第10話: 最初の患者
戸口の板を押す手のひらに、外の冷えが先に触れた。
メリルは閂を上げた。
雪を踏む足音は、軒の下のひと歩手前で止まったまま動かなかった。
扉を引くと、夜の藍がひと筋、院の中へ流れ込んだ。
藍の中に、人影がふたつ立っていた。
ひとつは背の高さの半分ほどの、子供の影だった。
もうひとつは、痩せた女の影だった。
「……夜分に」
女の声は低く、雪に削れて掠れていた。
「すみません。灯りが、ついていたもので」
「どうぞ。お入りください」
メリルは戸口の脇へ半歩退いた。
女は子供の肩を抱いて、雪を払いながら敷居をまたいだ。
子供が敷居の上でひと度、深く咳き込んだ。
乾いた咳ではなかった。
胸の奥に湿りを抱えた、こもった咳だった。
竈の橙が、ふたりの輪郭を照らした。
子供は六つか七つの男の子だった。
背に、小さな薪の束を負ったままだった。
「コリン、もう下ろしな」
女が、子供の背の薪に手をかけた。
「お運びの途中で、ございましたか」
「ええ。本通りの奥まで、薪を。途中で、こんなに熱を出して」
「コリンさん、おいで」
メリルは膝をついて、子供と目の高さを合わせた。
合わせた目の前で、子供の頬が橙に赤かった。
その赤さは、火の照り返しではなかった。
「お名前は、コリンさんね」
「……うん」
「いくつ」
「……ななつ」
「ななつで、もう薪をお運びになるの。おどろいた」
子供はひと拍、メリルの顔を見上げた。
見上げた目に、警戒のうすい膜がかかっていた。
よそ者の顔を、計っている目だった。
「どこか、痛いところは」
「……むね」
「胸が。どんなふうに」
「いきを、すうと。ちくちく」
「息を吸うと、ちくちく。教えてくれて、ありがとう」
「メリルさま」
ニーナが、奥の藁の上から起き上がっていた。
「お湯を、温め直しましょうか」
「ええ、お願い。竈の火を、ひと束足してね。井桁に」
「井桁に。かしこまりました」
ニーナは、目をこすりながら竈の前へ走った。
走った足が、入口の藁の灰色の塊につまずきかけた。
「あ」
「お気をつけて」
「……だ、大丈夫です」
ニーナは塊をまたいで、薪の山から細い薪を選り分け始めた。
選り分ける手は、寝起きでもよく動いた。
動く手の隣で、コリンがその様子をぼんやり見ていた。
「おねえちゃん」
「なあに」
「ねむそう」
「……ね、寝ておりました。でも、もう起きましたから」
ニーナの鼻先が、橙の中でひと粒赤くなった。
その赤さを見て、コリンが小さく笑った。
笑った拍子に、また胸の奥で咳がこもった。
メリルは、子供の母にもう一度向き直った。
「いつから、こんなふうに」
「三日ほど前から、咳が。昨日の夜、急に熱が上がりまして」
「お食事は」
「昨日の昼から、粥もほとんど」
「お眠りは」
「咳で、夜じゅう目を覚まします」
「わかりました。少し、お体に触れますね。冷たい手でごめんなさい」
メリルは右の手のひらを、コリンの額にそっと当てた。
当てた手のひらに、熱がじわりと上ってきた。
ふだんの子供の額の熱より、ふた指ぶん深い熱だった。
けれど、王都の老医師が診たという「名のない熱」を、メリルはまだ知らない。
知らないまま、手のひらはこの子の熱の高さだけを量っていた。
額から首筋へ、手のひらを移した。
首筋の脈は、速かった。
速いが、乱れてはいなかった。
「コリンさん、お口を、あーんと開けて」
「……あーん」
メリルは、橙の灯りを近づけて喉の奥を覗いた。
喉の奥は、赤く腫れていた。
舌の色は、まだ生きた淡い紅を保っていた。
「胸の音も、聞かせてね。背中に耳を当てるわ。くすぐったいかしら」
「……ちょっと」
メリルは子供の背に耳を寄せた。
寄せた耳に、息を吸う音が届いた。
奥のほうで、湿った笛のような音がかすかに鳴っていた。
胸の奥に、薄い湿りが溜まっている音だった。
「肺の奥に、まだ深く回ってはいないわ」
メリルは身を起こして、母のほうを見た。
「喉が腫れて、胸に薄い湿りが溜まっています。咳が長引いて、熱が上がったのね」
「治り、ますか」
母の声が、ひと粒揺れた。
「ええ。喉の腫れを引かせて、胸の湿りを切れば。熱は、それから下がっていきます」
「……よかった」
