51-6 末恐ろしき軍人
信長を追いつめながら、守ってきた——ついに、本願寺と鈴木家が軍を動かした。
頼朝の「滅ぼさぬ」誓いが、早くも試される。
まだ心は決まらぬまま——
それでも家康は、一歩を踏み出す。
お市「我々は対織田を旗印に、多くの武家とよしみを結んでおります。
さらに我が軍の重鎮の一人・源頼光様は、本願寺顕如様のご息女を娶っております。
……兄を攻めるな、と、我が軍は表立って申し立てる事はできませぬ」
家康「長島や越前での一向宗徒の恨みを、本願寺顕如は……」
お市「……忘れぬ、でしょう……」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
家康はしばらく腕組みをしながら、考え込んでいた。
家康「信長公が目指されていた天下布武と比べ、頼朝殿のお考えが甘い――お市殿が頼朝殿に申されていたのは、まさにこういう事じゃな。
……某や、信長公にかける温情こそが、頼朝殿を苦しめているのやもしれぬ」
お市の方は、手元の茶器に目を落としながら、静かに頷いた。
家康は、宝に向き直った。
家康「じゃが、宝殿……。
わしが言える立場には無いが……なすべき事は、決まっておるであろう」
宝は家康に突然顔を向けられて、少しだけ驚く。
しかし、家康の意向を汲み取ったのか、落ち着いて静かに頭を下げた。
宝「恐れ入ります……家康様。
大変失礼ながら、家康様の領に兵を向けたのと同様、筒井家と織田家に、侵攻するしかないでしょう……。
本願寺顕如様に対しては、援軍としての体を整えて出陣。
信長様を捕らえましたら、我が領内の捕虜としての扱いを顕如様にご承諾頂く。
家康様も、同じお考えですか」
家康「そうじゃ。
ただし、信長公が、臣従するかどうかはわからぬがの……。
少なくともお命をお守りすることはできるであろう」
宝「そうですね……。
家康様の領内に兵を進めた時と、状況は似ております」
宝の目は家康に向けられているが、眼差しは遠くを見据える。
家康はそのように感じた。
宝「いずれ関東が乱れ、北条氏政様、武田勝頼様も家康様の領を狙うのは必定でしたので……
西も、この先乱れまする」
家康の眼差しが、わずかに鋭くなった。
遠くを見ていた宝の目を、静かに射るように。
家康「武田や北条であれば、某はもう少しましな戦いをしたであろう……」
宝は家康の言葉にはっとした。
遠くを見ていた眼差しが、目の前の家康に移り、慌てて平伏した。
宝「も、申し訳ございません!
甘えてしまい、調子に乗った発言を……お許しくださいませ!」
家康の眼差しが柔らかくなる。
ゆっくりと宝に近づいた。
家康「そうではない、宝殿。
相手が宝殿でなくば、負けはせぬ――そんな負けよしみの一つでも、申したかっただけじゃ」
宝は恐る恐る顔をあげた。
家康「さあ、急がれよ。
頼朝殿との話に同席いただき、さらに茶まで味わえた。
某への気遣いは、もう十分じゃ……」
宝は家康とお市の方に一礼をして、茶道具そのままに、茶室から走り出て行った。
しかしすぐに、慌ただしい足音が茶室に響く。
ふたたび茶室に宝が顔を出した。
宝「いずれにしましても、家康様。
良きお返事をお待ち申し上げております!!」
再び一礼をして、あわただしく走り去った。
源宝の後ろ姿を追いながら、家康がお市の方に語りかけた。
家康「不思議な女子じゃ。
可愛らしく、臆病、それでいてわれらと異なる世界に生きておるようじゃ――
確かなことは、末恐ろしき軍人、ということ」
家康は、小さく苦笑いをした。
家康「頼朝殿、義経殿だからこそ、用いられるのであろう。
某は、そこも遠く及ばぬ……」
しばらく間があった。
家康の目が、何かを探すように、遠くへ向いた。
家康「のう、お市殿。
頼朝殿は、なぜああもご自分を追い込むのであろうか。
病身であっても、ご立派な方であった。
また早雲殿が申されていた――頼朝殿ご自身が意識されずとも、なかなか成し遂げられぬことを、いとも容易く進めておると」
お市は、しばらく言葉を探すように、視線を窓の外に向けた。
お市「見え過ぎていらっしゃるのではないでしょうか……ご自身も、世の中も、人の業も……
今の時代にいらして、少し希望を持たれました。
しかし結局は……失望されて……
吾妻鑑にてお知りになられた安寧の世の行く末――それも、残酷だったのかもしれませぬ」
家康は大きく息を吐いた。
家康「確かに……残酷じゃな……」
お市の方に目を向け、苦笑いを浮かべる。
家康「まだ心は決まらぬが、頼朝殿に何かあった際には、必ず義経殿をお支えはしよう」
家康は椀に残った最後の茶を口にし、大きく息を吸ってから語りかけた。
家康「のう、お市殿……頼みがある……」
お市「まあ、このような年寄りに」
家康「先ほどは麗しき女子、そう申しておったばかりでは無いか」
お市は微笑みを浮かべながら、家康に言葉を返した。
お市「今更そのような事を申されて、何をお考えなのですか」
家康は軽く咳ばらいをして、意を決したような面持ちをお市の方に向けた。
家康「少し旅に出たいのじゃが……良ければ、ご一緒いただけぬか。
兄上・信長公の危機ゆえ、それどころでは無いかもしれぬが……無理強いはせぬ」
お市の方の微笑みが消えた。
訝し気な眼差しを家康に向ける。
お市「どちらまで、この私を拘束されるおつもりでしょうか……」
家康「丹後……一色義道殿と話をしてみたいのじゃ。
宝殿のお父上に、一度お目にかかりとうございます」
家康はお市の方に頭を下げた。
家康の額に、汗がにじんでいる。
その家康の様子を見ながら、お市の方の頬が緩んだ。
お市「かしこまりました……我が軍団の一大事でございます。
この老女がご一緒して、家康様を説得せねばなりませぬ」
家康はほっと息をついて、額の汗をぬぐった。
家康「かたじけない。
この世で最も麗しき女子と旅が出来申す!」
お市は、再び家康と目を合わせ、微笑んでいた。
お市「では、すぐにでも参りましょう」
二条城の中は、家臣たちが右往左往する足音で、空気が張りつめていた。
茶室から人影が消える。
それでも茶道具からは、かすかな湯気が静かに昇っていた。
お読みいただきありがとうございました。
「まだ心は決まらぬ」——それでも家康は、丹後へと向かいます。
一方、二条城では、頼朝を長く支えてきた羽柴秀長と太田牛一が、はじめて宝と向き合います。
この後の展開も、どうぞお付き合いくださいませ。




