第19話: 聖癒という名
手のひらが、また熱を量り当てた。今朝になって、坂を上ってきた三人目だった。
六つの子の額の下で、肌が乾いて火照っている。きのうの晩からだという。
メリルは指を首筋に滑らせ、脈を数えた。速い。けれど、それより藁を見て息が止まった。
藁の上が、もう空いていなかった。
竈の脇に四人。壁際にふた組の母子。床几のそばに、咳の止まらぬ老人がひとり。
白鳩の家の土間に、これほど人を寝かせた夜はなかった。湯気と汗と薬草の匂いが、ひとつに混じって籠もっている。
「メリルさま。藁が、もう」
「ええ。わかっているわ。詰めて寝かせましょう。手前のおふた方を、もう半身ずつ寄せて」
「はい」
「それから、ニーナ。湯布を、もう一枚」
「はい。……あ、もう、絞ったぶんがございません」
「では、絞り直して。手前のおふた方から先に」
「かしこまりました」
ニーナの返事が、いつもよりひと拍遅れた。この子も夜通し動いている。
メリルは六つの子の胸に手のひらを当て、息の音を聴いた。
湿った笛の音が、薄く底にある。雪の草を半量、甘草とあわせて煎じた。匙で飲ませる。湯布を当て、手を添えて聖癒をそっと流した。
力が、ひと匙ぶん抜けた。子の頬に、わずかに血の色が戻る。
ひとつ越えた。けれど、まだ六人いる。手のひらが、そう数えていた。
昼前に、マーサが坂を上ってきた。
いつもの麻袋は担いでいない。代わりに、本通りの若い女をふたり連れていた。
「先生。本通りはもう、寝てる者のほうが多い」
戸口で雪を払いもせず、マーサは言った。
「井戸の向かいの一家は、親まで倒れた。手が足りん。だから、これを連れてきた」
「マーサさん。助かります」
「礼はいい。湯を沸かす手と、布を絞る手だ。使ってやんな」
ふたりの女が、おずおずと土間に入った。看護は知らない。けれど湯と火と布なら回せる。それだけで、メリルの手はひと回り軽くなった。
「あなたは竈を。あなたは、湯布の取り替えを。お湯の熱さは、手の甲で測ってください」
メリルは手早く割り振った。屋敷の十八年で、こんな号令を出したことはない。けれど、いまは出さねば回らなかった。
マーサが、その様子を灰色の目で見ていた。
「あんた、人を使う顔つきになってきたね」
「……そうでしょうか」
「ああ。さっきの割り振り、無駄がなかった」
「屋敷では、人に何かをお願いすることなど、ありませんでしたから」
「だろうね。けど、ここじゃ違う。あんたが頭だ。遠慮してたら、誰も動けないよ」
「……はい。覚えておきます」
女たちが動き出すと、土間に手の数が増えた。
メリルは六つの子の隣に膝をついた。奥の草を子供向けに薄めた薬を、もうひとりの幼子に飲ませる。帳面の加減のおかげだ。本通りの草の三分の一に煎じ薄めて——あの一行がなければ、いま頃とうに草が尽きていた。
「マーサさん。本通りの草は」
「底だよ。あたしの梁も、もう茎しか残ってない」
「町の蔵は」
「ご領主が回してくれてる。けど、それも見えてきた」
マーサの声が、低く沈んだ。
草が、見えてきた。
その言葉を、メリルは手のひらで受け止めた。
坂を上ってくる病者は、日に日に増える。けれど草には底がある。聖癒も、底がある。両方が、同じ速さで減っていく。
「先生」
マーサが、節くれ立った手をメリルの肩に置いた。
「いいかい。あんたが倒れたら、おしまいだ。それだけは、忘れるんじゃないよ」
「はい」
メリルは答えた。けれど、その「はい」が、いつもより薄いことに、自分でも気づかなかった。
昼を過ぎて、坂の下から馬の蹄が聞こえた。
ガレスだった。毛皮の外套に雪を乗せている。もうひとり、灰色の長衣の男を伴っていた。痩せた年嵩の男だ。胸に銀の小さな印を下げている。
「メリル殿。手が足りているか」
「足りません。けれど、回ってはおります」
「正直でいい」
ガレスは土間を見渡し、長衣の男を振り返った。
「巡回の途中で、坂の下で行き合った。聖光の教会から、北辺の様子を見に来た方だ」
「ハーロウの癒し手か」
