第2話: 仮の婚約者
翌朝。応接の間の扉に手をかけた瞬間、把手の真鍮が指の腹を冷やした。
メリルは一度息を整える。
指の腹が彫り模様の窪みを律儀に拾っていく。蔓草のかたち。ちょうど中指の付け根に当たって止まった。
冷えた金属の感触だ。昨夜割れた封蝋の冷たさに似ている。まだ手のひらが覚えていた。
把手をゆっくり押し下げる。扉は思いのほか軽く開いた。
応接の間は晩秋の朝の光に満ちていた。
鎧戸の隙間から細い光が差し込む。床の絨毯を斜めに撫でていた。蔓草模様だ。
光の届かない柱の影には、まだ夜の冷えがうずくまっている。
「お入りなさい、メリル」
奥の長椅子にライラが座していた。膝の上に開いた帳面。
傍らの小卓に銀の盆。盆には湯気の細い茶が一杯と、薄い焼き菓子がふたきれ。
ライラの分しか用意されていない。
「失礼いたします」
メリルは扉を閉じた。長椅子の少し手前で立ち止まる。
膝を軽く折る礼の角度。指先が勝手に測った。
この応接の間に呼ばれるのは、いつも何かを言い渡される時だ。指の腹に薄い緊張が立つ。
メリルは長い年月でそれを覚えていた。
「お座りなさい」
ライラの声はいつもどおり柔らかい。
「あなたが立ったままでは、わたくしも話しにくいでしょう?」
メリルは長椅子の縁にそっと腰を下ろした。背筋を立てる。
絹張りの座面が指先を冷たく押し返してくる。
「昨夜の文は読みましたね」
「……はい、ライラ様」
「殿下のおいでは十日先。早ければ九日かもしれません。先触れがすぐ参りましょう。玄関広間の準備は、ニコル長に伝えておきました」
ライラは帳面の頁をひとつ繰った。指で項目を辿る。
「お出迎えは玄関広間で。公爵様、わたくし、ソフィア。そしてあなたの順で並びます。あなたの位置はソフィアの一歩後ろ。よろしいですね」
メリルは膝の上で指を一度そろえた。膝頭の絹に、自分の手のひらの形が淡く残る。
「治療院をご案内する役を、あなたに任せます。なにしろあなたほど、あの場所に馴染んだ者はおりませんから」
褒めているような形の言葉が、ゆっくり耳の中に落ちてくる。
メリルは膝の上の手を見た。指の節の薬草の染み。
朝の光の中で、いつもより濃く見えた。
「治療院をご案内するのは、わたし——仮の婚約者の務めとして、でしょうか」
自分の口から出た問いに、メリル自身が少し驚いた。
問い返すこと自体、もう何年もしてこなかったことだった。
ライラの片眉がほんの少しだけ上がった。
「もちろん、そうです。仮の婚約者として殿下にお仕えなさい。けれども、メリル」
ライラは茶器を持ち上げる。唇を寄せる前にひと呼吸置いた。
茶の湯気が、彼女の顎の下でゆらりと折れる。
「『仮』という言葉の意味を、よく覚えておくのですよ」
茶を一口含んでから、彼女は静かに茶器を戻した。
陶の底が銀の盆に触れる小さな音。室内の沈黙にひとつだけ立った。
「殿下のお隣にあなたが立つのは、ほんの数日のこと。やがてその席にお座りになるのはソフィアです。あなたはいずれ退く身ですよ」
昨夜の文の末尾と同じ言葉。
文字で読んだ時とは違う。
声で渡される「いずれ退く身ですよ」は、耳の内側にやわらかく貼りつく感触があった。
蜜のような——昨日もそう思った形容が、今朝も同じ形でメリルの中に立ち上がる。
「はい、ライラ様」
「殿下にあらぬ期待を抱かせてはなりません。あなたの務めは治療院をお見せすること。病者への手立てを淀みなくご説明すること。それ以上——たとえばご機嫌取りのような会話に踏み込むことは慎みなさい」
言葉のひとつひとつが、メリルの肩の上に薄い石を重ねるように置かれていく。
「あなたの手は絹の上にはありません。病者の額の上にこそ生きる。前にも申しましたね。あなたの値打ちは病室にあるのです。応接の間に長く置いてはなりません」
