表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
十八年前の赤子の取り違え——婚約破棄された「養女」が、公爵家のただ一人の正統な令嬢だと判明した日  作者: 歩人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/20

第16話: 噂は風に乗る

 知らない手のひらがメリルの手の上に、乾いた木の実をひと粒そっと置いた。


 あかぎれだらけの、年寄りの手だった。


 メリルはその手の冷たさを先に量った。骨の節が太く、爪の根が薄く割れている。坂を上ってくるだけで息が乱れる年の手だった。


「これは……」


胡桃くるみだ。今年の、最後の」


 しわがれた声が、戸口の冷えの中で言った。




 その朝、白鳩の家の戸を叩いたのは、見たことのない老女だった。


 ハーロウの本通りの顔ではない。隣の谷の村から、半日かけて雪を渡ってきたのだという。


「孫が、咳をしてな」


 老女は背の籠を下ろした。


「峠の向こうの先生が、咳の子を治すと聞いた。本通りのマーサに、道を教わって」


「では、お孫さんも、一緒に」


「いや」


 老女は首を横に振った。


「孫は、もう熱が引いた。あんたの草で、と聞いたから、礼を持ってきただけだ」




 メリルは、言葉に詰まった。


 自分の草で治った、と老女は言う。けれど、その孫を診た覚えはなかった。


「あの……わたし、お孫さんを診ては」


「マーサの草さ」


 老女が、籠の口を結び直した。


「マーサが本通りの草を、谷の村にも回した。あんたが乾かし直した草を、ひと束。それが、孫に効いた」


「マーサさんが」


「町の草を、町の子に使う。あんたが、その草を増やしたんだろう」


 胡桃のひと粒が、メリルの手のひらでわずかに冷えていた。




「いただいて、よろしいのですか」


「軒の下に置いたものは、お受けするのが作法だ」


 老女は、北辺の言い回しでそう言った。


「あんたも、もう知っているだろう」


「……ええ。知っています」


 メリルは、胡桃を両手で包んだ。


 軒の下に置かれたものは受ける。卵のときもそう教わった。手のひらの中で、贈り物はいつも少し冷たい。けれどその冷たさには、坂を上ってきた誰かの息が混じっている。


「ありがとうございます。大切に、いただきます」




 老女が坂を下りていく。


 その背を見送って、メリルは戸を閉めた。


 竈の前で、ニーナが目を丸くしていた。


「メリルさま。いまの方、お隣の谷の村から?」


「ええ。半日、雪を渡って」


「半日も。それも、お孫さんは治ったあとで、お礼だけに?」


「そうなの」


 メリルは、胡桃を薬棚の隅へそっと置いた。


「不思議ね。わたし、その子を診てもいないのに」




「マーサさんのお草が、谷の村まで」


 ニーナが、灰起こしの手を止めた。


「お草が、歩いていったみたいですね」


「歩いて」


 メリルは、その言い方にふっと笑った。


「そうね。歩いていったのね。本通りから、谷の村へ」


 乾かし直した草が誰かの手から手へ渡って、見たこともない子の咳を引かせた。自分の手が触れていない場所で、自分の草が働いている。それは奇妙な手応えだった。


「ニーナ。お草は、足りていて?」


「上段に、まだひと束半。町の蔵から、明日また回ってくると」


「そう。なら、いいわ」




 その日から、坂を上ってくる足音が、ひとつずつ増えていった。


 本通りの咳の子。谷の村の年寄り。さらにその向こうの、名も知らない集落の母と子。


 半町ほどの坂は、辺境のあちこちから人が辿りつく道になった。


 メリルはその一人ひとりの額に手のひらを当てた。首筋で脈を数え、胸に耳を寄せた。手のひらは来る者の数だけ熱を量った。


 夕暮れには、指の腹がいつもより乾いていた。