長衣の男が、低く言った。
値踏みするような目ではなかった。むしろ、確かめるような目だった。
「噂は、谷の村でもその先でも聞いた。冬籠りの熱をひとりで押さえている娘がいると」
「ひとりではありません」
メリルは、繕わずに言った。
「マーサさんが人手を、ガレス領主さまが草と薪を。皆さんの手があって、回しております」
「ほう」
男の目が、わずかに動いた。
男は土間に入り、寝かされた病者をひとつずつ見ていった。
メリルが薄めた奥の草の匂いを嗅ぎ、煎じ薬の色を見て、ひとつうなずいた。
「加減が、いい。強い草を、よく子供に合わせた」
「古い処方が、残っておりましたので」
「処方だけでは、この色は出ぬ」
男は、メリルの手のひらに目を落とした。
「あんた、聖癒を使うな」
問いではなかった。見抜いていた。
「……はい。薬の届かぬところに、手を添えるくらいは」
「くらい、ではあるまい」
男は、寝ている六つの子の頬を見た。先ほど血の色の戻った頬を。
「この子の戻り方は、薬と看護だけのものではない。深い手だ。教会で記録を司ってきたから、わかる」
メリルは、答えに詰まった。
深い手。マーサもニーナもガレスも、同じことを言う。けれど、なぜ深いのかは誰も言わない。
「お役に立っているなら、それでいいのです」
メリルは、そう答えた。それ以上は、自分でも言いようがなかった。
「教えてください」
メリルは、思わず口にしていた。
「聖癒というのは……どなたにでも、宿るものなのでしょうか」
長衣の男は、ひと呼吸、間を置いた。
竈の薪が、ぱちりと爆ぜた。
「いや」
短く、男は言った。
「聖癒は、誰にでも宿るものではない。血に宿る力だ」
「血に」
「そうだ」
男は、銀の印を指でなぞった。
「古い疫病の時代に聖癒の血を継ぐ者がいて、王国を病から救った。以来、その血は尊ばれてきた。いまも聖癒を宿すのは、ふたつの血筋だけだ」
「ふたつ」
「王家と——」
男は、メリルを見た。
「レイクハートの、公爵家だ」
メリルの手のひらが、湯布の上で止まった。
レイクハート。自分の育った家の名だった。
「その直系の者にだけ、力は受け継がれる。傍流には薄れ、遠縁にはまず宿らぬ」
男は、淡々と続けた。
「血を持たぬ者は、どれほど祈っても聖癒は発現せぬ。これは、教会が長く記してきたことだ」
遠縁には、まず宿らぬ。
その一言が、メリルの胸の真ん中に、冷たく落ちた。
わたしは、養女だ。
遠縁のどこかの血だと、ずっと聞いてきた。
それなのに、わたしの手は、深く効く。男が「ふつうの薬と看護だけのものではない」と言うほどに。
血を持たぬ者には、宿らぬ。けれど、わたしには宿っている。
メリルは、自分の手のひらを、そっと裏返した。
「ご領主さま」
メリルは、声を抑えて言った。
「わたしは……レイクハート家の、養女です」
「知っている」
ガレスが、短く答えた。
「ならば、わたしの聖癒は、どこから来たのでしょう」
ガレスは、すぐには答えなかった。濃い灰の目が、メリルをひと度、まっすぐに見た。
「さあな。それは、私の知ることではない」
長衣の男が、横から口を挟んだ。
「遠縁にも、ごく薄く、血の名残が流れることはある」
「名残」
「ああ。だが——」
男は、言葉を切った。それから、もう一度メリルの手のひらを見て、少し声を落とした。
「名残にしては、あんたの手は、深すぎる」
深すぎる。
ニーナが、横で湯布を絞る手を止めていた。心配そうに、メリルを見上げている。
メリルは、できるだけ静かに笑った。
「きっと、遠縁にも流れていたのですね。薄くても、わたしのところまで」
「メリルさま」
「いいの、ニーナ。いまは、それでいいの」
言葉にしてみると、自分でもあまり腑に落ちなかった。けれど、ほかに収めようがなかった。
薄くても、わたしのところまで。
そう言いながら、メリルは胸の奥で、別の声を聞いていた。
——薄い名残で、これほど深く効くだろうか。
帳面の一行が、また頭をよぎった。われに宿る聖癒は、人より深い。血ゆえに。