メリルは目を伏せた。
膝の上の手を一度、軽く握る。握ると指の関節がしずかに鳴った。
「……承知しております」
ライラはうなずいた。
鎧戸の隙間の光が、結い上げた濃い栗色の髪に淡い縞を作っている。
光の縞は、彼女の白い額の上でゆっくり位置を変えていった。
「お父様も同じお考えです。昨夕申し上げたら、お父様は黙ってうなずかれました」
黙ってうなずかれた——その一言の中に、義父アルヴィンの細い肩と伏せがちな目が見えた気がした。
何か言いかけ、結局のみ込む。
あの小さな空白を、ライラの言葉はずいぶん前から自分の側に引き寄せていた。
「お義父さまは……ご了承なさいましたか」
「もちろんですよ。お父様はソフィアの晴れの場のために、家のすべてを整えていらっしゃるのです」
茶器がもう一度、わずかに持ち上がる。
「あなたもその家の一員。家のために自分の場所をわきまえる。それがあなた自身を守ることでもあるのですよ」
扉の向こうで、廊下を行く侍女の足音が二度、三度と通り過ぎていった。
やがてそれも遠ざかる。応接の間は再び沈黙に戻った。
ライラの髪に縞を作る光の音だけが残る。
「下がってよろしい」
ライラはやわらかく微笑む。微笑みは唇までで止まっていた。
メリルは礼をして、長椅子から立ち上がる。
座面に残った自分の体温。絹を通してじんわりと指先まで戻ってきた。
自分の温もりだけが、しばらくの間そこに留まる。
扉まで戻り、把手にもう一度手をかけた。
出て行くときの真鍮は、入ってきた時とは別の温度に感じられた。
冷えていた指先が、いつの間にか少しだけ汗ばんでいた。
廊下に出ると、晩秋の朝の風がひと筋。東窓の鎧戸の隙間から入り込んでいた。
乾いた風にはすでに北辺のにおいが混じる。
木枯らしになる前の、痩せた風の匂いだ。
メリルは廊下を曲がり、肖像の間の前を通った。今朝も足が自然に遅くなった。
前公爵夫人エレインの絵。淡い亜麻色の髪。
伏せがちの目元。何かを言いかけてやめたような口元。
今朝のメリルには、その口元の形が少し違って見えた。
何か言いかけてやめた——のではない。まだ言いかけている最中だった。
絵筆を置く時間が来てしまった。そんなふうに見えた。
錯覚だ。毎度のようにそう思い直して、メリルは絵の前を離れた。
離れぎわに、ふと、自分の口元も同じ形をしているのではないか、と気にかかった。
立ち止まり、自分の口元に手の甲を当ててみる。
指の関節が唇の下に触れた。
何か言いかけて、けれど言葉にしないまま止めていた。
ちょうど絵の中の口元と同じ形だった。
手の甲を口元から離す。袖口でほんの少しだけ口角を拭った。
その日は午前のうち、衣装室で義姉の刺繍の縁取りを直した。
午後の早い時刻に屋敷を出る。治療院へ向かった。
馬車を仕立てるほどの距離ではない。屋敷の裏門を出て、領地の南へ続く小道を半里ほど。
歩けば治療院の白漆喰の壁が見えてくる。
歩きながらメリルは「仮の婚約者」という言葉を口の中で繰り返していた。
足の運びに合わせて、何度か。声には出さない。
土を踏む靴底の硬さに乗せて、内側でだけ転がす。
仮、というのはその言葉の中で一番軽い字だ。メリルはそう思う。
軽いから、いつでもどこかへ吹き飛ばされていく。
もう半年前になる。
最初に「仮の婚約者」という言葉を聞かされたのは、春の終わりごろ。
屋敷の小書斎でのことだった。
——あれは、半年前。春の終わりの、午後のことだった。
あの日のことを、メリルの手のひらはまだはっきりと覚えている。
小書斎の窓の外では、若葉の梢が風に揺れていた。窓は半分開けられている。
青葉の匂いが帳簿の革表紙の匂いに混じっていた。
