EP4 『旋律』(せんりつ)
今まで俺が騙して奪ってきた奴らがこっちを見ている。なぜか俺は、こいつらと一緒に酒を飲んでいる。
すぐに夢だと気づいた。正面にいるこの男は車の修理工場をクビになり、昼間から飲んだくれていたところに俺が声をかけた。こっちの男は……ビルから飛び降りようとしていたのを止めて、薬を売るついでに同業の仕事を紹介した奴だ。あそこにいる女は何不自由ない普通の家の娘だったが、結婚できないことを周囲に責められ自棄になったのか向こうから声をかけてきた。共通して言えるのは、誰も俺とこうして酒を酌み交わすような間柄になるわけがなかったということ。
ろくでもない人生にはろくでもない人間しか寄ってこない。
でも、俺は強い。
夢の中の人間が一人ひとりと消え、最後に俺と一匹の犬だけが残った。この野良犬は、組の事務所の裏に居ついたやつだ。時々残飯をあげていたがある日忽然と姿を消した。ボスが暇つぶしに蹴り殺したというのを聞いたのはだいぶ後になってからだったが、俺には何もできない。過去には戻れない。
でも、それでも俺はまだ強い。自分の人生が最底辺なんて思っちゃいない。
──眩しさに目を開ける。
ボロ宿の冷たい床とは違う温かいシーツの中にいる。ちゃんと覚えてるさ、凄腕の殺し屋について行って倒れたことくらい。
つまり、ここはどこだ?
EP4 『旋律』
仰向けのまま、まばたきを繰り返して光に目を慣らす。
スラムでは一度も拝んだことのない本物の木でできた天井だ。鉄格子も監視カメラもなく、ここが地下の独房ではないことにひとまず安堵する。
泥だらけだった服は清潔なものに着せ替えさせられていた。
痛む体を引きずって窓辺へすがりつく。外には朝日を浴びて緑の葉を揺らすサトウキビ畑がどこまでも広がっていた。間違いなくヴェルデ市だ。
「兄貴は……」
安心すると同時に激しい疲労がどっと押し寄せてきた。どこか遠くから、ポロンと優しい音が鳴った。
壁に手をつきながら部屋を出て、音のする方へふらふらと歩く。廊下に並ぶ家具も手すりも金持ちが使うような本物の木ばかりだった。裸足で柔らかい木の廊下を踏みしめながら、音のする方へ。たどり着いた廊下の突き当たりで、少しだけ開いた扉の隙間から部屋を覗き込んだ。
「ここからここの左手が、できてないの」
ピアノを弾く少女がいる。隣のもう一つの椅子に座る男は、ピアノに肘をついて少女の演奏をじっと聴いていた。後ろ姿でもすぐに分かる。兄貴だ。
「うまく弾けてるよ」
「ほんと?」
また、ポロンポロンとぎこちない音が響く。
兄貴の姿を目にした瞬間、張り詰めていた緊張がすっと解けた。忘れていた痛みがぶり返した俺はその場にへたりこむ。火照った額に手をあて、えらい高熱が出たもんだと一息つく。
「僕は上手だと思うけどなぁ」
「できてないの!」
「そっか。じゃあそこだけ練習してみる?」
「やる!」
逆光で二人の表情は見えないが、その光景には不可解な温かさが感じられる。俺の人生において一度も出会ったことのない種類の温かさだ。
体がだるすぎて動く気になれなかった。しばらく、少女の奏でるいびつな音と、兄貴の異様に上手い演奏が交互に響くのを聴いていた。
「リダってなんでここに来たの? なんでパパと話してたの?」
「仕事だよ」
「あの人は?」
あの人、と言って少女が振り向いた。扉の隙間からばっちりと目が合い、それに気づいた兄貴も「うわっ」と驚く。
「さっきからずっとあそこにいるよ?」
「う、うん……起きたみたいだね」
「あの人病気なの?」
「そう。ちょっと様子見てくるね」
稀代の殺し屋に気配を勘づかれなかったとは。俺もなかなかやるな。
◇
ここはヴェルデ市の郊外に位置する、グリ・シェルという名の田舎町。
俺たちは、サトウキビ農園を経営するブラッドリー家の屋敷に身を寄せていた。兄貴は倒れた俺をここまで担いで歩いたというのだから、冷徹な殺し屋のイメージは完全に消え去った。情に厚い男だ。
屋敷の使用人が持ってきてくれた麦粥をすすりながら、さっき目にしたことについて兄貴に尋ねてみた。
「昔、ジャズバーでピアノを弾いてたんだ」
「へぇ……!?」
「たまにお客さんの子どもにピアノを教えてた。ああしてると懐かしい気分になる」
意外なバックボーンもそうだが、兄貴が自分から身の上を話したのが珍しくて驚いた。それを指摘するとまた逆張りで無口になりそうなので黙っておく。
