4章の4 黒幕の黒幕
星の瞬く時間になっても、セフィアは後宮のミシカの部屋で、初孫となるハリクを飽かずに眺めていた。
眠ってしまったハリクを起こさぬように、ふたりは囁くような会話を交わす。
「本当に、可愛らしい子だこと。目元はあなたに似ているのかしら、やっぱり。生まれたばかりのときはサヒードに似ていると思ったのだけど」
「赤子のうちは顔も変わるといいます、お義母様」
「ええ、ええ、そうね。そういえば、そうだったわ」
自分の息子たちのことを思い出し目を細めるセフィアに、ミシカはおっとりと微笑んでいる。
二十二歳になるミシカは、豊かな黒髪は誰よりも美しいと言われるが、容貌は特に整っているわけではなかった。
それでもサヒードは彼女を望み、彼女もまたサヒードを望んだ結果、ミシカは妻として母として輝きを増している。
セフィアは息子が選んだ嫁を信頼していた。
ミシカは夫の母親を敬っていた。
はじめて会ったのは一年前だが、サヒードをあいだに挟み、ずっと仲の良い嫁姑である。
「お義母様。お義母様からもラシード様にお願いしていただけませんか? どうかハリクの顔を見に来てくださるように」
「え、ええ。でもね、ミシカ。勘違いしないで欲しいのだけど、ラシードは、あなたやハリクに隔意があるわけではないの。あの子は」
ミシカはそっとハリクの髪を撫でて、セフィアに向いた。
「わたしは青い目など気にしません。だってサヒード様の弟君でしょう。わたしは、ラシード様を本当の弟のように思っています。サヒード様からよくお話をうかがっていますから、幼い頃から知っているような気さえしますもの」
「あなたにそう言っていただくだけで、わたくしがどれほど救われることか……」
感極まったようにそっと目尻を拭うセフィアに、ミシカは上目遣いで白状する。
「でも本当は、ラシード様にちょっとだけ嫉妬もしました。だって、サヒード様ったら、ラシードがああしたとかラシードはこうしたとか、いつもその話ばかり」
少し拗ねたような口調が、徐々に愛しいものになる。
「でも、そんなに弟君を大切にしているのなら、妻や子供も大切にしてくれるひとではないのかと、思ったのです」
「――本当に、サヒードはよい妃を迎えました」
「わたしは、ただ、サヒード様をお慕いしているだけです」
言ってから、ミシカは少女のようにぱっと頬を染めた。
「ええ、わかりました。ラシードは、責任を持って、わたくしが連れてきます。甥の顔を知らずしてどうしましょう」
良い夢でも見ているのか、揺り籠の中でハリクが笑った。
◇ ◇ ◇
高い天井や周囲の壁は、蔓草や葡萄の文様で鮮やかに彩られている。
部屋に飾られている物は、水差しひとつとっても金細工に様々な宝石が埋め込まれた豪奢なものだ。
王の居室と言われても、信じてしまう者があるかもしれない。
その部屋でイクレムが侍らせていた女は、すべて散らした。
そしてギーライは、イスヴァとイクレムの前に立っていた。
「見つけたのですね、ギーライ」
ギーライの手にある壺に、イスヴァの視線が向かう。
「ようやく見つけたのか!」
イクレムはイスヴァに甘やかされて育った。
サヒードより年長なのだから、より王に相応しいのだと言い聞かされて育っていた。
何をしても許されると思い込んでいた。
馬鹿な男だ。
「ギーライ。それが例の壺だな?」
「ええ。しかも魔神が二匹封印してあります。これが本物の壺だと民衆は信じるでしょう」
「口で言うだけではわかるまいが」
「封印を解いて魔神を暴れさせ、また封印すればいいだけのこと」
「わたしは封印の方法など知らん」
苛々しはじめたイクレムに、ギーライはまだ壺を渡さない。
「わたしも知りません。しかし魔神の一匹は、わたしの命令を聞きます。もう一匹を封印させればいい。王家の封印は魔術師のものとは違うと、民衆は思っていますしね」
「……信じられんな。まあ、いい。さあ、わたしにそれを寄こせ」
傲慢に手を出すイクレムに、ギーライは壺を引いた。
