50-8 家康の絶望と光
静かに義経たちを迎える家康。
敗軍の将としての覚悟を固めていた。
この期に及んでかけられる温情など、屈辱でしかなかった。
義経の軍略に負けた――
そう信じていた家康に、義経は首を横に振る。
──家康の前に跪くのは、少女の面影が残る頼朝軍の参謀・源宝。
静まり返った蒲原城内。
城内は暗く、案内する兵の灯火を追い、部屋に辿り着いた。
部屋の中の灯は、僅かに、家康とお市の方の輪郭をあらわしていた。
案内役の兵が、もう一つの蝋燭に灯を入れる。
拒絶も歓迎も無く、家康は義経たちを目で追っていた。
そして、家康の目は、幼く見える宝に、一瞬留まった。
──しかし、すぐに義経と早雲へと目を戻す。
頼朝軍の使者として、なぜ少女が同行しているのか。
家康は、その疑問を一旦、胸の奥に押し込んだ。
家康「まずは、敗軍の将への心遣い、礼を申し上げる。
最期にお市様と語る機会も頂けた。
……思い残すことは、無い」
家康は、ゆっくりと頭を下げた。
義経「家康殿、またお話ができて、何よりでござる」
家康「一年以上、敵として戦って参った。
ずっと、義経殿への恐怖との戦いであった……」
軽く息を吐く。
家康「できれば、悪夢の張本人と顔を合わせたくなかったがの……」
家康はお市の方に目線を移した。
家康「敗者への哀れみは、ご容赦願いたい。
……しかし、お市様の願いゆえ、お迎えいたした」
敗軍の将。
かつては義経もそうであった。
すぐに返す言葉が見つからなかった。
家康「それにしても……。
一連の進軍の妙と軍略。
さすがは、伝説の軍神・義経殿であった……」
義経は首をゆっくりと横に振った。
義経「そうではないのだ、家康殿」
目線を宝に移す。
宝はバツが悪そうに目線を落としていた。
義経「ご紹介が遅れ申した。
我が軍の参軍、宝と申す者」
先ほど目に入った、少女の様な佇まいの女武将。
怯える様に、うつむいている――
家康の目には、その様に映っていた。
義経「宝殿、挨拶を」
宝は慌てて家康に頭を下げる。
自らを落ち着けようと、深呼吸を繰り返している。
家康「参軍――そう申されたか」
宝は、ますます顔がこわばる。
宝「わ、わたくしは……
丹後一色家・義道の娘、源頼朝の養女、宝と申しまする」
言葉が、つかえる。
宝「おそれながら……遠征軍の、参軍を、務めております……」
義経「我らの軍略は全て、この者がたてた。
拙者は、従っただけでござる……」
家康は、宝から目が離れなくなっていた。
蝋燭の灯が、その家康の横顔を揺らす。
ふと、思い出した様に、義経に向き直った。
家康「数々の降伏勧告の書……あれも、宝殿か……」
宝「も、申し訳ございません……。
非礼の段は、なにとぞご容赦を」
家康が怒っているとでも思ったのか、宝は慌てて膝をついた。
しかし、家康は宝のもとに歩み寄り、その手を取って、身体を起こした。
家康「面を上げられよ、宝殿。
非礼どころか――文面はまことに整い、引用も興味深かった。
敵ながら、感心していた次第」
宝「はあ……」
家康の言葉に、宝は首を傾けた。
義経に目線を送る。
どのように返答したらいいか分からず、困った、といった眼差しであった。
義経は軽く首を横に振る。
その宝を見ていた家康は、ゆっくりと息を吐いた。
家康「わしは……このものに手も足も出なかった。
……そういうことであったか」
誰に語るでも無く、家康はつぶやいた。
自らの床几に戻り、諦めた様に義経に目を向ける。
家康「義経殿。
本題の前に、話過ぎたようじゃ。
して、御用向きとは」
義経「我らの願いは、一年前と変わりませぬ。
我らに従ってはもらえぬか、家康殿」
家康の面持ちが、また重くなる。
家康「領地、兵、家臣たち、その多くはすでに頼朝殿の手の中。
今更、この負け犬は必要無かろう」
お市の方は、静かに揺るぎなく語る家康の横顔を見つめていた。
お市「何卒、お考え直しを……家康様」
家康は頑なに首を横に振る。
そこに義経が前に進み出た。
義経「兄・頼朝の思いを、聞き届けていただけぬか……。
見ての通り、この軍団は、古のものたちが多い。
我らは、天下の安寧を目指して惣無事令を発布し、その後は、今の時代を生きるものに軍団をお渡ししたい。
そして我が兄は――それを家康殿にお願いをしたいと考えているのです」
義経を訝しげに見ていた家康。
少しすると、突然笑い出した。
義経「可笑しいですか、家康殿」
家康「……面目次第もござらぬ。
しかし、いよいよおかしき事をお聞きした」
宝に目線を向ける。
家康「完膚なきまでに負けたのだ。
そのようなものに、一体何ができるというのだ」
低く静かな声であった。
しかし、逃げ道を塞ぎ、敵意すらこもっている圧力を、義経は肌で感じた。
そこに、家康の前に進み出て、膝をついたのは宝であった。
宝「いえ、家康様は、強くございました。
わが軍は兵が多く、弾薬に恵まれ、天候にも恵まれました。
それで、何とかなっただけでございます。
私も、我が殿と同じく、家康様こそ、ふさわしき方と存じます……!」
家康「有能な軍師にそのように言われるのは、うれしき限り。
