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十八年前の赤子の取り違え——婚約破棄された「養女」が、公爵家のただ一人の正統な令嬢だと判明した日  作者: 歩人


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11/20

第11話: ハーロウの冬

 手のひらが、戸の冷えを先に拾った。


 本通りの奥の家の戸は、樫の厚い板だった。


 雪を払う手を、メリルはひと度止めた。


 止めた手の下で、戸板の木目が冷たく乾いていた。


「ニーナ、ここね」


「ええ。本通りの、いちばん奥」


 ニーナの鼻先は、もう赤かった。


 昨日より、北の風がひと指ぶん重かった。


「ごめんください」


 メリルは、戸を二度叩いた。


 叩いた音が、雪の中へ低く吸われた。




 戸の奥で、足音がした。


 重い、けれど淀みのない足音だった。


 戸が内へ引かれ、橙の温度がひと筋こぼれた。


 立っていたのは、昨日の女だった。


 薪は、もう背になかった。


 大きな手を前掛けで拭いながら、灰色の目がメリルを見た。


「来たのかい」


「ええ。お招きいただきましたから」


「招いた覚えはないね。来いと言っただけさ」


 女は、戸口の脇へ半歩退いた。


 退いた分だけ、橙の道がメリルの足元へ伸びた。


「……入んな。雪を、家の中まで連れてくるんじゃないよ」




 家の中は、暖かかった。


 竈の火が、太い薪で深く燃えていた。


 梁から、乾いた草の束がいくつも吊られていた。


 壁際には、毛織りの反物が積まれていた。


 北辺の冬を、幾度も越してきた家の匂いがした。


「マーサ、さん」


 メリルは、女の名を口にした。


「ベスさんが、教えてくださいました。お名は、マーサさんだと」


「ふん。本通りは、朝のうちに話が回るって言ったろう」


 マーサは、竈の前の床几に腰を下ろした。


 下ろした拍子に、床がひと度きしんだ。


「あんたの名も、もう回ってるよ。メリル先生、ってね」


「先生だなんて」


「あたしが言ったんじゃない。ベスが言ってる」




 ニーナが、戸口で身を縮めていた。


「お入り、嬢ちゃん。そこにいたら凍るよ」


「あ……はい。失礼いたします」


 ニーナは、おずおずと敷居をまたいだ。


 またいだ目が、梁の草の束にひと度吸い寄せられた。


「わあ……」


 声が、思わず漏れた。


「お草が、こんなに」


「珍しいかい」


「ええ。あの、これ、なんという草でしょう」


 ニーナは、いちばん近い束に鼻先を寄せた。


 寄せた拍子に、足が床几の脚に当たった。


「あ」


「気をつけな。そこは、灰の桶だ」


「……ご、ごめんなさい」


 マーサはふんと短く笑った。


 笑った口元をすぐにそっぽへ向けた。




「で」


 マーサは、メリルのほうへ向き直った。


「あんた、手を見せな」


「手を」


「腕を見てから決めると言ったろう。口じゃ、腕はわからない。手だ」


 メリルは、両の手のひらを前へ出した。


 出した手を、マーサの大きな手が下から支えた。


 支えた手は節くれだって、ひどく硬かった。


 その硬い手が、メリルの指を一本ずつ検めた。


「……働いてる手だね」


「ええ。十八年、治療院で」


「指の腹に、薬草の染みがある。古いのと、新しいのと」


「擂り粉木を、毎日回しますから」


「爪の脇に、細い傷。これは、刃物の傷じゃない」


「……包帯の、布を裂くときの」


「ふん」


 マーサはメリルの手をひと度上下に返した。


 返した目が、手の甲の働き傷を静かにたどった。




「貴族の手じゃ、ないね」


「……わたしは、養女ですから」


 言ってからメリルはひと拍、口をつぐんだ。


 つぐんだ唇の奥に、屋敷の冷えがふっと戻りかけた。


「養女ねえ」


 マーサは、メリルの手を放した。


 放した手で、自分の膝をひと度叩いた。


