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十八年前の赤子の取り違え——婚約破棄された「養女」が、公爵家のただ一人の正統な令嬢だと判明した日  作者: 歩人


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第3話: 王子の訪い

 二日後の夕刻。治療院の戸口の真鍮に、メリルの指先は触れたばかりだった。


 把手の冷えは、応接の間のそれとはちがう。


 屋敷の真鍮は磨かれて冷たい。ここの真鍮は使い込まれている。人の手の温度をわずかに残している。


 指の腹がその差を律儀に拾う。


 いつものとおりだ。指が告げる。


 いつものとおりではない一日になる。指がそうも告げる。


 ——二日前のことを、指がなぞっていた。


 半月形の封蝋を割ったのは二日前の夕。


 翌朝には早馬の足音がもう一度。表の門の砂利を鳴らした。


「殿下、明後日の夕刻にご到着なされる由」


 使いの男はそれだけを告げた。すぐに鞍に戻った。


 ライラが朝に口にした「十日先」は五日に縮まった。五日はいま、ふたつに縮んでいた。


 屋敷の応接の間には、まだ呼ばれていない。


 ライラからは「治療院をご案内する役を」と前もって申し渡されている。だから迎えの最初の場は屋敷の玄関広間ではなくここになる。


 それがいつもの式と違うことを、メリルは知っていた。


 知っているからこそ把手を握る指がほどけない。


「メリルさま」


 見習いの娘が土間から声をかけてきた。


「煎じ薬、湯気が立ちました」


「ええ」


「少年さまは、もう一度お粥を召し上がりたいと」


「半椀だけ。あとは白湯を多めに」


「はい」


「老人の方の湿布は」


「先ほど取り替えました」


「ありがとう」


「メリルさま、戸の外、寒うはございませんか」


「ええ。少しだけ」


「お羽織を、お持ちしましょうか」


「いいえ。すぐに戸を閉めますから」


「では、奥の火鉢の灰を、もう少し起こしておきます」


「お願いします。少年さまの枕辺の油皿も、芯を整えて」


「かしこまりました」


「それから、もしお客さまが見えたら、わたしが戸口で先にお迎えしますから、あなたは病室のほうへ」


「承知いたしました」


 メリルは把手から手を離した。


 離した指先に戸口の真鍮の温もりだけがしばらく残る。


 その温もりを襟元で軽く拭った。




 日が軒の高さまで落ちた。


 白漆喰の壁が夕の橙に染まる。


 壁の影が土間に長く伸びていた。


 蹄の音は思っていたよりも静かに来た。


 三頭。いや、四頭。


 駆け足ではない。歩を抑えた、聞き慣れぬ抑制のある音だ。


 屋敷側の供回りであれば、もっと派手な装具の音が混じる。


 これは装具を最小に絞った騎影だ。


 メリルは戸口にもう一度手をかけた。


 戸を細く開ける。指の幅ほどの隙間から夕の風が入ってきた。


 風には北辺の冷えがすでに混じる。


 門の前で騎影が四つ止まる。


 先頭の馬から長身の人影が降りた。


 外套の色は目立たない深い灰青。


 頭巾を下ろす仕草に迷いがない。


「ここが、レイクハート領の治療院、で間違いないだろうか」


 低い声だった。


 涼やかで低い。


 ——殿下のお声は、それはもう涼やかな、低い声でね。


 義姉ソフィアが昨朝、鏡台の前で頬を染めて言っていた、あの声の形だ。指の腹で気づいた。


 戸をもう一段押し開けた。


 灰青の外套の人影がこちらに目を向ける。


 深い青の瞳。


 夕の光の中で底のほうがまだ昼の青を残していた。


「……お待ち申し上げておりました」


 メリルは土間に降りた。


 膝を軽く折る礼の角度。


 指先が勝手に測った。


「メリル殿、とお呼びしてよろしいか」


 最初の言葉がそれだった。


 名のあとにほんのひと呼吸の間が置かれる。


「殿」の音が空気の中でやわらかく止まる。


 咎める音でも押しつける音でもない。


 ただ確かめる音だった。


「……はい。メリルと、申します」


「リオネルと申す。五日後と聞かれていたかもしれぬが」


「いえ、いいえ、ご案内のご準備は」


「早すぎてすまない」


 頭巾を畳んで外套の内に収める。


 動作のひとつずつが急がない。


 供の三人は門の外で馬を下りたままだ。こちらに踏み込まない。


 踏み込まないように、ということをリオネルの背の角度がうしろに示していた。


「屋敷へは明日の午前に上がる。今宵はまずここを見たい」


「治療院を、でございますか」


「そう。屋敷の客間ではなくここを」


「お疲れでございましょう」


「いや。むしろここに先に立ちたかった」


 夕の風がまた一筋。


 二人の足元の土間を薄く撫でていった。


 ——エルデン王家の第二王子、リオネル殿下。


 メリルは内側で、その肩書きを律儀に重ねた。聖癒の血を継ぐ正統の家系に生まれた、上から二番目のお子さま。社交界に出ない自分でも、屋敷で交わされる名と肩書きくらいは耳に入っていた。


