第1話: 日陰の手
衣装室の朝の光は、絹に当たると冷たい。
メリルは象牙の櫛を握り直した。義姉の金髪に根元から櫛を入れる。毛先までゆっくり滑らせる。
冷たい絹のような髪が手のひらをすり抜けていく。
櫛の歯が頭皮に触れる加減を自分の手の温度で測った。強すぎれば痛い。弱すぎれば結いがほどける。
長年病者の頭を支えてきた手は、その境目をよく知っていた。
メリルは、ふと部屋の奥に視線をやる。
淡い空色のドレスが衣紋掛けに広げられていた。明日の茶会のための装いだ。胸元の刺繍は細密な蔓草模様、襟ぐりには真珠が控えめに縫い込まれている。
そのリボンを、メリルは早朝のうちに細い糸で留め直してきたばかりだった。指先にはまだ針の押し痕がうっすらと残っている。
義姉の晴れの装いはいつもこうして、メリルの手を一度通る。
義姉、と呼ぶようにしている。けれど血の繋がりはない。十八年前に遠縁の養女としてこの公爵家に引き取られた身——それがメリルの戸籍上の立場だった。
「もう少し、ふんわりとして頂戴」
鏡台に映ったソフィアが、扇の縁を白い指で叩いた。
「……仰せのとおりに、ソフィアお義姉さま」
メリルは櫛を持ち替えた。艶を保たせるように毛束を空気に泳がせる。指の腹に毛流れの素直さが返ってきた。
「淡い空色にしたのは正解だったわ」
ソフィアは鏡の中の自分の頬に指を当てた。
「殿下は派手な色がお好きではないと耳にしたの」
「左様ですか」
「控えめで、しかも気品のあるものを選ぶの。それが、わたくしの務めですから」
メリルは何か言いかけて、けれど言葉にしないまま、毛束に櫛を通した。
「お母さまも、淡い色のほうがあなたの肌に映えると仰っていたわ」
メリルは毛束を一度持ち上げて、光に透かしてから戻した。
「お似合いになります」
「あら、お世辞は嫌いよ」
「お世辞では、ございません」
「ふふ。それならいいけれど」
ソフィアは扇を開いた。口元を隠して笑む。
「ねえ、メリル」
メリルは結い目に挿しかけたピンを、いったん指の間で止めた。
「念のため、もう一度だけ言っておくわ。この髪を結うのは、本当はあなた以外にもっとふさわしい侍女がいるはず。けれど、わたくしはあなたに任せている。——意味、わかっているわね?」
メリルは櫛の柄を握り直した。指の腹に、木の節がひとつだけ立っているのがわかった。
「……はい」
「養女のあなたにできる、せめてものお務めね」
ソフィアの唇が薄く笑った。笑みは唇までで止まり、目には届かなかった。
「明日の茶会で殿下のお隣に座るのは、いずれわたくしですわ」
——ソフィアが王家に嫁ぐまでの、ほんの数年。その『いずれ』が来るまでの席を養女の自分が繋いでおく。それが『仮の婚約者』という言葉の実際の意味だった。
扇の骨が、かたん、と鏡台に置かれる。
「仮の婚約者の席は、あなたのためではなくて、わたくしの晴れの場のため。覚えておいて」
「……承知しております」
「ねえ、聞いている?」
「聞いております」
「殿下のお声を、まだお耳にしたことはなくて?」
「ございません」
「それはそうね。あなたは王城の舞踏会には呼ばれない方ですもの」
メリルは毛束の艶を、もう一度だけ手のひらで撫でて整えた。
「それはもう涼やかな、低い声でね」
ソフィアは少女のように頬を染めた。
「……ああ、ごめんなさい。あなたには関わりのないお話だったわね」
メリルは答えなかった。代わりに、結い目の最後のピンを、髪の根元に一本だけそっと差し込んだ。
声を出さずに頷くことで返事に代えるのが、いつのまにか癖になっていた。
その短い動作は、十八年かけてだんだんと薄くなった、自分の声の最後の輪郭でもあった。
手のひらだけが櫛の柄をきつく握っている。
きつく握ると、皮膚に古い染みが透けて見えた。薬草の汁が落ちきらないまま染みついた、いくつもの薄い色の痕。
ふと櫛の柄の硬さが手のひらの底で別の手応えに重なった。今朝早く、夜が明ける前に握っていた擂り粉木の感触だ。
——あれは、まだ屋敷に戻る前のこと。
メリルは公爵領の治療院で、ひとりの少年の枕元にいた。
三日前から熱が下がらない。
額に当てた手のひらが、ふつりと内側で脈打つほどの熱を返してくる。
手のひらが熱を量る。指先が脈の速さを数える。
脈は速いが、深くは落ちていない。まだ大丈夫だ、と手が告げる。