机の向こうに義父アルヴィンが座る。その右斜め後ろに後見人ライラが立っていた。
義姉ソフィアは机の脇の小椅子に腰を下ろし、扇を膝の上で弄んでいる。
「メリル。お前に頼みごとがある」
義父が机越しに言った。声はいつもより少しだけ強かった。
けれど語尾は最後まで持続しない。
「頼みごとがある」の「ある」のところで、すでに息が薄くなっていた。
「はい、お義父さま」
「……重い話だ。先に、それだけは言っておく」
メリルは小さくうなずいた。膝の上の手のひらが、知らぬまに帳簿の革のような匂いを吸い込んでいた。
「実は、王家から——」
義父は言葉を切り、横に立つライラを見上げた。
ライラはわずかに微笑む。義父の代わりに口を開いた。
「アルヴィン様。わたくしから申し上げてもよろしゅうございますか」
義父はうなずいた。
うなずく動作の小ささを、メリルの目はそのとき不思議とよく覚えている。
「王家から打診がございました。第二王子リオネル殿下と、当家の令嬢を婚約させたい——と」
春の若葉の匂いが、その瞬間ふっと遠ざかった気がした。
メリルは机越しの義父の顔を見る。
それから、その右斜め後ろのライラの顔を見た。
ライラは依然、穏やかに微笑んでいる。
「ソフィアと、ですよね」
メリルは口にした。確認のつもりだった。
「ええ、もちろん」
ライラはうなずく。
「最終的にはソフィアです」
ライラの声はやわらかかった。
「ただ、ね、メリル。事情がございますの」
ライラは扇のかわりに、机の上の帳面の端を白い指でなぞった。
「殿下はまだお若くていらっしゃる。王家のご事情で、すぐにご婚約はなさいません。お年回りの問題。王太子殿下のご婚儀の順序。教会の儀礼——いくつか整えねばならぬ手続きがあるのですよ」
メリルは続きを待った。ライラの言葉は、本題に至る前に必ず長い助走をとる。
「その整いを待つあいだ、殿下のお相手を空席にはできません。社交界の評判。王家のご威光に関わります。ですからしばらくの間、当家の別の娘が『仮の婚約者』として表向きの席に座ることになりました」
別の娘——その言葉が、メリルの耳の中で二度、三度と反響した。
その別の娘が自分を指していることは、その時にはもうわかっていた。
わからずに済めば。ほんの一瞬だけ、そう思った。
それはメリルが滅多に自分のために抱かない種類の願いだった。
「メリル」
「……はい」
ライラの声が、メリルの名をいつもよりやわらかい音で呼んだ。
やわらかい音で呼ばれるときほど、後の言葉が重い。
メリルは経験で知っていた。
「あなたに、その『仮』のお務めをお願いしたいの」
「……わたしに、ですか」
「あなたがいちばん適任なのですよ」
ライラはほんのわずかに身を乗り出す。
「ソフィアはまだ表立っての席を多く持ちすぎております。仮の婚約者という形でお迎えするには、立場が忙しすぎる。けれど、あなたなら——」
ライラは扇の縁で机の上の小卓を軽く示した。
「治療院の務め以外、社交の席をほとんど持っておられない。仮の席にお座りいただいても、他のご予定とぶつかりません。それに——」
ライラの目が、ふっと机の向こうの義父を見て、それから戻ってきた。
「あなたは出すぎたことをなさらない。仮の婚約者として殿下のお隣に座っても、殿下のお心を本気で奪おうとはなさらない。それがいまの当家にとって、いちばん安心なのですよ」
膝の上で、メリルの指が薬草の染みの上を一度だけなぞった。爪の白いところがゆっくり沈んでいく。
「ソフィアの晴れの場のための——いわばつなぎの役を、ね」
ソフィアが扇を音もなく開いた。
扇の縁の銀の刺繍が若葉の光を細かく弾く。
「お母さま」
ソフィアが、扇の陰から低く言った。
「メリルなら、安心ですわね」
「ええ、ソフィア」
「身の程をわきまえた娘ですもの」
