第18話: 母の面影
手のひらが、いつもより深い熱を量り当てた。
額に置いた手の下で、幼い肌が乾いて火照っている。咳の子の熱ではなかった。
メリルは指を首筋に滑らせて脈を数えた。速い。けれど、それより気になるのは熱の沈み方だった。
「ふた指ぶん、深いわ」
藁の上で、母親が顔を上げた。
坂を上ってきたのは、本通りのベスの隣の家の子だった。
まだ六つになるかならぬか。母親が背に負って、雪を渡ってきたのだという。
「ゆうべから、急に」
母親の声が震えていた。
「咳の子は、いくらでも見てきました。でも、この熱はちがう」
「ええ。違いますね」
メリルは湯布を絞りながら、努めて静かに言った。
「でも、大丈夫。順に診ていきましょう」
胸に手のひらを当てて、息の音を聴いた。
湿った笛の音はまだ薄い。けれど底のほうに、重たい引っかかりがあった。
雪の草を半量、甘草とあわせて煎じた。匙で少しずつ飲ませ、胸に湯布を当て、手を添えて聖癒をそっと流す。
力がひと匙ぶん抜けた。子の頬に、わずかに血の色が戻る。
ひとまずは越せる。けれど、と手のひらが告げていた。これは、ひとりではない。
「メリルさま」
子が眠りについた頃、ニーナが竈の脇で小さく声をかけた。
「お草が、もう」
メリルは、薬棚の上段に目を上げた。
雪の草の束が、目に見えて薄くなっている。本通りの草も北辺路の草も。三日のあいだに坂を上ってきた病者は、四人になっていた。
「ええ。わかっているわ」
メリルは束を指で量って唇を結んだ。
その日の昼過ぎ、マーサが坂を上ってきた。
麻袋を担いではいたが、いつもより軽そうだった。
「先生。本通りに、また熱の子が出た」
戸口で雪を払う暇も惜しんで、マーサは言った。
「ベスのとこの隣と、井戸の向かいと。ふた軒、同じ晩にだ」
「同じ晩に、ふた軒」
「ああ。……来たね。冬籠りの熱が、本通りまで下りてきた」
マーサの灰色の目が、戸の外の雪を見た。
「奥の集落から下りてくるって、ご領主さまが」
メリルは、ガレスの言葉を思い出していた。熱も、風に乗る、と。
「下りてきたのさ。風が運んだのか、人が運んだのか。どっちでもいい」
マーサは竈の前に腰を下ろし、節くれ立った手を火にかざした。
「これからは、坂を上る数が増える一方だ。先生、草はどうだい」
「正直に申しますね」
メリルは、繕わなかった。
「足りません。いまの束では、本通りのふた軒を越させるのがやっとです」
マーサは、しばらく火を見ていた。
「あたしの梁の草も、もう尽きた。本通りの軒も、どこも底だ」
「奥の集落の、分厚い草は」
「あれは強すぎる。子供にそのまま使えば、熱より先に胃をやられる」
マーサは火に手をかざしたまま言った。
「あれを子供に使うには、加減がいる。あたしらの知らない加減がね」
知らない加減。その言葉が、メリルの胸の隅に小さく引っかかった。
「加減」
「ああ。奥の婆さんは、自分の集落で使う量しか知らない。本通りはおろか幼い子に合わせた量となると、誰も知らないのさ」
マーサは、立ち上がった。
「昔は、知ってる人がいたって聞くがね」
「昔は」
「あたしがこの町へ来るより、ずっと前さ。北辺じゅうの草の加減を、どれも諳んじてた人がいたと」
マーサはそれだけ言って、戸口へ向かった。
「先生。草の使い方は、あんたが本通りでいちばん詳しい。あとは、あんたの工夫頼みだ」
マーサが坂を下りていったあと、白鳩の家に竈の音だけが残った。
メリルは薬棚の前に立って、三つの草の束をもう一度見た。
本通りの雪の草。北辺路の雪の草。奥の集落の、分厚い強い草。
手持ちで越させられるのは、せいぜいあと数人。けれど坂を上ってくる病者は、これから日に日に増えていく。
奥の草を幼い子に使えるよう加減できれば——けれど、その加減を自分は知らない。
「メリルさま。お顔が、お草を睨んでおられます」
ニーナが横から、おずおずと覗き込んだ。
「あら。睨んでなんか」
メリルは、つい口元をゆるめた。
「……いいえ。睨んでいたかもしれないわ。お草に答えを聞こうとして」
「お草は、お返事しませんものね」
「ええ。お返事しないの」
メリルは束を棚に戻して、薬棚の奥に目をやった。
いちばん下の引き出しは、空のままだった。
底に、擂り粉木の円い擦れ跡だけが残っている。それは廃院に着いた最初の夜に見つけたものだ。
