしかった」


「……ありがとうございます」


「ありがたく思うことではない」


「……承知いたしました」


 戸の軋みは、二度目の軋みだった。


 二度目の軋みは初めの軋みより馴染んでいた。




 病室の戸口で見習いの娘が膝を折る。


 今日の娘の頬は昨夕より赤くなかった。


 代わりに肩のあたりが少し硬い。


「殿下、本日もお運びくださり——」


「礼はよい。先に少年の床へ」


「は、はい」


 メリルが先導した。


 殿下は昨夕と同じ歩幅でメリルの一歩うしろを歩く。


 歩幅の合わせ方が、昨夕より滑らかだった。


 二度目だからだろう、と指が判ずる。


 判じきってから、それだけではない、ともう一度指が告げた。


 少年は今朝より起き上がっていた。


 枕に寄りかかって、土間に降りた朝の光を首の角度で追っている。


「姉ちゃん」


「ええ」


「昨日の兄ちゃん、また来た?」


「来ました」


「来てくれた」


「来てくれましたよ」


 少年は薄く目を開けて、天井の梁をひとつ数えた。それから視線を、ゆっくりと横に動かした。


 少年がリオネル殿下を見上げた。


「兄ちゃん」


「ああ」


「今日も、お粥を、運んでもらってきたの?」


「いや」


「じゃあ、運んできたの?」


「運ぶ側でも、運ばれる側でもない」


「そっか」


「今日は、姉さまの手の様子を見に来た」


「あ」


 少年の目が少し丸くなる。


「姉ちゃんの手、ね」


 殿下はゆっくり頷いた。少年の目の高さに、視線をひとつ合わせる。


「すごいよ」


「だろうな」


「すごい、っていうか、あったかい」


「あたたかい」


「うん。手のひらが、ふつう、あったかいんだよ。普通の人は、ちょっと冷たいんだ」


 メリルは少年の額に手のひらを当てた。


 いつもの動作だ。


 ただ、いつもの動作の上に、昨夕とは違う重みが薄く乗っていた。


 乗せたのは自分ではない。


 乗っているのを指の腹が拾った。


 指の腹は今日も律儀だった。


「熱、引いていますね」


「うん」


「明日には、廊下まで歩きましょう」


「うん。約束、覚えてる」


「お粥は、半椀」


「半椀」


「お水は、ひと口ずつ」


「ひと口ずつ」


「噛むようにして、飲んでね」


「噛むように、飲む」


「指、出して」


 少年が小指を差し出す。


 メリルが小指を絡める。


 ほどけたあとで、少年は殿下のほうへ目をやった。


「兄ちゃんも」


「私もか」


「うん。約束、して」


「何を約束する」


「姉ちゃんの手を、ちゃんと見ていく」


 少年の声に、不思議な確かさがあった。


 メリルは息を止めた。


 殿下は何も言わず、少年の前で片膝をついた。


 長身が低くなる。


 膝に置いた手の甲に、土間の薄い光が落ちた。


 昨夕、メリルが見たあの古い切り傷の跡が、今日もそこにあった。


「約束する」


「ほんとに?」


「ほんとに」


「そうなんだ」


「えらいね」


「えらくはない。当たり前のことだ」


 昨夕、少年が同じ問いを発したときと同じ返しだった。


 ただし、今日のほうがほんの少し早かった。


「兄ちゃん、姉ちゃんの手、見るんだよ」


「分かった」


「見て、ちゃんと、覚えてあげて」


「覚える」


「忘れたら、だめだよ」


「忘れない」


「うん」


 少年は満足した顔で、目を閉じた。


 すぐに寝息に変わった。


 メリルは長く吐けない息をようやくひとつ吐いた。


 吐いた息が施療衣の襟元に当たって、白くは見えなかった。


 病室の中は、外より少しだけあたたかい。




 次の床。


 漁師あがりの老人。


 メリルは胸元の湿布をめくった。


 今日の湿布は昨夕より薄く湿っていた。


 夜半の咳の名残だ。指が読む。


「お爺さん」


「……お」


「夜の咳は」


「……二度」


「短く?」


「短くだ」


「よろしい」


「胸の重みは」


