EP8 『足枷』(あしかせ)
「早く家に入んなさい」
庭で遊ぶ僕に、母はいつもの調子で声をかけた。
スコップを片づけに入った物置で小さなポリタンクを見つけた。中に何が入っているのか気になり、キャップを回して開けてみるとなんだか良い匂いがする。
手を入れ、液体を掬い上げる。
透明のそれを口に含んで飲み干す。
爽やかで甘い味がした。喉の渇きが潤され気分が良くなった僕は、次々と同じように繰り返した。
「ルース、もうご飯できて──」
物置のドアが開き、僕は手についた液体を舐め取りながら振り返る。その時の母は今まで見たことがないほど歪んだ表情をしていた。
すぐにいけないことをしたのだと気がついた。
「喉が渇いてて……」
つい飲んでしまった。そう言い訳しようにも声が出ない。
母は半狂乱になりながら僕を抱きかかえた。様子を見に来た父も血相を変え、僕は何かとんでもないことをしでかしたのだと思った。
喋れない、手が動かない。まばたきもできず息も吸えず、やがて視界の端からゆっくりと闇が迫ってきた。
──どういうわけか、僕は死ななかった。
エーテルを摂取し生き延びた者はいない。苦し紛れの生命維持装置で辛うじて生かされる僕を、周囲の人々はただ見守るしかなかったという。
三日目の朝。何事もなかったかのように僕が起き上がれば、ベッドサイドにいたオーカーは座っていた椅子を蹴って身を乗り出した。
「ルース! 起きたの!?」
あまりの剣幕に僕はたじろいで、そういえばあの水のようなものを勝手に飲んだことを思い出し、この女性がそのことを怒っているのだと勘違いした。
「ご、ごめんなさい……喉が渇いてて……」
「誰かエリカ先生を呼んできて!」
まるで嵐が飛び込んできたかのように、人も物もかき混ぜられながら辺りはたちまち騒がしくなった。
ここが家のベッドではないことにもすぐに気づいた。僕は混乱し、奇跡的に回復した重症者とは思えないほど目一杯泣き叫んで暴れていたようだ。警察の事情聴取から解放された両親と再会し、ようやく家に帰ればもうすべてが終わったのだと思った。
野次馬はいつまでも途絶えない。
僕の家はかなり裕福だった。集合住宅が当たり前の第2保護区で庭付きの一戸建てに住み、周囲もそれなりの社会的地位にある家庭ばかり。近所の子が僕に駆け寄ろうとすると、その子の両親が慌てて引き止める。それでも僕は、頼めば好きなだけ買ってもらえたミニカーを手に一人で楽しく過ごしていた。
ただ一つ本当につらかったのは、両親が見知らぬ人から犯罪者のように扱われる光景を見ることだ。とにかく異物には敏感な社会だった。
二人は少しずつ変わっていった。
家には、エーテル燃料に反対する活動家たちが出入りするようになった。人々をエーテルから解放する神様とかいう人が来て、僕がテレビを見ている背後で両親と長い時間話し込む。コメディアンが面白いことを言っても大人たちは目もくれず、一人で笑っている自分こそが間違っているのではないかという後ろめたさがあった。
二人は家を空ける日が増えた。
プラカードやメガホンを手に、迎えに来た仲間の車に乗り込んでいく。
オーカーがたまに遊びに来てくれた。
何も分かっていなかった僕は、表向きは喜びつつも心の奥底では「このおばさんじゃなくてお母さんがいい」と思っていた。
その日、両親は夜になっても戻ってこなかった。
オーカーは「列車の事故」だと言ったが、後に、抗議活動が暴動に発展し命を落としたのだと聞いた。五歳の春の出来事だ。
【Chapter2 リダ】 fin




