伯爵の力
じゃらり、じゃらり――。
連接剣が床を引き摺られる音が、静まり返った廊下に響く。
その軌跡をなぞるように、床へと赤い跡が伸びていく。
「うわあああああ!?」
「ひいいいいいいッ!?」
揺らり、揺らりと歩く聖女の姿を見て、男たちは化け物でも見るような目で怯え、逃げ惑う。
だが、逃げようとした脚へ連接剣が絡みつく。
じゃらり、と音が響いた。
「た、たすけっ――!」
次の瞬間、男の身体が引き寄せられる。
そして――。
グシャリッ!!
振り抜かれた拳が顔面を貫き、男はその場へ崩れ落ちた。
「うっ、うわあああああ!」
別の男が、せめて一矢報いようと剣を振りかざす。
だが、その刃が届くことはない。
紙一重で躱され、逆に身体を弾き飛ばされる。
グシャッ!
壁へ叩き付けられ、その場に赤い跡を残して崩れ落ちた。
逃げ場など、どこにもない。
廊下を進む聖女の姿は、もはや彼らにとって――救いをもたらす聖女ではなく、ただ恐怖そのものだった。
そして――最奥に鎮座する、重々しい木製の両開き扉を蹴り開けた。
「おやおや、妙に館が騒がしいと思ったら……聖女様ではないか。こんな夜分にどうされたのかな?」
全身血塗れの俺を目にしてもなお、マルクス伯爵は微塵も物怖じすることなく、革張りの椅子に深々と腰掛けたまま優雅にワイングラスを傾けてみせた。
「うふふ……それが人生『最後の晩餐』となりますのですから、どうぞ心ゆくまで味わってくださいませ」
「ほう……」
俺の冷ややかな視線と声色に込められた真意を感じ取ったのか、マルクス伯爵はゆっくりとワイングラスをテーブルへ置いた。
「それはそれは、随分とご機嫌斜めのようだ」
伯爵は低く喉を鳴らして笑うと、悠々と立ち上がり、血の海と化した廊下の先へと視線を遣る。
「私の可愛い部下たちが随分と派手に殺られたようだが……なるほど」
「間もなく、貴方の金庫に大切に保管されていた極秘資料も、王家へと渡る手筈となっておりますわ。ふふっ……後ほどどのような見苦しい弁明をなさるのか、楽しみにさせていただきますわ」
「ほう……」
それでも、マルクス伯爵は大物ぶった態度を崩さない。
「ふむ。期待させて悪いが――私にとって、あの程度のものが公になったところで、さして痛手にはならんよ」
「そうかしら?」
「そうとも」
伯爵は余裕の笑みを浮かべる。
「皆が望んでいるのだよ。君も見ただろう? あの『部屋』を」
「…………」
俺の脳裏に、先ほど見た光景が蘇る。
そこには、人としての尊厳すら奪われ、ただの物のように扱われている少女たちがいた。
「あの『部屋』を利用しているのは、私一人だけではない。公爵家とて例外ではないのだよ」
「……」
マルクス伯爵は不気味にニヤリと口元を歪めた。
「君がどれほど足掻こうと、この世界の構造は何一つ変わらない。君のその青臭い正義感は立派だがね――社会というものは、君が思っているよりも遥かに複雑で、そして醜悪なのだよ」
「私を断罪しようとしたところで、権力者たちを欲で飲み込んでしまえば、それで終わりだ」
己の絶対的な支配力と権力を信疑わず、マルクス伯爵は淡々と語る。
(やれやれ……伯爵様は重大な勘違いをなさっておられるな。こちらは更生する機会を与えてやってるというのに……)
こいつは、俺が証拠を集めて裁判にかけることだけを目的に、ここへ来たと思っているらしい。
俺は心底呆れ果て、大袈裟に小さく肩を竦めた。
「はぁ……まさかこれ程の救いようのない俗物であられるなんて、心底がっかりさせられましたわ。――どうやら貴方はまだ、ご自分が置かれている本当の立場をご理解いただけていないようですけれど?」
ジャラリ……。
連接剣が舞い、金属と金属が擦れ合う音が、静かな部屋に鋭く響き渡った。
「はっはっは!それこそ勘違いさせて悪いな聖女様ぁ!?この私が富と権力だけでのし上がってきたとでも思ったか!?」
伯爵は狂気に満ちた笑みを浮かべると、胸元から血のように不気味な紅い結晶石を取り出した。
(あれは――『魔核石』か)
伯爵が石に禍々しい魔力を込めると、結晶から溢れ出した漆黒の靄が膨れ上がり、そのまま男の体内へと勢いよく埋め込まれていく。
次の瞬間、凄絶な音と共に、伯爵の容姿が異形の魔物へと変容を始めた。膨れ上がる筋繊維、割れる皮膚、頭部から生える禍々しい角――。
「見よ!!この圧倒的な力をォ!!天啓を得ただか何だか知らんが、所詮は世間知らずの小娘よ!大いなる魔の力の前に、人間など無力なのだ!!」
荒い息を吐き散らし、肥大化した異形の手を振りかざす。
「はぁ、はぁ……聖女ルナ=セレスティアよ!貴様のその高貴な身体、たっぷり孕ませて弄んだ後、一生死ねない奴隷として飼い殺してやる!!」
醜悪な欲望を剥き出しにして叫ぶ男に対し、俺はただ冷ややかに微笑んで見せた。
「ふふ……随分と威勢のよろしいことで。ですが、そんなことが本当にご自分にできるとお思いですの? ――少なくとも、今の貴方は……ただの哀れな『道化』にしか見えませんわ」
「黙れぇぇぇッ!!クソアマがぁぁッ!!この俺を見下すなぁぁぁッ!!!」
咆哮とともに、禍々しい魔力が部屋を震わせた。