 三日も経つと、軒の下の贈り物が、目に見えて増えた。


 胡桃。干した芋。毛糸ひと巻き。皮を縫った冬手袋。鶏の卵。


 どれも、お代を出せない者たちの、精一杯の現物だった。


「メリルさま」


 ニーナが、軒の下のものを抱えて入ってきた。


「また、卵が三つ。それから、これ……お手紙でしょうか」


 差し出されたのは、卵ではなかった。


 薄いかばの皮を、麻紐で結んだ束だった。




 樺の皮を開くと、炭で書いた拙い文字が並んでいた。


 文字というより、線に近かった。けれど、読めた。


「ありがとう。むすこが、いきをした」


 それだけだった。


 メリルは、その短い言葉を指でそっとなぞった。


 息をした。たったそれだけのことが、誰かには炭をつかんで樺の皮に刻むほどのことだったのだ。


「ニーナ」


「はい」


「これ、薬棚の上段に。和紙の隅へ」


「お薬と、一緒に?」


「ええ。いちばん、効くお薬だから」




 その夕、マーサが坂を上ってきた。


 麻袋を担ぎ、息を白くしながら、戸口で雪を払う。


「先生。町の蔵の草、ひと束足しといたよ」


「マーサさん。いつも、ありがとうございます」


「礼はいいさ。それより」


 マーサは、竈の前にどっかと腰を下ろした。


「本通りの話が、すっかり変わったよ」


「話、ですか」


「峠の上に、本物の癒し手がいる。そういう話さ」




「いまじゃ谷の村も、その向こうの集落も、咳の子は白鳩の家へ運べと言ってる」


 マーサは、灰の桶を脚で寄せた。


「あんたの噂が、風に乗って広がってる。雪の上を、思いのほか速くね」


「噂が、風に……」


 メリルは、その言葉を胸の中で繰り返した。


 風に乗る、という言い方が北辺らしいと思った。屋敷では、噂はいつも閉じた部屋の中を這うものだった。誰かの口から誰かの耳へ、湿った床を伝うように。


 けれど、ここでは噂が風に乗る。雪の上を、開けた空の下を、渡っていく。




「でもね、マーサさん」


 メリルは、薬棚の乏しい草へ目を移した。


「人が増えれば、草も、手も、足りなくなります」


「そうさ」


 マーサは、あっさりうなずいた。


「噂は飯にならない。草にもならない。あんたの言う通りだ」


「ええ」


「だがね、先生」


 マーサの灰色の目が、ふとメリルを見た。


「噂が広がるってことは、頼れる手がここにあるって、みんなが知ったってことさ。それは、悪いことじゃない」




「頼れる手」


「ああ」


 マーサは、節くれ立った指で、自分の膝を一度叩いた。


「あたしらは長いこと、頼れる手のない冬を越してきた。咳の子が出ても、ただ看るしかできない冬をね。それが、変わった。あんたが来て」


 マーサは、そこで言葉を切った。


 竈の火が、ぱちりとひとつ爆ぜた。


「だから、みんな坂を上ってくる。礼を持ってね。あんたの手を、当てにしていいんだと知ったからさ」


 メリルは、その言葉を胸に落とした。


 当てにしていい手。屋敷では、誰の当てにもならない手だった。




 マーサが、麻袋から何かを取り出した。


 乾いた草の束ではなかった。古びた、布の包みだった。


「これは?」


「谷の村の婆さんからの言伝ことづてさ。さっき本通りで会った」


 マーサは、包みをメリルの膝へ置いた。


「あんたに、これを渡してくれと。北辺路の、もっと奥の草だとさ」


 布を開くと、見たことのない草が出てきた。


 葉が分厚く、縁が白く粉を吹いている。指でこすると、雪の草より深い、苦い匂いが立った。




「奥の、草……」


「あたしも知らない草さ」


 マーサが、肩をすくめた。


「谷のもっと先、北辺路を三日も奥へ入った集落の草だと。あすこは、本通りより冬がきつい」


「三日も、奥へ」


 メリルは、その分厚い葉を、指の腹でそっとなぞった。


