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十八年前の赤子の取り違え——婚約破棄された「養女」が、公爵家のただ一人の正統な令嬢だと判明した日  作者: 歩人


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第20話: 白鳩、嵐の日に

 戸が、外から殴られた。


 風ではなかった。人の拳だった。雪をまとった男が子を抱いて土間へ倒れ込んでくる。


 メリルの手のひらが、抱かれた子の額に触れた。火を当てられたように熱を量り当てた。




 吹雪がいちばん深い夜だった。


 軒が低く鳴っている。風が雪を横なぐりに叩きつけ、戸の板を内へ押そうとする。竈の火が何度も傾いだ。


 白鳩の家の土間に、もう寝かせる場所はなかった。


 藁の上に四人。竈の脇に母子のふた組。床几のそばに咳の老人。壁際に、さっき運び込まれた子とその父親。みな浅い息で眠るか、うわごとを言うかしている。


「先生」


 男が、雪の融けた頬を震わせて言った。


「本通りが家ごと倒れて。坂を上れる者はみんなこっちへと。ご領主が、白鳩の家へ運べと」


「ええ。よくいらっしゃいました」


 メリルは、子を父の腕から受け取った。


「ここは帰る場所です。さあ、お入りなさい」




 今夜だけは坂を上れる者はいない——昨夜はそう考えていた。けれど違った。嵐だからこそ本通りの家々が立ちゆかなくなり、人は雪を分けて軒へ向かってくる。


 白鳩の家は、嵐の夜に帰る場所になっていた。なぜその名を付けたのか、自分でもうまく言えない。けれど今夜、その名が形を持って戸口に立っている。雪まみれの人が、その軒の下へつぎつぎと帰ってくる。