 その方が今、自分の治療院の土間に立っている。


「お入りください」


「では、失礼する」


「足元、敷居の段にお気をつけて」


 応える声はなかった。代わりに、敷居の手前で外套の裾がひと拍だけ止まる。確かめてからまたぐ、その間の置き方だった。


 メリルは戸を内側に引いた。


 戸の軋みがいつもより低く響く。


 リオネル殿下は黙って頭を一度下げた。それから敷居をまたいだ。


 頭を下げる動作を王族のなかに見るのは初めてだった。




 病室の戸口に見習いの娘が顔を出した。


 顔からすうっと血の気が引く。


「メリルさま、こちらの方は——」


「あとで」


 メリルは娘の前にそっと手のひらを差し出した。


「先に少年さまのところへご案内します」


「は、はい。お粥はまだ温こうございます」


「ありがとう。それから、お湯をもう一杯」


「お持ちいたします」


 娘の足音が廊下の奥へ消えていく。


 その間もリオネル殿下は黙ってメリルの一歩うしろを歩いていた。


 歩幅をメリルの歩幅に合わせている。


 あいだの距離をこちらが歩きにくくない幅に保っている。


 長身の歩幅を自分の側に引き寄せる加減を心得ている。


 メリルは思わず一度だけ振り返った。


 目が合った。


「先導をお願いしたい」


 メリルは向き直った。目礼だけを返した。言葉が出るより先に、足がすでに動いていた。


 病室の戸を引く。


 少年の床の枕元の油皿がほろりと震えて灯る。


 少年は薄目を開けた。


「姉ちゃん」


「ええ」


「……来てくれた」


「来ました」


「うしろの人は」


 メリルは答えをひと呼吸だけ遅らせた。


 遅らせると迷いが見える。


 遅らせなければ迷いは見えない。


 迷いを見せたくない。指が告げた。


「お客さまよ」


 少年の薄目が、長身の影をひととおりたどってから、また姉の手のほうへ戻ってきた。


「お声を、立てなくて大丈夫」


 こくり、と枕の上で頷きの音が小さく落ちた。


 メリルは少年の額にいつもどおり手のひらを当てた。


 指の腹で引いたばかりの熱の薄い火照りを測る。


 手首の脈は深さがある。


 息は長い。


 良い兆しだ。指が読む。


「お粥、半椀だけ。あとは白湯を多めに」


「うん」


「明後日、廊下まで歩きましょうね」


「うん。約束、覚えてる」


「指、出して」


「ん? いま?」


「いま。ねえ、約束はちゃんと指でしないと」


 少年が小指を差し出す。


 メリルが自分の小指をそっと絡めた。


 ほどけたあとでメリルは少年の額にもう一度、手のひらを当て直す。


 その動作のあとに初めてリオネル殿下のほうへ振り返った。


「申し訳ありません。先に子の脈を取らせていただきました」


 殿下は黙って首を横に振った。詫びを引き取らないという仕草だった。


「先にご挨拶を」


「いや。先でよかった」


「……」


 言いさした言葉のあとに、殿下が小さく付け足した。


「私のための先導は後でよい」


「ありがとうございます」


「礼には及ばぬ」


 言葉のあいだに押しつけがましさがまるで無かった。


「殿下」


「……何だろうか」


「この子は、三日前に熱を出した子です」


 殿下の視線が少年の額のあたりへ静かに降りた。それから一度、メリルの手のほうへ戻る。


「いまは、熱が引いた直後で」


 うなずく動作はなかった。代わりに、片膝の角度がほんのわずかに低くなった。少年の枕に近づける、その距離の取り方だった。


「もうしばらく、声を控えさせていただきます」


「もちろん」


 リオネル殿下は少年の床のそばに片膝をつけた。


 長身が低くなる。


 膝の上に置いた手の甲に夕の光が落ちた。