「公爵さまの屋敷から、こんな町外れの廃院へ。よっぽど邪魔だったんだろうさ」


「……」


「言いすぎたかい」


「いいえ」


 メリルは、薄く首を振った。


「ほんとうのことですから」


「ほんとうを、ほんとうと言える女は、嫌いじゃないよ」


 マーサの灰色の目が、ひと粒やわらいだ。


 やわらいだのは、ほんの一瞬だった。


 すぐにまた、北辺の女の硬さへ戻った。




「コリンの薬は、何で作った」


「桔梗と、甘草と。それから、雪の下の草を」


 マーサの眉が、ひと度上がった。


「雪の草を、知ってるのかい」


「いいえ。御者のジレスさんが、北辺路で摘んでくださって。それを試したんです」


「試した、ね。量は」


「いつもの、半分から。屋敷の草とは、効きの強さが違うはずでしたから」


 マーサは、ひと拍、メリルを見た。


 見た目に、昨日までの遠さがもう薄かった。


「……半分から、か」


「ええ。お子さまですし。強い薬は、禍になりますから」


「よそ者にしちゃ、わかってるじゃないか」


 マーサは、立ち上がった。


 立ち上がって、梁の草の束のひとつへ手を伸ばした。




「これだ」


 マーサが下ろしたのは、細い葉の乾いた束だった。


 縁に、うすい鋸の歯があった。


「コリンに使ったのと、同じ草さ」


「……これが」


「北の者は、雪が降る前に摘んで、軒で乾かす。冬じゅう、咳の子に使うんだ」


 メリルは、束をひと枝受け取った。


 受け取った葉を、指の腹でこすった。


 青い苦みの匂いが、ふっと立った。


「同じ匂いです。ジレスさんの籠の草と」


「だろうさ。北辺路にも、軒にも、同じ草が生える」


 マーサは、束を麻紐でくくり直した。


 くくった束を、メリルの手の上へ置いた。


「持ってきな。ひと冬ぶんは、ないけどね」


「……よろしいのですか」


「腕は、見た。コリンが、それを言ってる」




「お代を」


「いらないよ」


 マーサは、メリルの言葉を短く断った。


「町の草を、町の子に使うんだ。誰の腹も痛まない」


「でも」


「あんた、ベスから卵をもらったろう」


「……ええ。軒の下に」


「なら、それで回ってる。北辺は、そうやって冬を越すのさ」


 メリルは、手の上の草の束を見た。


 束は、軽かった。


 けれど、軽いだけのものではなかった。


「ありがとうございます。マーサさん」


「礼は、春に言いな」


 マーサは、また竈の前の床几に腰を下ろした。


「春まで、誰も死なせずに渡れたら。そのときに」




 メリルは、束を布で包んだ。


 包んだ手を、ニーナがそっと支えた。


「メリルさま。お草が」


「ええ。分けていただいたわ」


「ようございました」


 ニーナの声が、ひと粒明るんだ。


 明るんだ声を、マーサがちらと見た。


「嬢ちゃん」


「は、はい」


「あんた、この先生に、ついてきたのかい。屋敷から」


「ええ。わたし、メリルさまの下働きで」


「命じられて、かい」


「いいえ」


 ニーナは、首を横に振った。


「誰にも、命じられておりません。わたしが、自分で」


 マーサはひと拍、ニーナを見た。


 見た目の奥が、またひと粒だけやわらいだ。


「……物好きな嬢ちゃんだ」


「物好き、ですか」


「悪い意味じゃないよ。北辺じゃ、めったにいない手合いさ」




「マーサさん」


 メリルはひと度、家の中を見回した。


「北の冬は、毎年こうなのですか。咳の子が、増えるのは」


「ああ。毎年だ」


 マーサは竈の火を、火箸でひと度かき起こした。


 起こした火が、ぱちりと爆ぜた。


「雪が深くなると、家の中に籠もる。煙と、人の息で、胸をやられる子が出る」


「毎年、決まって」


「決まってさ。北の冬の、冬籠りの熱だ。あたしらは、慣れっこだよ」


 火箸を置いて、マーサはひと度メリルを見た。


「だがね」


 見た目が、ふっと低くなった。