 粉を吹いた葉の表面が、指に細かくざらついた。乾き切っている。けれど芯には、まだ青い力が残っていた。よく効く草の手応えだった。


「これは……強い草ですね。雪の草より、ずっと」


「だろうね」


 マーサの声が、ふと低くなった。


「奥の集落じゃ、強い草が要るのさ。本通りの草じゃ、追いつかない冬だから」




 追いつかない冬、という言葉が、メリルの耳に引っかかった。


「マーサさん。それは、どういう」


「……婆さんが、こう言ってた」


 マーサは、灰を見つめたまま言った。


「奥の集落の、今年の冬籠りの熱は、重い。本通りより、ずっと重いとさ」


「重い」


「本通りの咳の子は、あんたの草で峠を越せてる。だが奥は、違うらしい」


 マーサは、ひと度雪のやんだ戸の外を見た。


「熱が下がらない。胸の水が、引かない。看取りが、ふだんより多いと」




 メリルは、息を呑んだ。


 看取りが、多い。


 ハモンドの夜が、胸の奥でうずいた。すり減った肺。戻せなかった命。両手のひらが、いまもその重さを覚えている。


「奥の集落には、癒し手は」


「いやしないさ」


 マーサは、首を横に振った。


「この北辺で癒しの手なんざ、あんた一人さ。奥の集落も、ただ看るしかできない。婆さんが、強い草をあんたに託したのは、そういうことさ」


「わたしに……」


「峠の上の先生なら、この草を活かせるかもしれない。そう思ったんだろう」




 メリルは、分厚い草を両手で包んだ。


 託された、という重さが、手のひらにずしりと乗った。


 会ったこともない、北辺路を三日も奥へ入った集落の人々。その人々の、今年いちばん重い冬。それを、見たこともない婆さんがこの手へ託した。


「……マーサさん」


「なんだい」


「奥の集落まで、わたしの手は、届くのでしょうか」


 メリルの声が、細くなった。


 手のひらは、触れたものしか量れない。三日も奥の熱は、量れない。




「届かせるんじゃないよ」


 マーサが、ぴしゃりと言った。


「あんた一人で、北辺じゅうの熱を背負おうなんて思うんじゃない」


「でも」


「奥のことは、奥でやれることがある。あんたは、ここを守りな」


 マーサは、自分の膝をもう一度叩いた。


「ここの坂を上ってくる子を、一人でも多く春へ渡す。それが、あんたの今年の冬だ。奥の草は、その足しにすればいい」


「……ここを、守る」


「そうさ。手の届くところからだ。ひとりで、抱えるんじゃないよ」




 ひとりで抱えるな。


 その言葉を、メリルはもう何度も聞いた。マーサから。ガレスから。


 けれど何度聞いても、手のひらは目の前の熱しか量れない。三日も奥の集落の看取りの多い冬を思うと、胸の奥がきりりと締まった。


「ニーナ」


「はい」


 メリルは、託された草を薬棚の上段へ運んだ。


「この草、いちばん奥の段へ。雪の草の、隣に」


「いちばん、効くお草ですね」


「ええ。いちばん、重いお草よ」




 その夜。


 マーサが帰ったあと、白鳩の家にまた竈の音だけが残った。


 メリルは、薬棚の前に立って、三つの草の束を並べて見た。


 本通りの雪の草。北辺路の雪の草。そして、三日も奥の、分厚い草。


 草の束が、ひと束ずつ北辺の奥へ向かって遠ざかっていくように見えた。手前の草は、もう知っている熱の草。いちばん奥の草は、まだ会ったこともない熱の草だった。


「メリルさま。お疲れでしょう。お湯を、温めましょうか」


「ありがとう、ニーナ。でも、もう少しだけ」




 メリルは、和紙の隅の樺の皮へ目を落とした。


 「むすこが、いきをした」と、炭の線が言っている。


 息をした子が、ここにいる。その向こうに、息ができずにいる子が、いる。


 手の届く坂の上と、手の届かない奥の集落。同じ冬が、両方を覆っている。


 メリルは、両の手のひらを見下ろした。