 爪はきれいに切られている。


 ただし左手の親指の付け根に薄く古い切り傷の跡があった。


 ペン胼胝(だこ)ではない。


 もう少し深い。刃物に触れた跡だ。


 少年は薄目をあげて長身の人影を見た。


「兄ちゃん、誰」


 少年の声が不思議そうに揺れた。


 メリルは息を止めた。


 リオネル殿下はしばらく黙ってから、少年と同じ高さの声で答えた。


「……お粥を運ぶ者ではない」


 少年の薄目が、それで、というふうに少しだけ広がった。


「お粥を、運んでもらう側だ」


「えらい人?」


「えらい、というよりは」


 少年は枕の上で次の言葉を待った。


「お粥を運んでもらえる立場、というだけだ」


 ふん、と少年が短く息を抜いた。納得とも未消化ともつかない音だった。


「不思議か」


「うん。ちょっと」


「私も不思議だ」


「えっ」


「自分のことを、ときどき、不思議に思う」


 少年は瞬きをひとつ落としてから、また殿下の顔のほうへ視線を戻した。


「あなたの姉さまの手のほうが、ずっと、はたらいて見える」


「うん。姉ちゃんの手、すごいよ」


「だろうな」


「じゃあ、姉ちゃんに、ちゃんとあやまった?」


「あやまる?」


「うん。早く来たから」


 メリルは思わず自分の口元に手の甲を当てた。


 ふいに笑いそうになったのだ。


「あやまった」


「ほんとに?」


「ほんとに」


 少年の口の端が、毛布の上でほんの少しだけ上がった。


「えらいね」


「えらくはない。当たり前のことだ」


「ねえ、兄ちゃん」


「何だろう」


「姉ちゃんの薬、にがい?」


「私は、まだ飲ませてもらっていない」


「あのね、にがいよ。すごくにがい」


「そうか」


「でもね、飲んだら、頭、すうってする」


「効くということだな」


「うん。にがいの、効くんだって、姉ちゃんが」


 少年は納得した顔で目を閉じた。


 息はすぐに寝息に変わった。


 メリルは長く吐けない息をようやくひとつ吐いた。


 吐いたあとで襟元のあたりがふっと暖かいことに気づいた。




 次の床。


 漁師あがりの咳の老人。


 胸元の湿布をメリルはそっとめくった。


 布越しの皮膚はまだ温もりを返してくる。


 湿布が効いている。指が告げる。


「お爺さん」


「……ん」


「夜の咳は、いかがでしたか」


「……夜半に、一度だけ」


「短く?」


「短くだ」


「よろしい兆しです」


「あんたの手の、おかげだ」


「いいえ。湿布の働きです」


「謙遜なさるな」


「謙遜ではございません。お爺さまの胸が湿布をきちんと受けてくださっているのです」


「そういうものか」


「ええ、そういうものです」


「……あんたは、いつも、そう言いなさる」


 老人は薄く目を開けて、メリルのうしろの長身を見た。


 しばらく見たあとで、また目を閉じた。


「……えらい人を、連れてきなさったな」


「ええ。お客さまです」


「お屋敷から?」


「もっと遠くから」


 老人の瞼が、知ってはいけないものを見たような重さでもう一度ゆっくり閉じた。


「お休みください」


「……ありがてえなあ」


 老人の咳がまた一度、低く落ちる。


 咳のあとで寝息に戻る。


 メリルは湿布の縁を指で押さえて貼りの強さを整えた。


 動作の途中でふっと視線の重みを感じる。


 顔を上げる前からそれが誰の視線かは分かっていた。


 顔を上げると戸口の柱にリオネル殿下の肩がもたれていた。


 もたれかかっている、というよりは、こちらの動作を妨げない位置に体を引いていた。


 目だけがメリルの手のあとを追っていた。


 額に当てた手。脈をとった指。湿布の縁を整えた爪先。


 動作の順を目が一つずつ拾っていく。


