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86 マナの決意

説明会から一か月が過ぎた。


この一か月、佐伯さんと雪乃さんは驚くほど忙しかった。


最初は店舗探しだった。


エリオットさんと一緒に街中を歩き回り、何軒もの空き店舗を見て回る。


立地が良ければ広さが足りない。


広さが良ければ厨房が狭い。


条件が良くても家賃が高い。


夜になって帰ってきても、二人は食事をしながら店舗の話を続けていた。


「さっきの店は客席が少なかったな」


「でも立地は良かったわ」


「厨房をもう少し広く使えれば……」


そんな会話を聞きながら、私は眠気で船を漕いでいた。


ようやく店舗が決まったと思ったら、今度は内装工事だ。


壁の色。


床材。


照明。


厨房の配置。


客席の動線。


私にはよく分からない話ばかりだったけれど、二人は真剣だった。


夜遅く帰ってきては紙に何かを書き込み、朝になるとまた出掛けていく。


気付けば机の上には図面や資料が山積みになっていた。


内装の方向性が決まると、今度は家具と雑貨選びが始まる。


これは雪乃さんが中心になっていた。


椅子一つ選ぶのにも理由があるらしい。


座り心地。


耐久性。


見た目。


値段。


店の雰囲気との相性。


さらに運搬業者との交渉。


搬入日程の調整。


配置計画。


雪乃さんは毎日のようにメモ帳を片手に走り回っていた。


帰宅する頃には足が少しふらついていることもあった。


それでも私に気付くと笑顔を向けてくれる。


だから余計に心配になった。


一方の佐伯さんも負けていなかった。


従業員面談。


パン屋の選定。


加工肉製造の打ち合わせ。


レストランで働きたいという人が予想以上に集まり、朝から晩まで面談の日もあった。


家に帰ってきても仕事は終わらない。


夕食の後、雪乃さんと向かい合って書類を広げる。


「この人は接客向きだな」


「この人は厨房の方が良さそう」


「教育担当はどうする?」


そんな話が夜遅くまで続く。


私が先に寝ることも増えた。


夜中に目を覚ますと、一階にはまだ灯りがついている。


小さな声で話し合う二人の声が聞こえてくる。


朝起きると、二人はすでに起きていた。


机の上には新しい資料。


昨日までなかったメモ。


私の知らない話。


私の知らない人たちの名前。


二人はどんどん前へ進んでいる。


もちろん二人は何も変わっていない。


私にも優しいままだ。


でも。


少しだけ。


本当に少しだけ。


置いていかれている気がした。


私だけが何もできていないような気がした。


だからこそ思った。


私にもできることを見つけよう。


三人で始めたこの店を、私が守ろう。


そんな中、プリンの器候補がいくつか上がってきた。


私は何度も見比べて、一つを選んだ。


佐伯さんにも雪乃さんにも相談した。


でも最後に決めたのは私自身だった。


生まれて初めて、自分の意思だけで決めた。


その時、ふと思った。


この店は私が守ろう。


三人で始めた最初の店だから。


そう決意した。


その日の夜。


佐伯さんと雪乃さんが帰ってきた。


疲れているはずなのに、私は思い切って声を掛けた。


「佐伯さん、雪乃さん。相談があるんだけど」


すると二人は荷物を置き、すぐに椅子へ座り直した。


「どうした、マナ?」


「何かあったの?」


私は少しだけ緊張しながら首を振る。


「ううん。何かあったわけじゃないんだけど」


そう言って器を取り出した。


「プリンの器、これに決めてきた」


二人はそれぞれ手に取る。


しばらく眺めたあと、


「いいんじゃないか?」


「これならプリンが綺麗に見えるわね」


そう言ってくれた。


嬉しかった。


だから私は続ける。


「それでね……」


少しだけ息を吸う。


「佐伯さんと雪乃さんはレストラン計画で忙しいでしょ?」


「だから、このお店は私がやっていこうかなって思うの」


部屋が静かになった。


佐伯さんが真っ直ぐ私を見る。


「本気か?」


私は頷いた。


すると佐伯さんは考え込む。


雪乃さんは心配そうな顔をした。


「無理しなくていいのよ?」


私は慌てて首を振った。


「無理なんかしてない」


「このお店、大好きだもん」


「三人で始めた最初のお店だから」


「だから守りたいの」


そこまで言ってから少し俯く。


本当は。


守りたいだけじゃない。


「私……」


言葉が詰まる。


でも言わなきゃいけない気がした。


「私も頑張りたいの」


「二人だけが前に進んでるみたいで……」


「置いていかれるのが嫌だった」


気付けば声が震えていた。


「私も二人と同じ場所にいたいの」


静寂が落ちた。


次の瞬間。


雪乃さんが私を抱きしめた。


「そんなこと気にしていたのね」


優しい声だった。


私は少しだけ泣きそうになる。


佐伯さんも困ったように笑った。


「俺たちが悪かったな」


「マナがそんなふうに思ってるなんて気付かなかった」


私は首を振る。


「違うの」


「二人は悪くない」


「私が勝手に不安になっただけ」


すると佐伯さんが立ち上がった。


そして私と雪乃さんの肩にそっと手を置く。


「マナ」


「この店は任せる」


「でもな」


優しく笑う。


「俺たちは三人で始めたんだ」


「これからも三人で進んでいく」


「誰も置いていったりしない」


「だから安心しろ」


胸の奥がじんわり熱くなった。


この一か月、ずっと抱えていた不安が溶けていく。


「それにさ」


佐伯さんが少しだけ悪戯っぽく笑う。


「この店はマナがいなかったら、とっくに回らなくなってたぞ」


「え?」


思わず顔を上げる。


「ドライフルーツの試食を考えたのもマナだろ?」


「クッキーもそうだ」


「プリンの器だって、もうマナの仕事じゃないか」


「俺たちがレストランに集中できるのは、マナが店を守ってくれてるからだ」


そんなふうに思われていたなんて知らなかった。


胸が熱くなる。


嬉しくて。


恥ずかしくて。


どうしていいか分からなくなる。


そして――


ぐぅぅぅぅぅ。


お腹が鳴った。


しかも盛大に。


部屋が静まり返る。


私は顔が熱くなるのを感じた。


「……へへ」


思わず笑って誤魔化す。


すると雪乃さんが吹き出した。


佐伯さんも肩を震わせている。


「感動の話が台無しだな」


「ち、違うもん!」


「だって今日はお昼少なかったし!」


「言い訳になってないぞ」


「もう!」


私は頬を膨らませる。


すると二人はさらに笑った。


なんだか悔しい。


でも嬉しい。


気付けば私も笑っていた。


その後、久しぶりに三人で夕食を食べた。


笑いの絶えない食卓だった。


こんな時間がずっと続けばいい。


そう思いながら、私は向かいに座る二人の笑顔を見つめていた。


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