母は子供の薪を抱えたまま、ふっと肩を落とした。
落ちた肩のあたりから、張りつめていた糸がひと筋ゆるんだ。
「あの、お代は。あたしども、銀貨はそんなに」
「お代のことは、あとで。いまは、この子の喉が先です」
メリルは、薬棚の前へ立った。
薬棚の引き出しを、上段から順に引いた。
桔梗は、上段にひと掴みだけ残っていた。
咳止めの後を引く滋養。乾いた花弁が、もう半分は色を失っていた。
甘草は、中段の引き出しにわずかにあった。
喉の腫れを和らげる草が、欲しかった。
欲しい草の引き出しを、メリルは下段まで順に引いた。
どの引き出しも、底が見えていた。
「メリルさま」
ニーナが、湯の沸いた小鍋を運んできた。
「お薬草は、足りますか」
「……桔梗は、ひと煎じぶん。甘草も、ぎりぎり」
「喉のお腫れの草は」
「ないの。屋敷なら、あったのだけれど」
メリルはひと拍、引き出しの底に指の腹を当てた。
当てた指の下で、空の木の底が乾いていた。
その乾きの上で、メリルは別の引き出しを思い出した。
「ニーナ。戸口の脇の籠を、見てちょうだい」
「お籠を」
「ジレスさんが、北辺路で摘んだ草を、ひと束置いていったはずなの」
ニーナは戸口の脇へ走り、藁の籠をひと抱え持ってきた。
籠の中に、雪の下で乾いた草がふた握りほどあった。
メリルは、籠の草をひと握り取り出した。
握った草の葉は細く、縁にうすい鋸の歯を持っていた。
葉を指の腹でひと度こすると、青い苦みの匂いが立った。
「これ、なんでしょう」
ニーナが、鼻先を寄せた。
「北辺の、雪の下の草よ。屋敷では使わなかったわ」
「お使いに、なれますか」
「……喉の草の代わりに、なるかしら」
メリルは葉を一枚、口に含んだ。
含んだ葉を、奥歯でそっと噛んだ。
苦みのあとに、舌の奥がひやりと冷えた。
その冷えは、喉の腫れを冷ます類の冷えだった。
「なるわ。甘草と合わせれば、喉に効く」
「ようございました」
「でも、量がわからないの。屋敷の草とは、効きの強さが違うはずだから」
「……どういたしましょう」
「薄く煎じて、少しずつ。お子さまだもの、強い薬は禍になるわ」
メリルは葉をふた葉だけ取って、擂り粉木の鉢に入れた。
桔梗をひと撮み。甘草をふた葉、雪の草をふた葉。
いつもの半分の量から、始めることにした。
擂り粉木を握る手に、薬草の繊維がほどける手応えが返ってきた。
屋敷の治療院で十八年、回してきた手の癖だった。
その癖を、いま北辺の乾いた草の上で回している。
回す音が、夜の院の中で、しゃり、しゃりと低く鳴った。
「メリルさま」
「なあに」
「お擂りのお音、お屋敷と同じです」
「同じ」
「ええ。お音だけは、北辺でも、いつものお音です」
メリルはひと拍、手を止めた。
止めた手の下で、鉢の中の草が薄い緑の粉になっていた。
「……ほんとうね。音だけは、同じね」
「ようございました」
メリルは、また擂り粉木を回した。
回した手応えの中で、肩のあたりがひと指ぶんあたたかくなった。
その温度の名を、メリルはまだ呼ばない。
煎じ薬が、小鍋の中で薄い緑に染まった。
メリルは椀にひと匙だけ取って、口に含んだ。
苦みが薄く、甘草の甘みがあとを引いた。
子供でも飲める苦さだった。
「コリンさん。お薬、飲めるかしら」
「……にがい?」
「すこし。でも、最後にお口の中が、すっとするわ。お試しになる?」
「……うん」
メリルは、椀をコリンの唇に運んだ。
コリンはひと口含んで、眉をひそめた。
「……にがい」
「ええ、苦いわね。あとひと口だけ」
「……すっとする」
「ね。すっとするでしょう」
「うん」
コリンは、残りを少しずつ飲んだ。
飲み終えた口元を、母が前掛けの端でそっと拭いた。
メリルは湯に浸して絞った布を、コリンの胸に当てた。
「あたたかい?」
「……あったかい」
「胸の湿りを、あたためて切るの。少しのあいだ、こうしていてね」
「うん」
メリルは、布の上から手のひらをそっと添えた。
添えた手のひらの下で、コリンの胸が小さく上下した。
その上下に合わせて、メリルは目を薄く閉じた。
閉じた瞼の裏で、手のひらの中の温度がひと粒ずつ深くなっていく。
いつものことだった。