けれど、その上の段——和紙の角に凹みのある棚の、さらに奥。
いつも草を出し入れする場所より、もうひと並び奥。メリルはまだ手を入れたことがなかった。
「ニーナ。火を、もうひとつ」
「はい、ただいま」
奥の板に手を差し入れると、指先が何か硬いものに触れた。
冷たくて平たくて、角がすり減っている。紙ではない。革だった。
メリルはそれを両手で引き出した。
革表紙の古い綴じ本だった。表は雪気を吸って波打ち、背の糸はほつれかけている。誰かが長いあいだ、ここに仕舞っていたもの。
手のひらが、その古さを量った。十八年より、ずっと古い。
「メリルさま。それは……」
「わからないわ。でも、お薬の帳面かもしれない」
メリルは竈のそばへ運んで、波打った表紙をゆっくりと開いた。
最初の頁は、湿りで滲んでいた。けれど二枚目をめくると、墨の文字が現れた。
細くしなやかな筆だった。一字ずつ丁寧に置かれ、急ぐところがない。
メリルはその筆跡を見て、なぜか息を止めた。
病者の床で何度も帳面をつけてきた手だ。文字の運びを見れば、書いた人の手の癖がわかる。
この筆は、薬を擂る手だ。包帯を巻く手だ。脈を数える手だ。
メリルには、それがひと目でわかった。
なぜなら——自分の帳面の文字と、運びがよく似ていた。
「不思議ね」
「なにがでございますか」
ニーナが、横から覗き込んだ。
「この文字よ。書いた人の手の運びが、わたしの手によく似ているの」
「お顔も見たことのない方ですのに」
「ええ。だから、不思議なの」
メリルは指で、その一行を追った。
頁には、薬草の名とその加減が記されていた。
桔梗。甘草。雪の下の草。それから、メリルの知らない草の名も。
奥の集落の、分厚い草のことらしき記述もあった。「縁の白く粉を吹いた草。強し。幼き者には、本通りの草の三分の一に煎じ薄めて」
メリルは、その一行を二度読んだ。
「これだわ」
探していた加減が、そこにあった。
「ニーナ。これを見て」
「はい。……あ。お草の、加減」
「ええ。奥の草を、子供に使う加減よ」
メリルの声が、かすかにはずんだ。
「この帳面を書いた人は、奥の草も、本通りの草も、ぜんぶ諳んじていたのね。マーサさんが言っていた、昔の人」
「では、この帳面の方が」
「ええ。きっと、この施療院を、わたしの前に営んでいた人」
メリルは頁を繰った。
草の加減だけではなかった。看護の心得が、ところどころに添えられている。
「熱の子には、薬より先に水を。乾いた体は、薬を受け取れぬゆえ」
「夜半に熱の上がる子は、ひとりにせぬこと。怖さが熱を高める」
読むほどに、メリルの胸が静かに鳴った。
どれも、自分が病者の床で誰に教わるともなく覚えてきたことだった。
誰に教わるともなく。
メリルは、ふと手を止めた。
屋敷の治療院で、自分は独りで覚えてきた。先生がいたわけではない。ただ病者の前に立つと、手が動いた。何をすればいいか、手のほうが先に知っていた。
それをずっと不思議だとも思わなかった。
けれど、この帳面の心得は、その「手が先に知っていたこと」とひとつ残らず重なっていた。
「メリルさま」
ニーナが、横で頁を覗き込んでいた。
「この帳面のお言葉、メリルさまがいつも仰ることと、そっくりです」
「……そう、思う?」
「はい。『夜半に熱の上がる子は、ひとりにせぬこと』なんて、メリルさまそのものです」
ニーナの素直な声が、メリルの引っかかりをよけいに濃くした。
わたし、そのもの。けれど、わたしより前に誰かが同じことを書いていた。
頁の隅に一行だけ、薬草とは関わりのない言葉があった。
「この手は、誰かのためにあるのです。生まれが何であろうと、それは変わりません」
メリルは、その一行で動けなくなった。
手のひらが、頁の上で止まった。
その言葉を、自分はどこかで聞いた気がした。けれど誰からも聞いていない。誰からも聞いていないのに、もう知っている言葉だった。
「いいえ」
メリルは小さく、声に出してみた。
「この手は、誰かのために動くためにあるんです」
言ってみて、背筋が冷えた。
自分がいつも口にしてきた言葉と帳面の一行が、ほとんど同じ形をしていた。
言い回しが違うだけ。込められたものは、寸分たがわない。
メリルは、頁の文字を指でなぞった。なぞる指が、わずかに震えていた。
「ニーナ。お湯を、いただける?」
「はい。すぐに」
「ありがとう。それと、藁の子の様子も見てきてくれる?」
