13
点灯夫がすべての瓦斯灯に点火をし終え、空が濃い藍色に染まるころ、ふたりはアズハーとともに馬車で屋敷を出た。高級住宅地のある東地区を抜けると、たちまち喧噪に包まれた。馬車は繁華街のほうへ向かっていく。
こういった都会の狭苦しい集合住宅で暮らす庶民たちは、自宅に台所を持たないことが多い。そのため、往来には夥しい数の屋台や露店が並び、大勢の老若男女が集っている。店先に吊されたランプの灯りの下で、惣菜を買ったり、注文を付けたり、口をもぐもぐさせたりしている。ティセは車窓からそれを眺め、アズハー邸の、あの清潔で静寂に包まれた広々とした食堂や、供される料理の美しさ、給仕たちのたおやかで無駄のない物腰などを脳裏に浮かべ、まるきり別の世界のことのように思った。
案内したいところとは、どうやら酒を出す店――――倶楽部のようだ。
「以前からたまに顔を出す店なんだが、ここのところ足が遠のいていた。私も久しぶりだ」
めずらしく、アズハーは浅葱色のシュウ人の衣装を身につけている。身体を締め付ける洋装より、ゆったりとしたこちらのほうが本当は性に合っているのかもしれない。
ティセは出かけ間際の執事の様子を思い出し、含み笑いしつつ、
「……すごく心配そうな顔してましたね、執事さん」
途端、アズハーはいかにも気に入らなそうに目つきを鋭くし、
「あれは年々うるさくなる……日ごと鬱陶しさを増す」
窓枠あたりを指先でコツコツコツコツと突いて、いらだちを露わにする。
「とにかく、いろいろと毛色の変わった連中の集まる、なかなか刺激的な店だ。ところでリュイ、きみは酒を呑む?」
「少しは……。そう、毎晩寝酒を用意して運んできてくれます」
ティセの部屋には来ないので知らなかった。
「えっ? おまえ毎晩ひとりで呑んでたのっ!?」
「ん……」
「そうか、では、きみのところにも用意するように言おうか?」
「いえいえ、いいです」
いける口ではあるが、ひとりで呑む趣味は少しもない。それよりも、初めて部屋を別にして、壁一枚隔てた向こう側で、リュイはどうしているのだろうと毎晩思っていたので、ティセは思わぬ回答を得たのだった。部屋を分けた不満を念頭に、横目でリュイを睨み、
「ふうぅぅん……」
「……なに……」
当て付けの「ふうぅぅん」に、リュイは怪訝な顔を返した。
馬車は四・五階建ての建物が櫛比する大通りの端に停車した。
「ここから少し歩く。道が狭いので馬車は入れないんだ」
御者を待たせて、三人は大通りから裏道のほうへ入っていった。
裏道は料理屋や酒場が続いている。どの店先にも明かりが灯されているものの、大通りに比べればだいぶ薄暗い。その暗い通りを二十代から五十代ほどの男たちが行き交っている。シュウ人の衣装を身につけた者も洋装の者もいるが、おしなべて背格好がよく、纏った衣服も割合上等で、労働者階級ではなく、中流かあるいはそれ以上の者たちであることが分かる。女の姿は見当たらないが、店のなかからは嬌声が漏れ聞こえていた。
アズハーはある建物の地下へ続く階段を降りていき、つきあたりにある重そうな扉を押し開けた。すると、賑やかな笑い声と、未知の国へ誘うような撥弦楽器の独特の音色、くらくらする香の薫りが、一緒くたになって外へ流れてきた。
「懐かしい薫りだ」
アズハーは心地よさげに鼻をうごめかす。
ほどよい広さの店内は全体的に照明が抑えられていて薄暗いが、十五ほどあるどの卓にもランプが灯っていて、卓上は明るい。三十人ほどの男性客がいて、酒を呑みながらしきりに喋っている。表にいた男たち同様に、誰もが中流かそれ以上と思われた。が、ここにいる者たちは皆、そこはかとなく異端を思わせた。派手すぎる上着を纏う者、どこの国の恰好か分からない服を着た者、頭をすっかり刈り上げて黒眼鏡で睨みを利かせる者、狂人のごときボサボサ頭を振り乱す者、神経質な性格を全身に滲ませて近寄りがたい者、女のように喋る者…………一癖も二癖もある、世のなかで奇人と呼ばれる類いのひとばかりだ。そしてどの席の一群も、談笑というよりはまるで論争をしているかのように、熱っぽく語り、難しそうな顔で聞き、興奮した面持ちで反論しているのだった。
ティセはリュイにそっと耳打ちをする。
「アズハーさんの仲間がいっぱいだ」
クッと、リュイは小さく吹き出した。
アズハーは奥の席に友人を見つけたようで、片手を上げた。
「もう来ている。紹介しよう」
都会ならではのこんな酒場は、もちろんティセは初めてだ。少し緊張しつつ目だけをキョロキョロさせて、席の間を通り抜けた。幾人かの客がアズハーを目に留めて、「やあ」と片手を上げたり会釈をしていた。
洋装を着崩した友人は食卓に両肘を立て、両手で酒杯を包みながら、不機嫌そうにこちらを睨んでいる。眉間に深く刻まれた皺や、ぎょろりとした鋭い眼差しが、彼をアズハーよりさらに気むずかしげな人物に見せている。
