35 セル村の宿にて①
部屋に入ると、雪乃さんが茉奈ちゃんを自分の隣へ座らせた。
その表情はいつになく真剣だった。
「佐伯さん、お願いがあります」
「どうしました?」
俺が尋ねると、雪乃さんは一度茉奈ちゃんへ視線を向けてから口を開いた。
「明日だけではなく、しばらく私たちと行動を共にしていただけませんか?」
突然の申し出だった。
俺は首を傾げる。
「何かあったんですか?」
雪乃さんは小さく頷いた。
「夕食の後のことです」
そうして彼女は先ほど起きた出来事を話し始めた。
茉奈ちゃんが一人になった隙を見て、一人の騎士が近づいてきたこと。
最初は話しかけてきただけだったが、次第に距離を詰め、最後には突然抱きついてきたこと。
異変に気付いた雪乃さんが駆け付けて引き離したこと。
そして、その騎士が悪態を吐きながら立ち去ったこと。
話を聞き終えた俺は小さく息を吐いた。
「トーマスか……」
名前を聞いた瞬間に顔が浮かぶ。
背が高く、体格の良い騎士。
いつもヨシュアの近くにいる男だ。
正直なところ、俺もあいつの視線には気付いていた。
だからこそ、なるべく茉奈ちゃんを一人にしないよう気を付けていたのだ。
俺は茉奈ちゃんへ視線を向けた。
「大丈夫かい?」
茉奈ちゃんは少し俯きながら答える。
「はい……」
そう返事はしたものの、まだ肩は小さく震えていた。
怒りが込み上げてくる。
だが今ここで感情的になっても意味はない。
俺は努めて冷静な声で言った。
「分かりました」
「当面は三人で行動しましょう」
「女性しか入れない場所へ行く時も、近くで待機するようにします」
雪乃さんが安堵したように頷く。
「ありがとうございます」
茉奈ちゃんも小さく頭を下げた。
しばらく沈黙が流れる。
そして俺は口を開いた。
「もしかすると、今後のことを真剣に考える時期に来ているのかもしれません」
雪乃さんが顔を上げる。
「今後のこと?」
「ええ」
「この旅を続けるのか」
「それとも途中で離脱して別行動を取るのかです」
雪乃さんは驚いた様子もなく静かに聞いていた。
「正直に言います」
「今の俺たちなら騎士たちに勝てると思います」
茉奈ちゃんが目を見開く。
だが雪乃さんは小さく頷いた。
「私もそう思います」
「昨日のハンターウルフ戦を見ていて感じました」
「彼らは私たちの成長速度を把握できていません」
俺も同意する。
「そうです」
「若葉さんの魔法を見た時もそうでした」
「俺たちの戦力は、すでにヨシュアたちの想定を超え始めている」
「ですが、それだけで動くべきではありません」
雪乃さんが続きを促すように見る。
「問題は辺境伯軍全体です」
「俺たちは騎士数名の実力しか知りません」
「領都にはどれだけ兵がいるのか」
「どれほど強い人間がいるのか」
「何も分かっていない」
「今ここで事を構えるのは危険です」
雪乃さんが頷いた。
「だから戦うのではなく、離脱する」
「そういうことですね」
「その通りです」
俺は答える。
「ただし離脱するにも準備が必要です」
「どこへ行くのか」
「どうやって生活するのか」
「情報をどう集めるのか」
「そこまで考えないと意味がありません」
すると雪乃さんが口を開いた。
「廃村を利用するのはどうでしょう?」
俺と茉奈ちゃんが彼女を見る。
「私たちは廃村から北へ進み、ルト村へ向かいました」
「ですがルト村で聞いた話だと、廃村から東へ進むとゼストという街があるそうです」
「そこには教会も冒険者ギルドや商業ギルドもあり、商売も盛んらしいです」
「ただし拠点をゼストにするのではなく、生活基盤を整える場所として利用する」
「そして実際の拠点は廃村に置く」
「そこで情報収集をしながら計画を立てるんです」
俺は腕を組んで考える。
悪くない。
むしろかなり現実的だ。
人目を避けられる。
街にもアクセスできる。
撤退後の隠れ家としても機能する。
「良い案だと思います」
そう答えると雪乃さんが少し笑った。
俺はさらに話を続ける。
「そのために三つやるべきことがあります」
二人が真剣な表情になる。
「まず情報収集」
「地理」
「各国の情勢」
「冒険者ギルド」
「商業ギルド」
「そして元の世界へ帰る方法」
「この辺りを調べる必要があります」
二人が頷く。
「次に資金確保です」
「逃げても金がなければ生きていけません」
「今は討伐報酬がありますが、それはヨシュアたちと一緒だからです」
「独立したら自分たちで稼ぐ必要があります」
茉奈ちゃんが真剣な顔になる。
俺は彼女を見る。
「そのためにも茉奈ちゃんの《次元収納》は重要です」
「荷物運搬だけでも仕事になるかもしれない」
「収納能力について、もっと調べていきましょう」
「はい」
茉奈ちゃんが力強く頷いた。
「そして最後に戦力強化です」
「スキルの研究」
「魔法の習得」
「戦闘経験」
「できることは全部やる」
「逃げるにしても力が必要です」
雪乃さんが小さく笑う。
「本当に冒険者みたいですね」
「実際、そうなるかもしれません」
俺も苦笑した。
そして最後に付け加える。
「それと、トーマスへの警戒は今後も続けましょう」
「少なくとも俺は、あいつを信用できません」
「もし次に何かあれば、遠慮なく教えてください」
茉奈ちゃんは小さく息を吐いた。
そして、ようやく少しだけ笑顔を見せる。
「ありがとうございます」
その笑顔を見て、俺は少しだけ安心した。
まだ何も決まっていない。
帰る方法も分からない。
この世界のことも知らない。
それでも俺たちは、ただ流されるだけではなくなった。
情報を集める。
力をつける。
資金を確保する。
そして、いつか自分たちの意思で未来を選ぶ。
その第一歩を、今ようやく踏み出した気がした。