「ニーナ」


「はい、ここにおります」


「壁際の藁を、もうひと並び。竈の灰を火桶へ移して」


「かしこまりました」


 ニーナの返事に淀みはなかった。


 毛糸のさやをはめた小さな手が、灰を桶へ移し、湯を温め直す。十四の娘が夜通し動いて、まだ折れていない。


 メリルは、運ばれた子の胸に手のひらを当てた。湿った笛の音が底にある。


「雪の草を半量、甘草とあわせて」


「もう火にかけております」


 ニーナが先回りして、煎じ鍋を竈に据えていた。




 ひとり、越させた。


 子の頬に血の色が戻り、息の笛がやわらいだ。手のひらが、力のひと匙抜けるのを数える。


 けれど、隣にもうひとり。さらに隣にも。


 メリルは膝で土間を渡り、つぎの病者の額に手を置いた。脈を数えた。薬を煎じた。湯布を当てて手を添えた。添えるたびに力がひと匙ずつ抜けていく。


「メリルさま、こちらのお方は」


「脈が浅いわ。先に湯で温めて。薬はそのあと」


 数えるのをやめていた。今夜、何度この手を添えたか。もう、わからなくなっていた。




 戸が、また鳴った。


 今度は拳ではない。低く重い人の声だった。


「メリル殿」


 ガレスだった。毛皮の外套に雪を山のように積んでいる。背にひと抱えの麻袋を負っていた。後ろから本通りの男が三人、薪と桶を担いで続く。


「町の蔵を空けてきた。乾物と薪と布だ」


「ご領主さま——こんな嵐の中を」


「馬は坂の下に置いた。あとは人の足で運ぶしかない」


 ガレスは、雪を払いもせず麻袋を土間へ下ろした。


「布はどこに置く」


「竈の脇へ。乾いた布から先に使いますので」


「薪は」


「戸口の内に。濡れた薪は燃えませんから、いちばん竈に近いところで乾かして」


「本通りは私とマーサが回している。動ける者はここへ集めた」


「人手を、こんな夜に」


「冬を越すのは、いつも我々の手だけだ。前にそう言ったな」


 ガレスは、土間に並ぶ病者をひと目で数えた。


「いま何人だ」


「九人。あとふたり、坂の下に残っております」


「では、それも運ばせる。——あんたは、手を動かすことだけ考えろ。あとは私が回す」




 手を、動かすことだけ。


 その言葉が、メリルの背をまっすぐに支えた。


 屋敷の十八年、誰もこんなふうに言ってはくれなかった。出すぎるな、と言われ続けた。分をわきまえろ、と。


 ここでは逆だった。手を動かせ、と言われる。あなたの手が要る、と。


「はい」


 メリルは答えた。短いその一言に、屋敷で言い続けた「はい」とは別の熱がこもっていた。




 夜が、底へ向かって深まっていく。


 マーサが坂を上ってきたのは、それから間もなくだった。本通りの女を四人、雪の中から束ねて連れてきた。


「先生。本通りの動ける手は、これで全部だ」


 マーサは、戸口で雪を払いもせず言った。


「湯を沸かす手、布を絞る手、子をあやす手。看護は知らんが、言われたことはやる。使ってやんな」


「マーサさん。……助かります」


「礼はいい。あんたが頭だ。号令を出しな」


「わたしが、頭」


「ああ。誰をどこに置くか——それを決められるのは、あんただけだ。さあ言いな」




 メリルは、立ち上がった。


 立ちくらみがひと瞬、竈の橙を左右に揺らした。けれど堪えた。いま倒れるわけにはいかない。


「あなたとあなたは竈を。お湯の熱さは、手の甲で測ってください」


 声が土間を渡った。


「あなたは湯布の取り替えを。熱い湯布は、まず手首に当ててから。あなたは水を。熱の子には薬より先に水を。乾いた体は、薬を受け取れませんから」


「先生、咳のおじいさんは」


「いちばん奥へ。隙間風の当たらないところに」


 言いながら、メリルは胸の奥でひとつの声を聞いていた。


 ——熱の子には、薬より先に水を。乾いた体は、薬を受け取れぬゆえ。


 あの帳面の一行だった。書いた人の言葉が、いま自分の口から号令になって出ていく。




「メリル先生は、人を使う声になったね」


 マーサが、低くつぶやいた。


「屋敷ではありませんでしたから。人にお願いすることが」


「いまは違う。あんたの一声で十の手が動く。それが頭の仕事だ」


「……はい。覚えておきます」


 マーサの灰色の目がひと度やわらいだ。それから外の雪へ向き直った。


「あたしは坂の下へ戻る。運ぶ手が要る。先生、ここは頼んだよ」


「マーサさん。坂は足元が」


「心配いらないさ。あんたより、雪には慣れてる」


 マーサは口の端だけで笑って、吹雪の中へ出ていった。




 手が、増えた。


「竈はわたしとあんたで」


「湯布、こっちふたりでやるよ」


「水はあたしが。先生、桶はどこだい」


「炉のそば。汲んだら、ぬるめてからお持ちください」


 声と声が土間で交わされ、持ち場が決まっていく。竈に二人。湯布に二人。水に一人。子をあやす手がふたつ。


 白鳩の家の土間が、十の手で回り始めた。メリルは、その真ん中で膝をついた。


「先生、この子の湯布は」


「替えどきです。手首で熱さを測ってから」


 ひとりずつ問診し、触診し、薬を煎じ、手を添える。女たちは看護を知らない。けれど湯と火と布なら回せる。それだけでメリルの手は、病者ひとりずつに深く割けるようになった。