「やあ、久しぶり。急に呼び立てて悪かった。しかし、きみ暇だったろう?」
不躾に言ってニヤリとするアズハーに、友人は平然と返す。
「きみほど暇じゃない。昔も今もな」
アズハーはふたりを向き、
「大学時代の友人だ」
ふたりは「はじめまして」と挨拶をした。友人はやや怪訝そうにふたりを眺め、
「……ふむ。アズハー、こんな若い友達がいるのかい」
「そうだ。大切な友人なんだ。わざわざ遠くから訪ねてきてくれた。とにかく、ふたりとも掛けたまえ」
給仕の男がやってきて、アズハーに挨拶をする。
「お久しぶりですね、お待ちしておりました」
「やあ、相変わらずだね、ここは。いつものを……あ、きみたちもそれでいいかな」
「はい」
友人は葉巻に火を付けて、美味しそうにひとくち吸ってから、
「それでなんだ、ハルジイ・プラサードがどうとか書いてあったようだが……?」
「昔、きみから借りたことがあったろう。きみならあの作家について詳しいかと思ってね」
いやあ、と友人は首を傾ける。
「それほど詳しくはないがね、作品は……そう、三作ほど読んでいるよ」
「ティセ、あの手紙を彼に見せてやってくれ」
ティセは首飾りを外し、手紙と細密画をよく見えるようにして、友人の前に差し出した。暗褐色の卓の上、ランプのやわらかな灯りを受けて、古びた首飾りは昼間見るのと異なり、いやに神秘的に秘密めいて見える。
「こんな手紙を見つけたんです。ハルジイ・プラサードというひとが書いた手紙です」
目が悪いのか、友人は背広の内衣嚢から拡大鏡を取り出した。前屈みになって、卓の上の小さな手紙をじっと覗き込む。
やがて顔を上げ、大きな目をさらに大きくしてふたりのほうを見た。
「まさか、きみたち、この宝物を探してるのかい…………?」
「はい」
ティセは元気に答え、その隣でリュイは静かに苦笑する。友人は呆れを通り越して感心したような声を出す。
「はははは。いやいや…………アズハー、きみより暇な奴らがいたな、はははは」
アズハーは、そしてティセもつられて笑う。リュイも可笑しそうに笑みを浮かべた。ひとしきり笑ったのち、友人は酒と葉巻を楽しみながら話し始めた。
「この手紙を書いた人物かどうかは疑わしいが……ハルジイ・プラサードは、だいたい一五〇年くらい前に活動していた作家だ。出身は…………確かシュウではなくランタリアだったと思ったが……うろ覚えだ」
ティセは目を大きくしてリュイを向き、
「一五〇年……!」
細密画の女性が身につけている、クルネーガリーという衣装の型がもてはやされていたころと重なっている。
「といっても、それほど有名な作家ではない。早死にしたそうで活動していた期間も短いし、いまでは見向きもされないような二流三流の作家だ。なんでも当時、作品そのものより狂人作家と呼ばれていることのほうがまだ有名だったという」
「狂人……?」
目を瞬かせて、ティセはくり返した。
「そう。……しかし、まあ、作家や芸術家というものは少なからず、皆どこか狂れているものだと私は思うがね…………作家仲間からそう呼ばれていたほどだから、なかでもプラサードは抜きん出て狂れていたのだろう」
リュイが口を挟む。
「どんな小説を書いていたんですか」
眉根を寄せ、思い出しているのか間を置いた。
「……すべての作品を読んだわけではないが、初期、中期、晩年のものからそれぞれ一作ずつ読んだことがある。初期のものは取るに足らない若書きの感傷小説だ。中期のものは、思想やら懊悩やらを描いた群像劇だった。これがプラサードの代表作だと言われている。きみに貸したのは確かこれだろう。『闇夜』という題名の」
と、アズハーに目を遣った。アズハーは小首を傾げ、
「……そうだったように思う。陰気な小説だったと記憶している」
「晩年のものはね…………本当に気が狂れていたのか……難解というよりは、ほとんど意味が分からないと言ってもいい。よくあれを出版したものだよ」
琥珀色の酒をひとくち呑んで続ける。
「気になるなら、古書屋か図書館で探してみたらいい。古いしそれほど有名な作家じゃないから、見つかるかどうかは分からんが……」
「きみの家にはないのか」
「とっくに処分したさ、とくに好きな作家ではないからね」
小声でリュイに、
「明日、図書館に行ってみよう」
「ん……」
にわかに店内の音楽が大きくなり、同時に快哉を叫ぶ声がいくつも上がる。演奏している舞台の上に、女のような恰好をした数人の客が詰めかけて舞い始めたのだ。伝統舞踊を前衛的に構成し直したような奇妙な舞いだ。彼らの新しい芸術なのだろう。ティセは、そしてリュイも驚きの目をもってその面妖な光景に見入った。
アズハーと友人は、