 削れていく手だ。けれど、いまはまだ、量れる熱がある。坂を上ってくる子の、量れる熱が。




 戸の隙間から、軒の白い鳩の背が見えた。


 藍に沈んだ雪の中で、鳩だけが別の白だった。


「お客さま。今日は、たくさんの方が坂を上っていらしたわ」


 メリルが小さく声をかけると、鳩はちらと丸い目を上げた。


「谷の村からも。その向こうの集落からも。噂が、風に乗ったのですって」


 鳩は、もうひと度胸の羽をふくらませた。


「ええ。嬉しいの。……でもね」


 メリルは、声を落とした。


「いちばん奥の集落には、わたしの手は、まだ届かないの」




 翌朝、坂の下から、馬蹄がひとつ上ってきた。


 ガレスだった。


 毛皮の外套に薄く雪を乗せ、戸口で足を止める。


「メリル殿」


「ガレス領主さま。朝早くから」


「奥の集落の話を、聞いたか」


 ガレスの声は、いつも通り無駄がなかった。


 けれど、その目の奥に、ひと粒、重いものが沈んでいた。


「……ええ。マーサさんから。今年の冬籠りの熱が、奥では重いと」




「マーサが、もう伝えたか」


 ガレスは、小さくうなずいた。


「奥の集落の世話役から、雪を渡って便りが来た。看取りが、例年の倍だと」


「倍」


 メリルは、息を詰めた。


「奥には、癒しの手がない。草も、もう底をついている」


 ガレスは、戸口の脇に立ったまま言った。


「私の権で動かせるのは、ハーロウの蔵までだ。奥の集落までは、雪が深すぎて人も物も回せん。この冬は、特にな」




「では、奥の集落は」


「自分たちの手で、越すしかない」


 ガレスの声が、ひと度沈んだ。


「いつもの冬なら、それで越せる。だが今年は、重い。私の算盤でも、奥の数は、まだ読めん」


 メリルは、その言葉を胸に落とした。


 読めない数。看取りの、倍の数。それが手の届かない雪の奥で、静かに増えている。


「ガレス領主さま。わたしに、できることは」


「いまは、ない」


 ガレスは、はっきりと言った。




「あんたは、ハーロウを守れ」


 ガレスは、メリルをまっすぐに見た。


「奥のことまで背負えば、あんたが先に倒れる。倒れれば、ハーロウの子も救えん。それは、いちばん高い駒を、いちばん安く使い潰すことだ」


「……はい」


「だが」


 ガレスは、そこで言葉を切った。


 雪のやんだ戸の外を、その灰色の目が見た。


「もし奥の熱が、本通りまで下りてくるなら——そのときは、あんたの手が要る。覚悟だけは、しておけ」




「下りて、くる」


「冬は、流れるものだ」


 ガレスは、外套の前を合わせ直した。


「奥で重い熱は、雪解けまで奥に留まるとは限らん。風が運ぶ。人が運ぶ。あんたの噂が風に乗るように、熱も風に乗る」


 メリルは、両の手のひらを握りしめた。


 噂も、熱も、同じ風に乗る。


 いま坂を上ってくる評判の風が、いつか奥の重い熱を連れてくるかもしれない。同じ風が、恵みと災いを両方運んでくる。


「……覚悟、しておきます」


「それでいい」




 ガレスが坂を下りていく。


 雪を踏む重い足音と一頭の馬蹄が、坂の下へ遠ざかった。


 メリルは、その背を戸口から見送った。


 守ってくれる人ではない。けれど、来るべきものを、隠さずに告げてくれる人だった。


 いちばん重いものは、これから来る。あの夜に握りしめた予感が、いまは輪郭を帯びていた。


 奥の集落の、看取りの倍の冬。それが、いつか風に乗って、この坂を上ってくるかもしれない。




 その昼、坂の下から、見慣れぬそりがひとつ上ってきた。


 病者ではなかった。


 毛皮を厚く着込んだ行商の男だった。北辺路を渡り歩いて、町々へ塩や布を運ぶ者だという。


「峠の上の先生かい」


 男は、橇を止めて声をかけた。


「本通りで、塩を売った。あんたの噂を、たんと聞いたよ。咳の子を治す、よそ者の先生だと」


