EP2 『接触』(せっしょく)
生活に欠かせない燃料、エーテル。
それは「エクストラ」という蜘蛛の体液のことだ。
エクストラは、普通に生活していればまずお目にかかれない。僕が初めてそれを見たのは七歳の頃、オーカーと博物館へ行ったときのことだった。
「大きい~」
ショーケースの前で立ち止まって大迫力の剥製を見上げる。
全長約五メートル。
見た目はまさに蜘蛛だが肢は六本しかなく、頭と思われる部分には鋭い触手がある。胴体は黒っぽい茶を主体とし、赤いイボのような斑点に包まれている。目や耳や鼻はなく、尖った牙が寸分の狂いもなく生え揃った口が特徴的である。
エクストラ一体で、全保護区の約四時間分の電力を賄える。
──と看板に書いてあった。
保護区から遠く離れた森に、この大きな虫が棲んでいる。政府のすごい人たちが毎日狩猟してくれているのだ。
「気持ち悪くない?」
オーカーが僕を気遣った。
「別に、平気」
少し怖かったが、なんともないフリをした。
僕の住む第2保護区には学校がなく、子どもの勉強は親が見るのが当たり前の社会。オーカーは、亡くなった両親に代わって僕の教育を担ってくれた。そんな彼女が連れてきてくれたのだから、嫌がるのは失礼かもしれないと子どもながらに思った。
EP2 『接触』
木曜日。開店前のRizではアルバイトの子たちが掃除をしている。
僕は練習のために昼間から店に顔を出した。一人暮らししているアパートにも電子ピアノを置いているが、やっぱりハンマーが弦を叩く本物の感触には敵わない。
「熱心ですね」
スタッフルームからマスターが出てきた。
「今日はエリカ先生が来るんだよ」
「エリカ先生が。それは頑張らないといけませんね」
マスターはそう言うと、店内から駐車場を一瞥する。
「リダ君、今日は車じゃないんですか?」
実はこの前、看護師のスオミからついに運転を禁じられた。
突発的な頭痛がすると相談したらそうなった。迷惑はかけたくないので従うが……車には結構こだわりがあり、苦労して手に入れた一台だから乗れなくなるのは少し寂しい。
「練習もほどほどにね」
マスターは僕の不調を察しても、あまり細かいことは言ってこないのが助かる。今では、痺れる指を無理やり動かして演奏するのがすっかり癖になってしまった。
ピアノはオーカーに教わった。彼女は僕に、過去の辛い出来事を忘れて没頭できる何かを与えたかったのだろう。
勉強も運動も得意ではなかったが、ピアノだけはなぜか上手くなった。何を弾いてもそれなりに楽しかったし、ジャズは僕の性格に向いていたようだ。ジャズピアニストだと言うと、まるで"社交的な大人の男"みたいに思われることがあるが実際はまったく正反対だ。音楽のジャンルと本人の性格に相関はないと身をもって証明できる。
ジャズならお客さんも肩の力を抜いて聴き流し、数秒後にはどんなメロディだったか忘れているのがちょうどいい。
床を掃く音、マスターがグラスを磨く音、僕のピアノの音色が店内に響く。そこに、今は聞こえるはずのない鈴の音が交ざった。
「今やってんの?」
チリン、と控えめに揺れたドアベルに皆の視線が集まる。真っ先に口を開いたのはマスターだ。
「開店は十七時からです」
「そうなんだ。なんか音が聞こえたから」
アルバイトの子が、しまった、という表情をしていた。ゴミ出しか何かで扉を開けっ放しにしていたのだろう。
若い男は立ち去る様子もなく、店内を見回してステージにいる僕に目をとめた。
「せっかくだし聴いてっていい?」
「お気持ちは嬉しいのですが、十七時にご来店ください」
「あっそう。じゃ」
静かに閉まったドアに、全員がほっと胸を撫で下ろす。
「鍵は忘れず掛けるように。ああやって勘違いしたお客様が入ってこられるから」
「すみません……」
それから僕は、なんだか弾く気にもなれず早々に練習を切り上げた。マスターには開店までに来ると言っておいて、近くの喫茶店で時間を潰すことにした。裏口から店を出ると寒風が身体を叩きつけ、もうすぐ厳しい冬がやってくることを実感させられる。
気だるげに一歩を踏み出すと、後ろからガッシリと頭を掴まれた。
せっかく髪をセットしてきたのに。
「あんなに強く引っ張らなくてもいいじゃないですか?」
「悪い。まさかお前が出てくると思わなくて」
