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十八年前の赤子の取り違え——婚約破棄された「養女」が、公爵家のただ一人の正統な令嬢だと判明した日  作者: 歩人


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13/20

第13話: 白鳩の家

 軒の下で白い羽がひと度ふるえた。


 雪のやんだ朝の薄い光の中だった。


 昨夜の白い鳥が、まだそこにいた。


 メリルは戸の隙間からその小さな影を見た。


 見た手のひらに、昨夜の冷たさがまだ薄く残っていた。




 夜のうちに雪はやんでいた。


 戸を細く引くと、外は青みがかった白だった。


 降り積もった雪が朝の光をひと粒ずつ返している。


 その白の中で、軒の鳥だけが別の白だった。雪の白とは、ひと色ちがう白。


 鳥は軒の梁の端にとまっていた。丸い目で雪の野をじっと見ている。逃げる気配はなかった。まるで、ここを宿と決めたような立ち方だった。


「……あなた、まだいたのね」


 メリルが小さく声をかけると、白い息になって雪に消えた。




「メリルさま」


 後ろでニーナの声がした。藁から起きたばかりの寝起きの声だった。


「お早うございます。……あ。雪が、やみました」


「ええ。やんだわ」


「お外、まぶしいくらい」


 ニーナがメリルの隣に来て、戸の隙間から外をのぞいた。のぞいた目が、すぐに軒の鳥を見つけた。


「……鳥。鳥が、おります」


「ええ。昨夜から、あそこに」


「白い鳥ですね。雪より白い」


 ニーナの声がひと粒高くなった。寒さに赤い鼻先が、ふっとほどけた。




「なんという鳥でしょう」


「鳩、だと思うわ」


「お鳩。こんなに白いお鳩、初めて見ました」


「わたしも」


 メリルは軒の鳥をもう一度見た。鳥は丸い胸を雪のほうへ向けている。胸の白が朝の光をやわらかく弾いていた。


「嵐の夜に、ここへ来たの」


「嵐の夜に」


「ええ。降る雪の中を横切って、軒の下へひと度舞い込んできた」


 メリルは戸の桟に手を添えた。添えた手の下、桟の木が朝の冷えを返した。


「逃げずに、夜じゅうここにいたわ」


「……お宿に、決めたんでしょうか」


「そうね。決めたのかもしれない」




 その時だった。


 軒の鳥がふいに羽を広げた。広げた羽が朝の光をひと度白く払った。


「あ」


 ニーナが声を上げた。


 鳥はひと度高く舞い上がり、雪の野を低く旋回した。旋回して——また軒の下へ戻ってくる。もとの梁の端に、丸く身を縮めた。


「……戻って、きました」


 ニーナが目を丸くした。


「飛んでいったのに、また帰ってきました」


「ええ」


 メリルはその様子を見ていた。見ているうちに、胸の奥で昨夜ほどけた言葉がもう一度ほどけた。今度は声になりかけた。




 昨夜、看取りの後に。


 戸の隙間からこの鳥を見たとき、胸の中でひとつの言葉がほどけた。けれど、声にはしなかった。声にする前に、もうひと晩だけ抱いていたかった。