 奥の草を、子供向けに薄めて煎じる。本通りの草の三分の一に薄めて——帳面のあの一行がなければ、いま頃とうに草は尽きていた。


「先生、粥が炊けたよ。乾物を足したから滋養が出てる」


「ありがとうございます。熱の子には、ひと匙ずつ冷ましてから」


 ガレスが空けた町の蔵の乾物が、滋養の粥になる。マーサが束ねた手が湯を絶やさない。ニーナが、夜半に熱の上がる子の隣を離れない。


 公爵領の草も人手も、王都の名のもとに断たれた。けれど断たれた糸の代わりに、辺境で結んだ手が白鳩の家を囲んでいた。その手が、いま回している。王都の届かない手で。


「メリルさま、あと何人でございましょう」


「越えていないのは、三人。壁際の子と、咳のおじいさんと、奥の母子の上の子」


「お薬は足りますか」


「ええ。帳面の加減のおかげで、夜明けまでは保ちます」




 深夜をふた刻ほど過ぎた頃。


 メリルは薬棚の前へ立とうとして、足がすっと床から離れる感覚を覚えた。


 立ちくらみではなかった。床のほうが傾いだのだ。竈の橙が、ぐるりと右へ流れた。


 とっさに棚へ手を伸ばした。けれど、その手が棚の縁を半拍遅れて掴んだ。


 自分の手が、自分の言うことを半呼吸遅れて聞いている。




「メリルさま」


 ニーナの声が、ずっと遠くから聞こえた。


 メリルは棚に縋ったまま、目を開けていようとした。けれど視界の縁が薄く白く溶けていく。雪のように。


 手のひらに何かが触れた。ニーナの小さな両手だった。


「お手が、燃えるようでございます」


 ニーナの声が、めずらしく強かった。


「これは立ちくらみではございません。お熱です。ずっと、ございました」




「……まだ、できるわ」


 メリルは棚を支えに、膝で立ち直そうとした。


「あと三人。壁際の子と、咳のおじいさんと——」


「いけません」


 ニーナが、メリルの手のひらを両手で握りしめた。


「いま手を添えれば、メリルさまが倒れます。底が、もうございません」


「ニーナ」


「わたし、毎日メリルさまのお手の温度を量っております」


 ニーナの茶色の目に涙が盛り上がっていた。けれど、こぼれなかった。


「今日のお手は、いつもの病者さまよりずっと熱うございます。ふた指ぶんではございません。三指ぶんでございます」




 三指ぶん、深い熱。


 それは、いつも自分が病者の額で量ってきた言葉だった。それを、いま自分が量られている。


 メリルは、ニーナの手の中で自分の手を見下ろした。聖癒を使う手だ。誰もが「深すぎる」と言う手だ。


 その手が、いまひとりの病者のように燃えていた。


 帳面の一行が頭をよぎった。連日重ねれば、術者みずから床に伏す。ゆめ、おのれの底を見誤るな。


 わかっている、と前の晩は答えた。わたしは自分の底を知っている、と。


 その答えが、過信だった。床に伏すのは、いまわたしだった。




「でも、ニーナ。壁際の子が」


 メリルは、それでも食い下がった。


「あの子は、まだ越えていないの。手を添えなければ、夜のうちに——」


「メリル殿」


 低い声が、土間の奥から割って入った。


 ガレスだった。雪を肩に積んだまま戸口に立っていた。いつから、そこにいたのか。


「あんたは、いま倒れかけている」




「ご領主さま。けれど」


「けれど、ではない」


 ガレスは、土間を渡ってメリルの前に膝を折った。長身の領主が土間に膝をつくのを、メリルは初めて見た。


「あんたが最後の一匙を絞り出して、壁際の子を越させたとする。そして、あんたが倒れる」


 ガレスの濃い灰の目が、まっすぐにメリルを見た。


「明日の朝、坂の下にまた病者が並ぶ。あんたは起きられない。明日の病者は、誰が越させる」


 メリルは、答えられなかった。




「あんたという手は、この冬の北辺でいちばん高い駒だ。前にも言った」


 ガレスは、声をわずかに落とした。


「いちばん高い駒を、今夜の一手のために安く使い潰すな。それは勇気ではない。差配の失敗だ」


「……壁際の子を、見捨てろと」


「見捨てろとは言っていない」


 ガレスは立ち上がった。そして、後ろを振り返った。


「ニーナ。あんたは壁際の子の隣につけ。水をひと匙ずつ。夜半に熱の上がる子はひとりにせぬこと——だろう。帳面に、そう書いてあったと聞いた」




 メリルの手のひらが、ニーナの手の中で止まった。


 夜半に熱の上がる子は、ひとりにせぬこと。


 それは、聖癒の手でなくてもできることだった。水と、そばにいる手があれば。怖さが熱を高めるなら、そばにいることが熱を下げる。


 あの帳面の人も、聖癒だけで人を救ったのではなかった。水とそばにいる手と、夜を一緒に越える者がいて、初めて人は峠を越える。


「ニーナ」


 メリルは、声を絞った。


「壁際の子をお願い。水をひと匙ずつ。手を、握っていてあげて」


「はい」


 ニーナの目から、ついにひと粒だけこぼれた。それを拭いもせず立ち上がった。


「メリルさまのお手の代わりは、わたしの手で。……いってまいります」




 メリルは、藁の上に横たえられた。


 ガレスが外套を脱いで、メリルの上にかけた。雪のにおいのする重い毛皮だった。


「あんたは休め。それも差配のうちだ」


「ご領主さま。わたしは——」


「あんたが結んだ手が、今夜はあんたの代わりに回す」


 ガレスは、立ち上がった。


「ニーナが壁際の子のそばにいる。マーサと本通りの女が湯と布を回している。私と男たちが薪と物を運んでいる。あんたが屋敷の十八年で身につけられなかったものを、この冬の北辺で、たったひと月で手に入れたのだ」




