14
東地区のはずれ、アズハーの屋敷から歩いてもそう遠くない場所に国立バンダルバード大学がある。シュウ国随一のこの大学は、国中から秀才と富裕層の子息が集まる選良の園だ。アズハーの母校でもある。ふたりはその付属図書館へ足を運んだ。
大学の敷地は広く、ちょっとした公園のようにも見える。西の国ふうの外観をした校舎、その正面玄関を行き交う青年たちは、誰もが洗練された風貌を備え、いかにも上流といった雰囲気を纏っていた。多くは洋装を身につけている。そのなかに例外的に、中流出身の真の英才と思しき若者たちも交じっている。彼らは上流とは異なり着古しの上下に身を包み、決まって表情に余裕のなさを滲ませていた。
校舎から伸びる渡り廊下の先に付属図書館はあった。同じく立派な正面玄関を持つ豪壮な建物だ。
ティセは午前の日差しを受けて輝く白亜の図書館の正面を前に、
「……なんか場違いってかんじ」
「ん……」
「ねえ、入ったら怒られないかな……?」
リュイはわずかに首を傾け、
「さあ……けれど、一般にも公開されているというから問題ないはずだ」
「ま、注意されたら出ればいいか」
できるだけ目に立たないよう、そうっと入っていった。
書架案内を確かめてから、二手に分かれた。ティセは紳士録を当たり、リュイはハルジイ・プラサードの著作物を探すのだ。
ティセは資料室に赴いた。古い紙の匂いのする静かな室内、ずらりと並んだ書架の前に立ち、目を皿にして探す。どんな研究に使用するのかまるで分からない文献が山とある。けれどそのなかに、紳士録のようなものは見当たらない。入り口近くの受付台で尋ねてみると、司書は訝しげにティセを眺めながらも答えてくれた。
「そういった資料は閉架のほうで扱っておりますが……」
「分かりました、どうもありがとう」
ティセは閉架の受付台へ向かった。
閉架の受付台にはめずらしく女が座っていた。二十代なかばの、中流のなかでも上のほうだと思われる身なりのいい、少し気取った感じのする女だ。
「すみません、あの……」
女は事務作業の手を止めて目を上げた。ティセを一瞥すると、あからさまに厭そうな顔をした。あなたみたいな出自不詳の、そのうえ学のなさそうな娘っこが来る処じゃなくてよ、とでも言わんばかりだ。厭な感じだなと思いつつ、ティセは続ける。
「紳士録を見たいんですけど……」
女はつんと取り澄まし、問いかけには答えない。
「え……あの……紳士録を……」
意地の悪さを満面に湛えて、女はティセを見上げている。その目はあきらかに、シッシッあっちへお行き、と言っている。完全に莫迦にされている、衝撃だ。ティセは凍り付いた。
「…………」
足音がして、学生のひとりが受付台へやってきた。すると、女は打って変わってにこやかになり、ティセを無視して学生に声をかけた。
「こんにちは、どうぞこちらへ」
学生はちらりとティセを見遣ってから女に問う。
「こちらの方はいいの?」
女はおもねるような笑みを浮かべ、
「ええ、もうご用はお済みですのよ」
瞬間、ティセはムカァッと血が上った。こんな侮辱を受けるとは思わなかった。くるりと踵を返し、怒りと悔しさを露わにした足取りで図書館の玄関へ戻った。
正面玄関に付いた数段の階段に腰かけてリュイを待つ。戻ったリュイはティセの顔をひと目見るなり表情を強張らせ、
「……なにか、怒っているの……?」
まるで自分が怒らせたと思い込んでいるように言った。一時期のティセの不自然な態度が心的外傷にでもなっているかのようだ。
「…………おまえには怒ってないよ。で、ハルジイ・プラサードの本はあったの?」
リュイはほっとしたように小さく息をつき、
「いや、なかった。数年前の蔵書整理のとき処分したはずだと言われた」
「そっか、それは残念」
「おまえのほうは?」
顔に表した不機嫌をさらに深くして、ティセはぶっきら棒に返す。
「分かんないよ!」
「え?」
憤りの交じる声音で、ことの顛末を話した。リュイは少し意外そうに言う。
「それで、なにも言わずに引き下がったのか、おまえが?」
「そりゃあね、十四のころなら莫迦にすんなよって食ってかかったよ。でもいまは違うの。私も少しは大人になったんだよ!」