 その言葉が今、朝の光の中でもう一度ほどけた。声になりかけて、唇の奥でとどまった。


 ——白い、鳩の。


 メリルは唇の奥でその続きを探した。探した先で、不思議なことが起きた。その言葉の続きが、まるで前から知っていたようにすっと出てきたのだ。




「ニーナ」


「はい」


「この家に、名前をつけようと思うの」


 ニーナがひと度メリルを見た。


「お名前、ですか」


「ええ」


 メリルは軒の鳥を見た。


「ただの廃院では、昨夜の夜を抱えきれないわ。ここは治す場所であると同時に——看取る場所でもあるのだから」


 ニーナの目が薄く水を含んだ。昨夜の涙の名残が、まだそこにあった。


「ここには、名前がいるの」


「……はい」


「軒に帰る、白い鳩のいる家。だから——」


 メリルはひと拍だけ言葉を止めた。止めた喉の奥が、わずかに乾いた。


「白鳩の家、と」




 言ってから、メリルはその響きを胸に置いた。


 白鳩の家。


 その短い名が、思いのほかしっくりと胸に落ちた。落ちすぎるくらい、しっくりと落ちた。まるで、もう何度も口にしたことがあるような。


 メリルはひと度首をかしげた。


 ——なぜ、こんなにしっくりくるのかしら。


 ついさっき初めて思いついた名のはずだった。なのに舌の上で、古い言葉のように馴染んでいた。


 どこかで聞いた気がする。いつ、どこで聞いたのかはわからない。わからないのに馴染んでいる。


 メリルはその淡い不思議を、ひと度だけ胸の隅に置いた。置いて、すぐに軒の鳥のほうへ目を戻した。




「白鳩の家」


 ニーナがその名を口の中でなぞった。


「白鳩の、家」


「変、かしら」


「いいえ」


 ニーナは首を横に振った。振った拍子に、栗色の前髪がひと束揺れた。


「いいお名前です。とっても」


「ほんとう?」


「ええ。だって——」


 ニーナは軒の鳥を見上げた。


「あのお鳩みたいに、誰かが帰ってこられるお家、っていう感じがします」


 メリルはその言葉にひと度目をみはった。


 誰かが、帰ってこられる家。


 その言い方が、白鳩の家という名とぴたりと重なった。


「……ニーナ。あなた、いいことを言うわ」


「え。そう、でしょうか」


「ええ。とても」


 メリルはふっと口元をほどいた。ほどいた口元から、屋敷では出ないやわらかさがひと粒こぼれた。




「では、ニーナ」


 メリルは軒の鳥を見上げたまま言った。


「白鳩の家の、最初のお仕事をしましょうか」


「最初の、お仕事」


「ええ。あのお鳩に、ごはんを差し上げるの」


「ごはん、ですか」


「だって、宿のお客さまだもの。お腹が空いているわ、きっと」


 メリルはふいに、いたずらっぽい目をした。屋敷では十八年、一度もしなかった目だった。


「どれどれ。粥の残りがあったかしら」


「あ。メリルさま、わたし、取ってまいります」


「いいの、いいの。わたしが行くわ。久しぶりに、お客さまのお世話よ」


 メリルは竈のほうへ、軽い足取りで向かった。向かう足音が、いつもよりひと拍弾んでいた。




