EP3 『逃走』(とうそう)
「走っちゃだめですってば!」
「なんで?」
「大の男が全力疾走してたら誰だって怪しむっすよ」
急がば歩け、こんな時間に走ってる奴はスリか追われてるかのどっちかしかない。下を向いてトボトボ歩いてる通行人に紛れ込むのが一番安全なんだ。
「気にしすぎだろ」
「あ、ちょっと!」
リダの兄貴は身をひるがえし建物の隙間に駆け込んだ。両側の壁からは、電気を盗むために勝手に引かれたコードが蜘蛛の巣みたいに垂れ下がっている。ビニールテープで雑に継ぎ接ぎされただけの危険地帯だ。
「待ってください!」
「急いでるんだよ、こっちは」
「いや違くて──」
そのうちの一本が、兄貴の頭上でバチッと火花を散らした。
「いっで!!」と唸った兄貴はよろめいて立ち止まる。笑っちゃいけないが思わず吹き出す俺の足元で、今度は錆びた配管からシューッと真っ白な蒸気が噴き出した。
「あっぢぃ!!」
跳び上がった拍子に、昨日の飛び降りの打撲や尋問で受けた傷の痛みが一気にぶり返し、俺もその場に膝をついた。兄貴が振り返り、その後には気まずい沈黙が続いた。
「……気をつけて行こう」
兄貴は今度は走ることなく慎重に一歩を踏み出した。
EP3 『逃走』
プロの殺し屋は寡黙でそっけない。
どこで誰を殺したのか? いつから殺し屋になった? 出身は? 俺の質問は全部無視、かといって完全に無言というわけでもなく、たまに後ろを向いて俺がちゃんとついてきてるか気にするし、道が合っているかどうかは積極的に聞いてくる。必要最低限の会話……これもプロフェッショナルであるがゆえ、だな。ますます気に入った。
『SQR本部、市民生活局よりお知らせします。
現在、重大な事件に関与した容疑者が──』
「放送、しつこいっすね」
「……」
大通りをうろつく憲兵を避けるため、建物の裏に回って非常階段によじ登る。ギイ、ギイときしむ階段を十階分ほど上がりきると、街の外周部へと続くエーテル供給パイプの点検用通路に出た。幅数十センチしかない鉄格子のキャットウォークだ。
まさかとは思うが。
「ここ通るんすか!?」
「怖い?」
「怖いとかじゃなくて!」
「じゃあ、頑張ろう」
手すりは膝の高さまでしかないし、しかもところどころ留め具が外れてグラついてるし。遥か下にはゴミ溜めの山と、路地を行き交う豆粒のような人影が見えた。
吹き上がる突風をものともせず、兄貴は華麗な身のこなしで鉄格子を進んでいく。やっぱりただ者じゃねぇ。しかし今は尊敬よりも恨みが勝る。俺は冷たい鉄の手すりを両手で握りしめ、爪が白くなるほど力を込めてへっぴり腰でついていった。
向こう側の足場まで辿り着き、生きていることに感謝しながら一息つく。
顔を上げると第2保護区の夜景が目の前に広がった。昔の夜景はもっとキラキラしていて眺めるのが楽しかったが、最近は燃料不足のせいで活気がない。
「そういや名前は?」
「レグです!」
「よろしく。僕はリダ」
「あはは、知ってるっすよ」
暗闇の中でも一番目立っているのは、町の隅っこにそびえたつエーテル精製プラントだ。高い塔のてっぺんで余ったガスが火を噴いて、周囲の煙をオレンジ色に照らしていた。これは今も昔も変わらない。
通路の行き止まりは切り立った崖のようになっていた。中心都市を作るために大地を削って積み上げた、バカでかい石の土台の端っこだ。ここから下へ降りなきゃ街の外には出られない。
兄貴は崖のふちまで行くと、下へ荷物を降ろすためのケーブルカーのワイヤーを指さした。まさかとは思うが……。
「あれに掴まって滑り降り──」
「無理っす! さすがに死にます!」
いくらなんでも無謀すぎる。
半日歩いて遠回りすれば降りられる場所はある。そう言いかけた時だった。
「まだ街の中に潜んでいるはずだ!」
「城壁側の見張りを増やせ! 逃げ場を塞ぐぞ!」
俺たちはとっさに身を伏せる。
憲兵だ。すぐ目と鼻の先の道路を、銃を肩にかけた集団が通り過ぎていく。まずいな、正規の脱出ルートはもうとっくに塞がれているんだろう。いやでも……マジで? ワイヤーに掴まって降りるって? 手のひらの皮がべろんべろんに剥けるのと捕まるのどっちがいいかって? 究極の二択だぞ?
