第13話: 白鳩の家
軒の下で白い羽がひと度ふるえた。
雪のやんだ朝の薄い光の中だった。
昨夜の白い鳥が、まだそこにいた。
メリルは戸の隙間からその小さな影を見た。
見た手のひらに、昨夜の冷たさがまだ薄く残っていた。
夜のうちに雪はやんでいた。
戸を細く引くと、外は青みがかった白だった。
降り積もった雪が朝の光をひと粒ずつ返している。
その白の中で、軒の鳥だけが別の白だった。雪の白とは、ひと色ちがう白。
鳥は軒の梁の端にとまっていた。丸い目で雪の野をじっと見ている。逃げる気配はなかった。まるで、ここを宿と決めたような立ち方だった。
「……あなた、まだいたのね」
メリルが小さく声をかけると、白い息になって雪に消えた。
「メリルさま」
後ろでニーナの声がした。藁から起きたばかりの寝起きの声だった。
「お早うございます。……あ。雪が、やみました」
「ええ。やんだわ」
「お外、まぶしいくらい」
ニーナがメリルの隣に来て、戸の隙間から外をのぞいた。のぞいた目が、すぐに軒の鳥を見つけた。
「……鳥。鳥が、おります」
「ええ。昨夜から、あそこに」
「白い鳥ですね。雪より白い」
ニーナの声がひと粒高くなった。寒さに赤い鼻先が、ふっとほどけた。
「なんという鳥でしょう」
「鳩、だと思うわ」
「お鳩。こんなに白いお鳩、初めて見ました」
「わたしも」
メリルは軒の鳥をもう一度見た。鳥は丸い胸を雪のほうへ向けている。胸の白が朝の光をやわらかく弾いていた。
「嵐の夜に、ここへ来たの」
「嵐の夜に」
「ええ。降る雪の中を横切って、軒の下へひと度舞い込んできた」
メリルは戸の桟に手を添えた。添えた手の下、桟の木が朝の冷えを返した。
「逃げずに、夜じゅうここにいたわ」
「……お宿に、決めたんでしょうか」
「そうね。決めたのかもしれない」
その時だった。
軒の鳥がふいに羽を広げた。広げた羽が朝の光をひと度白く払った。
「あ」
ニーナが声を上げた。
鳥はひと度高く舞い上がり、雪の野を低く旋回した。旋回して——また軒の下へ戻ってくる。もとの梁の端に、丸く身を縮めた。
「……戻って、きました」
ニーナが目を丸くした。
「飛んでいったのに、また帰ってきました」
「ええ」
メリルはその様子を見ていた。見ているうちに、胸の奥で昨夜ほどけた言葉がもう一度ほどけた。今度は声になりかけた。
昨夜、看取りの後に。
戸の隙間からこの鳥を見たとき、胸の中でひとつの言葉がほどけた。けれど、声にはしなかった。声にする前に、もうひと晩だけ抱いていたかった。
その言葉が今、朝の光の中でもう一度ほどけた。声になりかけて、唇の奥でとどまった。
——白い、鳩の。
メリルは唇の奥でその続きを探した。探した先で、不思議なことが起きた。その言葉の続きが、まるで前から知っていたようにすっと出てきたのだ。
「ニーナ」
「はい」
「この家に、名前をつけようと思うの」
ニーナがひと度メリルを見た。
「お名前、ですか」
「ええ」
メリルは軒の鳥を見た。
「ただの廃院では、昨夜の夜を抱えきれないわ。ここは治す場所であると同時に——看取る場所でもあるのだから」
ニーナの目が薄く水を含んだ。昨夜の涙の名残が、まだそこにあった。
「ここには、名前がいるの」
「……はい」
「軒に帰る、白い鳩のいる家。だから——」
メリルはひと拍だけ言葉を止めた。止めた喉の奥が、わずかに乾いた。
「白鳩の家、と」
言ってから、メリルはその響きを胸に置いた。
白鳩の家。
その短い名が、思いのほかしっくりと胸に落ちた。落ちすぎるくらい、しっくりと落ちた。まるで、もう何度も口にしたことがあるような。
メリルはひと度首をかしげた。
——なぜ、こんなにしっくりくるのかしら。
ついさっき初めて思いついた名のはずだった。なのに舌の上で、古い言葉のように馴染んでいた。
どこかで聞いた気がする。いつ、どこで聞いたのかはわからない。わからないのに馴染んでいる。
メリルはその淡い不思議を、ひと度だけ胸の隅に置いた。置いて、すぐに軒の鳥のほうへ目を戻した。
「白鳩の家」
ニーナがその名を口の中でなぞった。
「白鳩の、家」
「変、かしら」
「いいえ」
ニーナは首を横に振った。振った拍子に、栗色の前髪がひと束揺れた。
