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102 茉奈の涙

俺は居間に一人残された。


しばらく天井を見上げていたが、いつまでもこうしているわけにはいかない。


立ち上がる。


まだ少し頭がふわふわしていた。


雪乃さんのこと。


漣に言われた言葉。


色々なことが頭の中を回っている。


だが今はやるべきことがある。


米を手に入れた。


ならば次は日本酒だ。


麹だ。


味噌だ。


俺は仕込みの準備を始めた。


材料を揃え、樽を用意する。


一通り準備を終えたところで、二階へ向かった。


茉奈の部屋の前で足を止める。


軽く扉を叩いた。


「茉奈、ちょっといいかな?」


少し間を置いて返事が返ってくる。


「なんですか?」


「日本酒と麹、それに味噌の仕込みをしたいんだ」


「時間操作を手伝ってほしい」


「忙しかったかな?」


扉が開いた。


茉奈が出てくる。


その顔を見て、俺は思わず言葉を失った。


機嫌が悪い。


いや、それだけじゃない。


怒っている。


こんな茉奈を見るのは初めてだった。


「いいですよ」


それだけ言うと、茉奈は俺の横を通り過ぎて階段を下りていく。


俺は慌てて後を追った。


作業は順調に進んだ。


茉奈は俺の指示どおり、黙々と動く。


無駄な言葉は一切ない。


「こっちの日本酒を三か月」


「こっちの麹は一か月ほど進めてくれるかな」


茉奈は無言で頷いた。


「≪クイック≫」


それが作業を始めてから初めて聞いた茉奈の声だった。


しばらくして麹が完成する。


さらに日本酒も完成した。


俺は恐る恐る味を確認した。


口に含む。


日本酒だ。


間違いなく日本酒だった。


思わず感動する。


感動したが、なぜかむなしい。


いつもは、横で雪乃さんとマナが一緒に喜んでくれた。


でも今は、雪乃さんがいない。


だが隣の茉奈は無言のままだ。


空気が重い。


俺は味噌の仕込みを始めながら、何度も声を掛けるべきか迷った。


だが、このまま放置する方が良くない気がした。


俺は意を決して口を開く。


「俺……何かしたかな?」


その瞬間だった。


茉奈の手が止まった。


ゆっくり顔を上げる。


その目には涙が浮かんでいた。


そして怒っていた。


今まで見たことがないほど。


「何かしたかな……ですか?」


震える声だった。


「本気で言ってるんですか?」


俺は何も言えない。


茉奈は立ち上がった。


「佐伯さんは何もしてませんよ」


「そうです」


「何もしないんです」


涙が頬を伝う。


「そのことが、どれだけ雪乃さんを傷付けているか分かりますか?」


胸が苦しくなった。


だが茉奈は止まらない。


今まで溜め込んでいたものを吐き出すように言葉を続けた。


「家を出た時もそうでした」


「今日だってそうです」


「佐伯さんが何気なく言った言葉で、雪乃さんがどれだけ喜んでいたか」


「どれだけ救われていたか」


「見ていれば分かるじゃないですか」


俺は黙って聞く。


反論できなかった。


「雪乃さんが佐伯さんを見る目」


「どれだけ信頼しているか」


「どれだけ大切に思っているか」


「どれだけ好きなのか」


茉奈は涙を拭おうともしない。


「本当に分からないんですか?」


「佐伯さんは」


その言葉が胸に刺さる。


俺はゆっくり口を開いた。


「俺は……」


言葉が続かない。


しばらく沈黙した後、ようやく絞り出す。


「俺は雪乃さんよりずっと年上なんだ」


「四十六歳のおっさんだ」


「容量が悪い、出来の悪い人間だ」


「雪乃さんは綺麗で優しくて……」


「正直、俺なんかが相手にされるとは思えなかった」


そう言った瞬間。


茉奈が床を叩いた。


乾いた音が響く。


「それです!」


涙を流しながら叫ぶ。


「出来が悪い人間とか」


「年齢とか」


「そんなこと雪乃さんは一度でも言いましたか?」


俺は答えられない。


「雪乃さんは佐伯さんが好きなんです」


「佐伯さんだから好きなんです」


「年齢なんて関係ない」


「立派かどうかなんて関係ない」


「佐伯さんだからなんです」


そう言い切ると、茉奈はその場にしゃがみ込んだ。


そして堪え切れなくなったように泣き出した。


俺はゆっくり近寄る。


背中を軽く叩いた。


「ごめんな」


「鈍感で」


茉奈は泣いたままだ。


俺は続ける。


「明日」


「雪乃さんとちゃんと話すよ」


その言葉を聞いて、茉奈は顔を上げた。


涙でぐしゃぐしゃになった顔だった。


「佐伯さんが悪いんじゃないのは分かってるんです」


「分かってるんですけど……」


声が震える。


「雪乃さんが可哀そうで……」


そう言うと、また泣き出した。


俺は何も言わなかった。


言える言葉が見つからなかった。


それから俺たちは黙って作業を続けた。


味噌を仕込み終える。


最後に茉奈が手をかざした。


「≪クイック≫」


一年分の時間が流れる。


しばらくして蓋を開ける。


味噌の香りが広がった。


懐かしい香りだった。


味噌は完成した。


だが今の俺には、その喜びを素直に味わう余裕はなかった。


明日。


雪乃さんと話す。


逃げるのはやめよう。


自分がどう思っているのか。


雪乃さんにどう向き合いたいのか。


ちゃんと考えて、ちゃんと伝えよう。


そう思いながら、俺は静かに味噌の樽を見つめていた。


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