EP5 『調律』(ちょうりつ)
第1保護区のARWは賛成。
羽化計画が実現すれば、捕猟へ行く必要はなくなる。ネイヴルが人間を家畜化するという完璧な支配構造が成立する。
第2保護区、我々SQRは賛成寄りの中立。
確かに理想的な計画ではあるが、最前線で研究を行ってきたからこそ実現の難しさも理解している。これ以上、無駄な時間と労力をかけている余裕もない。
第3保護区のCRX、第4保護区のRVSは賛成。
羽化計画だけに頼るのは危険だが、だからといって研究を止めるべきではないという見解だ。
そして第5保護区。
人口が密集しすぎた他の保護区から、低所得者や犯罪者など厄介者を追い出す形で作られた区域で、慢性的な電力・食料不足に悩まされている。
羽化計画による恩恵を最も受けるはずの立場だが……。
政府のGRM、彼らだけが計画に反対していた。
EP5 『調律』
色々なことが起きた定例会だった。
帰りの車の中でアッシュは延々と文句を言っている。彼はストレスが溜まると口が悪くなってしまう。下手に刺激すると悪化するので、そっとしておくのが吉だ。
「運転、私がやろう」
「お。やってみるか?」
路肩に車を停め、アッシュと席を代わる。
一般市民がこんな夜更けに保護区を行き来する理由もなく、今走っている車といえば、
「あ、パラドが通り過ぎた」
このように定例会から戻るSQR関係者の車だけだ。
運転方法を教えてもらい、残りは私が運転した。MeXRよりも考えることが少なくすぐに慣れた。
「リダにそんな秘密があったとはな。問題は複雑なようだ」
「ああ。ノイの完璧な頭でどうにかしてくれよ」
「それは皮肉か?」
アッシュは黙ってシートを倒し、目を閉じた。
第1保護区のARWはリダの身柄を要求した。
エーテルを摂取した人間が生き延びる確率はゼロに等しい。SQRの研究では、リダのような例を再現することは不可能だと結論づけられていた。
ただ一つだけ、まだ試されていない方法がある。
ARWはその"最後の実験"を行うつもりでいた。
エーテルが人間を殺すのは、神経系を暴走させるからだ。脳からの神経信号が止まらなくなり、あらゆる筋肉・臓器が制御不能となり死に至る。
最後の実験とは何なのか?
それは、リダの神経が毒に対してどのような防衛反応を示したのかを見るために、もう一度毒を投与するというもの。すでにエクストラ化しているのでエーテルを与えても意味がない。我々にとっての毒──具体的には、歴青から精製される薬剤を投与することだった。
失敗すればリダの体は、指先や足先、末端の細い神経から崩壊が始まるだろう。
組織にとっても大きなリスクだ。挑戦は一回きり、十分なデータが得られないまま貴重な被験体を失うのは最悪の結末だ。
ARWは、SQRを臆病だと言った。
実験を強行してでも謎を解き明かすべきだと。
「本人のいる前で話すことだったかは疑問だが」
アッシュがぽつりと言う。
上層部の真意は分からないが、もうリダは我々のことを知りすぎた。今さら隠し事も無意味なのだろう。
──己を犠牲に羽化計画を成功させ、英雄となるか。
──それとも己の身を守り、ネイヴルと人類が共に衰退する未来を選ぶか。
ロックベルト巣統の演説は、まだ私の耳にこびりついている。
◇
リダをARWへ移すかどうか。結論が出るまでリダは外出を禁じられた。
そんな彼から買い物を頼まれたので、非番の今日、私は市街の楽器店を訪れている。リダのメモを見た店員は「うちでは売ってないな」と頭をかいた。
「楽器屋なのに置いていないのか?」
店員は「これ、楽器じゃないし」と鼻で笑い、私を追い払った。
私にだって分からない。
先日、庭園でリダとこんな会話をした。
「なんか音が変なんだよね……調律、自分でやってみようかな」
「できるのか?」
「いやまったく。けど、ずっとこの音でも気が滅入るし」
「必要な物があるなら私が買ってこよう」
「本当?」
彼はメモに変な(と言ったら失礼だが)絵を描き、「道具の名前も分からないから店員さんにこのメモを見せて」と私に手渡した。
「あと、やり方を聞いてきてほしいんだけど」
「了解した」
リダの頼みだ。この任務、完璧に遂行してみせよう。
地上の街はいつも通り、煙と錆と何かが腐った臭いが立ち込めている。電力不足で以前よりも活気のないネオンが太陽の下で寂しく光っていた。
私は、人波の中で足を止めた。
交差点の街頭モニターにニュース映像が映し出されている。
『先日第1保護区にて、年に一度の保護区運営会議が開催されました。五つの保護区の政府高官が出席し、保護区の運営や資源管理について意見交換が行われました』
アナウンサーの落ち着いた声が通りに響く。
『会場では各保護区の代表者が握手を交わす場面も見られ、保護区間の連携と結束を、改めて確認する機会となりました』
画面の中には見知った顔がいくつもあった。統括官たちは穏やかな笑みで肩を叩き合って、いかにも親しげな様子だ。あらかじめ報道向けに撮っておいた映像だろう。
『ロックベルト総統は会議後の会見で「今後も保護区同士が協力し、区民の安全と安定した生活を守っていく」とコメントしています』
地を這う無数のケーブルを跨ぎ、私は歩みを再開する。
目的の物は二軒目にも売っていなかった。