背後で、ガキンと鉄の噛み合う音がした。
滑車が回り、昇降式の運搬リフトがゆっくりと下降し始める。網目状の鉄枠で囲まれた荷物用ゴンドラだ。
兄貴が俺の首根っこを掴んだ。
待て、と声を出す暇すらなかった。
浮遊感とともに視界が一回転したあと、ドサッと硬い鉄板の上に叩きつけられた。動いているゴンドラに飛び乗ったのだ。
「うぎゃっ──」
背中と腰を強打した激痛に耐えながらも、俺は振り落とされまいと金網にしがみつく。顔を上げると、ついさっきまで立っていた岩壁が上へ上へと遠ざかっていくのが見える。
「ちょうどよかったね。なんで急に動いたんだろう?」
無茶苦茶だ。そんなの今はどうでもいい。
リフトはぐんぐん降下していき、下の受入施設の中へと吸い込まれていった。接地したゴンドラから飛び降りた俺たちは、忍び足で出口を探す。
施設の中はがらんとしていて薄暗い。
「おい、ワイヤーが少し歪んでねえか?」
男の声と、コツ、コツ、という足音が近づいてきた。兄貴の手が俺の口を塞ぎ、一番近くにあったコンテナの影に引きずり込まれる。
「積み込みのときにぶつけたんだろ」
「直しとくか?」
「早番の奴らがどうにかするさ。寒いから事務所戻ろうぜ」
木箱の隙間から懐中電灯の光が見え、俺の鼻先数センチをかすめて通り過ぎる。作業服を着た男二人は奥の通路へ消えていった。足音が完全に遠ざかると、兄貴は「点検で動いてたっぽいね」と小さく言った。
この人についていくと決めたのは他でもない俺自身だが、なんでこんなことになってるのかは自分でもさっぱり分からない。
俺たちは非常口から倉庫を脱出し、外の空気をめいっぱい吸った。
ここは第2保護区の下層に位置するシエナ区。ここまで来ればひとまずは逃げ切れたと言ってもいいだろう。
「すんません兄貴……ちょっとだけ休ませてください」
もうそろそろ体が限界だ。
その夜は、路地の奥にある一泊4Pltの安宿に入った。部屋の中には黄ばんだシーツのベッドが一つ、これはもちろん兄貴に譲る。
昨日の朝から何も腹に入れていないせいで胃袋が悲鳴を上げた。兄貴は何も食べなくていいと言うが俺が限界だ。
真夜中も落ち着きのないスラム街に繰り出し、掘っ立て小屋の屋台へ向かう。
エリカから貰った金の中から小銭を数枚、カウンターのトタン板に置いた。店主のおばちゃんは無言で油の染みた古紙を二つ置くが、俺の顔を見るとあっと声を上げた。
「ありゃあ、レグ坊じゃん」
さすがにバレるか。ここら辺は仕事でよく顔を出していた。
「おう。久しぶり」
「あんた、セイブルの金盗んでクビになったって?」
そんなことになってんのかよ。
「んなわけねーじゃん、嵌められたんだよ」
「大変ねぇ」
「そ、今逃げてる最中だからさ。誰にもバラすなよ?」
「じゃあ追加料金」
こんのクソババァ。
突き出された手に追加の数枚を握らせ店を後にした。ホテルに戻ると兄貴はベッドに腰かけ、なんだかんだ言って疲れていたのかうたた寝をしていた。
「ほら、スラム特製。安くて腹に溜まるやつっす」
芋の皮を練り込んだ蒸しパンだ。見た目はアレだが栄養もあってそこそこうまい。俺は構わずガツガツと胃へ流し込むが、兄貴はしばし固まったあと、覚悟を決めたようにパンを小さくちぎり口へ運んだ。
包み紙を持つ指は白く細く、俺たちのような下層の人間にあるはずのタコや傷なんかひとつもない。プロの殺し屋……にはとても見えない。
「なんで第5保護区なんすか?」
「……え?」
「いや、その、俺はこんなんだから第5以外に行く場所ありませんけど。兄貴くらい凄ければ第1保護区でも生きていけそうっていうか」
政府に追われているとはいえ、あれほどの身体能力と度胸があれば裏社会じゃ引く手あまただ。第5なんて寂れた場所じゃなくとも名をはせられるだろうに、もったいない。
「第5で知り合いと会う約束をしてるんだ」
「知り合い?」
「うん……まあ、そう。知り合いくらい誰にでもいるだろ」
「殺し関係っすか? やべー奴ですか?」
「うるさいな……」
そんな人に俺みたいな下っ端の売人が会って大丈夫だろうか。いや、正直めちゃくちゃ会ってみたいが……深入りしすぎると今度はこっちが消されそうなので、その話題は切り上げて床に横になった。
