伯爵邸潜入
月明かりが夜空を照らす中、遠目からでも一際目を引く巨大な建築物――マルクス伯爵の豪邸が姿を現した。
伯爵領は国内有数の観光地であり、王国でも屈指の税収を誇る裕福な土地だ。
温泉や劇場施設、世界中の商人と旅人が行き交う大市場。高級な宿や料亭が立ち並び、目移りする観光客を狙った露店が無数に軒を連ねている。
裏通りへ足を運べば、夜の街ならではの店も数多く存在する。
それらの喧騒を見下ろすかのように丘の上に鎮座するのが、マルクス伯爵邸だ。
屋敷の周囲には広大な庭園が広がり、手入れされた季節の花々が咲き誇っている。
表向きだけを見れば、観光地を治める裕福な貴族の立派な邸宅。
だが、このマルクス伯爵邸では、夜な夜な秘密の会合が開かれている。
招待されるのは、貴族や資産家、あるいは名の知れた冒険者。
いずれも、この国でVIPと呼ばれるに相応しい人物ばかりだ。
そして今夜もまた、選ばれた者たちだけが参加できる秘密のパーティーが開かれている。
「さて、と」
俺はそんなマルクス伯爵邸の裏手へと回り、二階にある、明かりの消えた窓を見上げた。
原作どおりなら、侵入するのはあそこからだ。
腰の連接剣を伸ばして近くの大樹に巻き付け、ワイヤーアクションの要領で身体を力強く引き寄せる。その反動を利用して大きく跳躍し、目指す窓の縁へと無音で着地した。
予定通り窓の鍵は開いており、室内に人の気配もない。驚くほどあっさりと潜入に成功した。
勇み足で廊下へ飛び出そうとする身体をなんとか制止し、まずは部屋にあった大型クローゼットを開ける。
いくら忍び込みとはいえ、これから足を踏み入れるのはVIPが集う秘密のパーティーだ。それ相応のTPOに合わせた装いをしないとな……。
クローゼットにあった衣装の中から選んだのは、薄いシルク一枚で仕立てられた妖艶なドレス。そして素顔を隠す意匠を凝らした仮面だ。
(うわぁ……露出度やば……!身体のラインどころか、下着の形まで丸見えじゃないか……!?身体のあちこちがスースーして落ち着かないんだが……!)
この時点で、俺の心はすでに帰りたいと訴えていた。
しかし――。
(……)
肝心の聖女様はというと、赤面こそしているものの、やる気に満ち溢れている。
(やれやれ……こんな調子で、この先に待ち受けている地獄に対処できるのやら)
大きく深呼吸をして覚悟を決めると、俺は静かに重厚な扉を押し開けた。
「やぁん♡ご主人様ぁ〜♡おいたしちゃだ〜め♡」
「うるさーい!僕は大貴族様だぞー!卑しい身分で下賤なお前をわからせてやる〜!」
「やぁんやぁん♡でしたらぁ、あちらのお部屋へ行きましょ〜?」
妖しい光に照らし出されたのは、あまりにも凄絶で爛れた秘密の宴だった。
「きゃー♡かっこいい〜♡腰ヘコヘコ頑張って~♡みんなの見てる前で、あたしが誰のモノか見せつけちゃえ♡」
右を見ても左を見ても、肉と肉がぶつかり合う音と淫らな嬌声が狂乱のように響き渡っている。
「もっとぉ♡もっと激しく私を抱いてぇ♡」
廊下では、鏡を前にしてあられもない格好になった男女が、互いに身体を寄せ合っている。
部屋中に満ちているのは、理性を狂わせる強力な媚薬の香水。誰も彼もが正気を失い、ただ快楽の泥沼へと溺れている。
「…………」
聖女様は、完全に呆然としていた。
だが――こんなものは、まだ序の口だ。
ここでは、むしろお行儀のいい遊びですらある。
ショックでふらつく彼女の足を背中から押し、さらに奥へと進んでいく。
至る所から耳を塞ぎたくなるような情交の声が響く中、怪しげな部屋が並ぶ長い廊下を通り抜けていく。
そして辿り着いたのは、目的地――マルクス伯爵の不正取引の記録、顧客リスト、そして違法な奴隷契約書など、奴のあらゆる悪事の証拠が眠る最深部の部屋だ。
この扉には、セキュリティを高めるための暗証番号が設定されている。