三軒目の楽器屋でようやく見つかり、リダから預かった金では足りなかったので少し自腹を切った。こんなのでよければ、うちの整備隊が使っている工具に似たような物があったかもしれないのに。店員に使い方を聞くと「分からないで買ったの!?」と目を丸くされた。
「まさか自分でやるの? だめだよ、君のピアノ壊れちゃうかもよ」
「私のものではない」
「そうじゃなくてもさ……うちに頼んでよ、プロがいるから」
家はどこ? と聞かれ、面倒になったのでSQRの身分証を見せる。
「こういう者だ。申し出はありがたいが、あなた方を招き入れることができない」
「し、失礼しました……でも本当に危険で」
「とにかく教えてくれ」
「うう……もし失敗しても我々のせいではありませんからね?」
どうやら一度失敗すると元には戻せないらしい。
店内で試し弾きする客の演奏に耳を傾けながら、店員の説明を聞いた。
買い物を終えた私は、今度は自分の用事のためにオリジン市へ向かう。
立ち寄ったのはオリジン中央病院だ。
「君たちは本当に……いつまで私に関わるつもりだね」
この病院の医師エリカ・モルトン。
私がSQRの者だと名乗れば顔からは笑みが消えた。
「リダについてはすべてを話したはずだ」
「少しでも、あなたが知っていることを」
「はぁ……昔はカルテの管理も杜撰だった。もし残っていたとしても、あの子は八人部屋のベッドで三日間寝ていたとしか書けないさ」
リダの誤飲事故に対応した医者が彼女であることは聞いている。一体どんな人物か気になり、SQRの特権を利用して呼び出したが心底迷惑そうな反応だ。
「また私を椅子に縛り付けるつもりか」
「我々はそんなことをしたのですか?」
「私が今ここで説明する必要があるか?」
なるほど。過去のSQRも、羽化計画実現のためには手段を選ばなかったようだ。
背後で「エリカ先生~」と呼ぶ声に、「今行くよ」と返して背を向ける。
「帰るんだ」
彼女はスリッパをパタパタと擦りながら、部屋の奥に消えていった。
私は何も、探偵ごっこがしたくて彼女に会ったのではない。
神経系への実験など未知の領域だ。彼女のように、知識を持つ人間の協力者が必要ではないか。もっとも、人間を餌にするための計画に協力してくれと言って頷く者はいないだろうが……彼女はリダのためであれば力になってくれるのではないか。そんな希望があったものの。
「モルトンに会いに行ったのか? この馬鹿」
その日、本部の食堂でアッシュに怒られた。
「変なこと言ってないだろうな?」
「大丈夫だ」
「お前、もう一人で地上に行くの禁止」
「了解した」
「はぁ……お前の血で動くMeXRなんて俺は乗りたくないぞ」
これは悪さをする仲間に対して、私たちが言い合う"パイロットジョーク"だ。どうやらあまり良くないことだったらしい。これからはアッシュに相談しよう。
「わぁ、これこれ! 助かったよ」
庭園のリダに品物を持って行った。
彼は「よし、やるぞ」と厳しい顔つきで袖をまくる。
「店員にはやめておけと言われたが」
「……やる」
「壊れるかもと」
「大丈夫、僕なら」
彼にも頑固な一面があるのだ。店員から聞いたとおりに教えてやると、リダは調律とやらに取り掛かった。
彼のやりたいことは分かった。例えるなら、ニュースキャスターが友人との雑談感覚で原稿を読むべきではないように、楽器もある程度決まった法則の音に統一しないといけないらしい。小一時間、リダは「よし」「うわ」などと呟きながらピアノの弦と格闘していた。ベンチでうたた寝していた私は、彼の演奏で目を覚ました。
「できたのか?」
「んー……分からない」
「分からないことばかりだな」
「まぁ、やる前よりかはマシになったかな」
無事に済んだようで何よりだ。
少し休憩だと言って彼がピアノから離れたので、私は先ほど聴いた音を再現しようと鍵盤を叩いてみた。
「えっ。ノイアー、ピアノ弾けたの?」
「弾けるみたいだ」
「天才……?」
そうかは分からないが、調律中の彼が何度も鍵盤を叩くので音と位置の規則は覚えた。音色も言葉も同じ振動として感知する我々にとっては、聞いた言葉を口に出して繰り返すのと似た感覚だ。
「君たちはそんなこともできるのか……」
「合っているか?」
「ちょっと違うけど、成り立ってるから不思議だよ。曲を自分のものにしたね」
それは良いのか悪いのか。
「僕も触手を作れば……ノイアーみたいになれるのかな」
「私のようになりたいのか?」
「分からない」
「リダのピアノは今のままでも良いと思うが」
「……──」
彼はうつむいて呟いた。どういう意味だと聞き返そうとしたが、彼は顔を上げ「もっと聴かせてほしい」と笑顔を見せる。
「僕が今から弾く曲を弾いてみてよ」
今までになく楽しげな様子だった。そういえば、人間の年齢に換算するとリダは私よりも年下らしい。これまであまり意識していなかったが、彼がふと見せた年下らしさに私はどこか安堵した。
ちなみに、入り口からこちらを見ているパラドはリダと同い年だ。私が目を覚ました時からそこにおり、リダも気づいているはずだが無視しているので私も気にしないことにした。
そんな出来事から一か月ほどが過ぎた、ある日。
SQRにひとつの通知が届いた。