さっきの男が待ち伏せしていたなんて誰が予想できよう。出待ちされるくらい僕も有名になったか、と思えるほど気分は良くない。
そしてなぜか今、その男と喫茶店にいる。
「それ食べねーの?」
「甘いもの苦手なんです」
じゃあ先に言えよ、と男は愚痴をこぼす。僕は確実に言ったが、聞く耳持たずで注文したのはこいつだ。
「俺、パラド。昨日十八になったんだよね」
「リダっていいます」
「へー。歳は?」
「十八です」
案の定「同い年じゃん!」とパラドは騒ぎ出した。こうなるだろうと思って言いたくなかった。正直こいつのノリにはついていけない。
「すげぇ、こんな近くに同い年の奴がいたとは」
「もっと人と関わった方がいいですよ?」
「今日久々に休み取れたから飲もうと思ってさ。リダって毎日あの店にいんの?」
「ええ」
「いいな、ああいう落ち着ける職場で働きたいよ、俺も。てか敬語やめようぜ、俺そういうの苦手」
僕も同い年相手に(特にこいつには)敬語を使いたくないと思ったので丁度良い。
こんな昼間にほっつき歩いてどこのお坊ちゃんかと思ったが、パラドはちゃんと働いているようだ。服もブランドものばかりで鼻持ちならないが、それが自分の稼ぎなら努力している部分は好印象である。
変な寝癖さえ付いていなければ。
寝癖というか、額にかかる前髪のことだ。
そこだけ二束の細い髪が、ピョンピョンとはねているのがどうも気になる。僕は統一感のない身だしなみが好きじゃない。
「そういえば来年の定例会行く? って、お前なんか真面目そうだしサボるわけないよな。俺は正直ダルいわ」
「……何の話?」
「え、最近の子は知らないのか。本部の奴に聞けば教えてくれるぞ。俺から説明するのはめんどいからパス」
「いや、だから……」
どうして同い年のパラドに最近の子呼ばわりされなきゃいけない。
そしておそらく、僕を誰かと勘違いしている。
何が何だか呆けているのを尻目に、パラドは僕が食べきれずに残しておいたレモンケーキをかっさらっていった。よくそんな砂糖のかたまりが食えるもんだ。オーカーと良い友達になれるぞ、こいつ。
「まぁ……いいや。僕もうすぐ出勤だから」
「俺も行こ」
「いいんだけどさ、店が開いてからにしろよ」
なんか常識なさそうだし、釘を刺しておかないと。
急ぎ足で席を立つと、また頭痛がした。こんな時にと悪態をつく余裕もなく、目頭を押さえて波が過ぎるのを待つ。
「おい、なんだなんだ」
「……」
薬を飲む暇はなさそうだ。幸いすぐに引いたので足早に店を出た。
パラドは本当についてきて、開店まで待つと言い外で煙草を吸っている。
「リダ、あそこにいるの誰?」
「えっと……多分知り合い。一応お客様だからあんまりジロジロ見ないであげて」
「何それ。どういうことよ」
「僕が聞きたいかも」
そう言うと、ドラムのデイジーはさらに怪訝な顔をして開店作業に戻った。僕はと言うと調子が悪くずっと座りっぱなしだ。
砂を詰め込まれたように身体が重い。指一本動かすのにも骨が軋んでいるのが聞こえる。
「リダ君、大丈夫ですか?」
基本的にノータッチなマスターも、さすがに声をかけてきた。
控え室に戻り、誰も見ていないことを確認して薬を取り出す。息も絶え絶えにそれらを飲み込むと体が軽くなった。まるで薬を飲んだという事実で気分が良くなったような。
僕は、確実におかしくなっている。
◇
すっかり日も暮れ店が賑わい始めた頃、エリカ先生がやってきた。
先生の見た目はかなり若い。背が低いこともあって、白衣を着ていないとほとんど"子ども"だ。スタッフが未成年だと勘違いして追い出しそうになった時は肝が冷えた。
カウンターに座る先生と目が合うと、鍵盤を叩く指が軽くなった気がした。誰かが自分のために時間を作って会いに来てくれるのは、物や言葉を貰うのと同じくらい有難くて心が温まるものだ。
それと同時に、店の隅で談笑するパラドにはうんざりさせられた。
全身を高級ブランドで固めた彼の周りには、女の子たちが集まっている。スーツにスニーカーという奇妙な組み合わせで、高級品を見せびらかしたいだけのような振る舞いは悪趣味だ。前髪は相変わらず寝癖がついたままだし。
「お疲れ様、リダ。ああ緊張した」
「どうして先生が緊張するんですか」
