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十八年前の赤子の取り違え——婚約破棄された「養女」が、公爵家のただ一人の正統な令嬢だと判明した日  作者: 歩人


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12/20

第12話: 癒せぬ手

 手のひらが、胸の浅さを先に知った。


 老人の胸は、息をするたびに薄く上下した。


 その上下が、生まれたばかりの子の半分もなかった。


 メリルは、当てた手をそのままにした。


 手の下で、命が浅瀬を渡ろうとしていた。


「——浅い、ですね」


 声が、思わず低くなった。


 戸の外では、雪が軒を叩き続けていた。




 半刻前のことだった。


 戸を打つ音が、雪の音とは別に響いた。


 拳で打つ強い音だった。急いた音だった。


「メリルさま」


 ニーナが、先に起きて戸へ走った。


 戸を引くと、白い闇の中から人影が二つ転がり込んだ。


 一つは大柄な老人を背負い、一つはその腕にすがっていた。


「先生かい。あんたが、メリル先生かい」


 背負ってきたのは、若い女だった。


 頬を雪と涙で濡らし、息を切らしていた。


「うちの、お父の。胸が、ひゅうひゅう鳴って」


「こちらへ」


 メリルは竈の脇へ藁を引いた。


「火の、いちばん近くへ寝かせてください」




 老人を藁へ下ろすと、女がその脇に膝をついた。


「いつから、こうなさいましたか」


 メリルは、問診から始めた。


 慌てる手を急がせないために、まず声を整えた。


「三日、前です。咳が出て。お父は、たいしたことないって」


「お熱は」


「ゆうべから、ずっと。氷みたいに汗をかいて、なのに体は燃えて」


「お食事は」


「おとといから、水ばかり」


 女の言葉が、後ろの方へ細っていった。


「先生。お父は、助かりますか」


 メリルは、すぐには答えなかった。


 答える前に、手で確かめねばならなかった。




 老人の額に、手のひらを当てた。


 熱が、手のひらを下から押し上げてきた。


 ふだんの咳の子より、ふた指ぶん深い熱だった。


 次に、首筋の脈をとった。


 指の腹に当たる脈は速く細かった。ところどころで一度沈んだ。


 沈んではまた浮かぶ。浮かぶたびにひと拍ずつ遅れた。


 メリルは、老人の胸へ耳を寄せた。


 胸の奥で、湿った笛のような音が鳴っていた。


 吸うたびに、その笛が水を含んだ。


「……長く、咳をなさる方でしたか」


「ええ。お若い頃から、毎冬」


「胸を、よく病まれた」


「炭焼きを、四十年。煙をたくさん吸って」


 メリルは、当てた耳を起こした。


 起こした胸の中で四十年ぶんの煙がまだ鳴っていた。




「ニーナ。湯を」


「はい」


「桔梗と、甘草。それから雪の草を半量。煎じます」


「半量、ですね」


「ええ。けれど」


 メリルはそこでひと拍だけ言葉を止めた。


 止めた喉の奥が、わずかに乾いた。


「……今度は、半量では追いつかないかもしれません」


 ニーナの手が薬棚の前で一度止まった。


 止まった背中が、聞いていた。


 メリルは、それ以上は言わなかった。


 言えば、後ろの女に聞こえる。




 煎じ薬ができるまで、メリルは老人の胸に手を添えた。


 添えた手から、ほんのひと匙ぶん聖癒を流した。


 流した先で湿った笛の音がひと呼吸だけやわらいだ。


 やわらいだのは、ひと呼吸だけだった。


 すぐにまた、胸の奥で水が鳴り始めた。


 メリルの手のひらは、それを正直に拾った。


 拾った指先が、胸の奥のいちばん深いところを探した。


 探したそこに、もう薬の届かない深さがあった。


 肺が、長い年月で薄くなっていた。


 薄くなった肺は、聖癒で厚くはならない。


 失われたものは、戻らない。




 煎じ薬を、女が老人の口へ少しずつ含ませた。


 老人の喉が、薬を半分こぼしながら飲み下した。


 飲んだ拍子に、咳がひと続き出た。


 咳のあとで、老人がうっすらと目を開けた。


「……ロウェナ」


「お父。ここよ。ロウェナ、ここにいる」


「すまんな。雪の夜に。先生まで、起こして」


「しゃべらないで。お薬、飲んだから」


 老人の目が、メリルの方へ動いた。


 動いた目に、灯りの橙がひと粒映った。