「水を、少し飲みましょうか」
「姉ちゃん」
「はい」
「もう一杯、欲しい」
「ええ、ゆっくりね」
メリルは少年の上体をそっと支えた。椀の縁を唇に当てる。喉が動くのを、首筋の皮膚の張りで確かめた。
「……痛いよ、姉ちゃん」
熱でかすれた声が、小さくこぼれた。
メリルは指先で汗ばんだ前髪を払ってやる。
「大丈夫」
そして、噛んで含めるように、言った。
「痛いのは、ちゃんと治っていく証ですから」
「ほんとに?」
「ほんとうです」
「姉ちゃんは、お医者さま?」
「お医者さまの、手伝いです」
「ふうん」
少年の喉がこくり、と頷くように動いた。
メリルはそのまま、少年の細い手首に自分の手のひらをそっと当てた。
脈の上に自分の脈を重ねる。息を整える。
手のひらの下で、少年の体の奥にこわばっていた何かが、ゆっくりとほどけていく感触が返ってきた。
額の熱がほんの少し引いた——気がする。気のせいかもしれない、と毎度思う。
けれど病者の側は、決まってメリルの手のあとに眠る。
病室の戸口から、見習いの娘が顔を覗かせた。
「メリルさま。煎じ薬の追加を、お願いしてもよろしいですか」
「あら、もうそんな刻限。——ええ、すぐに」
「分量は」
「粉のほうを三匙、お湯に落として、ね」
「かしこまりました」
「湯の温度は、指でひとつ数えるまで」
「承知しました」
病室の外では、見習いの娘が乾燥薬草を擂り始めた。
擂り粉木の規則正しい音が、夜明け前の薄闇の中に低く満ちていた。
隣の寝床では、漁師あがりの老人が咳の合間にうつらうつらしていた。
乾いた咳が三度続いてから、寝息に戻る。
メリルは前夜のうちに調合しておいた湿布を、老人の胸元にそっと当て直した。
「……すまんね、嬢さん」
老人が薄目を開けて、しわがれた声を出した。
「気にしないで。眠っていてください」
「あんたの手は、あったかいなあ」
「……ありがとうございます」
「お屋敷の娘さんと、聞いてたが」
「ええ。けれど、ここではただの手伝いです」
「ふぅん。……ありがたいことだ」
「お気になさらず。お休みください」
「嬢さんが来ると、ここの空気が、変わるなあ」
「……お気のせいですよ」
「お気のせいなものか」
メリルは答えに迷い、湿布の縁を布の上から軽く押さえ直すだけにした。
湿布の温もりがじわりと布越しに伝わる頃、咳の間隔がほんの少しだけ広がった。
窓のない病室には、それぞれの病者の呼吸の長さだけが、別々の拍子で満ちていた。
この治療院は、前公爵夫人エレインさまが遺されたもの——とだけ、メリルは聞かされてきた。
屋敷の人々はいつもその名を口にするとき、ほんの少し声を落とす。
慈悲深く聖癒の力に長け、若くして病で世を去った前夫人。それ以上のことをメリルは知らない。
ただ、亡き夫人の指が触れたであろう薬棚の木目に、いつも自分の手のひらを並べてしまう癖がついていた。
手のひらを並べると不思議と落ち着く。会ったこともない人の手の温もりがまだそこに残っているような気がするのだ。
——櫛の柄の硬さが、手のひらに戻ってくる。
鏡台の前。義姉の金髪と、自分の手と、朝の絹の光。
ソフィアは銀の耳飾りを掌で弄んだ。それから扇を畳んで立ち上がった。
「行くわ。お母さまが、応接の間でお待ちよ」
「行ってらっしゃいませ」
「ああ、それと——」
ソフィアは戸口で振り返った。
「茶会の控え室に、あなたの席はないから。覚えておいて」
メリルは小さく頭を下げた。返す言葉を喉の手前で止めると、細い吐息だけが唇からこぼれた。
衣ずれの音が、絨毯に吸い込まれて消えた。残った部屋は、ふいに静まりかえった。
沈黙が肩のあたりにそっと降りてくる。メリルはようやく息を吐いた。
廊下に出ると、晩秋の午後の光が西窓から長く伸びていた。
柱の影に義父アルヴィンが立っていた。レイクハート公爵——この家の当主にして十八年前に養女のメリルを引き取った人だ。
灰褐色の髪に白いものが目立つ。肩が思いのほか細い。
「お義父さま」
メリルは頭を下げた。
アルヴィンはこちらを見て何か言いかけ、けれど結局目を伏せた。
「……ご苦労」
メリルは小さくかぶりを振った。礼にはなりきらず、否定にもならない、ただの会釈だった。
「……髪を、よく結ってやってくれた」
「お役に立てましたなら」