帳面を書いた人も、人より深かった。そして、その人の指は、わたしの指と同じ幅だった。
偶然が、また、ひとつ重なった。
長衣の男は、それ以上は言わなかった。
病者の様子をもうひと回り見て、ガレスに何ごとか低く告げ、坂を下りていった。去り際、メリルに向かって、半分の高さで手を上げる。北辺の作法ではない。もっと古い、ひと礼のような上げ方だった。
「いい手だ。大事にしなさい。あんたの手は、北辺の宝だ」
その言葉だけが、男の去った戸口に残った。
男が下りたあと、ガレスが土間に立ったまま言った。
「メリル殿。聞いたな」
「はい」
「聖癒は術者の身を削る。あの男もそう言っていた。連日重ねれば、術者みずから倒れると」
帳面と、同じことだった。ゆめ、おのれの底を見誤るな。
「わかっております」
「わかっている顔ではないな」
ガレスは、めずらしく、ひと言多く言った。
「あんたはいま、坂を上る者を全部、自分で越させようとしているな」
「……はい」
「それが、わたしの仕事です」
「ひとりで、すべてをか」
「ええ。手の届く限りは」
「だが、あんたが一日にできる聖癒には底がある。その底を、もう越えかけているのではないか」
メリルは、答えなかった。
答えられなかった。今日、自分が何度手を添えたか、もう数えていなかったからだ。
「人と物を動かすのは私の仕事だ。あんたは自分の底を守れ。それも差配のうちだ」
ガレスは、それだけ言って、坂を下りていった。
日が傾くと、坂を上る足音は、いっそう増えた。
本通りからふた組。谷へ続く道からひと組。母が子を背負い、兄が弟の手を引いて、雪を渡ってくる。
メリルは、ひとりずつ問診し、触診した。薬を煎じ、湯布を当て、手を添える。
手を添えるたびに、力がひと匙、またひと匙と抜けていく。けれど止められなかった。目の前で子が苦しそうに息をしている。止まれるはずがなかった。
夜が更けて、ようやく病者がみな眠りについた頃。
メリルは薬棚の前に立とうとして、指先が、すっと冷たくなるのを感じた。
立ちくらみだった。竈の橙が、ひと瞬、左右に揺れた。
メリルは棚に手をついて堪えた。湯布を取ろうとした手が、わずかに震えている。自分の手が、自分の言うことを半拍遅れて聞く。
「メリルさま」
ニーナが、すぐ後ろにいた。
「お顔の色が、ありません」
「……少し、立ちくらんだだけよ」
「立ちくらみ、ではございません」
ニーナの声が、めずらしく強かった。
「擂り粉木の握りが、いつもと違います。お手が震えておられます。それに——熱い」
ニーナは、メリルの手のひらを、両手で包んだ。
その小さな手のひらが、メリルの手の熱を、まっすぐに量り当てた。
「メリルさま。お熱が、おありです」
「……そんなはずは」
「ございます。わたし、メリルさまのお手の温度を毎日量っております。今日のお手は、いつもよりふた指ぶん熱うございます」
ふた指ぶん、深い熱。
それは、いつも自分が病者の額で量ってきた言葉だった。それを、いま自分が量られている。
メリルは、ニーナの手の中で自分の手を見下ろした。聖癒を使う手だ。深く効くと、誰もが言う手だ。
その手が、いま、ひとりの病者のように熱を持っていた。
「ニーナ。これは、お熱ではないの」
メリルは、努めて静かに言った。
「ただ少し力を使いすぎただけ。ひと晩休めば戻るわ」
「ほんとうに、ございますか」
「ええ。ほんとうよ」
言いながら、メリルは胸の中で、帳面の一行を聞いていた。連日重ねれば、術者みずから床に伏す。
わかっている、と前の晩は答えた。わたしは自分の底を知っている、と。
けれど、いまの手は、その答えが過信だったと告げていた。
メリルは、ニーナを先に休ませた。
毛糸のさやを両手にはめた小さな寝姿を見届けてから、ひとり、薬棚の前に座った。
草の束を、もう一度数える。本通りの草はわずか。北辺路の草もわずか。奥の草がいちばん残っている。けれど、それもあと幾日もつか。