 手に入れた。


 メリルは毛皮の下で、その言葉を聞いた。


 屋敷では何も持っていなかった。出すぎるな、と言われ、分をわきまえろ、と言われ続けた。自分は身代わりだ、いずれ退く身だ。そう思い込んで生きてきた。


 けれど、いまこの土間に、自分の結んだ手がある。


 ニーナの手。マーサの手。ガレスの手。本通りの女たちの手。誰も命じてここにいるのではなかった。みな、自分で坂を上ってきた。白鳩の家へ、雪を分けて。


 ひとりではない。


 その実感が、燃える手のひらの底で、熱とは別の温度になって灯った。




 メリルは、毛皮の下で目を閉じた。


 閉じても土間の音が聞こえた。湯の沸く音。布を絞る音。子をあやす低い声。ニーナが壁際の子に水を含ませる、匙のかすかな音。


 その音のひとつひとつが、自分の手の代わりに夜を越させていた。


 不思議だった。手を止めたのに、白鳩の家は止まらなかった。


 むしろ、自分が真ん中で抱え込んでいたあいだより、多くの手が回っていた。




 風が、ひときわ強く軒を打った。


 竈の火がぐらりと傾いだ。本通りの女のひとりがすかさず薪を足し、火を起こし直す。火は消えなかった。


 メリルは半ば眠り、半ば覚めたまま、その音を聞いていた。


 遠くで、壁際の子のうわごとが聞こえる。ニーナの声が、それに低く応えている。


「だいじょうぶ。だいじょうぶよ。ここにいるから」


 メリルの言葉を、ニーナが子に使っていた。


 わたしの言葉が、わたしの手を離れて、ニーナの口から子の枕元へ届いている。




 夜が、底を打った。


 いちばん寒く、いちばん暗い刻だった。風の音がひとつ、すうと低くなった。


 壁際の子のうわごとが、止まった。


 メリルは毛皮の下で目を開けた。手のひらが燃えている。けれど耳は、ちゃんと聞いていた。


 止まったのは息ではなかった。うわごとが止んだのだ。子が深い安らかな息に変わっていた。


「ニーナ」


 メリルは、起き上がろうとした。けれど、ニーナの声が先に届いた。


「越えました」




 ニーナの声が、喜びで震えていた。


「壁際のお子さまの息がすうすうになりました。お熱も引いています。……メリルさまのお手ではございません。お水と、わたしの手だけで」


「ほんとうに」


 メリルは、半身を起こした。


「ほんとうに、わたしの手では、ないの」


「はい。お水と、わたしの手だけで。……メリルさまの帳面の通りに」


 メリルは毛皮の下で、その言葉を聞いた。


 わたしの手では、ない。


 いつもなら、それは敗けの言葉だった。自分の手が届かなかった、という。


 けれど今夜は違った。


 わたしの手が届かなくても、この子は越えた。水と、ニーナの手で。わたしが結んだ手が、わたしの手の代わりに、ひとつの命を夜の向こうへ渡した。


 それは敗けではなかった。いちばん深い、勝ちだった。




 メリルは、毛皮を押しのけて身を起こした。


 まだ手は燃えている。視界の縁は薄く揺れている。けれど立てた。


 土間には、いくつもの安らかな息が満ちていた。さっきまで浅く苦しかった息が、ひとつ、またひとつと深い眠りの息に変わっている。


 越えていた。みな、峠を越えていた。


 メリルの手で越した者も、ニーナの手で越した者も。マーサの湯で温まった者も、ガレスの粥で力を取り戻した者も。


 白鳩の家の土間ぜんたいが、夜の峠を越えていた。




 戸の隙間から、薄い光が差し込んできた。


 メリルは戸口へ寄り、隙間から外を見た。


 吹雪が、やんでいた。


 松林の梢がしんと静まっている。雪の幕が消えて、坂の下の家並みが白くくっきりと見えた。空の東の端が、藍から淡い金へほどけかけている。


 夜が、明けていた。


 いちばん重い夜を、白鳩の家は越えたのだった。




 メリルは、戸をほんの少し開けた。


 冷たい朝の空気が、火照った頬に触れた。手のひらの熱が、その冷たさにすっと和らいだ。


 軒の下に、白い鳥がいた。


 嵐の前にどこかへ身を寄せていた、あの白い鳩だった。雪のやんだ朝、また軒へ帰ってきていた。


 メリルは、その小さな白を見た。胸の奥が静かに鳴るのを感じた。


 白鳩の家。嵐の夜にも、軒へ帰る場所。


 なぜその名を付けたのか、いまもうまくは言えない。けれど、その名のとおりのことがゆうべ起きた。雪まみれの人がみな、この軒へ帰ってきて夜を越えた。




「メリル殿」


 ガレスが、戸口に立っていた。


 外套をメリルに貸したまま、薄い上着ひとつで雪の朝に立っていた。けれど寒そうな顔はしていなかった。


「越したな」


「はい」


 メリルは、戸口の向こうの明け方の空を見た。


「越えました。みんなで」


「いや」


 ガレスは、首を横に振った。


「これは、私が救ったのではない」


 濃い灰の目が、まっすぐにメリルを見た。


「これは、あんたが救ったのだ。メリル殿。私はただ人と物を動かしただけだ。粥を炊いたのも薪を割ったのも、号令があってのことだ。土間ぜんたいを回したのはあんたの手だ」