「先生。あんた、若いな」


「……ええ」


「こんな町外れに、よう来てくれた」


 老人の声は、笛の音に混じって細かった。


 細い声の底に、けれど不思議な静けさがあった。




 メリルは、老人の手をとった。


 とった手は炭で黒く染みて節くれだっていた。


 マーサの手と、似ていた。


 いくつもの冬を、この町で越してきた手だった。


「お痛みは、ございますか」


「胸が、重い。石を、載せられたみたいだ」


「お苦しいでしょう」


「……なに。四十年、煙を吸った報いさ」


 老人は、薄く笑おうとした。


 笑おうとして、また咳になった。


 咳が、胸の中の水をかき回した。


 かき回された水が、笛の音を一段高くした。


 メリルの手のひらが、その高さを聞いた。


 聞いた手のひらが、命の浅瀬が浅くなっていくのを知った。




「先生」


 ロウェナが、メリルの袖をつかんだ。


「先生のお手は特別な手だって。コリンのお母さんが。お父の胸も、その手で」


 つかむ手が、震えていた。


「お願いします。なんでもします。お父を、助けて」


 メリルは、その手を見た。


 あかぎれた若い手だった。母を早くに亡くしたという手だった。


 その手が、もう片方の親を渡すまいと必死だった。


 メリルの喉が、つかえた。


 助けますとは、言えなかった。


 助けられない手を、特別な手と呼ばれていた。


「……手を、尽くします」


 メリルは、そう言った。


 それだけが、嘘にならない言葉だった。




 戸が、また打たれた。


 今度は雪の中から、低い声が続いた。


「あたしだ。マーサだよ」


 ニーナが戸を引くと、マーサが雪を肩に立っていた。


「ロウェナが、お父を背負って走ったって。本通りで聞いた」


 マーサは、敷居をまたいで老人を見下ろした。


 見下ろした灰色の目が、ひと呼吸動かなかった。


「……ハモンドかい」


「マーサさん」


 ロウェナが、すがるように顔を上げた。


「先生が。先生が、お手を尽くすって」


 マーサは、答えなかった。


 答えずに、老人の胸の上下をじっと見た。


 見た目が、メリルの目とひと度合った。


 合った目の中に、メリルと同じものがあった。




「メリル先生」


 マーサが、戸口の方へ半歩退いた。


 退いた背に、メリルもついて出た。


 竈の灯りの、届かないところまで。


「胸の音、聞いたかい」


「……聞きました」


「水だね」


「ええ。それも、深いところに」


 マーサは、外の闇へ目をやった。


「ハモンドは毎冬これで臥せる。今年で、何度目かね」


「お年は」


「七十を、二つ三つ越えてる。北辺じゃ長く生きたほうさ」


 マーサの声は低く乾いていた。


「あんたの手でも、無理かい」


 メリルは、すぐには答えられなかった。


 答えられない時間が、答えだった。




「……肺が、すり減っています」


 メリルは、ようやく言った。


「四十年の煙ですり減った胸を、わたしの手は厚くできません。聖癒は傷を早く塞ぎます。熱を引かせます。けれど失われたものを戻すことはできないんです」


「戻せない、か」


「ええ」


 言葉が、自分の喉を裂くようだった。


「死んだ命を呼び戻すことはできません。命の灯りが消える前なら、わたしは何でもします。でも——ハモンドさんの胸は、もう」


 メリルは、そこで言葉を切った。


 切った先を、口にするのが怖かった。


 マーサが、その先を引き取った。


「もう、消えかけてる」


「……はい」




 マーサは、闇に向かってひと度息を吐いた。


 吐いた息が、白くなって雪に消えた。


「あたしはね、メリル先生」


 マーサの声が、いつもより低かった。


「この町で、もう何人も看取ってきた。癒しの手なんかありゃしない町でさ。冬籠りの熱で、子も年寄りも。ただ看てるしかできなかった」


「……」


「手の届かないところで人が死ぬ。それを、何度も見た」


 マーサは、メリルの方を見た。


「あんたの手は本物だ。コリンを引かせた。だがね、本物の手にも届かないものはあるんだ」


「……わかっています」


「いや」


 マーサは、首を横に振った。


「頭じゃ、わかってる。けど手は、まだわかっちゃいない。あんたの手は、まだ戻せると思ってる」


 メリルは、自分の手のひらを見た。