先生は始終、腕を組んだまま真剣な表情を浮かべていた。曲が好みではないのかと心配したが案の定そういうことだったか。
ここからの時間帯はいつも僕の担当だが、マスターが空気を読んでシフトを変えてくれていた。
「すみません、汗かいてて。ステージすごく暑いんです」
せっかくセットした髪はあいつにぐしゃぐしゃにされるし、汗はかくしで散々だ。僕がいつも飲んでるお酒を頼んで、その後はマスターとエリカ先生の三人でいろんな話をした。二人は僕が小さい頃の話ばかりするから気が気じゃなかった。何か変なこと言われないかと。
「リダ君はまったく彼女ができませんでしたね。自分よりピアノが上手な子がいいとばかり言って」
「いいじゃん別に」
「いいんですけど、あと何年かけて探すつもりなんでしょうね」
マスターは肩をすくめる。
エリカ先生の話も聞きたかったが、先生が僕のことばかり聞いてくるからそれだけでかなりの時間が過ぎた。
「リダは意外とお酒に強いんだね」
「まあ、少しは。でもマスターの前で強いなんて言えませんよ」
「さっきからすごいペースだ」
「このワインはそんなに強くないんです。飲んでみます?」
「へえ。頂こうかな」
先生が僕のグラスを持ち「いい香り」と鼻を近づける。
すっと長い腕が割り込んできた。パラドだ。飄々とした顔を崩して地底人でも見つけたみたいな目で僕を見て、先生の手にあるグラスをそっと奪い机の離れた場所に置いた。
「……何やってんの?」
声が震えている。
「は?」
「え……は? お前マジで?」
何やってんのはこっちのセリフだ。
「飲み残しではなくこっちがいいですよね」
不穏な空気を察したマスターが、僕と同じワインを注いで先生の前に置いた。
僕の唾がばっちいみたいに言うなよ。
「別に私は気にしていないが……」
先生は半笑いのまま、それを口に含んだ。
僕だってそうだ。
先生は、エーテル誤飲事故から僕を救ってくれた命の恩人。子どもの頃から面倒を見てもらっているもう一人の母親のような存在だ。
「うわ、苦い。苦すぎる……」
「そうですか?」
「ごめん、無理そうだ……」
涙目になった先生がおかしくて、僕も笑った。先生は「マスター、水を……」と渋い顔をする。
先生は受け取った水を一気に飲み干した。確かに僕は甘いものが苦手で、それはお酒の好みにも当てはまるものの自分ではこれくらい普通だと思っていた。
パラドは厚かましくも僕の隣を陣取った。エリカ先生とパラドに挟まれて、何か言いようのない寒気を感じる。
「リダの友達?」
「えっと……そう見えるかもしれないけど実は違うんです」
「仲良さそうだけどね」
何言ってんだ。先生に誤解されたらたまったもんじゃない。
「僕が無理して合わせてるだけです」
「それでもいいじゃないか。夫婦でも親子でも、無理のない関係なんかないさ」
「そういう健全なものでもなくて……」
「リダが同年代の子と一緒にいると、私は安心する」
そういえば、先生に友達を紹介したことはなかったな。そもそも紹介できるような友達がいなかった。
明日も仕事なので控えめに飲んでいた先生も、だんだん顔が赤くなる。迎えが来たと言うので見送りに立った。
冷たい空気が火照った身体を包んで心地よい。先生は車に乗り込む前に、僕の肩を叩いてこう言った。
「すごく楽しかった。今度はパラドの話も聞かせてね」
車が夜の喧騒に紛れて見えなくなるまで、僕はそこに立っていた。
「お前、自分が何やろうとしたか分かってんのか?」
楽しかった時間を思い返していると、髪が抜けそうなほど強く掴まれ後ろにひっぱられる。誰の仕業かなど振り返らずとも分かった。
「何とか言えよ」
「あのさ……客だから多めに見てやるけど、あんまり酷いと出禁にするぞ」
「デキンって何?」
「はー……」
パラドの話と言われてもな……。
今のところ僕から見たこいつは、世間知らずの無神経な成金野郎だ。
また、目が回った。酔ったのとは違う激しい痛みを伴う目眩だ。
「リダ! またかよ──」
耳鳴りに混ざってパラドの声が聞こえる。
かすむ視界に彼の表情が映った。綺麗に生え揃った鋭い歯が、小さい頃博物館で見たエクストラそっくりだと思った。今振り返ればその感想は決して間違ったものではなく、僕の観察眼はなかなか鋭かったと言える。
その口がしきりに何かを叫ぶ。声は次第に遠ざかっていった。




