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108 雪乃の過去

私たちは家へ帰ってきた。


佐伯さんは茉奈ちゃんを連れて、そのままレストランへ向かった。


調理師たちに米の炊き方を教えたり、味噌の使い方を説明したり、日本酒の試飲をさせたりするらしい。


本来なら、そういう場所には私も一緒にいた。


いつもなら自然に隣を歩いていた。


でも今日は違った。


佐伯さんは私を誘わなかった。


今朝。


私は確かに幸せだった。


長い間抱き続けてきた想いが届いたと思った。


奇跡が起きたのだと思った。


胸が苦しくなるほど嬉しくて、何度も涙が零れた。


まるで空を飛んでいるような気持ちだった。


だからこそ。


会議の終盤で聞いた言葉が、胸に深く突き刺さった。


――駄目だ。


あの言葉が頭から離れない。


佐伯さんは私を見つめながら言った。


危険だから連れて行けない、と。


分かっている。


私を心配してくれているのだと。


本当は理解している。


それなのに。


心のどこかが勝手に別の意味へ変えてしまう。


――お前は来るな。


――邪魔だ。


――必要ない。


そんな言葉に聞こえてしまう。


帰り道もそうだった。


佐伯さんは一度も私に話しかけなかった。


目も合わせてくれなかった。


そして家へ帰ると、茉奈ちゃんだけを連れてレストランへ向かった。


私には何も言わずに。


たった数時間前まで、あんなに幸せだったのに。


どうしてこんなことになったのだろう。


もしかして。


佐伯さんは冷静になったのだろうか。


四十六歳と二十八歳。


年齢差を改めて考えたのだろうか。


やっぱり無理だと思ったのだろうか。


私なんかでは駄目だと思ったのだろうか。


考えれば考えるほど、不安ばかりが膨らんでいく。


否定したはずの言葉が、何度も心の中で蘇る。


――また捨てられる。


私は両手で顔を覆った。


★☆★☆★☆★☆★☆★☆


数年前。


付き合っていた人がいた。


私は本気だった。


この人と一緒に生きていくのだと思っていた。


だけど、その人は私の前からいなくなった。


会社の取引先のお嬢様と付き合うことになったから、と。


そう言って去っていった。


最後に言われた言葉は今でも覚えている。


――お前はもう要らない。


その一言で、私は人を信じられなくなった。


また傷付くのが怖くなった。


また捨てられるのが怖くなった。


だから私は距離を取るようになった。


会社でもそうだった。


必要以上に人と関わらない。


感情を見せない。


そうやって自分を守っていた。


そんな私の前に現れたのが佐伯さんだった。


入社して間もない頃だった。


分からないことだらけだった私に、佐伯さんは根気よく教えてくれた。


何度質問しても嫌な顔をしなかった。


私が理解するまで付き合ってくれた。


困っている人を見れば自然と手を差し伸べる。


誰かの成果を横取りすることもない。


自分の仕事を黙々とこなしながら、それでも周囲を気遣う。


そんな人だった。


そして時折見せる優しい笑顔。


私は少しずつ惹かれていった。


それでも踏み出せなかった。


また失うのが怖かったから。


だから逃げた。


会社を辞めた。


好きになり過ぎる前に。


傷付く前に。


そう思っていた。


なのに――。


数年後。


異世界へ召喚された。


混乱する私の視界に飛び込んできたのは、佐伯さんだった。


心臓が止まるかと思った。


変わらない雰囲気。


冷静な判断力。


誰かを守ろうとする優しさ。


そして、あの頃と変わらない笑顔。


胸の鼓動が止まらなかった。


逃げ場はなかった。


だから私は逃げるのをやめた。


今度は自分から近付いた。


そして気付けば――。


完全に虜になっていた。


考え方も。


行動力も。


優しさも。


全部。


私は佐伯さんの隣に立ちたいと思った。


支えたいと思った。


一緒に歩きたいと思った。


そして今日。


ようやく想いが通じたと思ったのに。


気付けばまた涙が零れていた。


本当に私は泣き虫になってしまった。


会社では陰で『鉄の女』なんて呼ばれていたのに。


思わず小さく笑ってしまう。


その時だった。


隣に誰かが腰を下ろした。


顔を上げる。


真紀だった。


彼女は何も言わない。


しばらく黙って隣に座っていた。


そして静かに口を開く。


「茉奈ちゃんの代わりにはなれないけどさ」


「話くらいなら聞くよ」


優しい声だった。


私は首を横に振る。


「ううん、ありがとう」


「でもね」


一度言葉を切る。


「これは佐伯さんと話さないと始まらないし、終わらないから」


真紀は私の顔を見つめた。


そして小さく頷く。


「そっか」


それだけ言うと、それ以上は何も聞かなかった。


ただ隣にいてくれた。


私はその優しさが嬉しかった。


窓の外を見る。


もうすぐ夕方になる。


佐伯さんは、どんな顔をして帰ってくるのだろう。


私たちは並んで座ったまま、その帰りを待ち続けた。


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