病者に手を添えると、メリルの手のひらはふだんよりひと指ぶん深くあたたまる。
あたたまった温度が、相手の体の奥へ薄く流れていく。
なぜそうなるのか、メリルは知らない。
屋敷の治療院では、誰もそれを問わなかった。
ただ、メリルが手を添えると子供の熱がふだんより早く引いた。
その早さを、メリルは「手があたたかいから」とだけ思ってきた。
手のひらの温度が、コリンの胸の奥へ薄く流れた。
流れた先で、湿った笛のような音がひと指ぶんやわらいだ。
メリルの手のひらの奥が、すっと冷えた。
力が、ふた匙ぶん抜けた感覚だった。
その抜けた分を、メリルは深く考えない。
考えないまま、手のひらをコリンの胸からそっと離した。
「……どう、コリンさん。息を吸ってみて」
コリンは、ゆっくり息を吸った。
吸った胸に、さっきの「ちくちく」が、もう薄かった。
「……ちくちく、すくなくなった」
「ほんとう?」
「うん。さっきより、すえる」
「ようございました」
ニーナが、椀を抱えたまま、ふっと笑んだ。
母は、子供の背に手を置いたまま、目元を一度押さえた。
「メリルさま」
ニーナが、小声で寄ってきた。
「お手の力、お抜けになりましたね」
「……わかる?」
「ええ。お手を、お子さまにお添えになると、いつも。お屋敷でも」
「ふふ。あなた、よく見ているのね」
「お湯を、お持ちしましょうか。お手の冷えに」
「いいえ。ひと晩眠れば、戻るわ」
メリルは、自分の手のひらをひと度裏返した。
裏返した手のひらの奥が、薄く冷えていた。
けれど、倒れるほどの冷えではなかった。
子供ひとりの、薄い湿りを切っただけの冷えだった。
深い病でなくてよかった、と、メリルは思った。
メリルは、母のほうへ向き直った。
「今夜は、ここでお休みになるといいわ。竈の近くに、藁を敷きます」
「そんな。ご迷惑を」
「夜の雪を、この子に歩かせるほうが、わたしは心配です」
「……でも」
「ニーナ、奥の藁をひと束、竈の脇に」
「かしこまりました」
ニーナは、奥の壁の藁をひと束抱えてきた。
抱えてきた藁を、竈のいちばん近くに薄く敷いた。
敷いた藁の上に、橙の光がひと筋落ちた。
「コリンさん、ここでお休みなさい。火のいちばん近くよ」
「……おねえちゃんは」
「わたしは、その隣で」
ニーナが、藁の端に膝をついた。
「寒くなったら、わたしを起こしてね。お湯を温めるから」
「……うん」
コリンは、藁の上で目を半分閉じた。
閉じかけた目で、ひと言、つぶやいた。
「……このおうち、あったかい」
メリルは、ひと拍、唇を保った。
保った唇の奥で、流儀の言葉がふっと立ちのぼった。
「……痛いのは、ちゃんと治っていく証ですよ」
「……いたいの?」
「ええ。胸が、ちくちくしたでしょう。あれは、治っていく途中の痛みなの」
「……なおる?」
「なおるわ。明日の朝には、ずっと楽になっているはず」
「……ほんと?」
「ほんとうよ。わたしの手が、量ったもの」
コリンは、それ以上は訊かなかった。
訊かない代わりに、火のほうへ小さく身を寄せて、目を閉じた。
母は、子供の隣に膝をついて、メリルを見上げた。
「あの、先生」
「先生だなんて」
「あたしども、町の者は。よそから来た方を、すぐには……」
「ええ。よそ者を、すぐには信じない。当たり前のことです」
「先生は、怒らないんですか」
「怒る?」
「遠巻きに、見られて。誰も、寄ってこなくて」
メリルはひと拍、母の顔を見た。
見た顔に、よそ者を計る膜は、もう薄かった。
「いいえ、怒りません。手の腕は、見てから決めるものですもの」
「……」
「あなたは、見る前にお越しになった。お子さまの熱が、それだけ重かったから」
「……ええ」
「だから、ありがとうございます。最初のお一人に、なってくださって」
母はひと拍、口を開きかけて言葉を呑んだ。
呑んだ言葉の代わりに、子供の額にそっと手を置いた。
夜が更けた。
竈の火は、いちばん下のひと粒の燠のほうへ退いていた。
コリンの寝息は、もう湿った笛の音を抜けて、深かった。
その隣で、ニーナも藁に頬を寄せて眠っていた。
母だけが、子供の枕元で、まだ目を開けていた。
「お休みに、ならないの」
メリルは、声を落として尋ねた。