だが、今宝殿が申されたこと、全て承知で我が軍は挑んだ」
家康は立ち上がり、宝に近寄る。
家康「勝てるとは思わなかった……。
しかし、地の理を生かし、策を整え、少しは押し戻せる。
そのはずであった。
それが――
我が渾身の策はことごとく見抜かれ、覚悟は見事に打ち砕かれた。
最後は、死をも恐れぬ精強な兵たちが、敵軍の槍ではなく、恐怖で瓦解した。
並々ならぬ意地と覚悟で挑んだ。
それでも、何も出来なかったのだ。
もう……良かろう」
しかし、宝は体を震わせながらも、言葉を続ける。
宝「私は……作戦の紙を広げるたびに手が震え、舟が沈む夢ばかり見ておりました。
家康様の策に怯える、小心者です。
そして、あれだけの忠義を見せる兵たちの強さ。
日頃の優れた統治がなされている証拠です。
それでも、兵の命と殿のお志を思えば……必死に考えねばなりませんでした。
どうか、お考え直しを、家康様……!」
ただ怯えている様子で、声も震えている少女。
しかし、その少女の発する言葉に、逃げ道はなかった。
家康は、ため息まじりに、つぶやいた。
家康「……『謀は深く、貌は弱く』か」
戦国の常識として、家康は宝をそう理解しようとした。
しかし、宝は静かに首を横に振った。
宝「いえ、家康様……。
謀として『弱く』を演じているのであれば、よろしいのですが――
私は、本当に、怖いのです」
家康は、思わず吹き出した。
家康「いや、これは失礼。
何とも不思議な方よ……。
全てが、わしの予想を超える。
これでは勝ち目も無い。
そうであろう――義経殿」
義経は、家康に頭を下げた。
義経「恐れ入ります」
家康は再び口を開いた。
家康「……徳川は『強き将』を掲げ、『怯む者』を叱り上げて参った。
だが頼朝殿は、『怯えをも刃に換える才』をさらけ出させ、活かす場を与えた──。
そのことが、儂らを凌いだか」
家康は、宝を見据えた。
戦国を生き抜いてきた家康の中で、何かが、静かに崩れていく。
家康「『強き、弱き』とは何たるか――考え直さねばなるまい。
今、わしの前で土下座している少女は、見た目こそ、か弱きもの。
しかし、この少女が、頼朝軍をかくもおそろしきものに変えたのじゃからの……」
そのまま、義経へ視線を向ける。
義経は改めて一礼し、静かに口を開いた。
義経「家康殿、実を申せば、兄──頼朝は、もはや長くはない」
家康は眉をひそめた。
義経「家康殿、二条城へ参じ、兄と語り合ってはくれまいか」
家康は、宝とのやり取りで、固く閉ざされた決意が揺らぎ始めた様子であった。
しかし、返答には窮していた。
家康「この家康に軍団を引き継ぐため、天下静謐のため。
――そのように申される。
しかし、一方的に攻めて来たのは、そちらじゃ。
捕虜を殺さぬとはいえ、多くの将兵が流した血も無視できぬ。
すぐには、合点が参らぬ……」
それまで黙っていた早雲が、口を開いた。
早雲「ごもっとも!
だが、他に方法がなかった事も、お分かりいただけよう。
頼朝殿は、“過去の亡霊”として業を背負い、日ノ本の安寧を成し遂げる。
そして、その罪を地獄へ持っていく。
その覚悟で、此度の出陣も決められたのじゃ。
血が多く流された。
その深き、重き罪を、自らが背負う。
罪を背負ってでも、天下安寧への道筋をつけたい。
それが、自らを鬼とした、頼朝殿の覚悟。
そして徳川殿――
そなたが、後の世を灯す灯籠となって欲しい」
家康は腕を組み、長く目を閉じた。
瞳を開けて、静かに語り始める。
家康「今の話だけで、頼朝殿の全てを理解することはできぬ……。
しかし――
おぬしらの話で、少なくとも頼朝殿と話をしてみようと、そのように考えるに至った」
再び家康は目を伏せ、しばらく一点を見つめた後、再び口を開いた。
家康「ただし──わが家臣・領民、いかなる者も、処罰・改易はお許し願いたい。
すべて、今まで通りの安堵を約されよ。
……その上で、京へ参る」
家康は、義経に跪いた。
家康「強きも弱きも活かす政が何か──
頼朝殿の覚悟というものを、頼朝殿に直接、問いとうございまする」
お市の顔が、ようやく和らいだ。
お市「お待ちしております、家康様。
何卒、一日も早く頼朝様とお話しいただきますよう、伏してお願い申し上げます。
頼朝様のご容態は、日に日に悪化しております……」
家康「もう一つ、お聞きいれいただきたい」
宝に顔を向けた。
家康「頼朝殿と話す際、その名軍師殿の同席も、お願いしたい」
宝はまたたじろぎ、義経の顔を見る。
義経は優しく頷いた。
宝「は、はい!
私でよろしければ……喜んで、義父上とともに、お待ち申し上げております!」
家康の頬に、一瞬、少年のような笑みが浮かんだ。
お読みいただき、ありがとうございました。
宝以上に兵法書に通じ、幾多の困難を退けてきた家康。
しかし、家康の心を動かしたのは――
少女のような、宝の臆病さでした。
いよいよ、頼朝の死の足音が、日に日に大きくなります。
家康は頼朝と語り、何を思うのか。
頼朝もまた、家康を、相応しき者と見なすのか。
この後の展開も、是非お付き合いくださいませ。