「ゆうべよりは、軽い」


「お背中も、見せてくださいね」


「おう、頼まあ」


「肩のあたりは、こわばっていませんか」


「すこし、張っとる」


「ほぐしの湯を、後ほど」


「すまんなあ」


「お嬢さんの湿布が、効いとるなあ」


「湿布の働きです」


「あんたの手と、湿布と」


「湿布のほうです」


「……ふん」


 老人は薄く笑った。


 笑いの中で咳が一度低く落ちた。


 その咳のあとで、老人はメリルのうしろの長身を見た。


「兄さん」


「いかにも」


「今日も、お運びで」


「足を運んだ」


「昨日と、同じ方かね」


「同じ者だ」


「ふぅん」


「お爺、何か」


「いや、なに」


「申されたいことが」


「……ある、ような、ないような」


「お聞きいたします」


「兄さんは、ええ目をしておられる」


「目、を」


「ええ。お嬢さんの手を見るときの、目だ」


「……」


「あれはな、湿布より、ずっと、効く」


「ほう」


「効くから、お嬢さんは、よく休んでくだせえ」


「養生いたします」


 湿布の縁を押さえる指が、すこし止まった。


「眠れますか、夜は」


「眠れます」


「ほんとうにかね」


 老人の目が、しっかりと自分に向いていた。


「……ええ」


「お嬢さん」


 メリルは目をあげた。


「眠れぬ夜は、無理に眠ろうとなさるな」


「……わかりました」


「眠れぬ夜は、眠れぬまま、覚えておくとよい」


「覚えて」


「ええ。覚えておくと、後で、効く」


「お休みに」


「年寄りの、知恵だ」


「身にしみて、伺います」


「ほどほどに、ほどほどに」


「お休みになりにくくなる」


 老人は咳のあとで、もう一度低く言った。


「……ありがてえなあ」


 誰に向けたかは分からない言葉だった。


 メリルは湿布の縁を指で押さえた。


 貼りの強さを整える。


 整えながら、指の腹に薄い熱が立つのを感じた。


 病者の熱ではない。


 自分の頬の熱だ。


 頬の熱が指まで降りてきている。


 律儀すぎる指だ。今日もそう思った。




 薬棚の前まで、もう一度殿下を案内した。


 薬棚は昨夕と同じ位置で同じ木目を晒している。


 扉のない格子の小引き出し。


 古い和紙の薬草名。


 角の擦り切れ。


「メリル殿」


 メリルは薬棚の方へ向いていた目を、殿下の方へ戻した。


「昨日の話の続きを、伺いたい」


「……左様でございますか」


「あなたが、自分の足でここに通うようになった、と——」


 メリルは小引き出しのひとつに指をかけた。甘草かんぞうの段だ。


「いつ頃のことだろうか」


 メリルは薬棚の小引き出しの一段に指をかけた。


 甘草の段だ。


 古い和紙の角を指の腹が拾う。


「……十の、年から」


「十、か」


「最初は遊びに参るような心持ちで」


 殿下は急かさなかった。次の言葉が降りてくるまでの間を、ひと拍、待った。


「やがて、棚の薬草の名を、覚えるようになって」


「それから」


「字が書けるようになった頃には、もう、棚の半分は手で動かせるようになっておりました」


「字、を」


 メリルは小引き出しをもう一度、指の腹で押さえた。


「字は誰に習った」


「お屋敷の家令かれいさまに、ひととおりは」


「ひととおりは、というのは」


「あとは、棚の和紙を、自分で写しました」


 メリルは小引き出しの段の中身を一度開けて、また閉めた。


 乾燥甘草の青い匂いが薄く立った。


 その匂いの中で、殿下の視線がふっと動いた。


「あなたが」


 殿下の視線がメリルの指の先に落ちた。


「写したのか」


「……ええ。古いものから順に」


「棚の、和紙を」


「すべて」


 殿下はゆっくりと小引き出しの段の前にしゃがんだ。


 長身が低くなる。


 薬棚の和紙の擦り切れた角に、目の高さを合わせる。


 角の擦り跡を、目だけがゆっくり辿った。


「これは」


 メリルはすこし頭を傾けて、殿下の視線を追った。