「かしこまりました」
メリルは、自分の動揺を子に悟られたくなかった。
手のひらを胸に当てて、ひとつ呼吸を整える。いま大事なのは坂を上ってくる病者だ。帳面の不思議に、足を取られている場合ではない。
けれど、頁を閉じようとした手が、もう一枚めくってしまった。
そこに、聖癒のことが書かれていた。
「聖癒は、薬の届かぬ深さへ手を伸ばす力。されど万能にあらず」
メリルは頁の上で、目を走らせた。
「使うたび、わが身を削る。連日重ねれば、術者みずから床に伏す。ゆめ、おのれの底を見誤るな」
その通りだった。メリルは聖癒を使うたびに、力がひと匙ずつ抜けるのを手のひらで知っている。
けれど、その先に、メリルの手が止まる一行があった。
「われに宿る聖癒は、人より深い。なぜと問うても、答えはただひとつ。血ゆえに」
血ゆえに。
メリルは、その短い一言を見つめた。
この帳面を書いた人の聖癒は、人より深かったのだという。そして、その深さは血のせいだと書かれている。
メリルは自分の手のひらを見下ろした。
わたしの聖癒も、深い。コリンのときも、リタのときも、力はひと匙で足りた。マーサさんは、それを「いい腕」だと言ってくれた。
「ニーナ」
「はい」
「わたしの手は、深く効くほうだと思う?」
「はい。とても」
ニーナは、迷いなく答えた。
「お屋敷の見習いのどなたより、メリルさまのお手はよく効きました。みなさん、そう申しておりました」
その素直な答えが、メリルの胸の引っかかりを、よけいに濃くした。
いい腕。けれど、と手のひらが言った。
屋敷の治療院でも、メリルの聖癒はいつも他の見習いより深く効いた。なぜ自分にだけこれほど力があるのか、考えたことはなかった。
ただ、養女の自分にできることはこれくらいだ、と思ってきた。
けれど——血ゆえに。
帳面の言葉が、メリルの胸でひとつ奇妙な音を立てた。
わたしは、養女だ。
血は、レイクハート家のものではない。遠縁のどこかの血だと聞いている。
それなのに、なぜわたしの聖癒は、これほど深いのだろう。
血ゆえに、と帳面は言う。けれど、わたしの血は、この家の血ではないはずなのに。
メリルはその問いを、はじめて胸の真ん中に置いた。置いてみて、自分でも戸惑った。
「メリルさま。お湯です」
ニーナの声で、メリルは我に返った。
「……ありがとう」
「お顔の色が、よくありません」
ニーナが心配そうに、覗き込んだ。
「お疲れですか。それとも、その帳面が」
「ううん。違うの」
メリルは帳面を閉じた。
「ただ少し不思議なの。この帳面の人の手が、わたしに似すぎて」
「似すぎている」
「ええ。お草の加減も、看護の心得も、聖癒のことも。まるで、わたしのことを、わたしより前に誰かが書いていたみたい」
メリルは、できるだけ軽く言おうとした。
けれど、声の底のほうが、まだ少し冷えていた。
「腑に落ちないの。でも、いまは考えても仕方ないわ。お草の加減がわかったのだから、それでよしとしましょう」
「はい」
ニーナは、それ以上は問わなかった。
メリルは帳面を竈のそばに置いて、奥の草の束を手に取った。
本通りの草の三分の一に煎じ薄めて。帳面の通りに、量を測る。
強すぎた草が、子供にも使える薬に変わっていく。手のひらが、その手応えを確かめた。
この加減がなければ、坂を上ってくる病者をあと数人で越せなくなっていた。
帳面が、まさにこの冬のために奥の板で待っていた。そんなふうに思えた。
夕暮れ、また坂の下から足音が上ってきた。
今度は、母親が子を抱え、もうひとり咳の止まらない老人を支えていた。
「先生、本通りはもう、寝ていられる者のほうが少ない」
息を切らしながら、母親が言った。
「明日も明後日も坂を上る者が増えると、マーサさんが」
「ええ。わかりました。順に、診ましょう」
メリルは、薄めた奥の草の薬を竈にかけた。帳面の加減が、さっそく役に立った。
病者を寝かせ、薬を飲ませ、湯布を替え、手を添える。
夜が更けるまで、メリルの手は止まらなかった。
聖癒を使うたび、力がひと匙、またひと匙と抜けていく。けれど、まだ底ではない。手のひらが、自分の残りを数えている。
帳面の一行が、ふいに頭をよぎった。ゆめ、おのれの底を見誤るな。
わかっている、とメリルは胸の中で答えた。わたしは、自分の底を知っている。
病者がみな眠りについた頃、白鳩の家に、ようやく静けさが戻った。