「そのとおりですよ」
「殿下のお心を、惑わせる心配もございませんわ」
声は穏やかだった。
ただ口元だけが少し動き、満足の形を作って、すぐに静まる。
「お義父さまは……」
メリルは机の向こうへ目をやった。
義父アルヴィンが何か言いかける。けれど結局、机の天板に目を落とした。
机の上には何もない。義父はそこを見続けていた。
「……ライラの言うとおりだ。すまない、メリル」
義父の声は紙のように薄かった。
「すまない」の語尾は、ほとんど吐息に解けて消えていった。
「いずれ退く身であることを、よく承知のうえでお受けくださいね」
ライラの言葉が、条文を読み上げるように静かに置かれた。
最後の念押し。
「はい、ライラ様」
メリルは答えた。返事はいつもの「はい」だった。
その「はい」の一語の中に、何かを言いかけてのみ込んだ義父の沈黙。
扇を開いたソフィアの満足。
若葉の匂いがもう遠ざかった春の風。
そういうものをすべて押し込めた。
手のひらだけが、無意識に膝の上で握り込まれて汗ばんでいた。
握っていた手をそっと開く。
薬草の薄い染みの上に、自分の指の爪のあとが半月のように残っていた。
——若葉の匂いは、もうとうに消えていた。
半里の小道を歩き終え、メリルは治療院の門をくぐった。
白漆喰の門柱に手をかける。
晩秋の冷気を吸った漆喰が、指先からひんやりと熱を奪った。
半年前の小書斎の若葉の匂いは、もうどこにもない。
代わりにいま、メリルの鼻先には乾燥薬草の青い匂い。煎じ薬を煮る湯気の柔らかさ。
ここでは自分の手のひらが、ようやく自分のものに戻る。
半里歩いてくるあいだ、屋敷で身に着けた借り物のような姿勢が、門をくぐる頃にはほどけていく。
指先の力みが、白漆喰の門柱を撫でた瞬間にすっと抜けた。
メリルは毎日、それを確かめている。
「あら、メリルさま、お早いお戻りで」
見習いの娘が土間を駆けてきた。手には湯気の立つ薬研皿。
「ねえ、少年は?」
「熱、引いておられます。今朝、お粥を半椀、召し上がりました」
「そう。どれどれ、薬研、見せて」
「はい、こちらに」
「ふむ。よく搗けてるわね」
「ありがとうございます」
「それから——」
娘は皿を抱え直して、声を少しだけ弾ませる。
「『姉ちゃんは今日来る?』って、もう三度、お訊ねでした」
「三度も?」
「はい。三度」
メリルは思わず足を止めた。施療衣の袖口を指で握り直す。三度——という数の重さが、晩秋の空気の中で妙にはっきりと立ち上がった。
「お粥を運ぶたび、扉のほうを見ておられました」
「まあ」
「『今日も来ない日かな』って、二度目の時に、小さな声で」
「うふふ。困った子ね」
「ほんに」
メリルは小さく笑った。笑った口の端が、少しだけ熱を持つ。
少年の床へ向かう。
少年は薄い毛布の上で半身を起こしていた。
三日前は枕に頬を埋めて熱に喘いでいた顔だ。
今は首の角度で日差しの傾きを追えるところまで戻っている。
「姉ちゃん」
少年がメリルを見つけて、口元を緩めた。
メリルは枕元に座る。まず額に手のひらを当てた。
指の腹で、熱が引いたあとの薄い火照りを測る。
指先で手首の脈を取る。脈はまだ少しだけ速い。けれど深さがある。
良い兆しだ、と指が読む。
「お粥、おいしかった?」
「うん。塩、もう少し利いてたら、もっとうまかった」
「あら、欲張り」
「だって、ほんとに」
「ふふ。次はもう少し利かせましょう」
「ねえ、姉ちゃん」
「なあに」
「俺、明日には起きていい?」
「明後日まで、待って」
「……はあい」
「明後日になったら、廊下までは歩いていいわ」
「廊下まで?」
「ええ。少しずつね」
「外までは?」
「外は、まだ駄目」
少年は唇を尖らせて毛布の端を一度握った。