「擦り切れの形が、二通りある」


「……」


 指の腹がすでに知っていることを、殿下が今日初めて見つけた。


「角の上は、大人の指で擦れている」


「ええ」


「角の下は、もっと小さい指で擦れている」


「……」


「下のほうは、十の年の指、か」


 メリルは口を開きかけて、止めた。


 口を開いたまま、しばらく止めた。


「……はい」


「十の年の、あなたの指か」


「……十の年のわたしの指です」


 殿下は薬棚の角の擦り跡を、もう一度ゆっくりと見た。


「いまの指は、その上に重ねております」


「重ねている」


 メリルは棚の角を、一度、静かに撫でた。


「重ねて、八年」


「左様で」


「八年ぶん、棚に通った」


 うなずきかけて、声にした。


「……ええ」


「では、棚は」


 メリルは棚の格子を、ゆっくりと目で辿った。


「二十年ぶんと、八年ぶんの、両方を覚えている」


「覚えて、おります」


「覚えている、というのは」


「……」


「棚が、ですか」


「棚が」


「ふむ」


「木目が」


「木目が、覚える」


 口の中でもう一度なぞる。木目が、覚える。


「教わったのか、その言い方は」


「いいえ」


「自分で、そう思うのか」


「自分で、そう思います」


 殿下はしゃがんだまま、メリルを見上げた。


 目の高さがちがう。


 ちがう高さから見上げる視線に、押しつけがましさはなかった。


 ただ、確かめる目だった。


 昨夕、戸口で「メリル殿、とお呼びしてよろしいか」と確かめた、あの音と同じ目の形をしていた。


「メリル殿」


 メリルは視線を上げた。しゃがんだ長身が、薬棚の格子を背に、自分を見上げている。


「あなたが養女としてこの棚を磨いてきた、というのではないな」


「……」


「あなたが、自分の手で、ここに通ってきたのだ」


「……左様でございます」


「養女の務め、というのは」


「養女の務めとしても、参っております」


「だが、それだけではない」


 メリルは棚の格子に触れかけた指を、ゆっくり引いた。


「あなた自身が、ここに通いたかった」


 メリルは目を伏せた。


 昨夕、同じ問いを受けて、つかえながら答えた言葉だった。


 今日は、つかえなかった。


 つかえなかったことに、自分でも少し驚いた。


「……はい」


「では」


 殿下はしゃがんだ姿勢のまま、ほんのわずかに体を起こした。


 体の高さがメリルの目の高さに近づく。


 近づきすぎていない。


 ただ、昨夕より一段、近かった。


「あなたを、養女としてではなく」


「……」


「自分の手で通ってきた一人として、お呼びしたい」


 メリルは息を止めた。


 止めた息の出口を、指が探した。


 探しても、見つからなかった。


「……」


「メリル」


 名のあとに、敬称はなかった。


 「殿」の音は、空気の中に呼ばれなかった。


 ただ、名だけが、薬棚の前にひと粒、落ちた。


 メリルの指は、ちょうど小引き出しの段の角を撫でていた途中だった。


 その指が、止まった。


 止まったまま、しばらく動かなかった。


 動かない指を、自分ではない誰かに見られている気がした。


 昨夕、薬棚の前で、亡き夫人の指の通り跡と自分の指の通り跡が重なった、あの瞬間と同じ気配。


 その上に、たったいま、もうひとつ、別の音が降りていた。


 名前だ。指がそう告げた。


 名前が、自分のいまの指の上に、置かれた。


「……はい」


 返事はそれだけだった。


 その「はい」は、応接の間のものでも、玄関広間のものでもなかった。


 昨夕、薬棚の前で初めて口にした、別のかたちの「はい」の——


 もう一段、深いほうの「はい」だった。


 言ってしまってから、メリルは指先の冷えに気づいた。


 冷えてはいない。


 ただ、熱が引きすぎている。


 熱が引きすぎているのは、頬のほうから熱が指に降りてきていないからだ。


 頬の熱は、頬に留まっている。