「いいお名前です。とっても」
「ほんとう?」
「ええ。だって——」
ニーナは軒の鳥を見上げた。
「あのお鳩みたいに、誰かが帰ってこられるお家、っていう感じがします」
メリルはその言葉にひと度目をみはった。
誰かが、帰ってこられる家。
その言い方が、白鳩の家という名とぴたりと重なった。
「……ニーナ。あなた、いいことを言うわ」
「え。そう、でしょうか」
「ええ。とても」
メリルはふっと口元をほどいた。ほどいた口元から、屋敷では出ないやわらかさがひと粒こぼれた。
「では、ニーナ」
メリルは軒の鳥を見上げたまま言った。
「白鳩の家の、最初のお仕事をしましょうか」
「最初の、お仕事」
「ええ。あのお鳩に、ごはんを差し上げるの」
「ごはん、ですか」
「だって、宿のお客さまだもの。お腹が空いているわ、きっと」
メリルはふいに、いたずらっぽい目をした。屋敷では十八年、一度もしなかった目だった。
「どれどれ。粥の残りがあったかしら」
「あ。メリルさま、わたし、取ってまいります」
「いいの、いいの。わたしが行くわ。久しぶりに、お客さまのお世話よ」
メリルは竈のほうへ、軽い足取りで向かった。向かう足音が、いつもよりひと拍弾んでいた。
ニーナがその背をひと度ぽかんと見て、思わず口元をほころばせた。
「……メリルさま」
「なあに」
「お声が、はずんでおられます」
「あら。そうかしら」
「ええ。お屋敷では、ぜったいになさらないお声です」
メリルは竈の前でひと度手を止めた。止めた手の下で、粥の鍋がまだ温かかった。
「そうね」
メリルはふっと笑った。
「ここでは、お声がはずむみたい」
「ようございます」
「ええ。わたしも、そう思うわ」
メリルは粥の冷えた残りを、木の匙でひと匙すくった。すくって、欠けた小皿にそっと盛った。
戸を開けると、北の冷えが頬を切った。切った冷えの中に、雪のやんだ朝の匂いがあった。
メリルは軒の下まで雪を踏んで歩いた。踏んだ雪が足の下できゅっと鳴り、その音が足の裏から胸まで上ってきた。
軒の鳥はメリルが近づいても逃げなかった。丸い目で、メリルの手の小皿を見ている。
「さあ、どうぞ。白鳩の家の、初めてのお客さま」
メリルは小皿を軒の下の雪の上に置いて、ひと歩退いた。
鳥はひと度首をかしげてから、軽く梁を蹴った。蹴って、小皿の縁にふわりと降りる。降りて、白い嘴で粥をひと粒ついばんだ。
「……食べた」
戸口でニーナが声を漏らした。
「メリルさま。お鳩、食べました」
「ええ。食べたわ」
メリルはその小さな白い背を、しゃがんで見ていた。
見ているメリルの横顔を、ニーナが見た。見たニーナの目が、ひと度やわらいだ。
メリルの横顔が、屋敷のどの日より若かった。亜麻色の髪に、朝の光がひと筋当たっている。その光の下で、メリルはただの十八の娘の顔をしていた。
病者の前の、芯のある癒し手の顔でもなく。屋敷の、萎縮した養女の顔でもなく。雪の軒の下で白い鳥にごはんを差し上げる、ひとりの娘の顔だった。
その時、本通りのほうから雪を踏む足音が近づいた。重い、けれど淀みのない足音だった。メリルはその足音を知っていた。
「マーサさん」
坂の下からマーサが上ってきた。厚い毛織りの上着に、肩に薄く雪を乗せている。
「朝早くから、なんだい。軒の下で、しゃがみ込んで」
「お鳩に、ごはんを」
「鳩?」
マーサが軒の鳥を見た。見た灰色の目がひと度止まった。
「……白い鳩だね」
「ええ。昨夜から、ここに」
マーサは軒の鳥をしばらく見ていた。見ている横顔が、ふだんよりひと拍長く動かなかった。
「ロウェナは」
メリルは立ち上がって問うた。
「お父さまを、お見送りなさいましたか」
「ああ」
マーサが軒の鳥から目を離した。
「夜明けに、町の者でハモンドを焼き場へ運んだ。ロウェナは、しゃんとしてたよ」
「……そうですか」
「あんたが、いい看取りをしてくれたからさ」
マーサの声が低く、確かだった。
「ロウェナが言ってた。先生に最後の夜を看てもらえて、お父は幸せだったって」
メリルはその言葉を胸に落とした。落ちた言葉の隣に、昨夜の冷たさがまだ薄く残っていた。戻せなかった、という冷たさだった。けれど、その隣にもうひとつ温度があった。そばにいた、という温度だった。
「で」