「……ソフィアは、機嫌よくしていたか」
「ええ。お気に召されたようでございました」
「……そうか」
アルヴィンはひとつ息を吸い込んで、けれどそれを言葉にはしないまま吐き出した。メリルはその吐息の長さだけを耳で測った。
「……うむ」
短い一言だけで、彼は廊下の奥へ去っていった。
靴音は絨毯の上で柔らかすぎて、ほとんど聞こえなかった。
メリルは、いつもどおりだ、と思った。
義父が自分に向けて何かを言いかけ、最後にはのみ込む。その小さな空白を、メリルはずいぶん前から数えるのをやめている。
廊下の途中には肖像の間がある。
歴代当主の肖像が並ぶいちばん奥に、若い女性の絵が一枚、控えめにかけられていた。
前公爵夫人エレイン。淡い亜麻色の髪を一つに束ね、目元は伏せがちで、口元には何かを言いかけてやめたような形がほんの少し残っている。
メリルはその絵の前を通るたび、なぜか足が遅くなる。
絵の中の指は、薄絹の袖口から控えめに覗いている。
メリルはいつのまにか、自分の右手をその絵の指に重ねるように、額の前へ上げてしまっていた。並べて見比べる癖がついている。
爪の付け根の形だけが、自分のそれとよく似ている気がした。
けれどそれはただの錯覚だろうと毎度思い直す。手を下ろし、絵の前を離れる。
階段の手前で後見人ライラが扇を片手に立っていた。ソフィアの実母であり、亡き前公爵夫人エレインに代わってこの家の家政を握ってきた人だ。
「メリル」
やわらかい声が、廊下の冷えた空気にすっと染みた。
「お疲れさまでしたね」
「いえ」
「ソフィアの髪は、あなたの手が一番おとなしくなる」
「……ありがとうございます」
「あの子、機嫌は良かったかしら」
「お気に召されたご様子でした」
「結構なこと」
ライラはほほえんだ。
「明日の茶会、あなたは末席で控えていてくださいね。仮の婚約者として、ね」
メリルは視線を、ライラの扇の縁から、廊下の絨毯の縫い目へとそっと下ろした。
「……承知しております」
「殿下のお目に、あまり留まらぬよう」
ライラは扇を開き、笑みの形だけを目に乗せた。
「身の程をわきまえることは、あなた自身を守ることでもあるのですよ」
メリルは答えなかった。喉の奥で何かが小さく動き、けれど声にはならなかった。
「わたくしは、あなたを案じているのです」
ライラの扇が、ゆっくりと閉じる。
「下手な期待は、あなたの心をすり減らすばかりですからね」
メリルは黙って頭を下げた。
——「あなたを案じている」「あなた自身を守る」「すり減らさないように」。
言葉はすべてメリルの身を気遣う形で並んでいた。けれど中身はひとつ残らず「身の程をわきまえて退いていなさい」と言っている。
ライラの言葉はいつもこの形だ。柔らかい音だけが耳に残り、その意味は、後になってからゆっくりと皮膚をすべる。
ライラは扇の縁で、メリルの肩のあたりを軽く示した。
「治療院の務めは、あなたにこそ似合っているのですよ」
「……」
「あなたの手のひらは、お屋敷の絹より病者の額にこそ生きるのですから」
褒めているように聞こえる。
けれど、それは「この家の絹はあなたの手のためのものではない」と、別の言い方で念を押す音でもあった。
メリルはそれを十八年聞き続けている。
十八年聞いても、刃の感触には慣れない。
慣れないが、痛くはなくなる——という見分けだけが、年々はっきりとついてきた。
屋敷の裏門を出て、領地の南へ続く小道を半里ほど。歩けば白漆喰の壁が見えてくる。社交界に出ることを許されない養女の自分にも、ここでなら居場所がある。
日が落ちる頃、メリルはようやく治療院の扉を押した。
木戸の軋みも、薬草の混じった匂いも、ここではすべてが手のひらにしっくりくる。
昼のあいだに新しく運ばれてきた患者が二人。
麦刈り帰りに足を捻ったという中年の男と、咳が止まらないという農婦。
メリルは順に手を当てた。熱と脈を確かめる。
「足首は明日には膝までの軟膏で済みます」
「へえ、そりゃ助かるなあ」
「お嬢さんよ、すまんなあ。麦刈りの真っ最中に、こんなことになっちまって」
「あら、畑のことより、その足ですよ」
「明日にゃ、起きていいかね」
「明日は、まだ寝ていてください」
「ふた晩は、辛抱ですよ」
「ふた晩か」
「ええ、ふた晩」
「分かった、嬢さん」
見習いの娘が手帳に書きとめた。