 あんたが、救ったのだ。


 その言葉を、メリルは戸口で受け止めた。


 屋敷では誰も、こうは言わなかった。功はいつもソフィアお義姉さまのものだった。メリルの手が引かせた熱も、メリルの薬が癒した咳も、表に立つのはいつも別の人だった。


 けれどガレスは、功をメリルのものだと言った。横取りもせず、薄めもせず。


 メリルは、頭を深く下げた。横に並ぶ者への礼として。


「ありがとうございます。ご領主さま」


 それから、顔を上げた。




「けれど、わたしは庇われたのではありません」


 声が、自分でも驚くほど静かだった。


「外套を貸していただいて、休ませていただいて。けれど、誰かの庇護の下に休んだのではないのです」


 ガレスが、わずかに目を細めた。


「ほう」


「わたしは休みました。けれど——わたしが結んだ手が、代わりに務めてくれました。ニーナが、マーサさんが、ご領主さまが。わたしの号令で動いてくれたのです」


 メリルは、まだ熱を持つ手のひらを胸の前でひらいてみせた。


「庇われて生かされたのではありません。この手で、ここに居たのです」




 この手で、ここに、居た。


 言葉にしてみて、メリルは気づいた。自分が初めて、自分の居場所を自分の手で語ったことに。


 養女ですから、と謝りはしなかった。出すぎたことを、と退きもしなかった。


 わたしは、この手でここに居た。誰かの軒の下に庇われてではなく、自分が結んだ手の真ん中に。


 ガレスは、しばらく何も言わなかった。


 それから、口元をほんのひと粒だけゆるめた。


「いい言葉だ。覚えておこう」




 土間で、病者たちが目を覚まし始めた。


 壁際の子が、母親の腕の中でもぞりと身じろぎした。咳の老人がゆっくりと目を開けた。


「先生……生きとるのか、わしは」


「ええ。越えられましたよ。よく堪えてくださいました」


 母子のふた組が、浅くない息でまだ眠っている。みな、生きていた。ひとり残らず夜を越えて、朝の光の中にいた。


 ニーナが、壁際の子の枕元から立ち上がった。あかぎれの手で目をこすっている。


「ずっと、起きていたの」


「はい。匙が止まると、お熱が上がるような気がして」


 寝ずに、子のそばにいたのだ。


「メリルさま。……みなさま、越えられました」


「ええ。ニーナ。あなたの手が越えさせたのよ」


「いいえ。メリルさまの——」


「あなたの手よ」


 メリルは、ニーナの小さな両手を自分の手のひらで包んだ。


「ゆうべ、壁際の子の手を握っていたのはあなたの手。わたしのではないわ」




 ニーナが、目をまんまるにした。


 それから、くしゃりと顔を歪めた。今度こそ涙がこぼれた。けれど、それはゆうべの涙とは別のものだった。


「わたし、お役に立てましたか」


「ええ。誰よりも」


 メリルは、ニーナの手を握ったまま土間ぜんたいを見渡した。


「先生、粥はまだ煮えてるよ。起きた人から食べさせていいかい」


「ええ、お願いします。熱の引いた方から、ぬるめのものを少しずつ」


「湯はあとひと釜ある。布も乾いたのが積んであるよ」


「助かります。みなさんのおかげです」


 目を覚ました病者。湯を片づける本通りの女。薪を積み直すガレスの男たち。竈で、新しい粥がことことと煮えている。


 みな、自分の手でここに居る。誰も命じられてではなく。




 メリルは、土間の真ん中に立った。そのすべてに向かって言った。


 声は、もう震えていなかった。


「みなさん。ありがとうございます」


 病者たちが、母親たちが、本通りの女たちが顔を上げた。


 メリルは、まだ熱を持つ手のひらを胸の前でそっと握った。それから、その手を、見つめている人たちへひらいた。


「ゆうべはつらかったでしょう。熱がいちばん高くなる夜でした。けれど——」


 メリルは、ひと呼吸、間を置いた。


 竈の薪が、ぱちりと爆ぜた。