「始まった」
いつものことと呆れたように微笑った。
奇人たちの宴をしばらく楽しんだのち、「久しぶりだからもう少し楽しんで帰る」という友人を残して、三人は店を出た。地上へ続く薄暗い階段をゆっくり上りながら、
「癖のある連中ばかりだろう、あれでも今晩はまだおとなしいほうだ」
「こんな酒場初めてです。飲み食いするより人間観察してたほうがずっと楽しそう! ねえリュイ」
「ん……そうかもしれない」
地上へ出てほんの数歩行ったところで、声をかけられた。やたらと鼻にかかった厭味な感じのする男の声だ。
「おや、どなたかと思えば、これはこれは、エチカ商事の若社長殿ではございませんか」
声のするほうを見遣ると、最高級仕立ての洋装を纏った小太りの男が目に入った。従者をふたり連れて、生まれ落ちたときから驕りが板に付いているかのごとく天然自然に、肩をそびやかして立っている。両端がくるりと上を向いた口髭の下に、ニヤニヤ笑いを湛えていた。途端、アズハーの周囲で空気が色を変えた。
アズハーと同年代と思われるその男は、わざとらしいほど恭しく帽子を取り、
「長らくご無沙汰のほど、なにとぞご容赦を」
極めて慇懃に、けれどじつのところ見下しているかのように礼をした。アズハーの背中にはそこはかとなく殺気が漂い始める。ティセは驚いて、そうっとその顔色をうかがった。軽蔑の籠もる冷ややかな目つきで、さも不愉快そうに相手を睨まえている。唇は固まったように結ばれている。つい、リュイと目を合わせた。
男は気取った手つきで帽子を被り直すと、まるで見咎めるように眉根を寄せて、いっそうねっとりと鼻にかかった声で言う。
「エチカ商事の若社長殿ともあろうお方が、いまだにこのような下賤な者どもの集う酒場へ足を運ばれているのはいかがなものでしょう…………御尊父がさぞ嘆かれましょう」
やんわりと窘めつつも、ニヤニヤと蔑みを滲ませる。アズハーはますます冷えた空気を放つ。
「余計なお世話だ。放っておいてもらおうか」
まるきり抑揚のない低声で直言する。感情を込めない口調が逆に怒気を感じさせた。が、男は少しも意に介さず絡んでくる。
「まあまあ、貴家と当家とは親族の縁故で結ばれようともした間柄ではありませんか。私には若社長殿を、兄弟のように案ずる資格があるように存じておりまして……」
すると、アズハーは勃然と色をなし目をつり上げて、
「黙れ!」
一喝した。ティセは内心、ひえええ、と思った。
男は完全にアズハーをからかっている。嗤いを懸命に堪えたような微妙な面持ちで、大仰に嘆いてみせる。
「おお、おお……そのような品に欠けるものの言いかたをしていては、陰で俄分限などと噂されかねません。どこで誰が耳をそばだてているか分からない世の中なのですから」
ティセはリュイの耳元に口を寄せて、
「俄分限ってなんだろ?」
リュイはティセよりも小さな囁き声で答える。
「成金のことだ」
「げ!」
アズハーは長い髪を逆立てんばかりに静かに激怒している。背中から発する冷気はおどろおどろしく渦を巻き始めた。その様子を眺めてようやく満足したのか、男はにっこりと気味の悪い笑みを浮かべ、
「つぎはいつお目にかかれますかな。なかなか社交の場へは顔をお出しにならないので寂しゅうございます。……そう! 来月、我がラムチャンドラ家主催の宴を張りますので是非ともお越しください。……まあ、若社長殿はやはりお連れの方のようなひとびとと交遊されるほうが性に合っていらっしゃるんでしょうけれどねえ…………血ですかな……」
と言って、ティセとリュイを庶民だと莫迦にしつつ、アズハーを侮辱した。そして、「ほっほっほ」と高笑いしながら立ち去っていった。
闇に紛れていくその太った影に向かって、アズハーは大人げもなく右足を振り上げて蹴飛ばす真似をした。ふたりは再度、目を丸くして見合わせる。暫し、アズハーは怒気を放ったまま立ちつくしていた。
男は「我がラムチャンドラ家」と言った。執事の話が思い出される。ラムチャンドラ家の大旦那とアズハーは犬猿の仲だといった。するといまの男はおそらく、その息子にあたる若旦那なのだろう。
やがて、アズハーはふたりを振り返り、不機嫌を露わにした険しい顔つきで、
「厭なやつに出会してしまった……気分が台無しだ。きみたちのことも侮辱していったぞ…………許せん」
ティセはなだめるように曖昧に笑み、
「いやいや、私たちのことはどうでも……ねえリュイ」
リュイはうなずいた。が、アズハーは気を収めず、
「帰って復讐を考えよう。ぎゃふんと言わせてやる」
思い詰めているような目つきで言った。ティセは帰りの馬車で、笑いを堪えるのに苦労した。
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