「……眠れません。この子の息を、聞いていたくて」
「ええ。お聞きになって。だんだん、深くなっていくはずです」
「先生は」
「わたしは、薬の様子を、もうひと度。朝にもうひと煎じ、飲ませますから」
メリルは薬棚の前で、残りの草を量り直した。
桔梗は、もうほとんどなかった。
甘草も、明日のひと煎じで尽きる。
雪の草だけが、籠にまだひと握り残っていた。
「……足りるかしら」
つぶやいた声が、夜の院の中に薄く落ちた。
落ちた声を拾うように、奥の燠がひと粒、ぱちりと鳴った。
朝が来た。
戸口の隙間から、雪の白がひと筋差し込んだ。
差し込んだ白の中で、メリルは藁の上で目を覚ました。
覚ましてまず、コリンの寝息を確かめた。
寝息は、ゆっくり、深かった。
湿った笛の音は、もう聞こえなかった。
「メリルさま」
ニーナが、もう起きていた。
「コリンさんのお熱、見ました。引いておられます」
「……ほんとう?」
「ええ。お額に手を当てました。ゆうべより、ふた指ぶん」
「あなた、わたしの言い方を真似たのね」
「……いけませんでしたか」
「いいえ。よく覚えていたわ」
メリルは、コリンの枕元へ膝を進めた。
額に手のひらを当てると、熱は確かにふた指ぶん下がっていた。
脈も、ゆうべより落ち着いていた。
「コリンさん、おはよう」
「……おはよ」
コリンは、目をこすって起き上がった。
「むね、ちくちくしない」
「ね。治っていったでしょう」
「……うん」
「もうひと口、お薬を飲んだら、おうちに帰れるわ」
「……かえる」
コリンの母が子供の肩を抱いて、深く頭を下げた。
「先生。なんと、お礼を」
「お礼は、軒の下に置いてくださると」
メリルはふと、ジレスの言葉をなぞって言った。
「軒の下に」
「ええ。ハーロウの作法だと、聞きました」
母はひと拍、目を見開いた。
見開いた目に、ひと粒、温度がにじんだ。
「……先生は、もう、ハーロウの作法を」
「ええ。教わったばかりですけれど」
母と子は、朝の雪の中へ帰っていった。
帰り際、母は軒の下に布で包んだ卵をふたつ置いた。
置いた卵の上に、朝の光がひと筋落ちた。
「メリルさま」
ニーナが、卵を抱えて戻ってきた。
「お卵を、ふたつ」
「お受けしましょう。軒の下のものは、お受けするのが作法ですもの」
「お薬のお代には、足りませんのに」
「いいえ。足りているわ」
「……足りて」
「お一人目の患者さんが、軒の下に置いてくださったの。それで、足りているのよ」
ニーナは、卵をふた粒、両の手のひらでそっと包んだ。
包んだあかぎれの手の中で、卵がまだ朝の冷えを持っていた。
その日の昼、メリルとニーナは本通りへ下りた。
薬草を、町で分けてもらえないかと思ったのだった。
本通りの両側に、ふた連の家並みが三十ほど続いていた。
屋根のほとんどに、冬の薄い煙が立っていた。
歩くメリルとニーナを、家々の戸口から何人かが見ていた。
見る目は、まだ遠巻きだった。
けれど、ゆうべまでの遠さとは、ひと指ぶん違っていた。
メリルが通ると、戸口の女がひとり、小さく顎を引いた。
会釈には届かない、北辺の挨拶の作法だった。
「メリルさま」
「ええ」
「あの方、いま、ひと度」
「気づいたわ。手は、上げてくださらなかったけれど」
「お顎を、ひと度」
「ええ。あれも、作法のうちなのかしら」
「……わかりませんけど。ゆうべより、近いです」
メリルはひと拍、本通りの先へ目をやった。
やった先で、戸口の女の顎の動きが、まだ薄く残っていた。
本通りのいちばん奥に、薪を背にした女が立っていた。
背の高い女ではなかった。
けれど、薪を負っても、背を丸めていなかった。
白いものの混じった鳶色の髪を、毛織りの布で覆っていた。
北辺の冬で荒れた、赤い頬をしていた。
その女が、近づいてくるメリルを、灰色の目で見ていた。
値踏みする目では、なかった。
相手の芯を、静かに見定める目だった。
「あんたかい」
女の声は、低く、よく通った。
「ゆうべ、ベスの子の熱を引かせたのは」
「……ベスさん、というのですね。あのお母さまは」
「ああ。ベスだ。あの子はコリン」
「コリンさんの熱は、引きました。今朝、おうちへ」
「聞いたよ。本通りは、朝のうちに話が回る」