「痛いのは、ちゃんと治っていく証です」




 その言葉は、いつもひとりの病者へ向けたものだった。


 けれど、今朝は違った。


 夜を越えたすべての病者へ。子をあやした母たちへ。湯を絞った本通りの女たちへ。薪を運んだガレスの男たちへ。壁際の子のそばに、ひと晩いたニーナへ。


 そして——名も顔も知らぬまま、ひと冬ぶんの薪を軒の下に置いてくれた、誰かへ。


 メリルは、その全部に向かって、いちばん大切な言葉をひとつだけ置いた。


「痛いのは、ちゃんと治っていく証です。だから——よく堪えてくださいました。みなさん、よく生きてくださいました」




 土間が、しんと静まった。


 誰も、何も言わなかった。


 けれど、その静けさは安らかだった。明け方の光が戸口から長く差し込んで、土間の藁を淡い金に染めていた。


 壁際の子が、母の腕の中でぱちりと目を開けた。それから、メリルを見て、まだ少しかすれた声で言った。


「せんせい。……むね、もう、ちくちくしない」


「ええ」


 メリルは、その子のそばに膝をついた。


「もう、ちくちくしないわ。あなたは、いちばん長い夜を越えたのよ」




 日陰の手が、初めて公に灯った朝だった。


 屋敷の治療院で、記録の写しを屋敷へ上げ、表に出ることを許されなかった手。ソフィアお義姉さまの陰で、十八年、人を癒してきた手。


 その手が、いま辺境の朝の光の中で、人々の前にひらかれていた。


 誰の庇護でもなく。誰の影でもなく。自分が結んだ手の、その真ん中で。




 その日の昼、坂の下から行商の塩屋が雪を分けて上ってきた。


 嵐をやり過ごして、北辺路をふたたび渡り始めたのだという。軒の下に塩をひと握り置いて、メリルにひとつ噂を残していった。


「王都の名のない熱が、ひどくなってるそうだ」


 塩屋は、毛皮の襟に顎を埋めて言った。


「公爵領の宿で聞いた。治療院はもう寝台が足りん。それで——癒せる手が、ひとりもいないらしい」


「ひとりも」


「ああ。聖癒の使い手ってのが、王都にゃ一人も残っちゃいないんだと。妙な話だろう。聖癒の家ってのが、ちゃんとあるってのに」


 メリルは、その言葉を胸の奥に引っかけた。


 毎年の流行りとは違う。それは、ゆうべ越えた冬籠りの熱とは別のものだった。けれど、聖癒の手がひとりもいない——その一点だけが、奇妙に冷たく響いた。




 塩屋が、北辺路の奥へ消えたあと。


 メリルは軒の下に立って、白い鳩を見た。


 鳩は、欠けた小皿の粥をついばんでいた。雪のやんだ空が、その小さな白の上で淡く光っていた。


「王都で、聖癒の手がひとりもいないのですって」


 メリルは、鳩にそっと話しかけた。


「ふしぎね。聖癒の家はちゃんとあるのに。——王家と、レイクハートの公爵家に」


 言ってみて、胸の奥がまたひとつ、奇妙な音を立てた。


 レイクハート。自分の育った家の名だ。聖癒の家。けれど、その家にはいま、癒せる手がひとりもいないという。


 ではなぜ、養女のわたしの手がこれほど深く効くのだろう。


 その問いは、まだ答えを持たなかった。けれど、ゆうべよりひと回り濃くなっていた。




 夕暮れ、ガレスがもう一度、坂を上ってきた。


「外套を返しに来た。世話になったな」


「こちらこそ。お貸しいただいて、助かりました」


 けれど、ガレスの手には外套のほかにもうひとつ、小さなものがあった。一通の文だった。


「坂の下の宿に、王都からの早馬が来た」


 ガレスは、文をメリルに差し出した。


「あんた宛てだ。レイクハートの宛名ではない。ただ、ハーロウの癒し手へ、と」


 メリルは、その文を両手で受け取った。


 冷たい、と思った。雪の朝に届いた文だ。冷えているのが当たり前だった。


 けれど——封蝋に指が触れた瞬間、メリルの手のひらは奇妙なことに気づいた。




 その封蝋が、温かかった。


