51-1 生き恥
蒲原城が開城した。
頼朝との謁見も、承諾した。
しかし家康の胸には、怒りが残っていた。
一方的に攻め込まれ、多くの血を流した。
幼き女子の軍略に、手も足も出なかった。
それでも、頼朝軍は「安寧の世」を唱える。
腹が立つ。
――それでも、会いに行く。
家康の胸に渦巻くものとは、何か。
家康は義経たちを城門まで見送った。
開城とともに、家臣達と築き上げてきた"徳川家"の幕引きとなる。
家康は、城門を見上げた。
敵を跳ね返すべく頑強に作られた城門は、無傷のまま、静かにそびえ立っていた。
城門の先に目を向ける。
野営している頼朝軍の数多くのかがり火が、夜の闇を明るく切り取っていた。
家康「城門を、閉じよ」
傍らの兵に、静かに言った。
徳川兵「よろしいのでございますか……」
家康は答えなかった。
ただ、もう一度言った。
家康「閉じよ」
蒲原の夜を引き裂くように、鉄と鉄がぶつかる音が響いた。
新造したばかりの城門が、全重量をかけて閉ざされた。
義経の陣営まで、その音は届いたであろう。
家康には、それしかできなかった。
城の外のかがり火とは対照的に、蒲原城の灯りは少ない。
その暗い廊下に、音も無く立っていたのは、本多忠勝と、生涯を通じた腹心・石川数正であった。
三人は言葉なく、先ほどの部屋に戻った。
消えかけた蝋燭が、置かれた床几をかすかに照らしている。
家康は忠勝をあらためて見た。
家康「……そなたが怪我をするとは」
忠勝「身体が凍えて、動かなかっただけでござる……」
しかし、忠勝は顔を上げ、ニヤッとした。
忠勝「よき敵に巡り合えました」
家康は、フッと息を漏らす。
家康「もう、敵、ではないがな……」
今にも消えそうな灯は、皮肉交じりの家康の表情を照らす力はなかった。
家康「忠勝の身体を動かぬように凍らせた。
それも、敵の軍略……」
小姓があらたな灯を運び入れる。
忠勝は口の端を上げて、家康に返す。
忠勝「敵、ですかな」
家康「……黙らぬか、忠勝」
二人は目を合わせて、わずかに微笑んだ。
家康「我らをここまで追いつめたのは、義経ではなかった。
義経とともに、幼き女子がおったであろう」
数正「婚姻でよしみを結ぼうと、姫を連れて参りましたかな」
数正の言葉を耳にして、家康の目線が変わった。
家康「その方が、わしは救われたかもしれぬ。
刈谷から、ずっと先を読まれておった。
我らの罠も、伏兵も、最後の意地すら——
すべて、その”姫”に透かして見られておった」
数正の表情がこわばる。
数正「それはまた……悔しいですな……」
家康「その通りよ、数正」
家康は床几から立ち上がり、城下の義経たちの陣営に目を落とした。
家康「しかも、この場の空気に威圧され、声が震える臆病な女子であった……。
しかし、わしは——
そのものに、戦で負けただけでは無い」
家康は目を閉じる。
家康「声を震わせながら、怯えながら——
それでも、かの者は言葉を紡いだ。
敵の命も、味方の命も、等しく惜しむと。
……その言葉に、心を動かされてしまったのだ」
家康は、自ら苦く笑った。
家康「これほどの屈辱があろうか、数正」
数正も同調する。
数正「まさに……」
数正はしばらく黙ってから、口の端を上げた。
数正「きっと、臆病者同士、心が通じたのかもしれませぬな」
家康は振り返り、数正を睨んだ。
しかし、目が合った瞬間、ふたりの表情が和らぐ。
家康「そうかも、しれぬな……」
家康は自嘲的に息を吐き、再び外に目を向けた。
家康「頼朝は、本当にいるのであろうか」
忠勝「義経、北条早雲、そしてどうやら戦場には太田道灌もいたようで。
道化たちの軍勢とも思えぬ。
頼朝がいても、おかしくはないでしょう」
家康「そうではないのだ、忠勝。
吾妻鏡の頼朝は、強き野心を持ち、権勢を追及する人物であった」
忠勝と数正は、灯が揺らす家康の背中を見つめていた。
家康「それが、戦や政を知らぬ若き世継ぎが語るごとき、美しき世を唱える。
その上、わしに軍団を引き継ぐために、攻めてきたとも言う。
——天下の安寧のため、自らが罪びととなるそうだ」
ふたたび二人の近くに歩み寄る。
数正「それで……殿は頼朝に会うと仰せになるのか」
家康は、フッと息を吐き、数正に答えた。
家康「それも、ある。
しかし、数正。
わしらはいったい、何と戦ってきたのじゃ。
奇麗ごとを唱える。
そのような軍に歯が立たぬ。
幼なき女子が鎧をまとう。
それが、あの大軍を率いる軍師となる。
一方的に他国の領内に進軍し、多くの血を流させる。
それが、日ノ本の安寧を唱える。
……そして」
家康は、言葉を切った。
蝋燭が、小さく揺れた。
家康「生き恥に耐えるものに、ともに力を尽くそうと手を差し伸べる——
屈辱以外の何物でも無い」
誰も、答えなかった。
蝋燭が、もう一度、小さく揺れた。
しばらくの沈黙ののち、家康がゆっくりと口を開いた。
家康「……だが」
忠勝と数正が、家康を見た。
家康「道化であっても、ここまでの力を持ち、家臣達が口をそろえて奇麗ごとを語るのであれば、もはや道化とはいえぬ」
家康は蝋燭の揺れる灯に目を移した。
数正「……」
数正は、言葉が見つからなかった。
家康「まずは、会って話を聞いてみたいのじゃ……」
家康は、蝋燭の火をなおも見つめていた。
数正「殿のお気持ち……理解いたしました。
しかし、体のいい言葉を並べて、殿を京で亡き者にしようとの企みでは……」
数正の言葉に、忠勝の眼差しも厳しくなった。
家康「そうかもしれぬ。
だが、わしの首を取ろうと思えば、簡単にできたであろう。
何より、お市様が嘘を申しているとは思えぬ」
家康は、目線を二人に戻した。
力が抜けたように、肩をすくめた。
家康「いずれにせよ、今の我らは——
生き恥をかかされている負け犬じゃ。
京で殺されようが、今からここで腹を切ろうが、大差なかろう」
蒲原の空は、白み始めていた。
かすかな空の色であっても、外から入り込む光は、かすかな蝋燭の灯を無力にした。
家康は言葉を発せず、義経陣営に再び目を向けていた。
お読みいただきありがとうございました。
屈辱を胸に、それでも城門を閉じることしかできなかった家康。
奇麗ごとを唱え、幼き女子を軍師に据え、それでも圧倒的に強い頼朝軍。
臆病な宝が紡いだ言葉が、不本意にも心に残る。
怒りも、困惑も、諦観も——
すべてを抱えたまま、家康は二条城へ向かいます。
消えかかる命の灯の前で、頼朝は何を語るのか。
家康は、頼朝の胸の奥に何を見るのか。
この後の展開も、どうぞお付き合いくださいませ。




