本編2
そして十六歳の冬。ジャンヌは、彼と出会った。
意図していなかった出会いなのは間違いない。ふわふわ揺れる蜂蜜色の髪。垂れた眦に、瞳は空をそのまま切り取ったかのような、澄み渡る快晴の色。
空の色を綺麗だと思ったのは、いつ以来だったろうか。そんな場違いな感想が脳裏を過るぐらい、この薄暗い空間には似合わない、青空を切り取ったかのような色彩を網膜に焼き付けて、ジャンヌはぽろりと一筋、涙を流した。
王太子との婚約は撤回されたが、数ヶ月が経過した今も、ジャンヌの新たな婚約者は決まっていない状態だ。賭けの件もあるのだろうが、公爵家の令嬢としてこのままで良いのかとぐるぐる考えてしまって、しかし自ら男性に声を掛けるようなふしだらな真似など到底できるものではない。
堂々巡りの思考に疲れて、息抜きに街へ出たジャンヌは、一人だけ連れてきた共の侍女に手を差し出され、馬車を降りた。
いや、降りようとした。
「……え?」
確かに、馬車は貴族街の馬車留めに停まったはずだ。そうして同行していた侍女が先に馬車を降りて、ジャンヌに手を差し出してきた。その手を取って馬車を降りたハズなのに、なぜかジャンヌは今、全く見覚えのない場所に一人で立っている。
カツン。ヒールが石畳を打つ音が、虚しく響いた。周囲に木はあるが、葉はすべて枯れ落ち、幹がむき出しになっていた。
空はどんよりと重たい雲に覆われていて、全体的に薄暗い。今にも雪が降りそうな曇天だ。足の底から這うような寒さが、ジャンヌの身を襲う。
身を震わせ、己の体を抱くように両手をクロスしてぎゅっと二の腕のあたりに手をあてる。ただ学園で使う筆記用具の購入をしようと、貴族街にある馴染みの文具店に行くだけのつもりだったジャンヌは、王立学園の制服の上から、薄めの外套を羽織っているだけで、寒さを凌ぐには心もとない出で立ちだった。
「ここは、廃墟……?」
脳内でパラパラと王国内の地図を捲ってみたが、一致する場所に心当たりはない。
容赦なく襲ってくる寒さに唇を震わせ、ジャンヌは数瞬のあいだ思考を巡らせた。
(いずれにしろ、このままここで立ち往生というのも、現実的ではありませんね)
周囲には連れてきた御者と侍女どころか、人ひとり見当たらない。理由はわからないが、この不可思議な空間にいるのは、ジャンヌだけのようだ。
わけのわからない恐怖が、背中から忍び寄ってくる。震えそうになる足を叱咤し、なんとか一歩を踏み出した。
カツン、カツン。ヒールが石畳を打つ音だけが虚しく響いて、ジャンヌの心に隙間風がびゅうびゅうと吹き付けてくる。どうにかこの場所から離れたいのに、一歩が重たくて、次第に歩いては立ち止まり、歩いては立ち止まりを繰り返した末、ジャンヌはとうとう石畳の上に膝をついた。
どれぐらい歩いただろうか。寒さに震える自分の体を抱きしめても、ほんの少しだって暖かくならない。零れそうになる涙を、必死に堪える。シュヴァリエ公爵家の娘として、こんな理不尽を前にして涙を流すことなど、彼女のプライドが許さなかった。
「っ!」
しかし不意に、遠くの方から自分以外が発する音が聞こえてきた気がして、パッと顔を上げる。
そうして飛び込んできた色彩に、ジャンヌは目を見張った。
黒、だ。
禍々しいほどの黒が、大きく口を開けるように這っている。ずり、ずり、とジャンヌに向かって這ってくるその黒に、口の中で小さく上がった悲鳴を、何とか呑み込む。
あれは、ダメなものだ。
ジャンヌの直感が、瞬時にそう告げた。
だが、力を失くした足は寒さと恐怖に震えたままで、ちっともジャンヌの言うことなど聞いてくれそうにない。
(逃げなければ)
そうしなければ、たぶん、自分はここで死ぬ。
自身の頬を叩き、震える足を無理やり動かす。何とか立ち上がった時には、すでにあの禍々しい黒は、ジャンヌのすぐ目の前まで迫っていて、とうとう唇から吐息のような悲鳴が漏れた。
「ひっ……!」
ずり、ずり、と這う音が、まるで大勢の声が混じった音のようにも聞こえて、思わず尻餅をついてしまう。みっともないとか、貴族としてのプライドなどと言っている余裕は、少しだってない。
もう駄目――ジャンヌがそう思った瞬間、その声の主は現れた。
「――もう大丈夫。俺の後ろに下がっていて」
「え?」
自身の横を、背の高い男が前に向かって通り過ぎていく。
それはつまり、あの禍々しい黒に向かっていくということだ。
(っ……駄目!)
誰かもわからぬ人を、危険に晒せるわけもない。
思わず伸ばしそうになった手は、しかし呆気なく空を切ることとなる。
ほんの一瞬の出来事だった。
瞬きほどの刹那に、どこからか現れたその男は、ジャンヌを恐怖で震え上がらせた禍々しい黒を真っ二つにしていたのだ。
疑問に思う暇もなく、あれほど恐ろしく禍々しかったものが形を崩し、霧散していく。男は手に持っていた長方形の紙を、どこからか出した火種で燃やしていた。
男の頬についていた黒いなにかも、彼が親指の腹で拭えばすぐさま消えてしまう。
柄にもなくへたり込むジャンヌが呆然とその姿を見上げれば、ぼうっとした彼女の様子に気付いたらしい目の前の男は、先ほどまで見せていた凛々しい表情を情けないものに一変させ、あわあわとトラウザーズの隠しからハンカチを取り出すと、それを自分の手に巻きつけ、大慌てでジャンヌに手を差し出して来た。
「だ、大丈夫ですか!? 助けに来るのが遅くなっちゃってごめんなさい! どこか怪我は? 気分が悪いとか、そもそも俺が気持ち悪いとか、あの、いろいろと、大丈夫ですか!?」
着ている服の質からして、貴族の令息であろう。社交界に居るのは線の細い貴公子ばかりだが、目の前の彼はそれに比べてしっかりとした身体つきをしているように見える。
ふわふわ揺れる蜂蜜色の髪。垂れた眦に、瞳は空をそのまま切り取ったかのような澄み渡る快晴の色。その奥が、キラキラと輝いて見える。
なんて、なんて綺麗な色なのだろうか。
「まあ……」
そう思った途端、場違いにも感嘆の声が唇から零れていた。
極力、毎週月曜日に更新していきたい所存です。