「……ありがとうございます」


「礼にもならんが、塩をひと握り置いていく。傷を洗うのに、要るだろう」




 メリルは、軒の作法で塩を受けた。


 男は、橇の縄を結び直しながら、ふと顔を上げた。


「あんた、公爵領のほうから来たんだってな」


「ええ。そうです」


「なら、王都の話は、耳に入ってるかい」


「王都の?」


 メリルは、ふと手を止めた。


 王都。リンドル。社交界。ソフィアお義姉さま。リオネル殿下。


 追放されてから、ひと度も聞かなかった名前が、行商の男の口からふいに転がり出た。




「王都の治療院で、妙な熱が出てるそうだ」


 男は、橇の縄を引きながら言った。


「公爵領を通ったとき、宿で聞いた。リンドルの治療院で、寝台が足りなくなってるとか」


「寝台が、足りない」


「ああ。ひと冬にふた人の熱が、ひと月でふた台、み台と寝台が増えてるとさ。名のない熱だと、医者も首をひねってるらしい」


 名のない熱。


 その言い方が、メリルの胸の隅に小さく引っかかった。




「冬の熱は、北辺だけじゃないってことさ」


 男は、肩をすくめた。


「もっとも、王都の熱と、北辺の冬籠りの熱は、別もんだろうがね。あっちは、毎年の流行りとは違うらしい」


「別もの……」


「さあね。おれは塩屋だ。熱のことは、わからん」


 男は、橇の縄を肩にかけた。


「ただ、噂は風に乗る。北辺の冬籠りの熱も、王都の名のない熱も、おんなじ風が運んでくる。妙な冬さ、今年は」


 行商の男はそう言い残して、橇を雪の坂の下へ滑らせていった。




 メリルは、塩のひと握りを手のひらに包んだままその背を見送った。


 王都の、名のない熱。


 それは北辺の冬籠りの熱とは別ものだと、男は言った。けれど、なぜだろう。胸の奥が、薄く冷えた。


 手のひらの塩が、つめたく粒立っていた。


 ハモンドの夜に量った、戻せない命の重さ。奥の集落の、看取りの倍の冬。そして王都の、名のない熱。


 三つの冷えが、別々の場所で同じ冬を覆っている。




「メリルさま」


 ニーナが、戸口から呼んだ。


「お塩、いただいたんですか」


「ええ。傷を洗うのに、と」


「よかったです。お塩も、なくなりかけて」


 メリルはニーナを見て、ふっと口元をほどいた。


「ニーナ。今日は、いろんな風が、坂を上ってきたわね」


「お風、ですか?」


「ええ。お礼の風も。お草の風も。……それから、遠い王都の風も」




 その夜、メリルは藁に横になって天井の闇を見上げた。


 隣でニーナが、毛糸のさやを両手にはめたまま寝息を立てている。


 メリルは、今日一日に坂を上ってきたものを、ひとつずつ数えてみた。


 胡桃。樺の皮の言伝。谷の村の草。三日も奥の、分厚い草。塩屋の橇。そして——王都の、名のない熱の噂。


 恵みも、危機も、同じ坂を上ってきた。同じ風に乗って。




 メリルは、両の手のひらを胸の上で合わせた。


 手のひらは触れたものしか量れない。坂を上ってくる子の熱は量れる。けれど三日も奥の集落の熱は量れない。まして、八日も離れた王都の熱は。


 量れないものが、闇の向こうで、静かに増えている。それが、いつか風に乗って、この手のところまで来るのだろうか。


 ガレスの言葉が、闇の中で耳に残っていた。熱も、風に乗る。




 眠りに落ちる手前で、メリルはふと、薬棚の和紙の隅を思った。


 「むすこが、いきをした」と、炭の線が言っている。


 息をした子が、ここにいる。


 息ができずにいる子が、奥にいる。


 そして、名のない熱に倒れる人が、遠い王都にいるのかもしれない。


 風だった。便りだった。噂だった。


 その三つを、メリルは闇の中で握りしめた。


 握りしめた手のひらが、ほんのわずかに、汗ばんでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