マーサが軒の鳥をもう一度見た。
「あんた、この鳩を飼うのかい」
「飼う、というのとは、少し違うんです」
「違う?」
「ええ」
メリルは軒の鳥を見上げた。
「お客さま、なんです。白鳩の家の」
マーサの眉がひと度上がった。
「白鳩の、家」
「ええ。この家に名前をつけました。今朝」
メリルはひと度戸口を振り返った。十八年ぶんの雪を受けてきた、灰色の軒。その軒の下で、白い鳥が粥をついばんでいた。
「白鳩の家、と」
マーサはその名を聞いて、しばらく何も言わなかった。言わずに、軒の鳥と灰色の戸をひと度ずつ見た。見ている灰色の目の奥が、ふっと遠くなった。
「……白鳩の家、ね」
「変、でしょうか」
「いや」
マーサは首を横に振った。
「いい名だ。北辺によく合う名さ」
「よかった」
「嵐の日にも、軒に帰る鳥だ。北の冬には、ちょうどいい」
マーサの声が、ふだんよりひと粒やわらかかった。やわらいだまま、マーサはひと度空を見上げた。
「あたしはね、メリル先生」
「はい」
「昔、聞いたことがある気がするんだ。その名を、どこかで」
メリルはひと度、マーサを見た。
「どこで、ですか」
「さあ、ねえ」
マーサは首をかしげた。
「思い出せないよ。ずいぶん昔のことだ。気のせいかもしれない」
メリルの胸がひと度小さく動いた。
——わたしも、聞いた気がしたんです。
そう言いかけて、メリルは口をつぐんだ。言ったところで、いつどこでと問われても答えられなかった。ただ舌の上で、古い言葉のように馴染んでいた——それだけだった。
メリルはその淡い不思議を、もう一度胸の隅に置いた。置いて、軒の鳥のほうへ目を戻した。
鳥は小皿の粥を、もうほとんど食べ終えていた。食べ終えて、丸い目で灰色の軒を見上げている。まるで、この軒が自分の帰る場所だと知っているように。
「マーサさん」
「なんだい」
「お茶を、召し上がっていきませんか」
メリルは戸口のほうを示した。
「竈の火が、まだ残っています。雪の道を上ってこられたのですから」
「……いいのかい」
「ええ。白鳩の家の、お客さまですもの」
メリルはふっと、いたずらっぽく笑った。
マーサがその笑みをひと度見た。見た灰色の目が、ふっとやわらいだ。
「ふん。客あつかいかい」
「ええ。だって、お名前が決まりましたから。お客さまをお迎えしないと」
「……調子のいい先生だね」
マーサはぶっきらぼうに言った。言いながら、その口元がひと度ほころんでいた。
「まあ、いいさ。雪の道で、足が冷えた」
三人は戸口の中へ入った。いちばん後ろで、ニーナが戸を引いた。引きかけて、ニーナは軒の鳥をもう一度見た。
「あの。お鳩は、入れなくてよろしいんでしょうか」
「いいの」
メリルは振り返って言った。
「お鳩には、お鳩のいるべき場所があるわ。軒の下が、いちばん落ち着くのよ」
「軒の下が」
「ええ。嵐の日も、雪の日も。あそこへ帰れば、いいんだもの」
ニーナはひと度軒の鳥を見てから、そっと戸を引いた。引いた戸の隙間から、白い鳥の丸い背が見えた。見えた背が、灰色の軒の下で静かに身を縮めていた。
竈の火は、まだ橙に残っていた。
マーサが竈の前の地べたに、どっかと腰を下ろした。下ろした拍子に、床がひと度きしんだ。
「狭い院だね」
「ええ。けれど、火だけは絶やしていません」
「いいことさ。北辺じゃ、火が命だ」
メリルは欠けた椀に白湯を注いで、桔梗の葉をひと枝だけ落とした。桔梗の青い匂いが、湯気の中でふっと立った。
「お茶、というほどのものでは、ありませんが」
「上等さ」
マーサは椀を受け取って、ひと口すすった。
「……桔梗の、匂いだね」
「ええ。咳止めの後を引く、滋養の草です」
「あんた、ほんとうに草に詳しいね」
「十八年、これだけはやってきましたから」
「メリルさまは、すごいんです」
ニーナがふいに口をはさんだ。
「桔梗も、当帰も、ぜんぶ匂いでわかるんですよ」
「ニーナ。そんなに言わないで」
「だって、ほんとうですもの」
「メリル先生」
マーサは椀を両手で包んだ。包んだ手が、ふだんよりひと粒ゆるんでいた。
「あんた、屋敷じゃ笑わなかったろう」
メリルはひと度手を止めた。
「……どうして、それを」
「見ればわかるさ」
マーサはひと度メリルを見た。