そう口にしたらしたで、やはり正々堂々と非難してやればよかったという後悔の念が湧いてきた。ますます悔しくなり、おとなしく引き下がった自分にも怒りを覚える始末だ。
リュイは「ふうん」というような顔つきで黙っていたが、
「……それなら、僕が行ってみようか」
その発言はティセのいじけた心をさらに刺激した。
「なんだよ、それ! 私と違って、おまえなら莫迦にされずに見せてもらえるって思ってるんだな!?」
ほとんど八つ当たりだ。
「いや、そういうわけじゃないけれど……」
困惑気味に弁解したのち、リュイはなにかいい案が浮かんだように、
「…………そう。それなら、いちど戻って出直そう」
屋敷へ戻ると、リュイは執事を訪ねていった。執事はリュイの依頼を聞いて、
「お安いご用です。すぐにお持ちいたしましょう」
にっこりと快諾して廊下を歩いて行った。
いまだ不機嫌なティセは横目で睨むようにリュイを見上げ、
「なにを頼んだのさ」
「身なりを少し整えて行けば、あるいは莫迦にされずに済むかもしれないと思って」
ほどなくして、執事が下男を連れて戻ってきた。下男は白や黒の衣服、紳士靴を両手に抱えている。
「寸法がお合いになるといいのですが……大きさの若干違うものをふたつご用意しましたので、お試しになってみてください」
リュイは礼を述べて受け取ると、
「着替えるから、少し待っていて」
宛がわれた部屋のなかへ消えていった。
…………身なりを整える……洋装か……?
北部の伝統衣装以外のものを身につけている姿をいちども見たことがないため、ティセはうまく想像できなかった。
上等の白シャツとタイ、細身の背広に身を包んだリュイが部屋から出てきた瞬間、ティセはドキリとし、一気に体温が上がった。とてつもなく似合っていたのだ。思わず、
「……かぁっっ……!!」
恰好いい、と叫びそうになり、大慌てで口をつぐむ。
「か……?」
途切れた言葉と、急に赤くなったティセの顔を見て、リュイは怪訝そうに瞬きをくり返す。それから、「どう?」というように首を傾けて囁いた。
「……少しはましに見える?」
ましどころではない、どこから見ても富裕層の子息だ。しかも相当品格のある美丈夫に見える。細身に作られた背広はいつもの伝統衣装よりも、均整の取れたリュイの姿態を際立たせるように作用していた。もとより美しい肩の線が背広の型に強調されて、なおいっそう美しく映えていた。これなら、あの女がイブリアに偏見を持たないかぎりは、莫迦にされる心配は毫もないだろう。ティセの目は釘付けになっていた。胸のときめきを止められない。
しかし、なにやら悔しいうえに、「まし」という謙虚な言いかたがかえって癪に障った。なんでもないような態度を取り繕い、わざとぞんざいに言う。
「……ふうん……あれだな、馬子にも衣装ってやつだ」
負け惜しみの減らず口に気づいているのかいないのか、リュイはふっと小さく笑った。ふたたび屋敷から出て行くふたりを、執事が感嘆の溜め息交じりに見送っていた。
いまいちど、図書館の玄関に立った。リュイはひとりきりを装って閉架の受付台へ向かった。ティセは後ろからこっそり付いていき、扉の陰に隠れて様子を窺う。
ほかに閲覧希望者はおらず、例の女は受付台でひとり書き物をしている。
「すみません」
リュイが静かに声をかけた。目を上げた女は、
「――――っ!!」
はっと息を呑んだような顔になり、目を瞠った。
「閲覧したい本があるのですが……」
女の白い頬はみるみる薔薇色に染まり、瞳はうっとりと潤み始める。
「可能でしょうか?」
媚びるような胸くその悪い笑みを浮かべ、
「……もちろんですわ! なんなりと」
女は快く返答した。
自分とは一八〇度違う対応を盗み見て、ティセは為て遣ったりと女を嗤いつつも、さらに悔しさを募らせる。
しばらくして、女は頼んだ資料を書庫から持ってきた。またも、おもねるように微笑みながらリュイへ差し出して、
「館外への持ち出しは禁止されておりますの。それから、閉館時間までにここへお返しになってね」
「分かりました。ありがとう」
リュイがこちらへ戻ってくる。ティセは扉の陰から飛び出し、わざわざ女から見える位置まで来て、リュイの傍らに寄り添った。そして、女を振り返りニヤリと笑みを過らせる。女は「嘘でしょう!?」とばかりに目も口も丸くして、閲覧室のほうへ去って行くふたりを呆然と見つめていた。