 見た手のひらが、わずかに震えていた。




「だから、言っとくよ」


 マーサの声が、ふっとやわらいだ。


「あんたは今夜、いい看取りをしな」


「看取り」


「治すんじゃない。看取るんだ。それも、癒し手の仕事さ。いや」


 マーサは、ひと拍置いた。


「治せないときこそ、いちばん大事な仕事かもしれないね」


 メリルは、その言葉を胸に落とした。


 落ちた言葉が、屋敷の十八年では聞いたことのない言葉だった。


 治療院では、治すことだけを覚えた。


 治せないとき何をすればいいのか、誰も教えてくれなかった。


「……マーサさん」


「なんだい」


「教えてください。看取りを」


 マーサはひと度だけメリルを見た。


 見た目が、ひと粒だけやわらいだ。


「あんたは、もう知ってるよ。手が知ってる」




 二人は、灯りの中へ戻った。


 戻ると、老人の咳がまた続いていた。


 ロウェナが、その背を必死にさすっていた。


 ニーナが、湯気の立つ椀を捧げ持って立ち尽くしていた。


 立ち尽くした目が、メリルを見た。


「メリルさま」


 ニーナの声が、震えていた。


「お薬、もう一椀。煎じ直しましたけど」


「……ええ。ありがとう」


「あの。ハモンドさん、よく、なられますか」


 ニーナの目が、答えを欲しがっていた。


 メリルは、すぐには答えられなかった。


 答える前に、その十四の目を嘘で曇らせたくなかった。


「ニーナ。ここへ」


 メリルは、ニーナを竈の脇へ呼んだ。




「胸の音を、聞いてごらん」


 メリルは、ニーナの手をとった。


 とった手を、老人の胸へそっと導いた。


「ここ。手のひらの下のほう。何が聞こえる」


 ニーナは、手のひらを当てた。


 当てた目が、だんだん大きくなった。


「……水、です。胸の中で、水が」


「ええ」


「メリルさま。これは」


「もう、わたしの手では汲み出せない水なの」


 ニーナの目が、揺れた。


 揺れた目に、薄く水が浮かんだ。


「でも。メリルさまのお手なら」


「ニーナ」


 メリルは、ニーナの肩に手を置いた。


「わたしの手は、神さまの手じゃないわ。失われたものを戻すことはできないの」


 ニーナの唇が、何か言いかけて止まった。


 止まった唇が、震えながら閉じた。




 老人が、また目を開けた。


「先生。ロウェナを、頼む」


「ハモンドさん」


「あれは母を早くに亡くした。次は、わしだ」


 老人の手が、藁の上を探した。


 探した手が、ロウェナの手を見つけた。


「ロウェナ。泣くな」


「お父」


「四十年、炭を焼いて。お前を育てて。いい一生だった」


「やめて。そんなこと、言わないで」


「先生のお手で、痛みはずいぶん楽になった。これで十分だ」


 ロウェナが、父の手に顔をうずめた。


 うずめた肩が、声を殺して震えた。


 メリルは、その様子を見ていた。


 見ていることしか、できなかった。


 胸の中で、何かが痛んだ。




「先生」


 老人が、メリルを見た。


「ひとつ、聞いていいか」


「……はい」


「あんたの手で治った子は、痛がってたか」


「痛がる子も、おりました。お薬は苦いですから」


「その子らに、あんた、なんて言った」


 メリルはひと拍だけ口をつぐんだ。


 つぐんだ唇が、いつもの言葉を探した。


「……痛いのは、ちゃんと治っていく証です、と」


「ほう」


 老人は、薄く笑った。


「いい言葉だ」


 笑った口元から、笛の音が細く漏れた。


「だがな、先生。わしのは、治らん痛みだ」


 メリルの喉が、つかえた。


 治らない痛みに、その言葉は使えなかった。




 メリルは、老人の手をとった。


 とった手は、もうずいぶん冷たかった。


 冷たい手のひらを、自分の両手でそっと包んだ。


 包んだ手の中で、命の浅瀬がいっそう浅くなった。


「ハモンドさん」


「ああ」


「痛いのは——」


 メリルはそこで一度、言葉を止めた。


 止めた喉の奥が、熱くなった。


「治っていく証だと、わたしはずっと信じてきました」


「うん」


「でも、今夜わかりました。痛みには、治らない痛みもあるのですね」


 老人の目が、メリルを見た。


「ええ。あんたの胸の痛みは治りません。ロウェナさんの痛みも、すぐには治りません」


 メリルの声が、震えた。