「……何かお訊ねでしょうか」


 殿下は柱から肩を起こさないまま、軽く首を振った。問いを差し止める仕草だった。


「ご説明を、と思いまして」


「説明はもうすこしいただいたあとで」


 メリルは口をひとつ閉じた。開きかけた言葉を戻す、その間だけ喉がわずかに動いた。


「いまはただ見ている」


 その「見ている」の言葉だけが、ふしぎとメリルの指の腹にも軽く触れた。


「お湿布の貼り方、ご覧になりますか」


「拝見したい」


「布は二枚重ねでございます。下の一枚は乾いた晒。上の一枚に薬湯を含ませて」


「下の晒は、薬湯を弾く役か」


「肌に直に薬湯が触れぬよう、間をひと枚」


「強さは」


「胸の上の薄い肌ですので、押しつけずに、添えるだけ」


「指の腹で確かめながら、か」


「ええ。指のほうが、患者さまの呼吸を先に覚えますので」


 殿下はうなずく代わりに、また視線だけで先を促した。


「では」


 メリルは軽く目礼をした。


 目礼の角度をいつもより浅くした。


 深く下げると視線が逃げてしまう。


 浅く下げたかった。


 それが自分でも少し意外だった。




 薬棚の前までリオネル殿下を案内した。


 薬棚は奥の壁の一面を埋めている。


 扉のない作りで上から下まで小引き出しが格子に並ぶ。


 引き出しの正面にはそれぞれ薬草の名が手書きで貼られていた。


 古い和紙の角は人の指で擦り切れている。


「これは、いつ頃の棚だろうか」


「……前公爵夫人さまの、お建てになった頃のものと、伺っております」


 殿下は引き出しの一段に指先を寄せた。触れるのではない。距離を測るような寄せ方だった。


「二十年近くになろうか」


「左様でございます」


「木目が、よく落ちている」


「ええ。手垢が、深くなじんでおります」


 メリルはいつもの癖で薬棚の木目に右の手のひらを並べた。


 並べてから自分の動作に気づいた。


 来客の前でする所作ではない。


 手を引こうとした。


 引こうとした手の上にリオネル殿下の声がのった。


「そのままで」


「……承知いたしました」


「あなたの手の上に、棚の埃をいま少し残しておいてほしい」


「埃、でございますか」


「埃はここがどれほど使われているかの量だ」


「……」


「私が見たいのは、その量だ」


 メリルは引きかけた手をゆっくり棚の木目に戻した。


 木目の凹凸がいつもより律儀に手のひらに刻まれる。


 二十年ぶんの人の指の擦り跡だ。


 亡き夫人の指の通った跡と自分の指の通った跡がいま重なっていた。


「メリル殿」


 メリルは手のひらを棚の木目に当てたまま、殿下のほうへ顔だけ向けた。


「ひとつ、伺いたい」


 続きを待った。急かさなかった。


「あなたは、いつから、ここに通っておられる」


「物心ついたその頃から」


「ご家令か後見人のお指図で?」


「いえ……」


 メリルはほんのわずかに唇の上で言葉を探した。


「自分の足で通うようになりました」


「公爵家の養女の身で?」


 メリルは喉の奥で小さく頷きを返した。声にはならなかった。


「養女の務め、というよりは」


「務め、というよりは」


「あなた自身が通いたかった」


「……たぶん、そう思います」


 言ってしまってからメリルは指の先がほんの少し冷えるのを感じた。


 自分でも初めて口にした言葉だった。


 通いたかった、と自分でそう言ったのは。


「殿下」


 殿下は薬棚の前で姿勢を変えずに、目だけでメリルへ応えた。続けてよい、という許しの目だった。


「ライラ様からは、わたしを、その、養女としていずれ退く身としてお見せするように、と——」


 言葉が途中でつかえた。


 言うべきではないと知っていた。


