本編3
「まあ!? え、俺が気持ち悪い!?」
「あ、いえ。申し訳ありません。わたくしの口癖のようなものですの。手を、貸して頂いてもよろしいのですか?」
「も、もちろんです……!」
「ありがたく存じますわ。失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
自身の感嘆の声のせいで勘違いさせてしまったことを申し訳なく思いつつ、目の前の手を取りながら名を訪ねると、男はパチパチと何度が目を瞬かせると、しまった、というような顔をする。
今になってようやく、淑女に手を差し出す時、紳士はまず自身の名を名乗るという社交界のルールを思い出したらしい。
「あ。そ、そうですよね。名乗りもせずに淑女の手を取ってしまい、失礼いたしました。俺はヨシュア・ジュベールと申します。えと、一応、伯爵家の者です」
決して不審な者ではないんです、と言い募る男――ヨシュアの手を借りて立ち上がると、ようやくジャンヌは人心地がついた気分だった。
しかし、ジャンヌが会ったことのある、または社交界などで会う機会のあった貴族図鑑を脳内でパラパラと捲ってみても、残念ながら「ジュベール伯爵家」はヒットしなかった。目の前の紳士の顔にも見覚えはない。彼の立ち居振る舞いからは確かに貴族としての品を感じるが、社交界には興味のない家なのかもしれない。
「ジュベール様……。助けて頂き、誠にありがとうございました。わたくしはシュヴァリエ公爵家の末娘、ジャンヌと申します」
「シュヴァリエ公爵家!? し、しし失礼いたしました! 王太子殿下の婚約者殿に、俺なんかが……!」
「まあ。わたくしと殿下との婚約は、数ヶ月前に撤回されておりますのよ。お気遣い頂き、申し訳ないのですけれど」
その言葉にハッとした顔をした後しゅん、と眉を下げたヨシュアは、立ち上がったとしても見上げるほどに背が高かった。
それでも少し長めの前髪に隠れてしまう空色の瞳が、ジャンヌの位置からであれば少し伺えるのがなぜだか嬉しくて、嬉しい理由が自分でも解らず、内心で首を傾げる。
結局答えは出ないまま、安全な場所まで案内すると申し出てくれたヨシュアの大きくて、暖かい手でハンカチ越しに自身の手を握られながら後ろを歩き、ジャンヌはまた首を傾げた。
一人ぼっちで歩いていた時はあんなに寒くて足が重たかったのに、彼の近くに居ると少しも寒さを感じず、足も軽いのだ。しかも二十センチは身長差がありそうなのに、ヨシュアがジャンヌの歩幅に合わせてくれているおかげで、少しも歩きにくくなかった。
ジャンヌのことを気遣ってか、いろいろ喋ってくれる彼のおかげで、あんなに虚しく響いていたヒールが石畳を打つ音も気にならない。
そうしてしばらく二人で歩いて、開けた場所の前でヨシュアは足を止めた。
「シュヴァリエ公爵令嬢。この先を少し行けば、貴女が本来いた場所に戻れるはずです」
「何からなにまで。本当になんとお礼を申せばいいか」
「い、いえ。これがその、俺の役割のようなものなので」
「役割であっても、貴方様のおかげでわたくしは救われました。本当に、ありがたく存じます」
ジャンヌがふわりと微笑むと、一瞬ぼうっとした顔をしたヨシュアが慌ててジャンヌかた手を放す。ずっと彼とジャンヌを隔てていた一枚の布が、パサリと乾いた音を立てながらジャンヌの手の中に落ちた。
「え、えっと。じゃああの、俺はこれで! 貴女もどうか、気を付けて帰ってくださいね。貴女はその、体質的に狙われ易いみたいですし」
「わたくしがですか? 今までこのような経験は一度もないのですけれど……」
「いろいろな条件が重なったんだとは、思います。だけど、しばらく外出は控えた方がいいかもしれません」
真っ直ぐこちらを見つめてくる青空に、ジャンヌは手に持っていたハンカチをぎゅっと握りこむ。
彼が決して、冗談や悪戯でそう口にしたわけではないと、その瞳の奥の輝きを見ればすぐに理解できた。恐怖に震えそうになる両足でしっかり立ち、彼女は口元に笑みを浮かべる。
「そう、ですわね……ご助言、感謝いたします。それに、ハンカチのお気遣いも。こちら、洗ってお返しいたしますわ。それまで、お預かりさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「いや、あの、本当に気にしないでください……!」
「いいえ。礼儀礼節を尊ぶシュヴァリエの人間として、この御恩には報いなければ」
「で、でも……あの、本当にずっとここに居るのは危険ですし!」
「であれば、尚のこと」
「本当に、棄てて貰って大丈夫なのでっ」
「とんでもないことですわ。これでまた、貴方様とお会い出来ますのね」
ハンカチをぎゅっと胸元で抱き締め思わず零れた笑みに、彼がンン、とうめき声を漏らす。
咄嗟にはしたないことを言ってしまったと、ハンカチを持っていない方の手で口元を抑えた時には、もう目の前に、優しい眦を仄かに赤く染めた彼の姿は、掻き消えていた。
「お嬢様っ! ああ、ご無事でよろしゅうございました、お嬢様……! 突然姿を消してしまわれたので、心配していたのですよっ! どこかお怪我はございませんか? 怖い思いなどは?」
「……いえ、大丈夫よ。心配を掛けてしまってごめんなさいね」
「いいえ、いいえ。お嬢様がご無事であればそれで良いのです。さあ、一度お屋敷に戻りましょう。ああ、こんなに冷えて、お召し替えも必要ですわ」
「ええ」
瞳いっぱいに涙を溜めて顔色を真っ青に染めた自身の侍女に、ぎゅっと手を握られる。突然煙のように目の前から姿を消すなど、彼女にも随分心配を掛けさせてしまったと眉を下げる。
一瞬、あの不可思議で恐ろしい出来事は夢か幻の類かとも思ったが、握られた自分の手の内にあるハンカチを見て、あの霞の中をどことも知れず歩くような言い知れぬ恐怖は、彼に救われたあの安堵は、やはり夢ではなかったのだと、ようやく確信した。