「それでも——わたしは、そばにいます。痛みがひとりにならないように」


 老人の目が、ひと粒、やわらいだ。


「……そばに、か」


「ええ。痛いのが治っていく証でないときも。この手は、そばにいるためにあります」




 老人は、しばらく、何も言わなかった。


 言わずに、メリルとロウェナの手をひとつずつ握った。


 握る力は、もうほとんどなかった。


「ロウェナ」


「お父」


「先生に、よくしてもらったな」


「うん」


「礼を、言いなさい」


「……ありがとう、ございます。先生」


 ロウェナの声が、涙に溶けた。


 老人はそれを聞いて、ひと度うなずいた。


 うなずいた目を、ゆっくりと閉じた。


 閉じた胸が、最後にひとつ大きく上下した。


 上下した胸が、それきり静かになった。


 胸の中の笛の音が、止まった。


 メリルの手のひらが、その静けさを拾った。




 無音が、藁の上にゆっくりと降りた。


 降りた無音を、ロウェナの嗚咽が破った。


「お父。お父っ」


 ロウェナが、父の胸にすがった。


 メリルは、老人の首筋にもう一度指を当てた。


 当てた指に、脈はもう返らなかった。


 メリルは、当てた指を静かに離した。


 離した手のひらが、空をつかんだ。


 何も、つかめなかった。


 戻せなかった、と、手のひらが知った。


 頭ではなく、手がようやく知った。




「メリルさま……」


 ニーナが、メリルの背の後ろで声を漏らした。


 漏らした声が、すぐに泣き声になった。


「わたし。わたし、お湯を、もっと早く」


「ニーナ」


「もっと早く、煎じてれば。半量じゃなくて、もっと」


「ニーナ」


 メリルは、振り返った。


 振り返って、ニーナの肩を、両手で抱いた。


「あなたのせいでは、ないわ」


「でも」


「わたしの手でも戻せなかったの。誰の手でも、戻せなかった」


 ニーナは、メリルの胸で声を殺して泣いた。


 メリルは、その背をゆっくりとさすった。


 さすりながら、自分の目にも、熱いものが滲んだ。


 滲んだものを、メリルはこぼさなかった。


 今は、ロウェナのために、ニーナのために、立っていなければならなかった。




 マーサが、戸口から歩いてきた。


 歩いてきて、ロウェナの肩に大きな手を置いた。


「ロウェナ」


「マーサ、さん」


「ハモンドは、いい死に方をしたよ」


「……いい、死に方」


「雪の夜に娘に手を握られて。先生に痛みを取ってもらって。北辺じゃ、こんなに恵まれた死に方はめったにない」


 マーサの声は低く、確かだった。


「ひとりで軒の下で凍えて死ぬ年寄りを、あたしは何人も見た。ハモンドは、違った」


 ロウェナの嗚咽が、少しずつ、しゃくり上げに変わった。


 マーサは、その背をひと度だけ叩いた。


「泣きな。今夜は、好きなだけ泣きな」




 メリルは、老人の体に毛布をかけた。


 かけた毛布の上に、両手を、そっと重ねた。


 重ねた老人の手は、もう、温度を返さなかった。


 メリルは、その手をしばらく見ていた。


 炭で黒く染みた、四十年の手。


 マーサの手に、似た手。


 いくつもの冬を、この町で越えた手。


「ハモンドさん」


 メリルは、小さく言った。


「お疲れさまでした」


 言った声が、闇の中で、ひと粒、震えた。




 夜が、深く更けた。


 ロウェナは泣き疲れて、父の脇で眠った。


 マーサが、その肩に毛布をかけ直した。


 ニーナも、竈の脇で泣き腫らした目を閉じていた。


 メリルだけが、まだ、起きていた。


 起きて、薬棚の前に、ひとり立っていた。


 立った手の下で、和紙の角の凹みが、指の腹に触れた。


 その凹みは、いつも、メリルの指の幅と同じだった。


 今夜は、その幅がひどく頼りなく感じられた。




「メリル先生」


 マーサが、後ろから声をかけた。


「眠れないかい」


「……ええ」


「初めての看取りは、誰でも眠れないさ」


 マーサは、メリルの隣に立った。


 立って、薬棚の二つの草の束をちらと見た。


「責めてるのかい。自分の手を」


「……少し」


「責めるのは、おやめ」


 マーサの声は、低かった。


「あんたの手は、ハモンドの痛みを取った。最後の夜を苦しみだけにしなかった。それは、戻せない命を前にして手ができるいちばんのことだよ」