 言うべきではないことを、なぜかいま口にしている。


 リオネル殿下は棚の前でこちらをまっすぐ見た。


 遮らなかった。


 遮らずに最後まで聞いた。


 最後まで聞いてからほんの少しだけ唇の端を緩めた。


「メリル殿」


「はい」


「あなたが養女かどうかを、私は尋ねていない」


「……」


「私はあなたがどう病者に向き合うかを見ている」


 夕の光が薬棚の上に薄く溜まっていた。


 その光がリオネル殿下の肩の辺りでゆっくり位置を変える。


 メリルは薬棚の木目の上に置いた自分の手をもう動かせなかった。


 動かしてしまえばなにかが欠ける気がした。


「……はい」


 返事はそれだけだった。


 返事の「はい」が屋敷の応接の間で重ねてきた「はい」と別のかたちをしていた。


 その別のかたちをメリルは初めて自分の唇の上で確かめていた。




 病室の戸口で見習いの娘が湯気の上がる椀をひとつ、抱えて立っていた。


 二人の様子を見て足を止めた。


 動かないように息まで殺している。


 メリルはようやく薬棚から手を離した。


 離した指の腹に棚の埃の細かさだけが薄く残っていた。


「殿下」


 殿下は薬棚から肩をゆっくり戻して、メリルのほうへ顎を引いた。


「お湯を、一杯」


 湯気の柱が、ふたりのあいだに細く立ちのぼった。受ける、と殿下の指の伸ばし方が答えた。


 娘が椀を差し出す。


 リオネル殿下は両手で椀を受け取った。


 王族らしくない深い受け取り方だった。


 湯気がひと筋、長身の顎の下でまっすぐ立ちのぼる。


「ご丁寧に」


「いえ」


「白湯か」


「白湯にございます」


「ほかに、お出しできる物がございませんで」


「白湯がよい」


「お口に合いますかどうか」


「合う合わぬで湯を選ぶたちではない」


 殿下は椀の縁に唇を寄せたまま、しばらく湯気のほうを見ていた。飲む前の、湯と人の温度を測る間だった。


「明日の午前、屋敷に上がる」


「承知いたしました」


「玄関広間でのお出迎えは、ご当主、後見人殿、ソフィア殿、そしてあなた、の順、と伺った」


「左様でございます」


「順は了解した。ただ」


 メリルは椀の湯気のほうへ目を落とした。続きが来るのを、静かに待った。


「私はいまここで、最初にあなたに会った」


「……お言葉、覚えております」


「順はもう変わらない」


 短いひと息のあとでリオネル殿下は椀を口に運んだ。


 湯をひと口だけ含む。


 含んですぐ戻した。


 戻した椀の中で湯気の柱がわずかに揺れた。


「メリル殿」


 メリルは頭を上げた。殿下の目が今夜はじめて、用件ではなくこちらの顔そのものを見ていた。


「治療院を見せていただき、感謝する」


「……いえ」


「明日、屋敷の客間でお会いするときも」


 メリルは自分の手を膝のそばで軽く握った。聞く、という仕草だった。


「私が見ているのは、玄関広間で初めて並ぶ姿のあなたではない」


「……」


「この棚の前で手のひらを並べていたあなたのほうだ」


「もったいないお言葉です」


「もったいなくはない。事実を申しただけだ」


 メリルは頭を下げた。


 深く下げる礼ではなく軽い目礼だった。


 深く下げるとまた視線が逃げる。


 目礼の角度を自分のほうで決めたのはいつぶりか思い出せなかった。


「明日いずれまた」


「明日」


「もう少し長く伺いたい」


「……お待ち申し上げております」


 リオネル殿下は椀を娘の手に戻した。


 戻すときに礼を一言、娘に向けた。


「ご造作をかけた」


「い、いえ、とんでもないことで」


 娘が椀をきつく抱える。


 驚きが椀の縁を握る指に白く出ていた。


 リオネル殿下は外套を頭から羽織り直した。


