1章の4 大商人の孫娘と王弟
友人知人に小さな顰蹙を買いながらも、ファリーヤは男装をやめはしなかった。
この国では良家の未婚の子女は、基本的に家の中でのみ暮らす。
外出の際には、薄絹の面衣をつけて親族男性か侍女を伴うのが常識だ。
世の危険から、乙女を守るためだと言う。
ありがたい心遣いだが、ファリーヤにとってそれは鎖でしかなかった。
『少女がひとりで出歩けないのなら、少年になればいい』
ファリーヤの思考はある意味、単純だった。
祖父タリクは都でも指折りの大商人だ。
その孫娘がふらふらとひとりで出歩いていては、さらってくれと言っているようなものだ。
そうタリクに忠告する声も多々あるようだが、祖父は孫娘の気性をよく知っていた。
そして亡き妻に似たその気性を慈しみ、忠告は聞きつつも、ファリーヤを型にはめようとはしなかった。
幸い、これまで危険な目にあったことはない。
ファリーヤだと知っている者は親切にしてくれるし、知らない者は少年が使い走りでもしていると思っているようだ。
心配はもちろんしている。できれば家でじっとしていて欲しい。
けれど祖父はそんな思いを隠し、孫娘の自由にさせていた。
ファリーヤもまた、出かけたときにはその日の行動をすべて話すように心がけ、祖父の信頼に応えていたのである。
「こんにちは、ダレイス!」
混み合っている南市場内は迂回し、ファリーヤはいつものように遠慮無くその家の玄関を開けた。
扉を叩いて訪問を知らせるという礼儀は、この家に限って考えなくてもいい。夕方ならばともかく昼前のこの時間、そんなことをしていたら、いつまで待っても家主に会えないからだ。
「ダレイス! 昼食はすんでる? ねえ、薬草が来たわよ。これでお茶の試飲が――」
厚手の布を持ち上げ、仕事場にしている部屋に一歩踏み込み、ファリーヤは立ち尽くした。
ダレイスの仕事場はひどい有様だった。
予備にしまってあったはずの布袋は散らかり、座布団は部屋の隅に放られ、薬はぶちまけられて、墨壺が倒れて絨毯に染みを作っている。
「……何、これ。ダレイス! ちょっと、ダレイス!?」
ダレイスの私室、台所、物置と、広くはない家中を探し回るが、求める人物の姿はない。
仕事部屋に戻って、絨毯をめくろうとしゃがみこむ。そこに、きらりと光る物を見つけて、つまみあげた。
「……耳飾り?」
それは小さな琥珀でできた耳飾りだった。
明らかにここの家主のものではない。
客が落としていったものだろうか。
「ここが噂の魔術師の店?」
ふいに聞こえた声に、飛び上がるようにして振り返る。
そこには、ふたりの男性が立っていた。ひとりは二十代半ば、もうひとりはファリーヤより一つ二つ年上の少年だ。
「失礼? 鈴を鳴らせとあったけど、ひとがいたから、つい」
ファリーヤは動き回りながら、この部屋の状況を軽く手を広げて示した。
「えっと、それはもう仕方ないわよね。お客様かしら。ごめんなさい、いま店主のダレイスがいないみたいで……」
「……ああ。女の子なんだね」
「ええ、そうよ」
口を開けばさすがに少女だとわかってしまう。
年輩者の中には説教をはじめるひともいるし、ひそひそとした会話が追いかけてくることもある。
「申し訳ない。不機嫌にさせたかな」
だから、少年の反応は少し意外だった。
こちらを気遣ってくるとは思わなかったのだ。
「……いえ、別に……」
「それで、魔術師は外出中? いつ頃戻るのだろう?」
少年の柔らかな物言いに、動き回っていたファリーヤは吐息とともに、散らかった部屋を眺めやる。
「あたしもいま来たところなの。どこへ行ったのかも、いつ戻るのかも、わからないわ」
「なんだか、その、随分散らかっているね。家捜しでもされたみたいだ」
ファリーヤも考えたことだった。しかし誰がなんのために、ここを荒らす必要があったのだろう。しかも、ダレイスがいない。
段々と、嫌な予感が芽生えてくる。
「ところで、きみはここの店員さん? 何かを探していたようだったけど?」
「え、ええ、書き置きがあるかと思って。ダレイスはたまにいなくなるけど、必ず手紙を置いて行くから」
応じながらも、ファリーヤの視線は部屋の中を巡っている。
「ふうん。手伝おうか、書き置きを探すの」
「いいえ、お気持ちだけで結構よ。あなた、お名前は? 前にもこの店に来たことはある? ダレイスへの用件なら伝えておくけど」
「あなたは魔術師なんですか?」
ファリーヤは、そこでようやく動きを止めた。
いままでしゃべっていた少年とは違い、はじめて口を開いた青年の声は随分と鋭い。
短く刈られた頭髪に、白いターバンを巻いている。長身で、鍛え上げられた筋肉を持っているのが、装束の上からもわかった。腰に下げている剣は、きっと飾りではない。
「あたしは魔術師じゃないわ」
そしてファリーヤは、また動きはじめた。
座布団を持ち上げ、墨壺を机に戻し、どこで手に入れてくるのか異国の彫刻や欠けてしまった杯を棚へ戻す。
「あなたたち、魔術師に用なの? 何を求めてるのか知らないけど、呪いとかの類はダレイスには無理よ? それなら他を当たってちょうだい」
「わたしたちはダレイス氏本人に用があるんです」
その言葉に警戒しつつ、ファリーヤはぱんぱんと手を叩いて埃を払った。
「もしかしてダレイスってば、また何か面倒事に巻き込まれちゃったとか?」
「また?」
繰り返す声を耳に、ファリーヤは、ようやく目指すものを見つけた、と思った。
「あ、あった、書き置き――あれ?」
小さな卓の下に落ちていたそれを手にすれば、少年が覗きこんでくる。
「『探せ』? これが書き置きなのか?」
「違うわ。ダレイスの字じゃないもの。しかも羊皮紙だなんて。誰かからの依頼じゃないかしら」
安価な紙が主流となっているいま、羊皮紙とは古風なものだ。しかも書いてある文字は『探せ』と、それだけ。他には、宛名はもちろん送り手の名もない。
「誰からの依頼です? 何を探せと?」
「さあ、あたしにはわからないわ」
詰め寄ってくる青年に、さすがに身の危険を感じはじめたファリーヤが、じりじりと戸口のほうへ移動した。
しかし、その意図は読まれて、青年がすっと退路を塞ぐ。
「……あなたたち、なんなの?」
ふたりは軽く視線を交わし、口を開いたのは青年だった。
「ある女性を探しています。問いに正直に答えてくれればいいだけのことです」
「答えてるわよ、失礼ね!」
「アイディ。おまえ、そう誰彼構わず疑ってかかるのはよくないよ」
「誰彼のつもりはありませんが、ラシード様」
「なんなのよ、ひとを呼ぶわよ!」
「それは困るな」
少年は微笑むように呟いてから、少女に向かって屈み込んだ。
「ぼくの瞳、わかる?」
とんとんと指で示すのは、真っ青な双眸だ。
「この目は凶眼なんだ。嘘をつけば、呪いがふりかかるよ。悪いことは言わないから、ダレイスの居場所を正直に――」
「馬鹿馬鹿しい」
ふんとファリーヤは言い放った。
次は土曜日です。
よろしくお願いします。




