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52-3 桜の下で

義道との対話を経てなお、家康はいまだ覚悟を決められずにいた。

蒲原での敗北、その”生き恥”が、いまだ家康の胸を離れない。


そんな家康に、お市の方は意地悪く笑う。


「家康様は、変わりませんね……」

背後の山肌を桜が染め、薄紫の靄が谷へ沈むころ。

小座敷の炉からひのきが煙る静かな宿。


徳川家康とお市の方は、静かに二人の時を過ごしていた。


家康「”滅ぼさずに守る”……頼朝殿が目指してきた世。

義道殿との話を通じ、あらためて考えさせられた……」


お市の方は、家康に盃を渡した。

徳利が盃に触れる音を立て、酒が静かに注がれた。


挿絵(By みてみん)


お市「家康様は、すでに頼朝様の覚悟は十分ご理解されているようですが」


盃を口に運び、口の中に入った酒を味わった。


家康「……よき酒じゃ……」


お市「義道様が特別にお届けくださったそうですよ」


微笑みながら、お市の方は再び家康の盃を満たす。


家康「……義道殿は、武家を守ろうとする頼朝殿だからこそ、御息女宝殿を養女に差し出された。

そして——宝殿と言う得難き”宝”を、頼朝殿は手に入れられた。


他家を守る志が、強き力を手に入れた。

そうとも言えよう」


家康は、盃を置いた。


家康「しかし、それは頼朝殿だからこそ。

早雲殿が申されていたように、頼朝殿ご自身は大業を成し遂げても、自覚を持っておらぬ。


完膚なきまでの敗北は、やはり生き恥じゃ……

そのようなものに、何ができよう」


指先で盃の縁をなぞり、ふっと自嘲の笑み。


家康「敗軍の将に天下の鍵を託されるなど、畏れ多き事……」


お市の方は静かに、家康の視線を受け止めた。

そのお市の眼差しに、二十年以上の憂いを湛えた柔らかさが灯る。


お市「家康様は、変わりませんね……

昔から何をされるにも、不安ばかり。


”生き恥”など、この後何年経っても、家康様のお心から消えることはございませぬ」


お市の方は意地悪く笑った。

しかし、不思議と家康の背中を押してくれる言葉でもあった。


挿絵(By みてみん)


家康「そうであったな……変わらぬか、某は」


お市「はい、家康様は、家康様です」


お市の方は、家康の全てを知り受け入れる、暖かな眼差しを向けていた。


家康は、炉の火を見つめながら、穏やかに続けた。


家康「宝殿……ご自身は気が付いておらぬが、“日ノ本すべて”を護る策に通じるかもしれぬ……

世のことわりに心を痛めながら過ごされた義道殿の志が、宝殿へ継がれておる。


拙者も”生き恥”を捨て、謙虚に学ぶ覚悟も、必要かの……お市殿」


宿の部屋を照らしていた夕暮れは、今や力無く障子に面影を映すだけとなっていた。


お市「まるで、母に尋ねる子供のようですね」


ふふっと、お市の方が微笑む。


家康は立ち上がり、障子を開き、微かな夕暮れを目に入れる。


家康「そうじゃな……お市殿の前では、某はあの時のままかも知れぬ。

……そなたと過ごした、あの幼かりし日々。


覚えておるか、お市殿。

『三河へ行ったら、美しい桜を教えておくれ』

——お市殿はそう言われた」


お市の方は家康のそばへ、ゆっくりと歩み寄った。

家康と同じ景色を目にしながら、静かに口を開いた。


お市「わたくしは、忘れた事はございませぬ。

奇しくも今、丹後で“桜”を共に眺めておりまする」


挿絵(By みてみん)


夕暮れの空が星に染まるまで、二人は空を眺めていた。


いつしか、二人の眼差しが交わった。

家康は風で靡くお市の方の髪を指で整えると、胸へ引き寄せた。


家康「敗北で背負った塵、この風に洗い流して欲しいものよ……

なおも自らの未熟さを恥じ、重大な決断を恐れておる。


しかし、その胸中を打ち明けられるのは、そなたただ一人じゃ」


お市は頬を染めたまま、少しだけ首を傾ける。

長い睫毛が春の光を掬い、視線は真直ぐに家康だけを映す。


お市「恐れは、人の心を締め付けます。

でも──分かち合えば、胸の内にぬくい力が灯りましょう……」


家康の手がお市の肩を包み、やわらかく頬へ触れた。


その瞬間、ふたりのあいだに言葉は要らなくなった。

静かな吐息と、互いの鼓動だけが、夜の静けさを震わせていた。


挿絵(By みてみん)


二人の間に流れてきた数十年の時が、静かに一枚の花弁となって散る。


***


いつしか炉の火は尽き、日の出を告げる、優しい鳥の囀りが聞こえていた。


お市は家康の肩に頬を重ね、まだ熱の残る胸の中で目を閉じている。

家康はゆっくりと襖を閉ざし、外気を遮ると、その髪を撫でた。


家康「……夢のようじゃ。

お市殿と、このように共に過ごせるとは……


これも頼朝殿のお陰、であったな」


家康は、肩をすくめて大きくため息をついた。


お市が、ふくれたような表情を家康に向ける。


お市「まあ、ため息をつかれて……後悔されていらっしゃるのですか?」


家康は、そっとお市の手を取る。


家康「そのはずがなかろう。


お市殿と某を結びつけてくれたのだ——

頼朝殿の志、桜が散るまでにはこの身で受ける、その覚悟を決めねばならぬの。


そう思うたら、ため息が出たのじゃ……」


家康は、お市をふたたび自らの胸に引き寄せる。


家康「そなたが示してくれた想いも胸に、必ず、頼朝殿の望みを継ごう。

多くを失ったが、何よりも、そなたの想いを得た」


お市の身体が、かすかに震えていた。


お市「覚悟を決め、女の幸せは捨てておりました。

しかし思いもかけず、幼き頃からの想いを……遂げる事ができました。


わたくしも、家康様の歩まれる道を共に参りましょう。

たとえいばらであれ、春の桜を胸に……」


障子の向こう、黎明の光がわずかに差し込む。

寄り添う二つの影の向こうで、満開の桜が春の日差しに包まれていた。


挿絵(By みてみん)

お読みいただきありがとうございました。


満開の桜の下、家康とお市の方が結ばれました。

その同じ桜が散る前に——

家康は、頼朝の志を受け取る覚悟を決めました。


場面は、頼朝の出陣へと移ります。


この後の展開も、どうぞお付き合いくださいませ。

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