「昨日も、今日もさ。あんた、ここへ来て、だんだん笑うようになってる」
「……そう、でしょうか」
「ああ。鳩にごはんを差し上げて、客にお茶を出して。屋敷の養女がする顔じゃないね」
メリルは自分の頬に、ひと度手を当てた。当てた手のひらが、ふだんよりひと指ぶんあたたかかった。昨日も感じた温度だった。病者に触れたわけでもないのに、あたたかかった。
「ニーナにも、言われました」
メリルはふっと、口元をほどいた。
「お声が、はずんでいる、と」
「嬢ちゃんは、よく見てるね」
マーサは竈の脇のニーナを、ちらと見た。ニーナが湯気の椀を抱えて、はにかんだ。
「あの。わたし、メリルさまの、はずんだお声、好きです」
ニーナの声がひと粒、明るんだ。
「お屋敷では、ずっとしずかなお声でしたから」
メリルはその言葉にひと度、目を伏せた。伏せた目の裏に、屋敷の十八年が薄く過ぎた。誰にも聞かれなかった、しずかな声。
ここでは、その声がはずんでいるという。はずんでいる、と二人が言ってくれる。
「マーサさん」
メリルは椀を握り直した。
「白鳩の家、という名前。今朝、ふいに浮かんだんです」
「ふいに」
「ええ。なぜその名が浮かんだのか、自分でも不思議で」
メリルはひと度戸口のほうを見た。戸の隙間から、白い鳥の背が薄く見えた。
「軒に鳩がいたから——そう言えば、それまでなんですけれど」
「けれど?」
「……どこかで、聞いた気がするんです」
メリルは椀の湯気をひと度見た。
「その名を。ずっと前に、どこかで」
マーサはひと度その横顔を見た。見た灰色の目が、ふっと遠くなった。
「あたしも、さっき、そう言ったね」
「ええ」
「ふたりして、聞いた気がするって。妙な話さ」
「妙な、話です」
二人はひと度、黙った。黙った間に、竈の火がぱちりと爆ぜた。爆ぜた音が、狭い院の中にひと粒落ちた。
メリルはその音を、闇の中で聞いた。
——どこで、聞いたのかしら。
胸の奥をいくら探っても、答えは出なかった。屋敷の記憶にも治療院の記憶にも、その名はなかった。なのに馴染んでいる。まるで、生まれる前から知っていたように。
メリルはその淡い不思議を、もう一度胸の隅に置いた。置いて、それ以上は追わなかった。追ってもわからないことだと、わかっていた。
「まあ、いいさ」
マーサがひと度白湯をすすった。
「名なんてものは、しっくりくれば、それでいい」
「しっくり、くれば」
「ああ。理屈じゃない。あんたの胸がその名でいいと言うなら、それでいいのさ」
マーサの声が低く、確かだった。
「白鳩の家。——北辺によく合う名だ」
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは、こっちさ」
マーサはひと度戸口のほうを見た。
「この町に、帰れる場所がひとつ増えた」
言って、マーサは白湯を飲み干した。飲み干して、欠けた椀をそっと床に置いた。
「これからの冬、この軒に何人が帰ってくるかね」
メリルはその言葉を胸に落とした。落ちた言葉が、思いのほか深いところで止まった。
——この軒に、何人が帰ってくるか。
昨夜は、ひとり看取った。戻せなかった命が、ひとつあった。けれど、これから先。この軒の下に、何人が帰ってくるだろう。帰ってきた者を、何人春へ渡せるだろう。
メリルはひと度戸口の白い鳥を見た。鳥はまだ、軒の下にいた。
嵐の夜にも軒へ帰る、白い鳥。その鳥のいる家に、いま名前が灯った。
「マーサさん」
「なんだい」
「春まで、誰も死なせずに渡れたら」
メリルはひと度、マーサを見た。
「そのときに、もう一度お茶を差し上げます。白鳩の家で」
マーサはひと度その目を見た。見た灰色の目が、ふっとやわらいだ。
「……約束だね」
「ええ。約束です」
「いいだろう」
マーサはぶっきらぼうに立ち上がった。立ち上がって、戸口のほうへ歩いた。
「だが、その前に冬を越さなきゃいけない。今年のは、重いよ」
「ええ。わかっています」
「草は大事に使いな。半量から、薄く」
「半量から、薄く」
メリルはその言葉を繰り返した。繰り返した声がひと粒、確かだった。
マーサが戸を引いた。引いた戸の向こうに、雪のやんだ朝の白がまぶしく開いた。開いた白の中で、軒の鳥がひと度羽をふるわせた。
