EP1 『開眼』(かいがん)
『SQR本部、市民生活局よりお知らせします。
本日の第2保護区は、明け方まで安定した電力供給が見込まれます。
夜は温かくしてお過ごしください』
すっかり肌寒くなった今日この頃。
放送が響く昼下がりの街中で、携行缶にエーテルを移し替える。日ごとに風が冷たさを増す中、補給所には燃料を買い求める多くの客が訪れていた。
ノズルの先で容器のふちを、カン、カンと叩くと、なみなみと注がれた真紅の液体が波打った。
エクストラの体液、エーテル。
かつては一部の人々や子どもたちに不安を与えるという理由から、無色透明に加工された時期もあった。すると水と見分けがつかなくなり、今度はエーテルの誤飲事故が相次ぐようになる。エーテルは貴重な燃料であると同時に致命的な毒でもあり、ほんのわずかでも口にすれば命はない。
第2保護区のとある五歳児の誤飲事故を最後に、エーテルの色は再び赤色に戻された。
専用タンクには子どもが開けられない仕組みが導入され、放置した者への罰則が定められるなど安全対策が進んでいる。どれほど危険だろうと、これが唯一のエネルギー源として社会の隅々まで浸透している以上、人々がエーテルを手放すという選択肢はない。
──その五歳児は今も生きている。
エーテルを飲んだ者が例外なく命を落としてきた中で、前例のない、たった一人の生還者である。
EP1 『開眼』
週に一度の検診の日、僕はオリジン中央病院へ足を運んだ。
手足の痺れ、頭痛、腰痛、肩こり、倦怠感──数えだしたらきりがない。おそらく過去にエーテルを飲んだせいだとは思うが、はっきりした原因は今も分からず、長いこと痛み止めでごまかす生活を送っている。
「寝不足?」
エリカ先生が振り向いた。
「ずっと顔色が悪いよ」
「……少し目眩が」
先生から水を受け取り、持ち歩いている薬を飲み下す。本来なら毎朝欠かさず飲むべきだが、薬漬けの生活にはもううんざりしていて、最近は飲み忘れるふりをしてさぼることも増えた。
この病院の院長であるエリカ先生を信頼していないわけじゃない。昔色々と面倒を見てもらった縁で、今も多忙なスケジュールの合間を縫って僕の診察にあたってくれている聖人のような人だ。しかしそれとこれとは別で、精神的にどうしても飲む気になれない日はある。
「心がやられてはどうにもならない。薬が嫌な日は心を優先するのも、まあ、治療のうちということにしよう」
先生は呆れ気味に笑い、「でも飲まなかったらちゃんと言って」ときっぱりと付け加えた。おっしゃる通りだ。
「この後は? 仕事?」
「はい」
「無理しないように」
帰り支度を整えながら、診察室の窓から外を眺めた。日が沈み始めた街の中、僕の働いているジャズバー「Riz」のネオン看板が光っているのが見える。
「先生、そろそろ店に遊びに来てくださいよ」
「ピアノ弾いてるんだっけ?」
「ええ!」
「行きたいんだけどね。発表会を見に行くみたいで緊張するよ」
「その心配はもういらないと思いますが……」
小さい頃は、たまに演奏会やコンクールを見に来てくれていた。先生の中ではまだその頃の僕の姿が浮かぶんだろう。ピアノで飯が食えるまで成長したことを証明したい思いもあるし、彼女への日頃の感謝を表す手段として、音楽以外に思いつくものがない。
「来週の木曜日は時間がありそうだ」
「本当ですか!」
「お邪魔してもいい?」
「もちろんです、開店は十七時からで──」
ふと、頭を鈍器で殴られたような振動が響いた。
顔をしかめて歯を食いしばる。
痛みは一瞬で静まった。
「どうした?」
「いえ……大丈夫です。来週は楽しみにしてますね」
──何だったんだろう、今のは。
診察室を出ると、午前の検診で面倒を見てくれた看護師のスオミとすれ違った。
「リダ、お大事にね」
彼女はエリカ先生の右腕のような存在だ。幼い頃からこの病院に通う僕を、働く人たちは本当によく気にかけてくれていた。
出勤するには早い時間だったので、職場の皆に差し入れでも買おうかと適当に車を走らせる。そういえば最近あの人に会っていないなと思い、道中の住宅街に立ち寄った。
「リダ! 久しぶりねぇ!」
「久しぶり、オーカー」
車の音を聞きつけて、オーカーおばさんが姿を現す。
彼女は僕の育ての親。近くに住んではいるものの、独り立ちしてからは何となく顔を合わせる機会が減っていた。
「今日も仕事? お茶飲んでく時間くらいあるんでしょ? 薬は? 面倒くさいからってさぼってないでしょうね?」
僕の前を歩きながら、喜んでいるのか怒っているのか分からない様子で何度も後ろを振り向く。軽く受け流しながらリビングへ入り、ソファの真ん中に腰を下ろした。
棚には懐かしいものが並んでいる。コンクールのトロフィー、僕が想像で描いた天空の絵、そして使い古しのボールペンといった些細な物まで、彼女にとっては飾る価値のある特別な品なのだと思うと純粋に嬉しい。
「ブラック派なのは変わってないのよね?」
「砂糖は絶対いらない」
「はいはい」
コーヒーの良い香りが漂ってきた。
彼女の見よう見まねでサイフォンを買ってみたが三日で飽き、家ではめっきりインスタントしか飲んでいない。
「オーカー、これ好きだったよね」
ケーキを渡すと嬉しそうな顔をした。僕には到底食べきれない代物だ。
こうしていると、ようやく恩返しができているように感じる。彼女は母の友人で、亡くなってしまった両親の代わりに僕の面倒を見てくれた。類は友を呼ぶとはよく言ったもので、陽気な性格は母に似ていると思う。
『──続いて、先日開催された保護区運営会議のニュースです』
とある男がテレビに映ると、オーカーは「マリセラ統括官!」と目を輝かせた。
『第2保護区の電力供給率は今年も安定しており、五つの保護区の中でも最高水準を維持しています。会議ではSQRマリセラ統括官が、燃料の運用方法について各保護区の担当者に指南する場面も見られました』
SQRとは、ここ第2保護区を管轄する政府組織のことだ。そのトップであるマリセラという男をオーカーはいたく気に入っている。
「かっこいいわよねぇ」
「そう?」
「声も素敵」
「マスターが聞いたら怒るよ」
気に入っているのはあくまで見た目だけで、政策や実績はどうでもいいらしい。
燃料の値上がりは止まらないし、いまだに暖房の無い建物で暮らす貧困家庭があると聞くし、僕はこの男がずば抜けて優秀な政治家だとは思わない。まあ……住む場所から食べる物まで、第2保護区の社会機能はすべてSQRがコントロールしている以上、不満を言ってもあまり意味はないのだが。
再び、ズキリと鈍い痛みが頭を走る。先ほど飲んだ薬が効いているのか痛みはすぐに引いてくれた。