女は、薪を背負ったまま、ひと度、メリルを上から下まで見た。
見たあとで、ふん、と短く息を吐いた。
「よそ者の手だね」
「……ええ」
「まあ、見ててやるよ。腕が本物かどうか」
「あの」
メリルは、ひと拍、女の目を見た。
「薪を、軒の下に置いてくださったのは、あなたですか」
女は、ひと拍、答えなかった。
答えない代わりに、背の薪をひと度、負い直した。
「……さあね」
「ひと冬ぶんの薪を、いただきました。お名も、お顔も、存じませんでしたけれど」
「お聞きしないでいいことが、北辺にはひと指ぶん多いのさ」
「……ジレスさんも、同じことを」
「御者の言うことだ。北辺で十年、雪を置きにきた男だろう」
「ご存じなのですね」
「本通りの奥には、たいてい誰かが立ってる。馬車が来りゃ、目には入るさ」
女は、背の薪を負い直したまま、ひと度、空を見上げた。
空は、北のほうから、薄い鉛色の雲を寄せていた。
「明日あたり、また降るね」
「雪が」
「ああ。降れば、咳の子が増える。北の冬は、毎年これが出るのさ」
「毎年」
「慣れっこさ。——だが、薬の草は、どこの軒も、もう底が見えてる頃だ」
女は、それだけ言って、薪を背に踵を返した。
「あの」
メリルは、その背に声をかけた。
「薬草を、分けてくださる軒は」
女は、歩きながら、背中で答えた。
「明日、本通りの奥へおいで」
「奥へ」
「あたしのところだ。軒に、まだ草がいくらか残ってる。——あんたの腕が本物なら、分けてやらないこともない」
「……ありがとうございます」
「礼はまだ早い」
女の声が、雪の本通りの先へ、低く流れていった。
「腕を、見てから決める」
女の背が、本通りの奥の家並みの影の中へ、ひと足ずつ薄くなっていった。
薄くなった背の薪の束だけが、鉛色の空の下で、最後まで黒く残っていた。
「メリルさま」
「ええ」
「あの方、お名を」
「……お訊きできなかったわね」
「明日、本通りの奥へ」
「ええ。お腕を、見てから決める、ですって」
「……見ていただけますね」
「ふふ。見ていただきましょう」
メリルは、本通りの奥の影を、ひと度目で追った。
追った先で、薪の束はもう見えなくなっていた。
見えなくなった代わりに、空の鉛色がひと指ぶん、北のほうから下りてきていた。
その鉛色の下に、ふた連の家並みの薄い煙が、まっすぐ立っていた。
「ニーナ」
「はい」
「明日、雪が降る前に。お薬草を、ひと束でも分けていただきましょう」
「お降りになる前に」
「ええ。咳の子が増える前に」
メリルは、軒の下に置かれたままの、ベスの卵ふたつの白さを、ふと思い出した。
その白さの上に、いま、北の空の鉛色が、薄く重なって近づいていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第十話「最初の患者」をお届けしました。白鳩の家に、辺境ハーロウで最初の患者が来ました。前話の終わりで戸口の外に止まっていた足音の主は、薪を負った七つの男の子コリンと、その母ベスでした。
物資の乏しい辺境では、屋敷で当たり前に使えた薬草が、もう底をついています。喉の腫れを引かせる草がない——そんな中で、メリルは北辺路でジレスが摘んでいった雪の下の草を、いつもの半分の量から試しました。施療は問診から触診、調合、施療、経過観察まで、一段ずつ。「不思議な力でぱっと治す」のではなく、観察と工夫と、ほんの少しの聖癒で、コリンの胸の湿りを切りました。メリルの手があたたかくなって熱が早く引くことを、本人はまだ「手があたたかいから」としか思っていません。その「不思議」の正体は、もう少し先のお話です。
流儀の言葉「痛いのは、ちゃんと治っていく証です」は、今度は眠りかけの子供に、子供の言葉でそっと置きました。前話で誰もいない廃院に置いた冷たさとは、少し違う温度になっていれば嬉しいです。
そして本通りの奥に、薪を背にした女がまだ立っていました。彼女が誰なのか、次話「ハーロウの冬」でお見せします。「腕を、見てから決める」——よそ者の手が、町とつながる一本目の糸です。
毎日19時更新予定です。☆評価・ブクマ・感想をいただけると、何より次話の励みになります。