手のひらが、自分の残りの力を数えようとした。けれど数えきれない。今日、自分が何匙ぶん使ったか、わからなくなっていた。
それが、いちばん怖いことだった。
戸の外で、風が変わった。
軒を鳴らす音が、昼までと違っていた。低く、重く、長い。雪を運ぶ風ではない。雪を横なぐりに叩きつける風の音だった。
メリルは、戸の隙間から外を見た。
松林の梢が、闇の中で大きくしなっていた。坂の下の家並みの灯りが、雪の幕の向こうでにじんで消えかけている。
吹雪が、来る。
白い鳥は、もう軒にいなかった。嵐の前に、どこかへ身を寄せたのだろう。
メリルは、藁に眠る病者たちを見た。六つの子。咳の老人。母子のふた組。みな浅い息で眠っている。
もし、この吹雪のいちばん深い夜に、奥の集落の重い熱が、本通りまで下りてきたら。
もし、坂を上ってくる病者が、今日の倍になったら。
わたしの手は、そこまで、もつだろうか。
メリルは、熱を持った自分の手のひらを胸の上で握った。
ガレスの言葉が、闇の奥で鳴っていた。あんたが倒れれば、誰も救えん。
マーサの言葉も。あんたが倒れたら、おしまいだ。
帳面の言葉も。ゆめ、おのれの底を見誤るな。
みな、同じことを言っている。それなのに、止まれない。目の前に息の苦しい子がいる限り、わたしの手は止まれないのだ。
風が、ひときわ強く軒を打った。
竈の火が、すきま風にあおられてぐらりと傾いだ。メリルは火を起こし直し、薪をひとつ足した。手が、まだ震えていた。
戸の外で、雪を踏む足音はもう聞こえない。この嵐では、坂を上れる者もいない。今夜だけは、新しい病者は来ないだろう。
けれど、と手のひらが告げた。
嵐がやんだとき。その朝、坂の下に、何人の病者が立っているだろう。
メリルは、藁に横になった。
病者たちの浅い呼吸が、闇に重なっている。そのひとつひとつを、明日も、明後日も、越させなければならない。
自分の血が、どこから来たのか。なぜこの手が、これほど深いのか。その問いは、いまは置いていい。いま大事なのは、この嵐の向こうにいる、見えない病者たちだ。
けれど、置いたはずの問いは、熱を持った手のひらの底で、まだ静かに鳴っていた。
血に宿る力。直系の者にだけ。遠縁には、まず宿らぬ——。
眠りに落ちる手前で、メリルはもう一度、外の風の音を聞いた。
いちばん重い夜が、もう坂の下まで、来ている。
その夜を、自分の熱を持った手で、越えられるかどうか。わからなかった。
わからないまま、メリルは、深い闇に身を沈めた。
軒の外で、吹雪が、白鳩の家を、ひと晩じゅう叩いていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第十九話「聖癒という名」をお届けしました。冬籠りの熱が、ついに集団の危機へと膨らんでいきます。白鳩の家も本通りも、寝ている者のほうが多い——そんな冬が、辺境ハーロウを覆い始めます。
そして、坂を巡回してきた教会の聖職者の口から、聖癒という力の正体が語られます。聖癒は、誰にでも宿るものではない。王家と、レイクハート公爵家——そのふたつの血筋の、直系の者にだけ受け継がれる力なのだと。遠縁には、まず宿らない、と。
メリルは「養女」です。遠縁の血だと聞かされて育ちました。それなのに、彼女の手は、誰もが「深すぎる」と言うほどに効く。読者のみなさんは、もう、その理由をお察しかもしれません。けれどメリル自身は、それを「薄くても、流れていたのですね」としか収められません。腑に落ちないまま、それでも目の前の病者のために、手を止められないのです。
そしてメリルは、いま、自分の底を見誤り始めています。手の震え、立ちくらみ、夜の熱——聖癒を使いすぎた者を待つ、避けられない代償です。
次話、いよいよ第一巻のクライマックス。吹雪の峠の、いちばん重い夜がやってきます。倒れかけるメリルを、辺境で結んだ絆が支えられるのか。どうか、見届けてください。
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