「ふふ。焦らないで」
「焦ってないよ」
「焦ってるわ」
「うん。焦ってる」
「ふふ。正直でよろしい」
「だって、外、見たい」
「明後日、廊下の窓から見ましょう。約束よ」
「うん。約束」
「指、出して」
「ん?」
「約束は、指できりむすぶの」
「ふうん。じゃあ、する」
少年が小さな小指を差し出した。メリルは自分の小指をそっと絡める。
少年が首をすくめて笑った。
メリルは微笑んだ。
微笑むと、頬の内側の筋肉が、屋敷の応接の間ではほとんど使われなかったことに改めて気づく。
少年の手首から自分の手を離した。
隣の老人の床へ移る。漁師あがりの咳の老人。
今朝も湿布を取り替えてやる。
胸元の布を一枚開けると、皮膚の薄い乾きが指先に返ってきた。
水気を欲しがっている、と指が告げる。
「お爺さん。今日は白湯を多めに召し上がってくださいね」
「……ありがてえなあ」
「咳は、夜のほうが出ますか」
「夜半が、いちばん」
「胸の痛みは?」
「胸は、軽くなった」
「それは、よろしゅうございました」
「では今夜、生姜を一片、湯に落としてみましょう」
「生姜かい」
「ええ。喉も温まりますから」
「お嬢さん、すまねえな」
メリルは小さく首を振った。湿布の角を指の腹でなおしてやる。
「あんたは、まだ若いのに、よう手が動くなあ」
「子どもの頃から、ここに通っておりますから」
「そうかい。……長いんだなあ」
「ええ。長いです」
老人はかすれた声でうなずき、咳を一度、低く落とした。
咳の合間に、メリルは湿布の縁を指で押さえる。
皮膚との貼りの強さを整えてやる。
湿布の温もりが布越しに皮膚へじわりとなじむのを、メリルは指先で何度も確かめた。
——この温もりに、自分まで馴染んでしまいそうで、少し怖い。
ふと、なじむ、という指の感触が、頭の中で別の言葉に重なった。
いずれ退く身——
退く、という言葉は、なじむ、の反対側にある言葉だ。
なじみきる前に退かなければならない。
なじむ前に、退く準備をしておかなければならない。
メリルは湿布の縁から指を離す。
離した指先には、湿布のひと冷えの感触だけが薄く残っていた。
午後の陽が低くなる頃、新たな患者が二人運ばれてきた。
ひとりは屋根葺きの作業で梯子から落ちた若い職人。
打ち身は深かった。けれど骨は通っている。
指で関節の動きを順に確かめる。
痛みの走る向きを聞いて、湿布を当てる位置を決めた。
「ここ、響きますか」
「……ぐ、っ。響きやす」
「上に向けて押してみてください」
「あ、こっちは大丈夫だ」
「肩は、回りますか」
「回るよ。痛むけど、回る」
「では、ここを起点に巻きましょう」
もうひとりは、生まれて間もない赤子を抱えてきた若い母親。
赤子の頬が赤く、息が浅い、と訴える。
メリルは赤子の額にまず手のひらを当てた。
それから胸の上に手を置く。
指先が小さな胸郭の上下を読む。熱は高い。
けれど息の浅さは熱のせいだけではない。指が告げた。
母親の懐の冷えが、まだ赤子の背中に残っている。
「お母さま」
若い母親はぴくりと顔を上げた。怯えに近い目で、メリルを見る。
「まずあなたの胸の中で、もう少し赤ちゃんを温めてあげてくださいね」
母親は無言でうなずき、襟元をかき寄せた。
「熱は今日のうちに引きます。引かなかったら、明朝もう一度いらしてください」
「ありがとうございます、メリルさま」
「お母さま、おひとりで?」
「はい。連れ合いは、漁に」
「では、夜は誰かに付き添ってもらえますか」
「隣の家のおかみさんが」
「よろしいですね。何かあれば、夜中でも構いません」
母親は深く頭を下げた。礼の角度が、生まれて間もない子を抱える腕の浅さを補おうとするように、少し深すぎた。
若い母親はうなずく。赤子を懐の奥深くに抱え直した。