 ニーナがその背をひと度ぽかんと見て、思わず口元をほころばせた。


「……メリルさま」


「なあに」


「お声が、はずんでおられます」


「あら。そうかしら」


「ええ。お屋敷では、ぜったいになさらないお声です」


 メリルは竈の前でひと度手を止めた。止めた手の下で、粥の鍋がまだ温かかった。


「そうね」


 メリルはふっと笑った。


「ここでは、お声がはずむみたい」


「ようございます」


「ええ。わたしも、そう思うわ」


 メリルは粥の冷えた残りを、木の匙でひと匙すくった。すくって、欠けた小皿にそっと盛った。




 戸を開けると、北の冷えが頬を切った。切った冷えの中に、雪のやんだ朝の匂いがあった。


 メリルは軒の下まで雪を踏んで歩いた。踏んだ雪が足の下できゅっと鳴り、その音が足の裏から胸まで上ってきた。


 軒の鳥はメリルが近づいても逃げなかった。丸い目で、メリルの手の小皿を見ている。


「さあ、どうぞ。白鳩の家の、初めてのお客さま」


 メリルは小皿を軒の下の雪の上に置いて、ひと歩退いた。


 鳥はひと度首をかしげてから、軽く梁を蹴った。蹴って、小皿の縁にふわりと降りる。降りて、白い嘴で粥をひと粒ついばんだ。




「……食べた」


 戸口でニーナが声を漏らした。


「メリルさま。お鳩、食べました」


「ええ。食べたわ」


 メリルはその小さな白い背を、しゃがんで見ていた。


 見ているメリルの横顔を、ニーナが見た。見たニーナの目が、ひと度やわらいだ。


 メリルの横顔が、屋敷のどの日より若かった。亜麻色の髪に、朝の光がひと筋当たっている。その光の下で、メリルはただの十八の娘の顔をしていた。


 病者の前の、芯のある癒し手の顔でもなく。屋敷の、萎縮した養女の顔でもなく。雪の軒の下で白い鳥にごはんを差し上げる、ひとりの娘の顔だった。




 その時、本通りのほうから雪を踏む足音が近づいた。重い、けれど淀みのない足音だった。メリルはその足音を知っていた。


「マーサさん」


 坂の下からマーサが上ってきた。厚い毛織りの上着に、肩に薄く雪を乗せている。


「朝早くから、なんだい。軒の下で、しゃがみ込んで」


「お鳩に、ごはんを」


「鳩?」


 マーサが軒の鳥を見た。見た灰色の目がひと度止まった。


「……白い鳩だね」


「ええ。昨夜から、ここに」


 マーサは軒の鳥をしばらく見ていた。見ている横顔が、ふだんよりひと拍長く動かなかった。




「ロウェナは」


 メリルは立ち上がって問うた。


「お父さまを、お見送りなさいましたか」


「ああ」


 マーサが軒の鳥から目を離した。


「夜明けに、町の者でハモンドを焼き場へ運んだ。ロウェナは、しゃんとしてたよ」


「……そうですか」


「あんたが、いい看取りをしてくれたからさ」


 マーサの声が低く、確かだった。


「ロウェナが言ってた。先生に最後の夜を看てもらえて、お父は幸せだったって」


 メリルはその言葉を胸に落とした。落ちた言葉の隣に、昨夜の冷たさがまだ薄く残っていた。戻せなかった、という冷たさだった。けれど、その隣にもうひとつ温度があった。そばにいた、という温度だった。