「パスワードはっと……『0・2・9・0・3』っと。はい、おつかれさーん」
カチャリ、と重厚な鍵が解除される音が静寂に響いた。
扉に手をかけた所で俺は制止させた。
(……ここから先は、極力見ないほうがいい)
俺は心の中で、聖女様にそう告げる。
この部屋は、マルクス伯爵邸の中でも最もおぞましい場所だ。
それでも、ここまで来た以上、引き返すわけにはいかない。
息を呑み、ゆっくりと扉を開く。
――その瞬間。
「……っ!」
鼻を刺す、吐き気を催すような悪臭。
反射的に口元を押さえ、思わずえずく。
(……匂いまでは想定してなかったな)
言葉が足りなかった。
聖女様に警告するなら、そこまで伝えておくべきだったと内心で反省する。
部屋の中に広がっていたのは、人間の悪しき欲望を煮詰めたような光景だった。
粗末に扱われ、身体の一部が腐り始めている者。
嘔吐や排泄物にまみれ、全身に痣を残して倒れている者。
腕や脚を失い、血にまみれたまま床に伏している者。
「…………」
言葉が出ない。
ここに囚われているのは、マルクス伯爵に逆らった者。
あるいは、彼らの遊び道具として扱われ、飽きられた者たち。
――別の意味で、『お気に入り』と呼ばれている者たちだった。
さっきまで響いていた嬌声が、遠い世界の出来事に思える。
ここにあるのは、華やかな秘密の会合の裏側。
マルクス伯爵が隠し続けてきた、最も醜悪な闇だった。
取り乱した聖女様が、倒れ伏す人々のもとへ駆け寄り、慌てるように次々と治療魔法を施していく。
(おいおい、そんなに慌てなくても大丈夫だって。死にはしないさ。彼女たちは……生きているからこそ『価値』があるんだからな)
狼狽する胸の奥の聖女様へ、語りかけて説得を試みる。
そう、生かさず、殺さず。皮肉にもその凄惨な目的のために、彼女たちは命だけは繋ぎ止められているのだ。
絶望の深さを楽しむため、マルクス伯爵によって意図的に『生かされている』のである。
(まずは目的を済ませよう。彼女たちの治療や保護は、その後でいい。ここで余計な魔力を消耗するのは、できるだけ避けたい)
俺の説得は虚しく、聖女様はまったく耳を貸してくれそうにない。
(……はぁ、やれやれ。分かったよ、聖女様のお望み通りにしよう……)
流石は聖女様だ。
セレスティアが手をかざし、魔力を放つ。
すると、みるみるうちに傷が癒えていく。
裂けた傷口が塞がり、腫れ上がっていた身体が元の姿を取り戻していく。
まるで――何もなかったかのように。
だが。
どれほど身体が癒えても、虚ろな瞳だけは変わらなかった。
神聖魔法をもってしても、一度壊されてしまった心まで元通りに直すことは不可能なのだ。
「…………」
それでもセレスティアは、一人ひとりにできる限りの治療を施していく。
いま自分にできる限りの応急処置を終えると、俺は部屋の最奥にある暗がりへと向かった。
薄暗い部屋の中。
周囲を警戒しながら金庫を見つけ、暗証番号を入力する。
カチャリ。
重い扉が開いた。
中に収められていたのは、マルクス伯爵の不正取引に関する記録、顧客リスト、違法な奴隷契約書――その他、表には出せない極秘資料の数々。
「よし、これでここでの用事は全部終わりだ」
目的のブツを手に入れ、一刻も早くこの不快な場所から立ち去ろうとした、まさにその矢先だった。
「う、ぅ……っ……」
部屋の隅、物陰からかすかな呻き声が聞こえた。
俺は眉をひそめ、明かりの魔法を灯してその先を照らし出す。
そこに倒れていた人物の顔を見た瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
(……はぁ!?なんでこんなところに……っ!?)
そこに血塗れでズタボロになって転がっていたのは――なんと原作『ロスト・セイント』の主人公、カインだったのだ……!