「今年のは、ちっと早い。雪も、例年より重そうだ」


「早い、というのは」


「いつもなら、もうひと月先さ。それが、もう咳の子が出てる」


 メリルは手の中の草の束を、ひと度握り直した。


 握った束が、わずかに乾いた音を立てた。




「……足りるでしょうか」


「草かい」


「ええ。咳の子が増えたら。この束だけでは」


「足りやしないさ」


 マーサは、あっさりと言った。


「どこの軒も、もう底が見えてる。あたしのところも、これでほとんど終いだ」


「……」


「だから言ったろう。礼は春だってね」


 マーサはひと度、外のほうへ目をやった。


 戸の隙間から、北の風が細く鳴っていた。


「冬を、まだ越しちゃいない。これからさ」


 メリルは、その横顔をひと拍見た。


 見た横顔の頬は、北辺の冬で赤く荒れていた。


 荒れた頬の奥に、いくつもの冬を看てきた目があった。


 その目がいま何を看てきたのか、メリルはまだ知らない。




「あんた」


 マーサが、不意に口を開いた。


「ひとりで、抱えるんじゃないよ」


「ひとりで」


「廃院に、ひとり。見習いの嬢ちゃんと、ふたり。それで、町じゅうの咳を看るつもりかい」


「……できる限りは」


「できる限り、で人が死ぬのが、北辺さ」


 マーサの声は、低かった。


 低いが、突き放す声ではなかった。


「困ったら、本通りの奥へ来な。あたしが、人手は回す」


「……よろしいのですか」


「町は、こういうときのためにあるんだ。あんたひとりの院じゃない」


 メリルはひと拍、その言葉を胸に落とした。


 落ちた言葉が、思いのほか深いところで止まった。


 屋敷では、誰もメリルに「ひとりで抱えるな」とは言わなかった。




 戸を開けると、北の風が頬を切った。


 切った風の中に、雪の匂いが混じっていた。


「明日あたり、降るね」


 マーサが、戸口で空を見上げた。


「降れば、咳の子が増える。草は、大事に使いな」


「ええ。半量から、薄く」


「……わかってるじゃないか」


 マーサはふんと鼻を鳴らした。


 鳴らした口元を、またそっぽへ向けた。


 照れ隠しの向け方だと、メリルは思った。


「メリル先生」


 戸を閉める間際、マーサが初めてその名で呼んだ。


「コリンの熱を引かせたのは、ほんとうに、いい腕だった」


 言い終わると、マーサは戸を閉めた。


 閉めた戸の向こうへ、橙の温度が消えた。


 消えた戸の前で、メリルはひと拍、立っていた。




「メリルさま」


 ニーナが布の束を抱えて、隣に立った。


「マーサさん、最後に」


「ええ。聞いたわ」


「『メリル先生』って」


「……ほんとうね」


 メリルは自分の頬に、ひと度手を当てた。


 当てた手のひらが、ふだんよりひと指ぶんあたたかかった。


 病者に触れたわけでもないのに、あたたかかった。


「ニーナ」


「はい」


「うれしいわ。少し」


「……ふふ。お顔に、出ておられます」


「あら。出ているかしら」


「ええ。お屋敷では、なさらないお顔です」


 メリルはひと拍、口元をほどいた。


 ほどいた口元から、屋敷の冷えがひと粒だけ落ちた。




 ふたりは、本通りを廃院へ戻った。


 戻る道の両側で、家々の煙がまっすぐ立っていた。


 立った煙の下を、メリルは草の束を抱えて歩いた。


 抱えた束は、軽かった。


 軽いのに、屋敷で運んだどの薬籠よりも確かだった。


「メリルさま」


「なあに」


「お草、大事に使わないと」


「ええ。半量から、薄く」


「咳の子が、増える前に」


 ニーナはひと度、北の空を見上げた。


「お空が、鉛色です」


「ええ。降るわね」


「マーサさんの、おっしゃるとおりに」


 メリルも、空を見上げた。


 北のほうから、薄い鉛色がひと指ぶんずつ下りてきていた。


 その鉛色は、昨日よりひと足近かった。




 廃院へ戻ると、竈の火はまだ残っていた。


 残った燠の上に、ニーナが薪をひと束足した。