 止まっていた。指の動きと同じだった。




 戸口の柱の影で、見習いの娘が湯気の上がる椀をひとつ、抱えて立っていた。


 昨夕と同じ位置。


 昨夕と同じ角度。


 ただ、息の殺し方が昨夕より浅かった。


 深く殺さなくても、二人の声が届かないことを、娘はもう知っている。


 メリルは薬棚から指を離した。


 離した指の腹に、甘草の青い匂いが薄く残っていた。


「殿下」


 殿下はメリルの呼びかけに、わずかに顎を引いて応えた。


「お湯を、一杯」


「いただこう」


 娘が椀を運んでくる。


 殿下は両手で受け取った。


 昨夕と同じ受け取り方だった。


 湯気が、長身の顎の下でまっすぐ立つ。


「白湯か」


「白湯にございます」


「いただこう」


 ひと口だけ含んで、椀を戻す。


 戻した椀の中の湯気が、しばらく揺れた。


「メリル」


 また、名だけだった。


 二度目だ。指がそう数えた。


 二度目は一度目よりも、ほんの少し、軽く呼ばれていた。


 軽く呼べるようになるまでに、人は何度もその名を口の中で確かめたのだろう。


 その確かめの跡を、メリルの指は今ようやく察した。


 メリルは椀の湯気がまっすぐ立っているのを見た。


「先ほど、私は」


 殿下が言いかけて、ひと息だけ間を置いた。


「あなたを名で呼んだ」


「……存じております」


不躾ぶしつけであれば」


「いえ」


 メリルは自分の声を、自分でも意外なほど早く返した。


 返してから、その早さに自分で驚いた。


 驚きを、頬の熱が指先までは降ろさせなかった。


 頬の熱は、頬に留まり続けていた。


「……不躾とは、思いません」


「ありがたい」


「ただ」


 殿下は椀の縁に指を添えたまま、続きを待った。


「わたしを、メリル、と——お呼びになりますのは」


 待つ姿勢は崩れなかった。


「お屋敷の」


 メリルは言葉を切った。


 切ったところで、自分が何を言いかけたか、指が告げた。


 義姉さまには、聞かせてはならないことだ。


 ライラ様には、聞かせてはならないことだ。


 聞かせてはならない、ということを、自分の口から殿下に言うのは、もっといけないことだ。


「ご無理をなさいませんよう」


「無理ではない」


「……」


「私が呼びたくて呼んだ」


「……承りました」


「順は、もう変わらない」


 昨夕と同じ言葉だった。


 昨夕は、玄関広間の順のことだった。


 今日のそれは、別の順のことだった。


 別の順、というのは、自分の中の順だ。


 メリルは初めてそう思った。


 自分の中で、誰の名を、どこに置くか——その順が、もう変わらない。


 殿下はそう、言っていた。


「殿下」


「うむ」


「順、と仰せになりますのは」


 殿下の視線がメリルの目に戻った。逸らさなかった。


「玄関広間の順、ではなく」


「ない」


「では」


「私の中の順だ」


「……」


「あなたの名を、どこに置くか」


「……」


「その順だ」


 メリルは目を伏せた。


「もったいない、お言葉です」


「もったいなくはない。事実を申しただけだ」


 昨夕、薬棚の前で聞いた言葉と同じだった。


 ただ、今日のほうが、ひと粒、軽かった。


 軽くなるまでに、人は何度その言葉を口の中で確かめるのだろう。


 頬の熱が、ようやく指の腹のところまで降りてきた。




 日が軒の高さまで落ちる頃、殿下は椀を娘の手に返した。


「ご造作をかけた」


「い、いえ、とんでもないことで」


「メリル」


 三度目だ。指がそう数えた。


 数えてから、その数え方が変だ、と思った。返事よりも先に数が来た。


「明日、また伺いたい」


「……お待ち申し上げております」


「治療院、ではなく」


「……」


「あなたに」


 メリルは答えなかった。


 答えなかったのは、答え方がわからなかったからではない。


 答え方は、二通りあった。


