79話 声は返らない
疲れと眠気はピークに達していた。
アシェイリスを出て、イェト国へ向かう間。
何度ケルピーの上から落ちそうになったか分からないくらいである。
だが問題はない。
今の俺でもラウニスを殺すくらい造作もないことだ。
それにもう目の前なのだから。
リーン四精教北方支部。
その白亜の大聖堂は。
「当教会にどのようなご用件でしょう」
内開きの大きな門をくぐり抜けた聖堂内部。
四色のステンドグラスから漏れる光を浴び、神聖ともいえる空気を纏った見慣れぬ美女がそこにいた。
その声は甘く耳朶をくすぐり、放たれる香りで脳が蕩けそうになる。
並みの男であれば、それだけで我を忘れかねないほどの女だ。
彼女も当然ながらリーン四精教の人間らしく、緋色の聖職者服に身を包んでいる。
しかし包みきれない豊満な胸と尻。
厳粛なこの場にあって、匂い立つほどの色香を撒き散らしていた。
こんな時でなければ、いつものように俺はお誘いを躊躇わなかっただろう。
そう。こんな時でなければだ。
俺の心は未だに怒りで燃え上がっているし、それは無限の性欲を押さえ込むほどのものなのだ。
だからありえない。
彼女を見た瞬間、すでに俺のマイサンは第一種戦闘態勢に移行してしまっている。
そんなことはありえないのだ。
平時ならば。
そこらの男であるならば分からなくない。
いっそ禍々しいと言えるほどに、目の前の女は妖艶なのだから。
だが性欲を支配下に置き、怒りで満たされている今の俺。
それがここまで興奮するなど、ありえる筈がないのである。
「何者だお前」
そんな俺の口から飛び出したのは、ベッドへの誘いでも口説き文句でもない。
警戒を露にした、敵対者への言葉だった。
そのことに、目の前の女は少しだけ眉をひそめた。
まるで俺の問いかけが意外だとでも言うように。
「私を抱きたいとは思わないのですか?」
「思うん!」
ガツンと、頭と股間に衝撃を感じるような思わぬ言葉だったが、俺はギリギリで踏みとどまった。
なんとか致命傷は免れたが、今でなければノックアウトされていただろう。
改宗やむなしである。
だが、逆にそのことが俺の頭を冷静にさせた。
「ラウニスはどこだ? お前は知っているな?」
こんな場所で突然のお誘い。
しかも会ったこともない絶世の美女からである。
これは間違いなくアレだ。
今まで散々引っかかってきた、時間稼ぎという奴だ。
時間稼がれのプロである俺は、すぐさま気付いてしまう。
さすがである。
しかし時間稼ぎを試みたということ。
それはつまり、この女は俺の目的もラウニスの居場所も知っているということに他ならない。
「……くひっ」
一瞬。
女の顔が酷く邪悪に歪んだ。
それすらも美しいと思わせられたことに、鳥肌がたつ。
「素敵ですね。少しだけ、おヘソの下辺りが疼きました」
言いながら女は目を細め、腹の下を撫で擦っている。
思わずその仕草に目を奪われ、俺の頭に警鐘が鳴り響いた。
コイツは危険だ。
まともに見ていたら、いつの間にかベッドインしかねない。
そんなことをしている場合じゃないのだ。
意識的に視線を逸らし、俺の思考がラウニスの行き先を追い求める。
奴の執務室だろうか?
もっとも可能性が高いように思える。
いや、ラウニスは一人ではなかった。
信者達を引き連れてスー子を連れ去ったのだ。
ならばあの執務室では手狭すぎるだろう。
もちろんこの大聖堂にはいない。
四隅の各精霊堂はどうか?
ここに入る前にちらりと見たが、灯りの漏れているお堂はなかった。
ならば――。
「教えてあげましょうか?」
突然暖かな吐息が耳にかかり、俺は咄嗟に飛び退いていた。
「つれないお人ですね」
視線を逸らしていたからか。
接近する女にまるで気付けなかった。
慌てた俺の姿が愉快だったのか、女はフフフと今度は上品に嗤っている。
「知っているなら教えろ。ラウニスはどこだ?」
仕草のひとつひとつが、いちいち俺の心に細波を立てている。
会話するのも危険な気がするが、教えると言ったのだ。
ならばさっさと教えろと、俺の語気は荒くなっていた。
そんな俺の狼狽を楽しむかのように、女は視線を揺らした。
その見つめる先。
そこには地下へ向かう階段がある。
地下聖堂。
そういえば、そんな施設があるとラウニスは言っていたな。
「もう間に合わないと思いますけど」
なおも脳を冒そうとする甘い声を振り切り、俺は地下へと続く階段を駆け降りた。
……。
ぽつぽつと。
間隔の離れた蝋燭だけが、地下聖堂の光源となっていた。
薄暗く広大なそこには、数多くの息遣いが聞こえる。
純白のローブを纏った、リーン四精教の信者達が集まっているのだ。
湿っぽく、しかしカビ臭さがないのは手入れが行き届いている証左だろう。
その空間で、聞き覚えのある男の声が響いた。
「これで四精霊様を害する魔物は滅されました!」
途端『おぉ!』と歓喜の歓声が地鳴りのように響く。
「私達はまた一つ、四精霊様のお手伝いをすることが出来たのです」
さっきから人々を扇動している声の主。
それは、間違いなくラウニス大司教であった。
彼は地下聖堂の最奥。
そこに設えられた祭壇の横に立ち、手を広げて信者達に語りかけている。
祭壇の周りには篝火が焚かれており、そこだけがぽっかりと浮かび上がっているようだ。
そしてその中央。
石台の上に、さらに大きな岩が乗っかっていた。
見れば岩の下からは、少し粘性のある半透明な水が滴り落ちている。
「さぁ! 私達の成し遂げた偉業! 天罰を与えられた魔物がどうなったのか見てみましょう!」
ラウニスがそう言うと、ゆっくりと。
ギギギと音をたてながら、巨大な岩が持ち上がっていく。
岩の上に鎖でも繋がっているのだろう。
それが滑車で持ち上げられていくのだ。
自然、俺の視線もそこに吸い寄せられていた。
――そして、その光景に視界が黒で塗りつぶされる。
「ご覧下さい! 魔物は無事に滅されました!」
巨大な岩の下。
石台との間で押しつぶされていたそこには、半透明の水溜まりが出来ていた。
それがなんなのか。
それがなんだったのか。
信じたくないという気持ちがあるのに、間違いなくそうだという確信が同時にある。
視界だけでなく、心も黒に染まっていく。
「魔物の国にいた四精霊様の敵! 不浄のスライムはもういなくなりました!」
どこか、ラウニスの声が遠くなった気がした。
頭の中では、走馬灯のように数々の思い出が蘇っている。
出会い、ともに修行した幼き日々。
ラキュアを倒す時、トドメを刺すという大役もこなしていた。
それにピュルシとの戦いでの大火傷。
回復能力がなかったら、俺は死んでいたかもしれない。
弱いのに、どこへ行くにもぴょんぴょんと着いて来て。
だがいつの間にか、俺は癒されていたのだ。
ぷるんぷるんと震える身体と、愛らしい『ぴぎぃ』という鳴き声に。
だから俺は。
今一度、その名を叫んだ。
「スー子ぉぉぉぉぉッ!!!!」
ぴぎぃ! という声は、返ってこなかった。




