50-6 父の刃と心
かつて、頼朝軍が信濃に援軍を送った時――
主力を欠いた本領は、織田の波状攻撃に晒されていた。
その滅びの一歩手前を、生死の狭間で耐え抜いたのが、ほかならぬ義経と梓。
秋山信友は、頼朝軍への恩義を必死に伝える。
信友の言葉を耳にして、勝頼は刀を収めた。
しかし、次の瞬間――
勝頼は、梓の襟をつかみ、主戦派の武田信豊の前に、梓を引きずり出す。
──陣幕の中。
時が止まったかのような、静寂であった。
丸腰の娘に、冷酷に刃を向ける父。
その場の誰もが息を吞んだ。
それでも梓は勝頼を見据える。
梓「我らとて、南信濃を守るため、危うく滅びるところだったのです。
私と義経様は武田のため、織田の波状攻撃を、死を覚悟して凌いでおりました。
しかしーー
このような腑抜けた武田のために、我が軍が多くの血を流していたとは」
梓の目には涙が浮かぶ。
しかし、勝頼は刀を収めず、梓を睨みつける。
そこに、秋山信友が進み出た。
信友「あの時、東美濃の織田軍を追い払わねば、頼朝様は信濃には援軍を送れなかったのです。
我が軍を救うため、頼朝様は自国の危険を承知で、主力を率いて織田を突破された。
しかし、家康は織田に密書を送り、織田は総力を上げ、主力が出払った美濃に攻めかかったのです。
それを命がけで食い止めたのが、留守居の義経様と梓様。
愚弄しているのは、恩知らずな我らじゃ!」
昌景がまた立ち上がる。
昌景「まだ言うか、信友!」
勝頼「やめぬか!」
勝頼は、刀を収める。
しかし、次の瞬間――
勝頼は、梓の着物の襟を掴んだ。
家臣たちの間に、息を呑む音が走る。
勝頼は構わず、力ずくで信豊の前まで梓を引きずった。
常に冷静な梓も、困惑した面持ちで、勝頼に引きずられていた。
勝頼「……信豊。
ここで梓を斬り、頼朝殿と戦うか。
貴様が決めよ」
勝頼は、さらに力を込め、梓を信豊の前に押し出す。
信豊は、顔をそらし、拳を強く握り締めた。
刀の先は、震えていた。
陣幕の中の、誰もが息を呑む。
そして――
信豊は、刀を地に叩きつけた。
鋼が、雪混じりの土を打つ重い音が、陣幕の中に響き渡った。
その信豊の様子を見た勝頼。
梓を掴む手を離した。
その勢いで梓が倒れ込む。
梓に構わず、勝頼は自らの立ち位置に戻る。
勝頼「退却じゃ! 陣を引け!」
昌景「お館様!」
勝頼「では、いかがいたす、昌景」
勝頼は昌景の前まで進む。
昌景の胸ぐらをつかんだ。
さらに武田の諸将の空気が張りつめる。
勝頼「……覚悟はあるのか。
たかが小娘の言葉に激情して、川向うの鉄砲隊に突撃をかけるか。
勝てぬ戦を仕掛けるつもりか!」
昌景は勝頼の手を握り返し、その手を胸ぐらから離した。
身体を震わせながらも、勝頼に頭を垂れた。
昌景「お館様の、御意のままに……」
勝頼は昌景の手を離し、再び家臣の前に進み出る。
勝頼は言葉を発した。
勝頼「皆の者、下がれ。
梓と話をさせよ」
各々異なる表情を浮かべながら、武田家臣は勝頼に一礼し、その場を去った。
陣幕の中は、父娘だけが残された。
風が、陣幕を揺らす音だけが響いていた。
──その瞬間。
梓は、糸が切れたように崩れ落ちた。
梓「父上……申し訳ございませぬ……お許しを……」
背中を震わせながら、地に頭をつけている。
勝頼は、梓の手を取り、体を起こす。
梓の濡れた頬を、指で拭う。
勝頼「梓……力なき父を許せ。
家臣たちを従えることができぬ、愚かな君主。
そなたは、それを感じ取ったのであろう……」
梓「大変な無礼を……
しかし、あれ以外に方法が……」
勝頼「わかっておる、梓。
さすがは、我が娘……そなたの言葉は、わしの奥底にしまわれた言葉、そのものであった」
梓「父上……」
頼朝軍の中で、常に批判と不信感に晒されていた、自らの父・勝頼。
その父が歩んできた難しき道のりを、梓は目の当たりにしたように思えた。
しかし、目の前の父は、梓が幼き頃に憧れの念を抱いていた父そのものだった。
勝頼「義経殿は達者か……」
勝頼の眼差しも、父の目に戻っていた。
梓「はい……。
でも、軍が急に大きくなりました。
義経様から離れ、一軍を率いております」
勝頼「そうであったか……そなたの率いる鉄砲隊には、誰も叶うまい」
勝頼は立ち上がった。
勝頼「早く戻るが良い。
悔しいが、家康は強い」
梓は父に深く一礼をして、未練を断ち切って去ろうとする。
勝頼「梓……」
勝頼は、陣から出ようとする梓に、再び声をかけた。
勝頼「信豊や昌景は、そなたの祖父──信玄公の心を、何よりも大切にしておる者たち。
責めるでない」
梓「わかっております……父上」
勝頼は、再び梓に歩み寄った。
勝頼「しかし、今の武田……頼朝殿のおかげで生きておる。
だが、これを生き恥と考えている者も多い。
そして――」
勝頼の眼差しが変わる。
勝頼「わしも……そう思っておる」
梓「……父上、そのような事は……!」
勝頼は、目を閉じた。
しばし、何かを呑み込むような沈黙があった。
そして、再び娘の目を見据える。
勝頼「良いか、梓。
頼朝殿が目指す世と、武田が目指す世界が異なる時は──淘汰せよ」
梓「父上、何をおっしゃるのです……」
勝頼「此度は引く。
しかし、そうもいかぬ時が、必ず来る。
そなたの祖父・信玄の遺志を、家臣たちは捨てぬ。
何より――」
勝頼の眼差しは、さらに厳しいものとなった。
勝頼「わしも……捨てきれぬ……」
そして、父親の眼差しに戻る。
口調が柔らかくなる。
勝頼「その時は――迷うでない」
梓は、急いで父の手を取った。
梓「我が軍は、武田を守るためにいるのです。
そのような事は」
勝頼「そなたは、武田の娘である前に、義経殿の伴侶。
我らが頼朝殿の目指す世の妨げとなる時は、排除せよ。
それが、そなたの為すべき事ぞ」
勝頼は、梓を抱き寄せた。
勝頼「それもわからぬような……愚かな娘に育てた覚えはない」
梓は、父の胸に顔を埋めながら、頷いた。
それしかできなかった。
父の胸の温もりは、幼き日と変わらぬはずだった。
しかし、その温もりの中に――
梓は、父の心に流れる、深い諦念を感じ取っていた。
風が、陣幕の外で、雪を巻いて吹いていた。
お読みいただきありがとうございました。
安寧の世を目指す頼朝軍。
信玄公の覇道を、捨てきれぬ武田の家臣たち。
……それぞれの、異なる正義と覚悟。
梓は、頼朝の苦しみも、勝頼の苦しみも、等しく胸に刻みながら、戦線へと戻ります。
次回――
お市の方を伴い、北条早雲が、蒲原城を包囲する義経のもとに現れます。
この後の展開も、是非お付き合いくださいませ。