服は綺麗に洗濯されていた。下水の悪臭はまだ染みついていたが、文句は言わずに着替えた。
「お世話になりました、ブラッドリーさん」
俺の体調は万全とは言えないが、回復するまでどれだけ時間がかかるかも分からない。しかも指名手配の放送はここ第4保護区にも流れており、俺たちの素性はブラッドリーにもとっくにバレていたのだった。
それでよく匿ってくれたもんだ。兄貴は「悪いけど、レグのお金を貰ったよ」と言った。
「ほんとだ! なくなってる!」
「僕の手持ちじゃ口止め料として心もとなくてね」
「いやいや全然、ゲホッ……構わないっす……」
激しく咳き込みながら答える。
ブラッドリーは「まだここにいたらどうか」と気を遣うが、兄貴は断った。俺も、自分の体調はさておいてもすぐに去ったほうがいいと思った。こういう農園主たちは保守的な連中が多いし、いくら金を払って口約束を結んだところで、政府にたてついた兄貴のような存在を快く思うはずがない。遅かれ早かれ最後は裏切られると思ったほうが無難だ。
去り際に兄貴は、あのピアノを教えていた娘にすがりつかれていた。女の子の泣きじゃくりようといったら、まるでこの世で一番不幸なのは自分だと言わんばかりだ。心の中で俺は、「甘やかされたブルジョワのクソガキが」と余計な劣等感を抱かないこともなかった。
サトウキビ畑を離れてたどり着いたヴェルデ市の中心地は、前に仕事で来た時より少し都会らしくなったように見える。まあ大部分は第2保護区と同じで、鉄骨が積み重なった息苦しい場所であることに変わりはない。
区域外に抜けられる場所はいくつも知っているが、兄貴は「やっぱり列車に乗ろう」と言った。俺のペースに合わせて歩くのが面倒になってきたようだ。
「すんません、足手まといで……」
「いいよ。僕も疲れてきたし」
俺たちはデッキから高層部の通路に出た。やけに通行人が多いがこんなもんだろうか、なんて話を兄貴としていたが、どうやら電力不足でここら一帯のエレベーターが停止しており、住民たちは徒歩で階層間を移動するしかないようだ。
燃料事情はどこも似たようなもんだ。第1保護区を除いて。
「そういや兄貴って、なんでジャズバーにいたんすか?」
「……」
「もしかしてそれも暗殺のため?」
「……」
「てか、ピアノ弾けるとかカッコよすぎっす!」
「……」
兄貴はまた無口モードに戻ってしまった。
俺たちは駅の方向を確かめようと、端っこで細々と開いていた露店に立ち寄った。
「よぉ。貫区線の駅ってここら辺にある?」
店主のおっさんが振り向いて答える。
「突き当たりまで進んだ右手だ。だが今日は動いてるかどうか」
「どういうこと?」
「燃料がないからな」
「なるほどね」
俺と店主が話しているあいだ、兄貴は隅で一息つき、なんとなく気を緩めたように被っていたフードを無造作に払う。
「でも、まったく動いてないわけじゃないよな?」
「さあな。第2行なら毎日動いてるがそれ以外は──」
店主の手が止まった。濁った両目が、露わになった兄貴の顔をまっすぐに見据える。
視線に気づいた兄貴はすぐさまフードの縁を掴んで引き下げた。
「駅に行ってみよう、レグ」
「そっすね」
俺は店主に「サンキュー」とだけ言って踵を返す。店主は何も言ってこなかったが、背中に刺さるジトッとした視線がどうにも落ち着かない。
数十歩ほど歩いたところで背後の気配に気づいた。
通路の角から抜き足差し足でつけてくる人影がある。さっきの店主に違いない。
「兄貴、後ろ。つけられてるかも」
前を向いたまま耳打ちすると、兄貴は「え、本当?」と小声で言う。
おいおい、スーパーエリート暗殺者があの程度の尾行にも気づかないなんて勘弁してくれよ。
「さっきの店のおっさんっすね。兄貴のことジロジロ見てたし」
「バレたかな……?」
「そうかもしれないっす」
「ごめん……気ぃ抜いちゃった」
歩く速度はそのままに、俺たちは声を潜めて言葉を交わす。
背後の足音はじわじわと間隔を詰めてきていたが、俺の足もすでに限界でとても走れそうになかった。
「大丈夫?」
「もちろん、と言いたいところですが……」
「きついよね」
「兄貴……俺を置いて……」
「行かないでください?」
「っす……!」
兄貴は苦笑を浮かべた。「しょうがないな」と言うやいなや、次の瞬間には兄貴の腕が伸びてきて俺の腹を無理やり引っ張り上げた。
「ぐぇっ──」
だから、まず何をするか先に言え!