 二通りのうち、どちらを選ぶかが、わからなかった。


 退く身の答え方と、退かない者の答え方と。


 どちらも、いま自分の唇の上にある。


 そのことを指が告げた。


 告げた指を、施療衣の襟元に当てた。


 借りた絹ではない。


 いつもの粗い麻だ。


 麻の繊維のひと筋ひと筋が、頬の熱を、ようやく沈めてくれた。


「……お運びを、お待ちしております」


 返事はそれだけだった。


 その「お待ちしております」は、退く身の答え方のほうに、ほんのわずか、寄っていた。


 わざと寄せた。指が告げる。


 わざと寄せたことを、殿下が見抜いた気がした。


 見抜いたうえで、殿下は、何も言わなかった。


 言わずに、外套を頭から羽織り直した。


 頭巾を被る前に、戸口の柱で、また一度、振り返った。


 振り返って、何かを言いかけた。


 言いかけて、薬棚の前のメリルの指の止まった跡を見て、止めた。


 昨夕と同じ動作だった。


 ただし、昨夕より一拍、長かった。


 その一拍を、メリルの胸の鼓動が拾った。


 外套の裾が翻る。


 蹄の音が、抑えた拍子で、夕の闇のほうへ遠ざかっていった。


 昨夕の蹄の音より、心持ち、ゆっくりだった。




 戸を閉める。


 戸の軋みは、昨夕の低さに戻った。


 病室の油皿の灯が、ふだんの揺れに戻っていく。


 見習いの娘は、もう椀を抱えていなかった。


 椀は戸口の卓に置かれている。


 湯気はもう立っていない。


 代わりに、卓の隅に、ひと粒、湯滴がついていた。


 ふき取らずに、メリルはその湯滴を指の腹で確かめた。


 冷たい。


 ただ、冷たさの底に、ほんの少しだけ、さきほどの湯の熱の名残があった。


 湯滴の中に名残が残るほど、時間は経っていない。


 経っていないのに、もう殿下はここにいない。


 いない、ということを、湯滴の名残が告げてくる。


 メリルは卓の隅に手のひらを置いた。


 手のひらの下で、湯滴が、薄く伸びた。


「メリルさま」


 戸口の柱で、見習いの娘が小さく呼んだ。


「ここに」


「明日も、おいでに、なりますでしょうか」


「明日も」


「お屋敷から、お運びでございますね」


「そうなるかしら」


「お運びは、二頭で」


「ええ、二頭で」


「供は、お一人」


「お一人」


「お珍しい、と」


「珍しいわね」


「王族のお方は、もっと多くの供を」


「ええ、もっと、たくさん」


「ご身辺の警固も、厚く」


「厚く、なさるのが、常」


「殿下は、それを、お控えに」


「お控えに、なさっている」


「お一人で、お運びくださる」


「お一人、というのは、めずらしい」


「あの、メリルさま」


「なあに」


「殿下は、メリルさまの手を、ずっと、ご覧になっておりました」


「……」


「土間の入り口から、薬棚の前まで」


「そうね」


「ずっと」


「……そうね」


「わたくし、お話の邪魔をしてはと、声をかけられませんでした」


「ありがとう」


「いいえ。お粥は、明日もご用意いたします」


「お願いします」


「……おやすみなさいませ」


「おやすみなさい」


 娘の足音が病室の奥へ消えていった。


 メリルはひとり、卓の前に残った。


 手のひらの下の湯滴の跡が、もうほとんど消えかけている。


 半年前のライラの言葉が、応接の間の声で蘇った。


 いずれ、退く身。


 退く身は、名で呼ばれてはならない。


 名で呼ばれた者の手は、ここに残りたがる。


 残りたがる手は、いずれ、誰かを傷つける。


 メリルは目を閉じた。


 閉じた目の奥で、薬棚の前で止まった自分の指の跡が、まだ静かに残っていた。


 名前を呼ばれた、その瞬間の、止まった指の跡だ。


 その跡を、いま、自分の側から、消しにいけるだろうか。


 指が告げた。


 消せない。


 消せないことを、もう、知っている。


 知っているのに、退かなければならない。


 知っているのに、退かないでいたい。