 いや、温かいはずがない。蝋は冷えている。雪の中を早馬で運ばれてきたのだから。


 けれど、メリルの手のひらは、ずっと人の温度を測ってきた手だった。


 屋敷で受け取る文の封蝋は、いつも冷たかった。ライラ様の半月形の封蝋。ソフィアお義姉さまの整った印。どれも隙のない冷たい蝋だった。手のひらに触れると、すっと芯まで冷えた。


 けれど、この封蝋は違った。


 半月形ではない。見たことのない別の意匠だった。何かの葉のような。鳥の翼のような。少しいびつな。そのいびつさが——どうしてか、手のひらに温かく感じられた。




「どなたからでございましょう」


 ニーナが、横から覗き込んだ。


「わからないわ」


 メリルは、封蝋を指の腹でそっとなぞった。


 差出人の名はない。ただ、ハーロウの癒し手へ、とだけ。


 けれど、この温かい封蝋を選んだ人は、きっと冷たい封蝋を知っている人だ。冷たい蝋で文を受け取ることが、どれほど人を凍えさせるかを知っている人だ。


 だから——わざわざ、半月形ではないいびつな葉の意匠を選んだのではないか。


 そんなことを、メリルは手のひらで思った。




 メリルは、その文をすぐには開けなかった。


 胸に当てて、ひとつ息をした。


 開けば、王都が辺境のこの場所へ入ってくる。冷たい封蝋で追い払われた場所へ、今度は温かい封蝋で何かが手を伸ばしてくる。


 それが何なのか、いまのメリルにはわからなかった。


 けれど、ひとつだけ確かなことがあった。


 この文を書いた人は、この手が——日陰で十八年、人を癒してきたこの手が——辺境で初めて公に灯ったことを、どこかで聞いたのだ。


 だから、温かい封蝋で文をよこした。




 メリルは、文を薬棚の上段にしまった。


 帳面の隣に。樺の皮の言伝の隣に。いちばん効くお薬をしまう場所に。


 いつか開ける。けれど、いまは開けない。いまは、ゆうべを越えた病者たちを、朝へ、昼へ、そして次の夜へと渡していくことが先だった。


 軒の下で、白い鳩がひと度、羽をふるわせた。


 メリルは、その音を聞きながら戸を静かに閉めた。


 白鳩の家の竈で、新しい粥がことことと煮えていた。


 いちばん重い夜は、越えた。けれど、冬はまだ続く。そして、雪の向こうの遠い王都では、メリルの知らない別の熱が、いま寝台をひとつずつ増やしていた。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


第二十話「白鳩、嵐の日に」をお届けしました。そして、これが——第一巻の結びとなります。


日陰で生きてきた手が、辺境の嵐の夜、初めて公に灯る。それを、この巻のいちばん高いところに置こうと、ずっと書いてきました。メリルが救ったのは、ひとりの命ではなく、土間ぜんたいの夜です。けれど、それはメリルひとりの手では、できませんでした。


ニーナの手。マーサさんの束ねた人手。ガレス領主の動かした物資。公爵領に見捨てられ、孤立無援のはずだった辺境の、その手だけで、白鳩の家は夜を越えました。


「庇われて生かされたのではありません。この手で、ここに居たのです」——メリルが、自分の居場所を、初めて自分の手で語った言葉です。十八年「養女ですから」と退いてきた彼女が、ここまで来ました。


そして、巻末。雪の向こうの王都では、別の熱が静かに広がり始めています。聖癒の手がひとりもいない王都へ。そして、辺境のメリルのもとへ届いた、温かい封蝋の一通の文——。


第二巻では、いよいよ十八年前の嘘がほどけ始めます。あの封蝋の差出人が、ふたたびメリルの糸をたぐり寄せていきます。どうか、その先を見届けてください。


ここまでお付き合いくださって、本当にありがとうございました。☆評価・ブクマ・ひとことの感想が、第二巻を書く何よりの力になります。

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