竈の薪の爆ぜる音だけが、ときおり闇を割った。
メリルは藁に病者を寝かせたまま、薬棚の前に立って、もう一度帳面を開いた。
草の加減の頁ではなかった。あの、聖癒の頁だった。
血ゆえに。その一言を、メリルはもう一度、指でなぞった。
なぞった指の節が、和紙の角の凹みと、同じ幅だった。
メリルは、棚の凹みと、自分の指を、並べてみた。
廃院に着いた最初の夜、ニーナがこの凹みを見つけた。誰かの指が、長いあいだ草を出し入れして、和紙の角を擦り減らした跡だ。
その幅が、自分の指の腹の節と、ぴたりと重なる。
帳面を書いた人の手は、わたしの手と、似た形をしていたのかもしれない。
「メリルさま」
ニーナが、毛布をかけながら、声をひそめて言った。
「もう、お休みになってください。明日も、坂を上る方が来ます」
「ええ。そうね」
メリルは、帳面を閉じようとした。
けれど、閉じる前に、最初の頁をもう一度めくった。
湿りで滲んだ、その頁。よく見ると、滲みの下に、薄く名前のようなものが書かれていた。
墨は流れて、ほとんど読めなかった。
ただ、書き出しの一画だけが、かろうじて形を残していた。
たてに長い、しなやかな線。それきり、あとは雪気に溶けていた。
メリルは、その消えかけた名を見つめた。
誰なのだろう。この施療院を、わたしの前に営んでいた人。わたしと、手の似ているこの人は。
問うても、滲んだ墨は、何も答えなかった。
メリルは、帳面を胸に抱いて、藁に横になった。
隣で、ニーナがもう寝息を立てている。病者たちの、浅い呼吸が闇に重なっていた。
明日も、明後日も、坂を上ってくる病者は増える。草の加減は、この帳面が教えてくれた。それは、確かにありがたかった。
けれど、帳面が教えてくれたのは、草の加減だけではなかった。
わたしは何者なのだろう、という問いを、いっしょに置いていった。
養女の、遠縁の血。
それなのに、人より深い聖癒。帳面の人と、寸分たがわぬ言葉。同じ形の指。
ひとつひとつは、ただの偶然かもしれない。けれど、それが幾つも重なると、偶然と呼ぶには、重たすぎた。
メリルは、胸の上に置いた手のひらを、そっと握った。
血ゆえに。その言葉が、闇の奥で、まだ静かに鳴っていた。
眠りに落ちる手前で、メリルはもう一度、明日のことを思った。
坂を上ってくる病者を、ひとりでも多く越させる。それが、いまの自分の仕事だ。出自の問いは、それからでいい。
けれど、と手のひらが告げた。
その問いは、これから先、坂を上る病者が増えれば増えるほど、深くなる気がする。
なぜなら、坂を上る者を救うたびに、わたしのこの深すぎる手のことを、辺境の人がますます語り出すだろうから。
遠い王都では、メリルの知らない別の熱が、寝台をひとつずつ増やしている頃だった。
その噂は、行商人づてにメリルの耳にも届いていた。けれど、それがどれほどのものか、いまのメリルはまだ知らない。
白鳩の家の闇の中で、メリルはひとつの帳面とひとつの問いを抱いたまま、眠りに落ちた。
軒の外で、白い鳩が、雪の中でひと度、羽をふるわせた。
明日また、熱は坂を上ってくる。そのことだけが、確かだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第十八話「母の面影」をお届けしました。冬籠りの熱が、ついに本通りまで下りてきます。手持ちの草では追いつかない——その行き詰まりの中で、メリルは廃院の奥に遺された一冊の帳面を見つけます。
その帳面を記したのは、メリルの前にこの施療院を営んでいた、ある聖癒の使い手でした。草の加減も、看護の心得も、聖癒の記述も、なぜかメリルの手と深く響き合います。同じ形の指、同じ言葉、人より深い聖癒——。
メリルは「養女」だと信じています。だから、その響き合いを、ただ「不思議」「腑に落ちない」としか受け取れません。けれど、読者のみなさんは、もしかすると、もう何かを感じておられるかもしれません。いまは、それでいいのです。メリルが自分の手で答えに辿り着く日まで、どうか見守ってください。
明日は、なぜメリルだけがこれほど深く効くのか——その「聖癒という名」の話に踏み込みます。そして熱は、いよいよ集団の危機へと向かいます。
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