 足した薪が井桁に組まれて、ゆっくり火を呼んだ。


 メリルは分けてもらった草の束を、薬棚の上段に置いた。


 置いた束の隣に、籠の雪の草がまだひと握りあった。


 ふたつの束を、メリルは並べて眺めた。


 町の草と、北辺路の草。


 同じ草が、別の手からここへ集まっていた。


「足りるかしら」


 つぶやいた声を、ニーナが拾った。


「足りなければ、本通りの奥へ。マーサさんが、人手を回すと」


「……そうね。ひとりで、抱えるな、って」


 メリルは薬棚の上段に、ひと度手を置いた。


 置いた手の下で、和紙の角の凹みが指の腹に静かに触れた。


 その凹みはいつも、メリルの指の幅と同じだった。




 夜が更けた。


 戸の外で、風が一段強くなった。


 強くなった風に乗って、雪が軒を打ち始めた。


 ぱさりぱさりと、乾いた雪が戸を叩いた。


「降ってきたわ」


 メリルは、戸の隙間から外を見た。


 外はもう、白い闇だった。


 降る雪が、橙の灯りの届く分だけひと筋見えた。


「メリルさま。お寒くは」


「ええ。火の近くにいましょう」


 ニーナは、竈の脇に藁を寄せた。


 寄せた藁の上に、ふたりは毛布を分けて横になった。


 横になった背中に、竈の橙がひと筋当たった。


 当たった温度の向こうで、薬棚の草の束が闇に薄く沈んでいた。


「ニーナ」


「はい」


「明日、雪がやんだら。籠の草を、もうひと度乾かし直しましょう」


「乾かし直し」


「ええ。湿ると、効きが鈍るから」


「……かしこまりました」


 ニーナの声が、だんだん眠りへ落ちていった。


 落ちていく声の隣で、メリルはまだ目を開けていた。




 開けた目で、メリルは薬棚を見た。


 二つの草の束が、橙の名残りの中で黒く並んでいた。


 町の手と、北辺路の手。


 集まった草は、それでも、足りはしないだろう。


 マーサが、そう言った。


 言われた言葉が、胸の底でまだ乾かずにいた。


 けれど、メリルの胸には、もうひとつ別の言葉も残っていた。


 ——ひとりで、抱えるんじゃないよ。


 屋敷で、十八年。


 誰も、その言葉をくれなかった。


 ここでは、初めて会った女がそれをくれた。


 メリルは毛布の合わせ目を、ひと度握り直した。


 握った手のひらが、ふだんよりひと指ぶんあたたかかった。


 その温度の名を、メリルはまだ呼ばない。


 呼ばないまま、戸を打つ雪の音をひと粒ずつ数えていた。


 数えるうちに、北の風が軒の向こうで低く鳴り続けた。


 鳴る風の下で、薬棚の二つの束だけが、夜の闇に静かに乾いていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第十一話「ハーロウの冬」をお届けしました。前話の終わりにかかった「一本目の糸」をたどって、メリルが本通りの奥のマーサの家を訪ねる回です。


マーサは、無骨で口の悪い、北辺の世話役の女です。けれど、その手はメリルの手の働き傷を一本ずつ検め、擂り粉木の話を聞いて、少しずつ態度をほどいていきます。最後に「メリル先生」と初めて名で呼び、すぐに戸を閉めてしまう——その照れ隠しが、わたしはとても好きです。


「北の冬は、毎年これが出る」というマーサの言葉は、この土地の冬籠りの熱が、毎年決まって訪れる風土の流行りであることを語っています。慣れっこの冬。けれど、今年は少し早く、雪も重そうだ——その小さな違和感だけを、今は胸に残しておいてください。


そして、屋敷では誰もくれなかった言葉を、初めて会った女がメリルにくれました。「ひとりで、抱えるんじゃないよ」。日陰で生きてきた手が、町とつながっていく一歩です。


雪が、降り始めました。次話「癒せぬ手」では、その手が届かない命と、メリルが向き合います。


毎日19時更新予定です。☆評価・ブクマ・感想をいただけると、何より次話の励みになります。

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