「で」


 マーサが軒の鳥をもう一度見た。


「あんた、この鳩を飼うのかい」


「飼う、というのとは、少し違うんです」


「違う?」


「ええ」


 メリルは軒の鳥を見上げた。


「お客さま、なんです。白鳩の家の」


 マーサの眉がひと度上がった。


「白鳩の、家」


「ええ。この家に名前をつけました。今朝」


 メリルはひと度戸口を振り返った。十八年ぶんの雪を受けてきた、灰色の軒。その軒の下で、白い鳥が粥をついばんでいた。


「白鳩の家、と」




 マーサはその名を聞いて、しばらく何も言わなかった。言わずに、軒の鳥と灰色の戸をひと度ずつ見た。見ている灰色の目の奥が、ふっと遠くなった。


「……白鳩の家、ね」


「変、でしょうか」


「いや」


 マーサは首を横に振った。


「いい名だ。北辺によく合う名さ」


「よかった」


「嵐の日にも、軒に帰る鳥だ。北の冬には、ちょうどいい」


 マーサの声が、ふだんよりひと粒やわらかかった。やわらいだまま、マーサはひと度空を見上げた。


「あたしはね、メリル先生」


「はい」


「昔、聞いたことがある気がするんだ。その名を、どこかで」


 メリルはひと度、マーサを見た。


「どこで、ですか」


「さあ、ねえ」


 マーサは首をかしげた。


「思い出せないよ。ずいぶん昔のことだ。気のせいかもしれない」




 メリルの胸がひと度小さく動いた。


 ——わたしも、聞いた気がしたんです。


 そう言いかけて、メリルは口をつぐんだ。言ったところで、いつどこでと問われても答えられなかった。ただ舌の上で、古い言葉のように馴染んでいた——それだけだった。


 メリルはその淡い不思議を、もう一度胸の隅に置いた。置いて、軒の鳥のほうへ目を戻した。


 鳥は小皿の粥を、もうほとんど食べ終えていた。食べ終えて、丸い目で灰色の軒を見上げている。まるで、この軒が自分の帰る場所だと知っているように。




「マーサさん」


「なんだい」


「お茶を、召し上がっていきませんか」


 メリルは戸口のほうを示した。


「竈の火が、まだ残っています。雪の道を上ってこられたのですから」


「……いいのかい」


「ええ。白鳩の家の、お客さまですもの」


 メリルはふっと、いたずらっぽく笑った。


 マーサがその笑みをひと度見た。見た灰色の目が、ふっとやわらいだ。


「ふん。客あつかいかい」


「ええ。だって、お名前が決まりましたから。お客さまをお迎えしないと」


「……調子のいい先生だね」


 マーサはぶっきらぼうに言った。言いながら、その口元がひと度ほころんでいた。


「まあ、いいさ。雪の道で、足が冷えた」




 三人は戸口の中へ入った。いちばん後ろで、ニーナが戸を引いた。引きかけて、ニーナは軒の鳥をもう一度見た。


「あの。お鳩は、入れなくてよろしいんでしょうか」


「いいの」


 メリルは振り返って言った。


「お鳩には、お鳩のいるべき場所があるわ。軒の下が、いちばん落ち着くのよ」


「軒の下が」


「ええ。嵐の日も、雪の日も。あそこへ帰れば、いいんだもの」


 ニーナはひと度軒の鳥を見てから、そっと戸を引いた。引いた戸の隙間から、白い鳥の丸い背が見えた。見えた背が、灰色の軒の下で静かに身を縮めていた。




 竈の火は、まだ橙に残っていた。


 マーサが竈の前の地べたに、どっかと腰を下ろした。下ろした拍子に、床がひと度きしんだ。


「狭い院だね」


「ええ。けれど、火だけは絶やしていません」


「いいことさ。北辺じゃ、火が命だ」


 メリルは欠けた椀に白湯を注いで、桔梗の葉をひと枝だけ落とした。桔梗の青い匂いが、湯気の中でふっと立った。


「お茶、というほどのものでは、ありませんが」


「上等さ」


 マーサは椀を受け取って、ひと口すすった。


「……桔梗の、匂いだね」


「ええ。咳止めの後を引く、滋養の草です」


「あんた、ほんとうに草に詳しいね」


「十八年、これだけはやってきましたから」


「メリルさまは、すごいんです」


 ニーナがふいに口をはさんだ。


「桔梗も、当帰も、ぜんぶ匂いでわかるんですよ」


「ニーナ。そんなに言わないで」


「だって、ほんとうですもの」




「メリル先生」


 マーサは椀を両手で包んだ。包んだ手が、ふだんよりひと粒ゆるんでいた。


「あんた、屋敷じゃ笑わなかったろう」


 メリルはひと度手を止めた。


「……どうして、それを」


「見ればわかるさ」


 マーサはひと度メリルを見た。


「昨日も、今日もさ。あんた、ここへ来て、だんだん笑うようになってる」


「……そう、でしょうか」


「ああ。鳩にごはんを差し上げて、客にお茶を出して。屋敷の養女がする顔じゃないね」


 メリルは自分の頬に、ひと度手を当てた。当てた手のひらが、ふだんよりひと指ぶんあたたかかった。昨日も感じた温度だった。病者に触れたわけでもないのに、あたたかかった。