「農婦さまのほうは」
「咳止めを煎じて。胸の音はまだ深くないから、湿布のほうが先」
「分量は」
「いつもの半分でかまいません。湿布は朝晩二度」
「はい、承知しました」
「湯加減は、指でひとつ数えるまで」
「指でひとつ、ですね」
「ええ。長く煮ると、苦みが立ちますから」
「かしこまりました」
「それから、寝床はあちらの隅へ。風が直に当たらないように」
「はい」
「夜のうちに、もう一度様子を見ます」
「お休みにならないのですか」
「ええ。今夜はここに」
「お屋敷のほうは、よろしいので?」
「明日の朝までに戻れば、誰も困らないわ」
「……かしこまりました」
少年の床まで来て、額に手を当てる。
熱は午後のうちに下がり始めていた。脈はまだ速いが、息は深い。
良い兆しだ、と指が読む。
少年は薄目を開けた。メリルの顔を見つけると、ほんのわずかに口元をゆるめた。
「姉ちゃん」
「ええ」
「……まだ、痛いよ」
「治っていく証ですよ」
「ほんとに、治る?」
「治ります」
「約束?」
「約束です」
「指、出して」
「ん?」
「約束は、指できりむすぶの」
「ふうん。じゃあ、する」
少年が小さな小指を差し出した。メリルは自分の小指をそっと絡める。
少年はうなずいた。
「うん」
見習いの娘が、走り寄ってきた。
「メリルさま。お屋敷から、お文が」
「……今ですか」
「はい、たった今。お使いの方が、息を切らせて」
「ご苦労さま。お茶をお出しして」
見習いの娘は、首を小さく横に振った。
「もう、お渡しいたしました」
「ありがとう」
紙の上にはレイクハート公爵家の紋章を捺した封蝋が押されていた。
差出人は——ライラ。
メリルは指先で半月形の封蝋に爪を立てる。
冷えた蝋が、かちりと小さく音を立てて割れた。
——王都より、第二王子リオネル殿下が、視察のため近く当領を訪われる。
道中、当家の治療院にもお立ち寄りになるご意向。
仮の婚約者として、メリル、あなたが殿下をお迎えすること。
末尾に、ライラの手によるひと言が、淡い筆致で添えられていた。
「殿下にあなたを誤解させぬよう。あなたは、いずれ退く身ですよ」
「……いずれ、退く身」
声に出してみる。
唇の上で、その言葉はやけに軽かった。
重みが、まだ自分のものになっていない。
病室の奥で、誰かが寝返りを打つ衣擦れの音がした。
擂り粉木の音は、止んでいた。
仮の婚約者として、第二王子をお迎えする。
その役を自分のものとして引き受けた覚えが、メリルにはまだない。
文の上に半月形の封蝋の欠片が、ぽつりと冷えて落ちていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
S53「十八年前の赤子の取り違え——婚約破棄された『養女』が、公爵家のただ一人の正統な令嬢だと判明した日」、第一話をお届けいたしました。全44話の連載です。
このシリーズを書くにあたって、最初に決めたのは「主人公の手のひらから始めよう」ということでした。聖癒の力も、養女という立場も、結局メリルの「手」に行き着くのだと思っています。熱を量る手、脈を数える手、義姉の髪を結う手、薬草を擂る手。同じ手が、いつか王国の運命を支える日まで連れていけたら。
冒頭、義姉の髪を結う場面を一番先に書きました。「いずれ自分が退く相手」の装いを、自分の手で整える——その歪さを、説明ではなく一行で刺したかった。書きながら、メリルの「はい」の一語に十八年ぶんの諦めを乗せられたか、何度も読み返しました。
ライラの「身の程をわきまえることは、あなた自身を守ることでもあるのですよ」という台詞は、地味に書き直した一文です。脅すよりも優しい言葉ほど深く刺さる——というのは、書き手の自戒でもあります。
そして「この治療院は、前公爵夫人エレインさまが遺されたもの」。さらりと触れたこの一文は、ずっと先の話で、別の重さで返ってくる予定です。会ったこともない人の薬棚に手を並べてしまう癖——書いていて、これはメリルが自分でも気づいていない記憶のかたちなのかもしれない、と思いました。
殿下が、来ます。
明日の更新で、メリルの「いずれ退く身」がどうして始まったのか——仮の婚約者の経緯をお話しします。
毎日19時更新予定です。☆評価・ブクマ・感想をいただけると、何より次話の励みになります。




