第1章:1.3 百花醸の余韻と、出発前の誓い
丑の刻の鐘の音が遠くの宮牆を越えて響き渡り、静まり返った夜の帳の中で一層の冷たさを帯びていた。
だが流雲閣の奥の間では、炭火がなおも赤々と燃え盛り、時折パチリと弾ける小さな音が、室内に満ちる艶やかな気配に生気を添えている。
空間に漂っていたほのかな竜涎香の香りは、いつしか別の、より甘美な芳香へと塗り替えられていた。
沈若汐が夜通しで仕込んだ「百花醸」である。
封を切ったばかりの壺から、早春の花々のエッセンスと澄み切った湧き水の清冽さが混ざり合った香りが、一瞬にして部屋中へと広がる。
この酒は、喉を刺すような強い酒とは異なり、どこか奥ゆかしい後味を秘めていた。
喉を通るときは絹のようになめらかでありながら、腹に落ちた後にはじんわりとした温かな炎へと変わり、四肢の隅々までゆっくりと巡っていく。
闕恆遠は体勢を変え、その頭を上官婉のしなやかな膝の上へと預けた。
日頃は気高く落ち着いた佇まいを見せる紅衣の女官は、いま、その美しい指先で天子の乱れた黒髪をそっと優しく梳いてやっている。
まるでこの世で最も壊れやすい大切な宝物を慈しむかのように、その動作はどこまでも丁寧だった。
「公子、このお酒は口当たりこそ穏やかですが、飲みすぎれば明日の朝に響いて頭が痛くなりますよ」
上官婉は視線を落とした。
紅い衣の襟元がわずかに開け放たれ、美しい弧を描く白き首筋が露わになる。
深夜の静寂に響く彼女の声はどこか艶を帯び、聞く者の心を底から安心させる不思議な力を湛えていた。
「何を恐れる必要がある」
「朕が赴くのは出征ではなく、あくまで気ままな巡幸だ」
闕恆遠は目を閉じたまま、口元に心地よさげな笑みを浮かべる。
膝から伝わる弾力と確かな温もり。
その柔らかい感触に、一日の公務ですり減っていた神経がようやく完全に解きほぐされていくようだった。
「それに、朕の傍にはお前たちがいる」
「仮に朕が酔いつぶれたとして、まさかこのまま馬車から転げ落ちるのを見捨てるわけでもあるまい?」
「またすぐそんな冗談を仰るんですから」
傍らに腰を下ろしていた沈若汐がふっと鼻を鳴らし、紫の衣の裾を揺らした。
彼女は白玉の杯を持ち上げ、まずは自分自身で軽く口をつけて温度を確かめると、ちょうどいい頃合いだと見定めてから、闕恆遠の唇へとそっと差し出した。艶やかに流し目を送る。
「もし公子が転げ落ちたりしたら、若汐が一番乗りで飛び出してクッションになってあげます」
「ただ、若汐の骨が硬すぎて、公子の体を傷つけてしまうんじゃないかと心配ですけれど」
闕恆遠は差し出された手からそのまま大きく酒を飲み干した。
喉仏が上下に動き、大人の男ならではの野生的な魅力がそこにはある。
そのままの勢いで、闕恆遠は沈若汐の紅く染まった頬を軽くつねった。
彼女はまたしても可愛らしい悲鳴を上げる。
「若汐の体が硬いものか。お前の体が硬いと言うなら、この世に柔らかい温もりなどどこにも存在しないさ」
闕恆遠は笑いながらそう言い返す。
そしてふと目を細め、その視線を周囲に控える九人の女性たちへと巡らせた。
灯火の届かない影の領域では、緑の衣を纏った裴子瑜と裴子瑄の双子が、まるで一本の槍のように微動だにせず佇んでいる。
どれほど室内の空気が和やかであっても、彼女たちの警戒心が緩むことは微塵もない。
青い衣を纏った左沐晨と左沐曦は、明日携行するべき薬草や香囊の仕分けを静かに進めており、ふと顔を上げてこちらを見つめるその瞳には、照れくさそうな笑みが浮かんでいた。
紅い衣の上官璇と上官語の姉妹は少し離れた場所に腰掛け、一人は精巧な暗器のメンテナンスを行い、もう一人は下を向いて新しい外套の縫い物に精を出している。
天下の男たちが喉から手が出るほど欲しがるであろう、美の極みがそこにあった。
そして自分こそが、そのすべての中心に君臨しているのだ。
「お前たち、こっちへ来い」
闕恆遠は突然体を起こした。
その口調は相変わらず気ままな響きを帯びながらも、どこか逆らうことを許さない圧倒的な威厳を纏っている。
九人の女たちは瞬時に笑顔を引っ込め、足並みを揃えて寝椅子の前へと歩み寄った。
紅、紫、青、緑の鮮やかな四色の衣が互いを引き立て合い、炭火の照り返しの中で、目眩がするほどに美しい光景を作り出す。