 二つの「知っている」が、土間の冷えの中で、しばらく並んでいた。


 どちらが先に、口の上に乗ってくるかを、メリルは待たなかった。


 待たずに、卓の上の湯滴を、指の腹で、ゆっくり拭いた。


 拭いたあとの卓の木目に、湯滴の薄い跡だけが残った。


 その跡が、消えるまでに、少し時間がかかりそうだった。




 夜半。


 病室の油皿を見回り終え、メリルは戸口の柱に背を預けた。


 北辺の風が戸の隙間からひと筋。


 冷えた風の中に、もう馬の息のにおいは残っていなかった。


 代わりに、半月形の封蝋ふうろうの小箱が戸口の卓の上に置かれていた。もう一度、だった。


 ふた箱目だ。


 夕方、殿下が帰り際に置いていったらしい。


 娘が湯気の椀を運ぶあいだに、誰にも気づかれずに。


 半月形の封蝋は、ひとつ目より、薄かった。


 薄い封蝋は、割れやすい。


 割れやすい封蝋は、開けられることを、最初から待っている。


 メリルは小箱に手を伸ばしかけて、止めた。


 止めた手を、施療衣の襟元に戻した。


 いま、開けてはならない。指が告げる。


 いま、開けたら、もう、退けない。


 退けない手で、明日、屋敷の応接の間に上がることは、できない。


 メリルは小箱から手を引いた。


 引いた指の腹に、半月形の封蝋の冷えだけが、薄く残った。


 戸の隙間の風が、油皿の灯をひとつ、揺らした。


 揺れた灯の影が、卓の上の小箱の半月形を、土間の上に長く落とした。


 半月形は、卓と土間とで、ちょうどひと組の半月になった。


 ふたつ合わせて、満月にはまだ、欠けがあった。


「……メリル」


 唇の上で、自分の名を、自分で呼んでみた。


「メリル、と」


「殿下が」


「お呼びになった」


 声に出してから、メリルは自分の声に少し驚いた。


 自分の名は、自分で呼ぶと、こんなにも、軽い。


「軽い、ですね」


 誰にともなく、もう一度、口にする。


「軽いまま、明日、屋敷に上がるのですね」


「上がります」


「上がって、ソフィアお義姉さまの一歩後ろに立つのですね」


「立ちます」


「半歩、ではなく」


「一歩、後ろに」


 言ってしまってから、頬の熱が、また、戻ってきた。


 戻った熱を、麻の襟元で、軽く拭った。


 欠けたままで、夜が深くなった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第四話「名前で呼ぶ」をお届けしました。前話の戸口で言いかけて止めた音を、殿下が今日もう一度拾いに来ます。拾いに来た音が、最後には「メリル」とだけ呼ぶかたちになる——その一拍を、薬棚の小引き出しの角と、十の年の指の擦り跡の上に置けたら、と思いながら書きました。


少年が「兄ちゃんも、姉ちゃんの手を、ちゃんと見ていって」と約束を求める一節は、書きながら指が勝手に動いた一文です。前話の少年と殿下のやり取りの続きとして、子どもの口を借りて、二人を見ているもう一つの目を置きました。子どもは大人の関係を、大人の語彙で説明しないままに、いちばん深い場所で見ている。そういうものが書ければ、と願いました。


「メリル」とだけ呼ばれた瞬間、メリルの指は薬棚の角を撫でている途中で止まります。その止まった指の跡を、自分の側から消しにいけるだろうか——というのが、この話の終わりに置いた問いです。「いずれ退く身」という、ライラ様から繰り返し手渡されてきた言葉が、初めて、彼女自身の中で「退きたくない」という別の音と並んだ夜になりました。


戸口の卓には、二つ目の半月形の封蝋が置かれます。一つ目はまだ割られていません。一つ目を割らないままで、二つ目が増えた——彼女の手元には、いま、開けられない封蝋が二つあります。半月をふたつ合わせても、満月にはまだ欠けがある。その欠けが埋まるまでに、もう少しだけ、彼女と彼の距離が縮みます。


毎日19時更新予定です。☆評価・ブクマ・感想をいただけると、何より次話の励みになります。

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