EP6 『秘匿』(ひとく)
アビゲイルの彼氏は、飛び散った水を拭きながら僕に「名前は」と尋ねた。
「リダ、です」
ズキズキと痛む頬を押さえながら答える。
必死に経緯を説明したが「どうでもいい」と言う。彼女に何かするつもりはなかったと弁明しても「そういう問題じゃない」と言う。金を全部置いて行くと言えば「お前は状況分かってんのか」となおさら怒らせた。もう何をしても火に油だ。
「聞いたことねえな」
名前のことか。そりゃそうだ、僕もあんたのことは知らない。
「迂闊すぎるだろ」
「はい、おっしゃる通りです……。お付き合いされていると知りながら僕はアビゲイルさんの好意に甘えました」
「そうじゃなくて」
彼氏は頭をかく。
そして僕に「あのまま水飲んでたらどうなったか、分かんねえのか」と詰め寄った。
彼女は水アレルギーだとでもいうのか。また下手なことを言って逆上させないよう慎重に答えを探す。困惑する僕を見た彼氏が、はっと床を拭く手を止めた。
「もしかして……マリセラが言ってた"ルース"って、お前のこと?」
その一言に僕の心臓は暴れ出す。
ここ最近の悲劇はすべてが見えない糸で繋がっている。こうも立て続けに怪しい人間と出会うことを"日常のありふれた出来事"とは呼べないだろう。
EP6 『秘匿』
男はザンクと名乗った。
アビゲイルが最初にそう呼んでいたので間違いない。なんだかもう色々と疑心暗鬼になってしまう。ザンクはボサボサの黒髪の下から、常に睨むような目つきでこちらを見る。襟や袖口から覗く大量のタトゥーが疲労困憊の僕をさらに萎縮させた。
「俺から言っていいのかこれ……本部はまだ見つけてないのか?」
また意味の分からないことをブツブツと呟く。
「マリセラって人とは会いましたが。あとパラド」
「奴に会ったのか? なんでここにいる?」
「逃げてきたんです」
「あー……」
なんだその呆れ顔は。やっちゃったよコイツ、とでも言いたげだ。
「パラドって誰だっけ。なんか聞いたことあんだけど」
「自分のことガーディアンだと言ってましたよ」
「ああ、思い出した。MeXR乗りのクソガキだ」
本当にガーディアンだったんだ、あいつ。
虚言癖のストーカーじゃなかった。いやストーカーはまだ事実か。
ザンクはなおも、どうすっかなーとぼやきながら床を拭く。ガサツそうな見た目のわりに掃除はかなり丁寧だ。僕は改めてアビゲイルのことを謝った。
「もういい。でも今日は別の部屋で寝ろ」
「それはもちろんです」
「んで、やっぱり明日SQRにお前を連れて行く」
「それはもちろ──え?」
ザンクは「俺はお前の扱いを決められる立場にない」と理由を語るが説明になっていない。
「そこにはマリセラがいるんですか?」
「そりゃいるだろ」
「僕としてはその……ご遠慮願いたいのですが」
「悪いけど俺も手に余る。お前にどこまで話していいのかも判断できないし、とにかく早くマリセラから話を聞け」
最悪だ。やっぱりこの男もあいつらの仲間っぽい。
もうとっくに詰んだチェスをやらされ続けている気分になる。
「本当は今すぐにでも連れて行きたい。お前を匿ってると誤解されちゃ困るしな」
「……オーカーやエリカ先生、Rizの皆は」
「え?」
「僕の大事な人たちです。僕がマリセラに会うことで、皆に危害が及ぶことになるなら行きません。どこまででも逃げます」
ザンクは長いため息を吐いた。
「確かにお前の状況は、お前にとっちゃマイナスだ。マイナスをゼロにするか、さらにマイナスにするかの二択だよ」
「マリセラに会えばゼロになると?」
机に身を乗り出したザンクが、舌打ちとともに僕の胸倉を掴む。
「檻の中で、何もかも自分の思い通りになると思うなよ、人間」
そして、ゴミ袋を投げ捨てるみたいに手を放した。
こいつはすぐに手を出すな。アビゲイルはこんな男のどこが良いんだろう。
「うっ……」
思考が投げやりになってきたところで激しい頭痛に襲われた。ヤバい、寝る前の分を飲むのが遅れた。ザンクは慌ただしく別の部屋へ向かい銀色のパウチを持ってきた。
鞄の中にある薬を取ってほしい。そう伝えると、薬を探し出したあと「これと一緒に飲め」とパウチを押し付けてくる。
一瞬ためらうが、言い争う余裕もないのでその通りにする。パウチの液体は甘い香りがし、スッと鼻を通るような爽やかな喉越しだった。
「携行液も持ってないのか。よく今まで生きてこれたな」
息も絶え絶えな僕の横で、ザンクは鞄の中を漁っている。