「ニーナにも、言われました」


 メリルはふっと、口元をほどいた。


「お声が、はずんでいる、と」


「嬢ちゃんは、よく見てるね」


 マーサは竈の脇のニーナを、ちらと見た。ニーナが湯気の椀を抱えて、はにかんだ。


「あの。わたし、メリルさまの、はずんだお声、好きです」


 ニーナの声がひと粒、明るんだ。


「お屋敷では、ずっとしずかなお声でしたから」


 メリルはその言葉にひと度、目を伏せた。伏せた目の裏に、屋敷の十八年が薄く過ぎた。誰にも聞かれなかった、しずかな声。


 ここでは、その声がはずんでいるという。はずんでいる、と二人が言ってくれる。




「マーサさん」


 メリルは椀を握り直した。


「白鳩の家、という名前。今朝、ふいに浮かんだんです」


「ふいに」


「ええ。なぜその名が浮かんだのか、自分でも不思議で」


 メリルはひと度戸口のほうを見た。戸の隙間から、白い鳥の背が薄く見えた。


「軒に鳩がいたから——そう言えば、それまでなんですけれど」


「けれど?」


「……どこかで、聞いた気がするんです」


 メリルは椀の湯気をひと度見た。


「その名を。ずっと前に、どこかで」


 マーサはひと度その横顔を見た。見た灰色の目が、ふっと遠くなった。


「あたしも、さっき、そう言ったね」


「ええ」


「ふたりして、聞いた気がするって。妙な話さ」


「妙な、話です」




 二人はひと度、黙った。黙った間に、竈の火がぱちりと爆ぜた。爆ぜた音が、狭い院の中にひと粒落ちた。


 メリルはその音を、闇の中で聞いた。


 ——どこで、聞いたのかしら。


 胸の奥をいくら探っても、答えは出なかった。屋敷の記憶にも治療院の記憶にも、その名はなかった。なのに馴染んでいる。まるで、生まれる前から知っていたように。


 メリルはその淡い不思議を、もう一度胸の隅に置いた。置いて、それ以上は追わなかった。追ってもわからないことだと、わかっていた。




「まあ、いいさ」


 マーサがひと度白湯をすすった。


「名なんてものは、しっくりくれば、それでいい」


「しっくり、くれば」


「ああ。理屈じゃない。あんたの胸がその名でいいと言うなら、それでいいのさ」


 マーサの声が低く、確かだった。


「白鳩の家。——北辺によく合う名だ」


「……ありがとうございます」


「礼を言うのは、こっちさ」


 マーサはひと度戸口のほうを見た。


「この町に、帰れる場所がひとつ増えた」


 言って、マーサは白湯を飲み干した。飲み干して、欠けた椀をそっと床に置いた。


「これからの冬、この軒に何人が帰ってくるかね」




 メリルはその言葉を胸に落とした。落ちた言葉が、思いのほか深いところで止まった。


 ——この軒に、何人が帰ってくるか。


 昨夜は、ひとり看取った。戻せなかった命が、ひとつあった。けれど、これから先。この軒の下に、何人が帰ってくるだろう。帰ってきた者を、何人春へ渡せるだろう。


 メリルはひと度戸口の白い鳥を見た。鳥はまだ、軒の下にいた。


 嵐の夜にも軒へ帰る、白い鳥。その鳥のいる家に、いま名前が灯った。




「マーサさん」


「なんだい」


「春まで、誰も死なせずに渡れたら」


 メリルはひと度、マーサを見た。


「そのときに、もう一度お茶を差し上げます。白鳩の家で」


 マーサはひと度その目を見た。見た灰色の目が、ふっとやわらいだ。


「……約束だね」


「ええ。約束です」


「いいだろう」


 マーサはぶっきらぼうに立ち上がった。立ち上がって、戸口のほうへ歩いた。


「だが、その前に冬を越さなきゃいけない。今年のは、重いよ」


「ええ。わかっています」


「草は大事に使いな。半量から、薄く」


「半量から、薄く」


 メリルはその言葉を繰り返した。繰り返した声がひと粒、確かだった。




 マーサが戸を引いた。引いた戸の向こうに、雪のやんだ朝の白がまぶしく開いた。開いた白の中で、軒の鳥がひと度羽をふるわせた。


 マーサは敷居をまたぎかけて、ひと度立ち止まった。立ち止まって、軒の鳥をもう一度見上げた。


「……白鳩の家」


 マーサが低くつぶやいた。つぶやいた声に、ふだんにないひと粒の遠さがあった。