「あはあはあは……あの顔見たか? まさに豆鉄砲食った鳩ってやつだ」
閲覧室の机に並んで座り、ティセは声を潜めながらもおおいに笑った。リュイは少々呆れ気味に笑いつつ、
「自分でやり返したわけじゃないのに、そんなに勝ち誇って……」
それから借りてきた資料に目を通した。年代の異なる数冊のシュウ国紳士録と人名事典だ。どちらとも名士や著名人の来歴や住所、家族構成などが記載されている。ただ、人名事典には古いもの――――問題の一五〇年ほど前――――もあったが、紳士録のほうはそれほど古いものはなかった。
「女性の名はないだろうから、姓が同じ人物を探して家族構成を見るしかない」
「ヴィヤティッサってひとの家族を調べればいいんだね、分かった」
ふたりは黙々と作業した。しかし、ヴィヤティッサという人物も、ハルジイ・プラサードの名も記載されてはいなかった。
「とすると、どっちもシュウのひとじゃなくてランタリアのひとなのかなあ」
「それほどの名家ではなかったから載っていないという可能性もあるけれど……」
「そうだねえ……ハルジイ・プラサードのほうは、確かランタリア出身の作家だったってアズハーさんの友達が言ってたから、間違いなさそうだけど」
「ん……とにかく、向こうへ渡ってからまた調べてみよう」
ところでさ、とティセは最近の紳士録をめくり、
「アズハーさんのお父さんの名前が載ってるよ」
リュイに指し示す。
「本当だ、家族のところに嫡子アズハーとある」
「あとね、ラムチャンドラ家も見つけた。ほら、このひとがアズハーさんと犬猿の仲だっていうひとじゃないかな」
その人物にはものすごい数の肩書きが羅列してあった。財界のみならず、この国の重鎮のひとりなのだと分かる。
「そう、そのひとの名前なら僕も知っている。それなら、この嫡子ベルガムが昨日のあの男かもしれないね」
昨夜の珍事を思い出して、ふたりとも小さく笑った。
「古い人名事典にもラムチャンドラ家のひとの名がたくさん載ってたよ。すごい名家なんだね。おまえが読んでた本のひとも載ってた。でも、政治家になったっていうヴァルサって娘の名は家族のところにはなかったな、ほかの娘はひとり書いてあったのに……」
セレイの養母が話していた、慈善事業に大きく貢献したという女政治家ヴァルサ・ラムチャンドラのことだ。ティセは養母の話をくわしく思い出す。
「ヴァルサ・ラムチャンドラは長いこと人前に出されなかったことから、本当はお妾さんの子だったんじゃないかって話があるって聞いたけど…………本当にそうだったのかな、だから載ってないのかも……」
リュイは若干目を見開き、
「そういう話があるのか……」
「セレイのお養母さんに聞いたんだ。あのひとカウゼン・ヴァルサ友愛会っていうヴァルサ・ラムチャンドラの名前を冠した婦人会で活動してるんだって」
「そう。ほかの娘が載っているのに載らないのなら、その話は真実かもしれないね」
作業を終えてリュイが資料を返しに行くと、女は眉根を皺めてなにか言いたげにリュイを見上げながらも、始終黙ったままだった。
「……ねえ、それ、帰ったらすぐ着替えちゃうの?」
屋敷への帰り道、ティセは不本意ながらも尋ねてしまった。
「そのつもりだけれど……何故?」
「…………べつに。いつもと違ってなんだかちょっと新鮮だからさ」
深い意味はないように取り繕いつつ、横目でチラチラと盗み見る。見れば見るほど、すぐに着替えてしまうのはもったいないと思う。
「おまえ、洋装は初めて?」
「いや、初めてじゃない…………軍服は洋装だから」
「ああっ! そっか!」
言われて初めて気が付いた。訓練生時代のことをあまり話したがらないリュイは、瞳に潜む翳の色をほんのわずかに濃くさせた。それでも不足のないように答えてくれる。
「何度か着ただけだよ。普段は北部の伝統衣装が平服だったから。こういう背広は西の礼儀作法を習ったときに着ただけだ」
「へええ!」
ナイフと肉叉を上手に扱えることから予想していたが、やはり西の礼儀作法もたたき込まれていたのかと、ティセは改めて感心した。
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