 頭巾を被る前に戸口で一度、振り返った。


 振り返って何かを言いかけた。


 言いかけて棚の前のメリルの手を見て止めた。


 言いかけた音が戸口の柱の影にことりと落ちた。


 拾い上げる前に外套の裾が翻った。


 蹄の音が夕の闇の中へ抑えた拍子で遠ざかっていった。




 戸を閉める。


 戸の軋みはいつもの低さに戻った。


 病室の油皿がひとつ、ふたつ、ふだんの揺れに戻っていく。


 見習いの娘が椀を抱えたまま、まだ動けないでいた。


「メリルさま、いまの——」


「いまの方は、いまの方ですよ」


「は、はい」


「明日の朝、屋敷でもう一度お目にかかります」


「は、はい」


「夜の見回りはわたしがします。あなたはもうお休みなさい」


「いえ、わたしも」


「いいえ。今夜はわたしひとりで」


「……はい」


「ありがとう」


 娘が椀を抱えて土間の奥へ消えていった。


 メリルは薬棚の前にもう一度戻った。


 手のひらを木目の上にもう一度並べてみる。


 二十年ぶんの埃が指の腹に律儀に刻まれた。


 律儀すぎる。いまはそう思った。


 自分の手のひらだけのものではない。


 亡き夫人の指の温もりも自分の指の通り跡もたった今降りてきた誰かの目のあとも、この棚の木目はぜんぶ覚えていた。


「……いずれ、退く身」


 声に出してみる。


 二日前に文の上で初めて見たときに唇の上で軽すぎたあの言葉だ。


 今夜、唇に乗せたそれはまだ軽い。


 軽いままなのがいまは少しこわい。


 軽いままにしておきたいと昨日までは思っていた。


 今夜は軽いままにしておけない。指が告げる。


 手のひらを薬棚から離した。


 離した指の腹に棚の埃と、それから誰かの湯気の温もりが薄く残っていた。


 外では馬の蹄の音がもう聞こえなかった。


 代わりに北辺の風が戸口の隙間からひと筋。


 冷えた風の中にほんの少しだけ馬の息のにおいがまだ残っていた。


 戸口の卓には二日前に届いた王家紋章の小箱が、開けられないまま、まだ置かれていた。


 封蝋の半月形がようやくひとつ欠けた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第三話「王子の訪い」をお届けしました。「五日後」と告げられた殿下の到着が、また縮んで「翌々日の夕刻」になる——縮み続ける時間そのものが、メリルの中の覚悟の輪郭を、なし崩しに削っていく。そんな入り方ができたら、と思いながら書きました。


リオネル殿下の最初の一歩を、屋敷の玄関広間ではなく、治療院の土間からにしました。供を最小に絞って、頭巾を下ろして、敷居の前で頭をひとつ下げる——王族らしくない最初の動作で、人物の中身が決まる人物として置けたら。少年に「お粥を運んでもらえる立場、というだけだ」と返す台詞は、地の文で説明したくなかった彼の価値観を、子どもへの一言にぜんぶ預けた一節です。


そして、「あなたが養女かどうかを、私は尋ねていない」——この一行のためだけに、薬棚の前の場面を組みました。亡き前公爵夫人の指の通った跡と、メリルの指の通った跡が、二十年ぶんの埃の中で重なる。そこにもう一つ、たった今降りてきた誰かの視線が重なる。三つの時間の重なりの上に、あの一言を置けたら、と願いながら何度も書き直しました。


戸口で振り返って、何かを言いかけて、棚の前のメリルの手を見て、止める——殿下の最後の一動作は、明日のための引きです。言いかけて止めた音を、明日、もう一度拾いに来ること。メリルがこの先、彼の口から「メリル」とだけ呼ばれる瞬間まで、もう、そう遠くはありません。


毎日19時更新予定です。☆評価・ブクマ・感想をいただけると、何より次話の励みになります。

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