「なぜ、あなたの命令を聞く必要があるのです? あなたより、わたしのほうにその権利があるというのに」
「ギーライ? 何を言っている?」
くっとギーライは喉を鳴らし、間抜け面をさらすイクレムに半眼を向ける。
「イスヴァは都合の悪いことはすべて隠したのか? おまえは何も知らないのか?」
「無礼ですよ、ギーライ!」
呼び捨てにされ堪らずにイスヴァが叫ぶが、ギーライは意に介さない。
「礼儀というのは相手によるさ」
そうして、ギーライは腰の背側にあった短剣を前に差し直した。
それを見て、イスヴァがたちまち顔色を変える。
「……その短剣を、どこで……」
「わたしの物だ。最初から」
母の異変に気づいたイクレムが、その短剣を見やり、指を差した。
「嘘をつけ! それはわたしの物だろう。わたしの――短剣はここにある――」
同一の物と言っていいほどそっくりな意匠の短剣であった。
銀の鞘、銀の柄、刀身も銀なのだろう。
しかし鞘に彫られた文字が異なっている。
イクレムの鞘にはイクレムの名がある。
ギーライの鞘にある名は――。
「そんな……。おまえ、まさか……。レイヒム……?」
わななくイスヴァに、ギーライは口元だけで笑った。
「覚えていたか? そう、わたしはレイヒム。ルゥルゥの息子レイヒムだ。ジャリルの長男であり、おまえの異母兄だよ、イクレム」
「な、何を馬鹿な、母上?」
動揺して、イクレムはイスヴァを振り返る。
しかしイスヴァは青ざめ、声を発することができなかった。
「わたしが教えてやろう、イクレム。おまえの母は、わたしの母に嫉妬したんだ。若く美しく男子まで生んだわたしの母に。そしてイスヴァは、ようやく自分の息子を生んだときに、わたしもろとも母を追い払った。姦通の罪を着せて。ジャリルはそれを信じた。お陰で、母はそれを苦に弱って死んだよ」
イスヴァはようようと声を絞った。
「わ、わたくしが第一夫人です。ルゥルゥなど、あの女が生んだ子など」
「そうだ! 第一夫人の息子であるわたしこそ、父上の後を継ぐのに相応しい! おまえが何を今更」
「ほう? サヒードより年長ゆえ王の権利があると訴えていたのは、誰だったかな?」
指摘にぐっとイクレムが詰まる。
「父はとても後悔していたよ。わたしたちを追い出したあと、イスヴァの計略にはまったと気づいたそうだが、もうわたしたちの行方は知れなかったと嘆いた」
「計略? わ、わたくしが何をしたというのです? 証拠は? わたくしはただ、ジャリル様にお伝えしただけ。ジャリル様とて、その後も変わりなく、わたくしやイクレムを大事にしてくださって――」
ふんとギーライは鼻を鳴らした。
「ジャリルは、ただ波風を立てたくなかっただけだ。しかし、わたしが名乗ったとき、この短剣を見せたとき、わたしを認めて謝罪もした。これまで黙っておまえに仕えていたのは、立場の弱いわたしを、再びイスヴァが害するのを防ぐため」
だが、とギーライは自分に酔ったように続ける。
「時は来た。おまえたちを破滅されられればいいと思っていた。壺を盗んだ罪でも重罪だろう? だが、おまえが王になる権利があるというのなら、わたしにもあるということだ」
そうしてギーライは、壺を掲げた。
「出てこい、ミラル!」
壺から煙が立ち、その煙は少年――ミラルの姿を取った。
「こいつらを殺せ」
「……できません……。人間に危害を加えることはできません……。先程の兵士も眠らせただけで――」
「は、まったく役に立たん魔神だな。ではどこぞに捨ててこい。砂漠の真ん中でも深海の底でも」
イスヴァとイクレムは抱き合うようにして床にへたりこむ。
しかしミラルがその命令に従う前に、凛とした声が夜気を裂いた。
「まともに契約も結んでおらぬのに、よくも使うものよ」
風が吹いたと思った次の瞬間、妙齢の美女が現れていた。
基本的に水曜日と土曜日に投稿しています。
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