「明日の朝が来れば」
「俺たちはこの宮廷を離れ、未知なる江湖と異国の地へと足を踏み入れることになる」
闕恆遠はぐるりと彼女たちを見渡し、その声を低く、真摯なものへと変えた。
「母上は朕に姫を娶れと言い、朝臣たちは江山を固めよと迫り、皇叔は朕の命を狙っている」
「だが、朕の心によく言い聞かせておけ。この旅において」
「朕が最も連れ戻したいのは、他でもない、お前たち一人ひとりの無事な姿だ」
彼は立ち上がると、一際凛とした緑衣の裴子瑜の前に歩み寄り、その肩をそっと叩いた。
裴子瑜の体がほんのわずかに強張るが、すぐに力を抜き、闕恆遠を見上げるその瞳の奥には、普段は決して見せない深い愛情の光がひと筋、鋭く瞬いていた。
「子瑜、子瑄」
「お前たち姉妹の剣の腕は、朕が直接仕込んだものだ」
「道中の危険は、すべてお前たちに預ける」
「だが、よく覚えておけ。その刀は敵を斬るためのものであり、お前たちの命を投げ出すためのものではない」
「朕は、お前たちが元気に生き残って、朕の盛大な婚礼を見届けることを望んでいる。いいな」
「かしこまりました、公子」
裴氏の双子は片膝をつき、その冷徹でありながら芯のある声が部屋の隅々にまで響き渡った。
続いて、彼は左氏の姉妹へと視線を移す。
「沐晨、沐曦。お前たちは誰よりも気が利く」
「朕の衣食住、そしてこの一行の補給のすべてをお前たちに任せる。苦労をかけるが頼んだぞ」
「よそ者どものせいで、僕らの楽しみを邪魔されてたまるものか」
「お任せください、公子」
二人の青い衣を纏った少女たちは照れくさそうに一礼し、その瞳をキラキラと輝かせた。
そして最後に、闕恆遠は最も近くに控える三人の紅衣の女官たちと、二人の紫衣の侍女たちを見据えた。
「婉兒、璇兒、語儿。お前たちは朕の眼であり、耳だ」
「若嵐、若汐。お前たちは朕にとって、何よりも安らげる温もりだ」
闕恆遠は自信に満ち溢れた、圧倒的な覇気を帯びた笑みを浮かべた。それは天下を手の内に収める者だけが纏うことのできる、眩い光彩だった。
「今回の旅は、ただ姫たちを娶りに行くためだけではない。あの者たちの心をすっかり手懐けるための旅でもある」
「悦清禾であれ、伊凝雪であれ、どちらでも構わない」
「向こうが分をわきまえるなら、朕もそれ相応の尊貴な位を与えてやろう」
「だが、もしも歯向かうような真似をするなら――」
彼は鼻を鳴らし、その眼光に一瞬の鋭い智慧の光を走らせた。
「あの者たちに思い知らせてやるがいい」
「この宸霄国の天子とは、婚姻の絆にしがみつかなければ保てないような、骨抜きな男などではないとな」
「夜も更けた、各自下がって休むといい」
闕恆遠は軽く手を振ると、再び寝椅子にのっそりと体を預け、その口調をいつもの気だるげで不真面目な響きへと戻した。
「若嵐は残れ」
「今夜はどうにも、母上のせいで胸のあたりが重苦しくていかん。お前、少し揉んでくれないか」
「ほかの者たちはさっさと部屋に戻って寝ることだ」
「明日、馬車の中で居眠りでもしている者がいたら、容赦なく罰してやるからな」
「また陛下がひいきをする!」
上官璇がわざとおどけて舌を出すと、他の者たちもくすくすと笑い声を上げながら、仲睦まじく部屋を退出していった。
再び静けさが戻った奥の間には、沈若嵐だけが静かに寝椅子の縁に座り込んでいた。
彼女は温もりのある手をそっと差し出し、闕恆遠の胸元へと優しく添える。
黄色の絹越しに伝わる体温が、二人の呼吸を自然と同調させていく。
「公子、まだ胸が苦しいのですか?」
沈若嵐は低く囁くように尋ねた。
揺らめく炭火の赤に照らされた彼女の頬は、まるで夕空に映える最も鮮やかな茜色のようだった。
「苦しいさ」
闕恆遠はぐっと腕を引き寄せ、彼女の体をしっかりと自身の胸へと抱え込んだ。
その耳元に顔を寄せ、微かに酒の香りを纏った低音で囁く。
「だが、お前がこうして傍にいてくれるなら、この胸の苦しみも悪くない福のように思えてくる……」
夜気は一段と深まり、流雲閣を包む灯火がひとつ、またひとつと消えていく。
ただ一つの赤々と燃える炭壺だけが、この狭い空間に宿る確かな温もりと、果てなき野心を静かに守り続けていた。