嘘みたいだ。いつも薬が効くまではこの苦痛を耐えなければいけないのに、今日は一瞬で薬が全身に溶けて回ったような……。
「てか、やべぇ。とっさに持ってきたけど飲ませてよかったのかな」
ザンクは時計に目をやり、空のパウチにペンで時間を書き記す。何の薬だ? どこで買った? 矢継ぎ早に尋ねると「うざいからもう喋んな」と椅子を蹴られた。
それからザンクの部屋のベッドを借り、こんな奴の近くで眠れるもんかと思ったが、今までになく調子のよい身体に安心しすぐにうつらうつらし始めた。夜中に僕が逃げ出さないようにと、彼はドアのそばの床で横になった。
アビゲイルが帰ってきた。彼女は「うわっ、あんた床で寝んの?」とザンクを見て驚く。二人の会話が、寝落ち寸前の耳に飛び込んでくる。
「なんであの子にベッド貸してんの?」
「いや、まぁ」
「……私のこと心配してくれてるんだ?」
「そんな感じ」
「今さらそういう気遣いいらないんだけど。てかそんなつもりで連れてきたんじゃないし」
「俺、明日朝早いから」
「……あっそ」
相変わらず一方的な会話だ。やっぱりこんな奴とは今すぐ別れた方がいいと思うけどなぁ。そんなことを考えながら、決して寝心地の良いとは言えない安っぽい毛布の中で深い眠りについた。
翌朝。左腕に走る痛みで目を覚ました。
おぼろげな視界にはザンクが映る。彼が指先につまんだガラスの破片には血が付いており、こいつに腕を切られたのだと気づいた。
「何で!?」
「あれだ……俺の女に手出してんじゃねえってやつだ」
「今さら!?」
もういいだの関係ないだの言ってたくせに、こいつの情緒はどうなってるんだよ。そして信じられないことに彼はガラスについた僕の血を舐めて「マズっ、ほぼ死体だ」と感想を述べた。
異常だ。
パラドもこいつも狂ってる。
ザンクは謝罪もなく淡々と包帯を巻き、「飲んどけ」とパウチを投げて寄こした。喉も乾いていたので薬と一緒に頂戴したが、あとでエリカ先生に怒られないだろうか。飲み合わせとかあるかもしれないし。
これを飲むとかなり調子がいい。甘いが苦手じゃない風味だし錠剤を飲むより気分も楽だ。
「移動中に倒れられても困るしな。一回飲ませりゃもう何回も変わんねぇだろ」
ザンクは昨夜と同じく、パウチに時間を書いた。
リビングの机には"あさごはん"と書かれた紙袋が置いてあった。ザンクは少し迷ったあとに黙ってそれを手に取った。
まだ寝ているであろう、アビゲイルの部屋のドアに「ありがとうございました」と声を掛けて家を出た。できれば直接礼を言い、君にはもっと良い人がいるはずだと伝えたかったが。
「僕、車あるんですけど」
「後で本部の奴に取りに来させるよ」
「僕の車じゃないんで置いて行けません」
「……だる」
ザンクは自身の車の鍵をポケットにしまい、二人で昨日のバーに向かう。途中、ノイズ混じりの朝の放送が流れ始めた。
『おはようございます。
SQR本部、市民生活局よりお知らせします。
本日の天候は曇り、コライユ市では強風が予測されます。
高層通路の通行には十分注意を──』
天気の放送は午前七時、これは僕の街もこの街も変わらないようだ。仕事柄いつもこの時間は夢の中だからまともに聞いたのも久々である。
バーの裏口から出てきたソルティと鉢合わせた。昨夜、僕の前で素晴らしいピアノを披露してくれたこの店の売れっ子ミュージシャンだ。
「リダじゃん! おはよ~」
服も昨日のまま。
仕事後にバックヤードで寝落ちしてしまったらしい。「マスターも起こしてくれればいいのにさぁ」と彼女は苦笑しながら伸びをした。
「私のピアノどうだった?」
「んー……まだまだかな」
ソルティははにかみ、「このっ」と僕を肘で小突く。
嘘だ。めちゃくちゃ上手くて嫉妬した。でもあまり乗り気じゃないのはやっぱり伝わってきた。同業者としては、ソルティには自分の好きなギターを持っていてほしい。そう伝えると彼女は「ありがと」と静かに微笑んだ。
「行くぞ」
背後から抑揚のない声が飛んでくる。
「アビィの彼氏じゃん、なんで一緒にいるの?」
「それは……昨日泊まらせてもらったから、その、お礼に食事でもと思って」
「ふーん、アビィの家にねぇ……」
不審げな彼女にこれ以上追及されないよう、曖昧に手を振り車に向かう。
「今度は私がRizにお邪魔するよ」
ソルティは朝日に目を細め、白い歯を見せて笑った。
その時はぜひとも相棒のエレキギターと一緒に来てもらいたい。そして、僕も何事もなかったようにステージに立てていればいいなと思った。