……痛い。全身の関節が燃えるように痛む。頭の奥までズキズキと脈打つ痛みを感じながらも、気づけば鉛のように重い眠りについていた。
明朝、すきま風の冷たさで目が覚めた。
身体の骨が全部くっついて固まってしまったみたいに気だるかった。
起き上がろうとすると、この世のありとあらゆる痛みを凝縮したような感覚が全身を襲い視界が揺れた。これはまずいかも。
「兄貴ぃ、夜になってから出ませんか……? 昼間は目立つし、もうちょっと休んでから……」
兄貴はすでにコートを着込んで準備万端、窓枠に指をかけて外の様子を窺っていた。
「早く出よう」
有無を言わせない口調だ。置いていかれるわけにもいかず、というか俺がいなきゃこの人道分かんないよな?と思いつつも口には出さず、俺は痛む体に鞭打って立ち上がった。
シエナ区と外界の境目には検問所がある。そこをまともに抜けるわけにはいかないため、手前の路地裏から地下の排水トンネルにもぐり込んだ。
真っ直ぐに伸びるコンクリートの空洞を、頭上の格子から漏れる光を頼りに進む。砂利やガラスの破片を踏みしめる足音が響いた。段ボールでできた寝床の前を通ると、布の隙間からはみ出た土気色の足がピクリと動く。
ここは、スラム街とも一線を画す最下層の世界。スラムはスラムなりに、辛くともたくましく生きようとあがく人々の暮らしがあるが、ここにいるのは生き方も死に方もわからなくなった人間だ。こんな場所には俺たちのような売人ですら用がない。
「この臭い……」
「ムースっすね」
骸骨のように痩せこけた男が一人、缶詰の空き缶に火をくべていた。兄貴は慌てて袖で口を覆う。俺もニオイは好きじゃないし気持ちはわかるが、兄貴は上着を脱いでまで鼻と口をしっかり塞ぎ「急ごう」と足早に駆け抜けた。男の黄色く濁った目が一瞬だけこっちを向いた。
頭上からは時おり、地上を通り過ぎる車の地響きや行き交う人々の足音が聞こえてくる。
『おはようございます。
SQR本部、市民生活局よりお知らせします。
本日の天候は晴れ。終日穏やかで過ごしやすい一日となる見込みです。
市民の皆様は──』
朝七時の放送も。この時間はいつも寝てるからまともに聞いたのも久々だ。
奥へ進むにつれ足元の水かさが増した。ドブと廃油が混ざり合う悪臭の中、染み込んできた水が傷に触れるたび針で刺されるような痛みが走る。前を行く兄貴の背中がかすんだ。置いていかれないよう、ざらついたコンクリートの壁に手をついて必死に足を前に運ぶ。
どれほど歩いた頃か、通路の突き当たりに太い鉄格子が見えた。地上へ抜ける排水口には鎖が何重にも巻かれ南京錠がぶら下がっている。
俺はベルトの金具から曲げた針金を二本引き抜き、泥の詰まった鍵穴へ突っ込んだ。指先の感覚でピンを探り一段ずつ押し上げていく。錆ついていて固かったが、手首を何度かひねればかすかな振動の手ごたえがあった。
南京錠を外して鎖をほどき、重い格子を押し開ける。
「すごいね」
「へへ……」
ようやく役に立てた気がした。外へ一歩踏み出すと乾いた新鮮な風が一気に駆け抜けていった。
ヒューヒューと鳴るのは風の音なのか、俺の喉から漏れたものなのかはもう分からなかったが、振り返ると背後には見慣れた都市の黒いシルエットがそびえ立っていた。俺たちは、あの巨大な鉄の森から抜け出したのだ。
そこからは線路に沿って荒野を歩いた。
隣の第4保護区へ物資を運ぶためのレールだ。赤茶色の土と、砂利の敷かれた枕木が地平線まで一直線に伸びている。
「この先がヴェルデ市?」
「……」
「大丈夫?」
下水で濡れた服が容赦なく体温を奪う。次第に、足がもつれ始めた。
「レグ?」
「あ……はい、ここをひたすらまっすぐ……」
「どんな場所?」
「サトウキビ畑がある田舎で……警備もゆるいので余裕で侵入できます」
体の奥から猛烈な寒気がせり上がり、全身の震えとともに歯がガチガチとぶつかった。一本のはずのレールは分裂して見える。これはそうだな、もしかするともしかしなくても俺……。
「おい、レグ!」
地面がスローモーションのように迫ってくる。倒れ込む寸前、兄貴の両腕が俺の肩を抱き止めた。