と文句を言う間もなく、脇の下へ荷物を抱えるみたいに雑に挟み込まれる。
「おい、あいつだ! 指名手配犯のリダだ!」
兄貴はそのまま歩行デッキの手すりに足をかけ、一段下の通路へ飛び移った。
鉄板を蹴る追っ手の足音が迫ってくる。兄貴は俺を脇に抱え込んだまま、宙に張り巡らされた迷路のような通路を疾走した。足場の途切れた隙間を軽々と跳び越え、ダクトの傾斜を滑り降り、建物の隙間を縫うように駆け抜けた。
「上に逃げた!」
「あれがリダだって!」
「おい、そっち行ったぞ!」
街中は通行人たちの声で騒然とした。
視界が次々とひっくり返る。何が寡黙な殺し屋だ、隠れてやり過ごすこともできただろうにすぐにこういう手段に出る!
兄貴は片腕で俺をぶら下げたまま、鉄パイプに片手をかけ懸垂するように体を持ち上げた。反動で揺れるたび、俺の頭が配管に当たりそうになる。
工場の外壁を這い上がり屋上へ。
「こっからどうしようかな……」
「ノープランっすか!?」
兄貴が何度か左右を見渡したその時、足元から地響きが伝わってきた。腹の底まで響く重い振動だ。すぐ隣の高架橋を、灰色のコンテナを積んだ貨物列車がゆっくりと通り過ぎていく。
まさかとは思うが!
兄貴は屋上の端に駆け寄り、眼下を通り過ぎるコンテナの屋根を見下ろした。
「あれに乗ろう!」
やっぱりな!
兄貴は俺の返事を待たず(そもそも返事も求めてないだろうが)、へりを乗り越え宙を飛んだ。
抱えられたままの体は真っ逆さまに落ちていく。胃の中身がかき回されるような浮遊感のあと、俺はコンテナの天板に全身を叩きつけられた。もう少し着地の仕方も考えてもらいたい。でないと次こそ俺の体はバラバラに砕け散ってしまうだろう。
第5保護区、ニトロ市行の貨物列車。
振り落とされれば間違いなく死ぬ──とにかく文句を言う前に、擦りむいた手のひらで天板の突起を掴んだ。肌を刺すような強風に首をすくめ身を伏せる。すぐ真上を、工場の看板や架線が猛スピードで後ろへ流れていった。
「乗れたね、列車」
「そっすね……」
「レグ、怪我してない?」
「へへ。今さらっす」
どこもかしこも痛い……でも痛みには慣れっこだ。
前に鼻を折ったとき、組のヤブ医者に診てもらったことがある。そいつは鼻の穴に指を突っ込んでグリグリとねじって骨を合わせようとしたんだ。あれに比べればこんなの何でもない。あのときは……本当に痛かった。
列車はぐんぐん速度を上げ、灰色の街をあっという間に置き去りにしていった。
柔らかいシートとはかけ離れた座席だが、移り変わる景色や風を間近で感じられるのは悪くない。あと一時間もすれば、目的地のニトロ市でまたここから飛び降りる羽目になるんだろう。
そうして無事に、第5保護区へ到着というわけだ。