 メリルは、自分の手のひらを見た。


「治せなくても、ですか」


「治せなくても、さ」


 マーサはひと度だけメリルを見た。


「治す手と、看取る手。あんたは今夜、両方を持ってることを知ったんだ。それが、いい癒し手になるいちばん最初の傷さ」




 マーサが、毛布のほうへ戻っていった。


 戻った背を、メリルはひと拍だけ見送った。


 見送ってから、メリルは、もう一度、薬棚に手を置いた。


 置いた手の下で、凹みが静かに息をしていた。


 この凹みを残した人も、ここで、誰かを看取っただろうか。


 ふと、そう思った。


 思った先で、胸の奥がわずかに動いた。


 この場所は、治す場所であると同時に。


 看取る場所でもあるのだ、と。


 ならば、この場所には、名前が、いる。


 ただの廃院では、この夜を、抱えきれない。




 メリルは、戸の隙間から、外を見た。


 外は、まだ、白い闇だった。


 降る雪の中を、何かが横切った。


 白い、小さな、影だった。


 軒の下へ、ひと度、舞い込んできた。


 それは、雪に紛れた、一羽の鳥だった。


 羽の白い、小さな鳥だった。


 鳥は、軒の下で、ひと度羽をたたんだ。


 たたんで、寒さをしのぐように、身を縮めた。


 嵐の夜に、軒へ帰ってきた、白い鳥。


 メリルは、その小さな影をしばらく見ていた。


 見ているうちに、胸の中で、ひとつの言葉が、ほどけた。


 まだ、声にはしなかった。


 声にする前に、もうひと晩、抱いていたかった。




 メリルは、藁のほうへ戻った。


 戻って、ニーナの隣に、そっと横になった。


 横になった背中に、竈の橙がひと筋当たった。


 当たった温度の向こうで、毛布をかけた老人が、静かに眠っていた。


 その隣で、ロウェナが父の手を握ったまま眠っていた。


 眠った二人の手は、もう、離れていなかった。


 メリルは、その様子をひと拍だけ見た。


 見てから、目を閉じた。


 閉じた目の裏で、今夜の言葉が、ひとつずつ、巡った。


 ——痛いのは、ちゃんと治っていく証です。


 今まで、何度も、口にしてきた言葉だった。


 病者を励ますための、明るい言葉だった。


 けれど、今夜、その言葉は、別の重さで胸に落ちた。


 治らない痛みも、ある。


 戻せない命も、ある。


 それでも、この手は、痛みのそばにいる。


 治っていく証でないときも、そばにいる。




 戸の外で、白い鳥が、ひと度、羽ばたいた。


 羽ばたいた音は、雪に紛れて、すぐに消えた。


 メリルは、その音を闇の中で聞いた。


 聞いた手のひらに、まだ、老人の冷たさが残っていた。


 残った冷たさの隣に、けれど、もうひとつ、温度があった。


 看取りの夜に、そばにいた、という温度だった。


 戻せなかった、という痛みと。


 そばにいた、という温度と。


 その二つを、メリルは、両の手のひらに抱いて眠った。


 抱いた手のひらが、今夜だけは、その重さの名を、まだ呼ばなかった。


 呼ばないまま、戸を打つ雪の音を、ひと粒ずつ数えた。


 数える先で、軒の白い鳥が、夜の闇に静かに身を縮めていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第十二話「癒せぬ手」をお届けしました。この回は、書いていて、いちばん胸が苦しかった回です。


メリルは、これまで、たくさんの命を救ってきました。けれど今夜、彼女の手は、ひとつの命を、戻せませんでした。聖癒は万能ではありません。すり減った肺を厚くすることも、消えた命を呼び戻すことも、できないのです。


それでもメリルは、ハモンドさんのそばにいることを選びました。「痛いのは、ちゃんと治っていく証です」——いつも病者を励ましてきたこの言葉を、今夜は治らない痛みの前で、別の重さで噛みしめます。治す手と、看取る手。その両方を持つことが、いい癒し手になるいちばん最初の傷だと、マーサが教えてくれました。


そして、嵐の夜に軒へ帰ってきた、一羽の白い鳥。メリルの胸の中で、ひとつの言葉が、まだ声にならないままほどけました。次話「白鳩の家」で、その言葉が、この場所の名前になります。


毎日19時更新予定です。☆評価・ブクマ・感想をいただけると、何より次話の励みになります。

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