「いい名だ」


 言い終わると、マーサは敷居をまたいだ。またいで、坂を雪を踏んで下りていった。


 下りていく背を、メリルはひと拍見送った。見送ったメリルの隣で、ニーナが戸口に立っていた。




「メリルさま」


「なあに」


「白鳩の家。……いいお名前です」


「ええ。わたしも、そう思うわ」


 メリルはひと度軒の鳥を見上げた。鳥は丸い目で灰色の軒を見ている。まるで、この軒が自分の帰る場所だと知っているように。


「ニーナ」


「はい」


「これから、この家にたくさんの人が来るわ。咳の子も、熱の子も」


「ええ」


「みんな、ここへ帰ってこられるように。白鳩みたいに」


 メリルはひと度、戸口の桟に手を添えた。添えた手の下、桟の木が朝の光をやわらかく返した。


「そういう家に、しましょうね」


 言った声が、はずんでいた。屋敷では十八年、出なかった声だった。




 その夜。


 メリルは薬棚の前に、ひとり立った。立った手の下で、和紙の角の凹みが指の腹に触れた。その凹みは、いつもメリルの指の幅と同じだった。


 昨夜は、その幅がひどく頼りなく感じられた。けれど今夜は違った。今夜は、その凹みがひと粒あたたかく感じられた。


 メリルはひと度その凹みを指でなぞった。なぞった指先が、ふと止まった。


 ——この凹みを残した人も。


 昨夜、そう思ったのを思い出した。この凹みを残した人も、ここで誰かを看取っただろうか。


 そして、ふともうひとつの問いが浮かんだ。


 この凹みを残した人は——この家を、なんと呼んでいたのだろう。


 問いの直後、メリルはひと度息を止めた。


 白鳩の家という名を、自分はついさっきつけたばかりだった。誰に教わったのでもなく、軒の鳥を見て舌の上にすっと載った名。


 もしこの凹みを残した人が、この家を別の名で呼んでいたのなら。あるいは——同じ名で。


 考えかけて、メリルはそこで思考を止めた。考える筋道がどこにもなかった。ただ指先の下の凹みが、いつもよりほんの少し近いものに感じられた。




 メリルはその問いに、答えを持たなかった。持たないまま、ひと度戸口のほうを見た。


 戸の隙間から、闇が見えた。闇の中で、白い鳥が軒の下に身を縮めていた。


 嵐の夜にも軒へ帰る、白い鳥。その鳥の名を、メリルは知らずにこの家に与えた。なぜその名がしっくりくるのか、わからないまま。どこかで聞いた気がする——それだけを胸の隅に残して。


 メリルはひと度目を閉じた。閉じた目の裏で、白鳩の家という名が静かに灯った。灯った名が、まるでずっと前からここにあったように。


 メリルはその灯りを両の手のひらに抱いて、眠りについた。眠りの底で、戸を打たない静かな雪の夜が更けていった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第十三話「白鳩の家」をお届けしました。前話の看取りの夜に灯った、まだ声にならなかった言葉——その言葉が、今話で、この場所の名前になりました。


メリルは、軒に帰ってきた白い鳥を見て、廃院に「白鳩の家」と名を与えます。嵐の日にも軒へ帰る鳩のように、誰もが帰ってこられる場所であってほしい——その願いを、メリル自身は、はっきりとは言葉にしていません。ただ、ニーナが「誰かが帰ってこられるお家、っていう感じ」と言い当ててくれます。


そして、メリルもマーサも、この名を「どこかで聞いた気がする」と感じます。なぜしっくりくるのか、自分でもわからないまま。——この淡い不思議が、いつか、ひとつの真相へとつながっていきます。今は、その正体を、わたしも、メリルと一緒に、胸の隅に置いておくことにします。


屋敷では蓋をされていたメリルの素の明るさが、雪の軒の下で、ふっと顔を出す回でもありました。鳩にごはんを差し上げ、客にお茶を出し、いたずらっぽく笑う——そんな十八の娘の顔を、書いていてとても嬉しく思いました。日陰で生きてきた手が、帰れる場所を灯していきます。


毎日19時更新予定です。☆評価・ブクマ・感想をいただけると、何より次話の励みになります。

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