マーサは敷居をまたぎかけて、ひと度立ち止まった。立ち止まって、軒の鳥をもう一度見上げた。
「……白鳩の家」
マーサが低くつぶやいた。つぶやいた声に、ふだんにないひと粒の遠さがあった。
「いい名だ」
言い終わると、マーサは敷居をまたいだ。またいで、坂を雪を踏んで下りていった。
下りていく背を、メリルはひと拍見送った。見送ったメリルの隣で、ニーナが戸口に立っていた。
「メリルさま」
「なあに」
「白鳩の家。……いいお名前です」
「ええ。わたしも、そう思うわ」
メリルはひと度軒の鳥を見上げた。鳥は丸い目で灰色の軒を見ている。まるで、この軒が自分の帰る場所だと知っているように。
「ニーナ」
「はい」
「これから、この家にたくさんの人が来るわ。咳の子も、熱の子も」
「ええ」
「みんな、ここへ帰ってこられるように。白鳩みたいに」
メリルはひと度、戸口の桟に手を添えた。添えた手の下、桟の木が朝の光をやわらかく返した。
「そういう家に、しましょうね」
言った声が、はずんでいた。屋敷では十八年、出なかった声だった。
その夜。
メリルは薬棚の前に、ひとり立った。立った手の下で、和紙の角の凹みが指の腹に触れた。その凹みは、いつもメリルの指の幅と同じだった。
昨夜は、その幅がひどく頼りなく感じられた。けれど今夜は違った。今夜は、その凹みがひと粒あたたかく感じられた。
メリルはひと度その凹みを指でなぞった。なぞった指先が、ふと止まった。
——この凹みを残した人も。
昨夜、そう思ったのを思い出した。この凹みを残した人も、ここで誰かを看取っただろうか。
そして、ふともうひとつの問いが浮かんだ。
この凹みを残した人は——この家を、なんと呼んでいたのだろう。
問いの直後、メリルはひと度息を止めた。
白鳩の家という名を、自分はついさっきつけたばかりだった。誰に教わったのでもなく、軒の鳥を見て舌の上にすっと載った名。
もしこの凹みを残した人が、この家を別の名で呼んでいたのなら。あるいは——同じ名で。
考えかけて、メリルはそこで思考を止めた。考える筋道がどこにもなかった。ただ指先の下の凹みが、いつもよりほんの少し近いものに感じられた。
メリルはその問いに、答えを持たなかった。持たないまま、ひと度戸口のほうを見た。
戸の隙間から、闇が見えた。闇の中で、白い鳥が軒の下に身を縮めていた。
嵐の夜にも軒へ帰る、白い鳥。その鳥の名を、メリルは知らずにこの家に与えた。なぜその名がしっくりくるのか、わからないまま。どこかで聞いた気がする——それだけを胸の隅に残して。
メリルはひと度目を閉じた。閉じた目の裏で、白鳩の家という名が静かに灯った。灯った名が、まるでずっと前からここにあったように。
メリルはその灯りを両の手のひらに抱いて、眠りについた。眠りの底で、戸を打たない静かな雪の夜が更けていった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第十三話「白鳩の家」をお届けしました。前話の看取りの夜に灯った、まだ声にならなかった言葉——その言葉が、今話で、この場所の名前になりました。
メリルは、軒に帰ってきた白い鳥を見て、廃院に「白鳩の家」と名を与えます。嵐の日にも軒へ帰る鳩のように、誰もが帰ってこられる場所であってほしい——その願いを、メリル自身は、はっきりとは言葉にしていません。ただ、ニーナが「誰かが帰ってこられるお家、っていう感じ」と言い当ててくれます。
そして、メリルもマーサも、この名を「どこかで聞いた気がする」と感じます。なぜしっくりくるのか、自分でもわからないまま。——この淡い不思議が、いつか、ひとつの真相へとつながっていきます。今は、その正体を、わたしも、メリルと一緒に、胸の隅に置いておくことにします。
屋敷では蓋をされていたメリルの素の明るさが、雪の軒の下で、ふっと顔を出す回でもありました。鳩にごはんを差し上げ、客にお茶を出し、いたずらっぽく笑う——そんな十八の娘の顔を、書いていてとても嬉しく思いました。日陰で生きてきた手が、帰れる場所を灯していきます。
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