母親の腕の中で、赤子の小さな手が一度、空気を握り、ほどけた。
その小さな手の形を、メリルはふいに自分の手のひらに重ねた。
握って、ほどく。握って、ほどく。
誰かに握ってもらうことも、誰かに自分が握ってもらった記憶も、メリルにはあまりない。
けれど握ってあげること——脈をとる。額を支える。湿布を押さえる。
それはたぶん、世界の誰よりも多くしてきた。
いずれ退く身。
退いた後、この手はどこへ行くのだろう。
初めて、そう思った。
考えたことを、すぐに考えなかったことにする。
考えてはいけない、というよりは、考えても答えがない問いを、これ以上手元に置いていてはいけない。
指がそう言うのだった。
日が沈み、廊下を行き来する灯火の影がやわらかく長くなった頃、表の門のあたりで馬の蹄の音がした。
ひとつではない。
三頭、四頭——ゆっくりした駆け足ではない。
長旅の途中で歩を緩めた、抑えた蹄の音。
見習いの娘が土間から駆け込んできた。
「メリルさま。表に、王家のお使いと名乗る方が」
「……お使い?」
「先触れ、とおっしゃっていました。リオネル殿下が、近く——」
娘の言葉が最後まで言い終わらないうちに、表の門のほうから若い男の声が響いた。
「レイクハート公爵領、治療院担当の方はおられるか。第二王子リオネル殿下、五日後にはご到着のご予定にて、ご一報申し上げに参った」
五日後。
ライラが朝、口にした「十日先。早ければ九日」という数字が、もうそこにはなかった。
指の中で握っていた湿布の縁の感触が、ふっと冷たく抜けた。
メリルは無意識に、片手で胸元の施療衣を一度押さえた。
押さえた手のひらに、自分の鼓動が思いのほか速く返ってきた。
手のひらが量る熱はいつもなら病者のものだった。
今、その熱は初めて、自分自身のものだった。
扉のそばの卓には、午後のうちに見習いの娘が運んできた、王家の紋章の刻まれた小さな木箱がひと箱だけ置かれていた。
先触れと共に届いた、殿下からの先発の手土産。
封蝋はまだ割られていない。
半月形の封蝋に、灯火の影がゆらりと寄りかかっていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第二話「仮の婚約者」をお届けしました。前話の文の末尾——「あなたは、いずれ退く身ですよ」を、もう一度、声にしてメリルへ手渡す回でした。文字で読むのと、応接の間で耳に受けるのとでは、貼りつき方が違う。そこをどう書くか、何度か書き直しました。
半年前の小書斎の場面を、回想として真ん中に置きました。義父アルヴィンが、何か言いかけて結局机の天板に目を落とす——その小さな沈黙を、メリルがどう受け取ってきたか。ライラの「いずれ退く身であることを、よく承知のうえで」という念押しが、まるで条文の読み上げのように響くこと。義姉ソフィアの「扇を開いて、満足の形だけ作って、また閉じる」一連の身ぶり。三人の沈黙と動作だけで、十八年メリルが受け取ってきた「身の程」のかたちを刻めたら、と思いながら書きました。
肖像の間の前で、メリルが自分の口元に手の甲を当ててしまう場面——あれは書きながら手が勝手に動いた一文です。前公爵夫人エレインの肖像の口元と、メリルの口元が、ほんの一瞬、同じ形になる。母娘の身体記憶の小さな痕跡を、本人が気づかぬまま置いておくつもりです。いつか、別の話で、別の重さで返ってくる予定です。
そして、ライラが「十日先、早ければ九日」と言った殿下来訪が、夕方には「五日後」に縮まる——リオネル殿下のお出ましは、思いの外、早いようです。次話、ついに殿下が治療院の扉をくぐります。
毎日19時更新予定です。☆評価・ブクマ・感想をいただけると、何より次話の励みになります。




